星野一義

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星野一義
Kazuyoshi Hoshino
Kazuyoshi Hoshino 2010 Formula Nippon Motegi (May).jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 同・静岡県安倍郡玉川村
生年月日 (1947-07-01) 1947年7月1日(75歳)
F1での経歴
所属チーム
出走回数 2
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終戦 1977年日本GP
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星野 一義(ほしの かずよし、1947年7月1日 - )は、日本の元レーシングドライバーである。現在は株式会社ホシノインパル代表取締役社長。静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身。血液型:A型。現役時代は「日本一速い男」と呼ばれた[1][2]

元レーシングドライバーの星野一樹は長男。

経歴[編集]

2輪時代[編集]

生家は生菓子の製造・販売業を営んでいて、周囲と比して裕福な家庭だったという。野球少年だった星野は、父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、乗り物好きでもあった。中学生の時には無免許にも関わらず、父からオートバイを買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたという[3][注釈 1]。また、オートバイモーターサイクリストなどのバイク雑誌を読み漁っては、マン島TTレースロードレース世界選手権(WGP)に参戦していた北野元高橋国光が駆るホンダのマシンに思いを馳せていた[4]

東海大学第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)を1年生の1学期が終わったところで中退すると、しばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、程なく当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川に移り、カワサキワークスライダーだった安良岡健に弟子入りを志願。安良岡の同僚だった三橋実が率いるカワサキ系モトクロスチーム「カワサキ・コンバット」に入る。この頃、後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊[注釈 2]と出会っている[5][6]1967年に由起子夫人[注釈 3]と結婚。1968年には同じカワサキ系ワークスチームの「神戸木の実レーシング」(片山義美が主宰)に移籍して全日本モトクロス選手権の90cc・125cc両クラスでチャンピオンを獲得。タイトル獲得の褒美として日本モーターサイクルスポーツ協会 (MFJ) からヨーロッパ視察旅行を与えられた[7]

4輪時代[編集]

モトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じ、一度は収入面でモトクロス界より安定が見込めるオートレース転向を考えた[7]。だが翌1969年にモトクロス仲間の歳森康師の推薦で日産自動車ワークスドライバーのテストを受け合格したのを機に二輪から四輪に転向[8][9]。東京・大森にあった日産の宣伝部の契約ドライバー(俗に「大森ワークス」と呼ばれる)となり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍することになる[10]

1974年には大森ワークスの先輩(リーダー)である鈴木誠一と折半で、マーチF3のシャシーを購入[注釈 4]し、FJ1300に参戦[11]。エンジンは、鈴木たちが設立した東名自動車(現・東名パワード)のチューンしたもの[11]。星野はFJ1300のデビュー戦で優勝[12]

1975年全日本F2000選手権に参戦し、チャンピオンを獲得する[13]

1976年ヒーローズレーシングに加入[14]。富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンに、ヒーローズレーシングからスポット参戦。旧型のマシン(ティレル・007)を駆り大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイヤした[15][16](正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、全日本F2選手権から全日本F3000選手権富士GCシリーズ全日本FP選手権全日本耐久選手権全日本ツーリングカー選手権 (JTC) においてチャンピオンの常連となり、レースファンやメディアから「日本一速い男」と呼ばれるようになる[17]

1977年F1日本GPコジマエンジニアリングKE009にて参戦、11位完走を果たす。10月に長男・一樹が誕生。

1978年、星野の頭の中に常にあったというヨーロッパ挑戦を6月に実現[17]ヨーロッパF2第6戦ルーアン・レゼサール[18]と第7戦ドニントン・パークの2戦にスポット参戦した。日本で連勝していた体制をそのまま持ち込み、ヒーローズのノバ532・BMW(ケン松浦チューン)にブリヂストンタイヤで参戦したが、ヨーロッパF2で多勢を占めていたマーチ782・BMW+グッドイヤータイヤのパッケージに予選タイムで及ばす[19]、決勝もドライブシャフトのトラブルが立て続き2戦ともリタイヤ[20][21]。当初予定では第10戦エンナまで参戦予定だったが、ドライブシャフトのスペアが無くなってしまったためドニントンパークのレースにて遠征を終了せざるを得なかった。この遠征には当時の金額で1200万円を費やしたという[17]。以後星野はヨーロッパへの思いを封印し国内レースへと集中することとなった。

1982 ニチラ シルビア スーパーシルエット S110型S12外装

1980年、金子豊と共に「ホシノインパル」を設立。目的は自らのレース資金を稼ぎ出すことと、星野は当時32歳であったが、レーサーをいつか辞める時が来る、その時のために自動車を通じたビジネスを成功できればとの思いがあった。なお、当初は飲食店での起業も考えたというが、自分にはクルマしかないと考えまずはホイールからやってみようと思ったという。インパルのホイールは最初の2年ヒットが出ず、金子と共に九州から北海道まで全国のホイールを取り扱うショップを巡る営業活動をレース活動の合間に地道に繰り返した。約3年後、星野自身が富士スーパーシルエットレースで「シルビア・スーパーシルエット」にインパルのホイールを装着し、市販化されたホイール「D-01シルエット」は、ひと月で2万本売れる大ヒット作となるなど[22]、ビジネスは軌道に乗り始めた[22]

1983年には自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立し、ヒーローズレーシングから独立。全日本F2選手権富士グランチャンピオンレースおよびスーパーシルエットレースに自らのチームで参戦するようになった[23]。また、同年から始まった全日本耐久選手権にもホシノレーシングから萩原光とのコンビで参戦を開始。6月にはイギリスのドニントン・パークで行われたヨーロッパF2選手権第8戦にスポット参戦(マシンはマーチ832・BMW)し、4位入賞を果たす[24][16]。なお、この遠征により星野が不在の期間に日本で開催されたスーパーシルエット・レースでは星野の代わりに萩原がシルビア・スーパーシルエットに乗り参戦した。

1984年4月、IMPUL本社にショールームをオープンさせ、星野も静岡から転居し東京が活動拠点となった[25]

1985年、富士スピードウェイで開催されたWEC-JAPAN(富士1000km)に松本恵二・萩原光とのチームでマーチ・85G/日産を駆り参戦。決勝では悪コンディションでスタート順延などレース運営の混乱もある中、星野が一人ですべて走り切り独走で優勝[26]。日本人として初の世界選手権レース勝利となった[26]

1987年には国内でのホンダF1テストドライバーの役目を中嶋悟から引継ぎ、ウィリアムズ・ホンダでのテスト走行を行った他、スポンサー持込などの条件付きでベネトンなど[27][8]のF1のシートに誘われることも複数件あったというが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。払って乗せてもらうのはあり得ない」という信念を貫き、F1のシートに飛びつくことはしなかった。

1990 カルソニック スカイライン
ニスモのエキシビションにて

しかし海外レースでも好結果は出しており、1990年のル・マン24時間レース日産・R90CPで出場し5位入賞[28]1998年のル・マン24時間レースには日産・R390で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた[29]。他にも1992年には林義正水野和敏の指揮でデイトナ24時間レース日産・R91CPで出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている[30]。このレースでは他にもファステストラップ1分38秒495や、24時間の平均速度181.923 km/hなど、多くの記録を塗り替えた。

1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や全日本GT選手権カルソニックカラーのスカイラインGT-Rで参戦し数多くの勝利を獲得[31]、「カルソニックの星野」のイメージを強くした[32]が、全日本F3000選手権でも活躍をつづけた。

1997年シーズン開幕直前に持病の腰痛の悪化の為、国内トップフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン)からの引退を発表。以後も全日本GT選手権に参戦を続けるが、2002年8月に現役ドライバー引退を発表した[2]

引退後[編集]

引退後は全日本GT選手権(現・SUPER GT)とフォーミュラ・ニッポンに参戦する自身のチーム「チームインパル」の監督を務める[33]。また、ニスモフェスティバルなどの自動車のイベントでのデモラン走行や日産の新型車(主にフェアレディZスカイラインGT-Rなど)のテストドライブなどで雑誌やメディアに姿を見せることも少なくない。

評価[編集]

  • 自身のドライビングのスタイルを「二輪時代からだけど、フロントが入って行かないクルマだと全然だめなのよ。アンダーステアという言葉は発したくないくらい嫌い。オーバーステアなら何とでもなるけどね」と述べている[34]。また1980年代中盤から全盛となったテレメトリーによる走行データ分析重視が好きではなく「今は昔と違って細かいデータを分析しなくてはいけない時代で、データが頼りのところがある。俺はレースは経験が重要だと思っているし、データが嫌いだから(笑)」と述べている[35]
  • 盟友である金子豊は「星野はリズムにのった時は速いが、乗れないとわりに焦る。自分の力を信じていればもっと勝ちまくった人だと思う。90年代になってベテランになっても気持ちを高めていくやり方で勝つことがあるけど、そのやり方で失敗するレースも多い。マシンを降りてる時は日本人なんだけど、走ってる時はラテンなんです。」と評している[36]
  • 星野は1970年代半ばから「日本一速い男」と呼ばれるようになったが、これは必ずしも褒め言葉ではない面もあった。一方に「日本一強い男」とでも呼ぶべき高原敬武がいたためである。星野はベテラン勢を差し置いてポールポジションを獲得するのだが、最終的には高原が勝利を得てチャンピオンになるというパターンであった。速さで星野、強さで高原というのが1970年代半ばの日本レース界だった。
  • エディ・アーバインジョニー・ハーバートなど、全日本F3000選手権に参戦経験があるF1ドライバーから一目置かれている。中でもアーバインはF1初優勝を飾った1999年オーストラリアGPの記者会見の席上で「日本にはカズヨシ・ホシノというバカっ速いドライバーがいて、とてもかなわなかった」「今ここに自分がいられるのはホシノのおかげ」と発言したことがあり、その時同席していたやはり日本での経験が長いハインツ=ハラルド・フレンツェンもそれに同意するという一幕があった。
  • 1980年代半ばに何度も全日本タイトルを奪っていた中嶋悟は「僕がいくら実績を挙げても、相変わらず“日本一速い男”が別にいるんだよね」とボヤいていたことがある[37]。1990年代に入るとアーバインやハーバート、フレンツェン、ペドロ・デ・ラ・ロサ高木虎之介服部尚貴中野信治ラルフ・シューマッハ、本山哲など中年期に達した星野より明らかに速い若手も登場していたが、変わらず「日本一速い男」の称号は星野のものであった。
  • タイヤテストでのインフォメーション能力を高く評価されており、ブリヂストン浜島裕英は星野を「ミハエル・シューマッハと並んで極めて高いタイヤ評価能力を持つ」としている。ただし浜島によれば、星野とシューマッハは「前がかなり食いついていないと(=フロントタイヤのグリップが高くないと)だめなドライバー」なため、他のドライバーが同じタイヤを使うと「みんなオーバーステアになってしまって乗れないと思う」という[38]。また、当時の全日本F3000で「ブリヂストンタイヤが最大限に機能するスリップアングルを出すのが一番巧かったのは星野選手」とも浜島は述べている。
  • チーム監督となってからも熱血漢である。レース中、納得できないことがあれば、ピットのサインガードテント内でテーブルを叩く(或いは蹴る)、物を投げる(主にペットボトル)、声を荒げるなどの感情を隠さないしぐさの他、インタビューに来たテレビ中継リポーターに「映すな」とインタビューを受け付けないなど「日本一熱い監督」あるいは同姓の星野仙一同様「闘将・星野」と言われている。その一方、自チームの選手に当り散らしたり、説教をするようなことはほとんどないと言われる。マシントラブルや競り合ったためにクラッシュやリタイアをした所属選手に対しては、マスメディアなどの取材攻勢から守る、取材に対してレースの結果を選手の責任としない等、ドライバーを最大限擁護する行動をしている[39]

性格・嗜好[編集]

  • ヘビースモーカーで、ピット内は火気厳禁かつ禁煙にもかかわらず、特に1980年代はピット内でもよくたばこを吸っていた。銘柄は長年星野をスポンサーとして支援したキャビン。レース前の星野は恐怖感に苛まれ緊張状態になる場合も多いため、これが俺が吸う最後の一本になるかもしれないと思いながら吸う事も多かったという。あるレースでは、レースカー車内にまで持ち込もうとしたところを、スタッフや本山哲に制止された逸話もある。
  • 豪放な発言も多くある星野だが、実際には神経の細い部分もあり[40]、現役時代レース当日になると緊張のため食事が喉を通らず、レース当日の食事をバナナ一本のみで済ませていたことも多かった。ヒーローズレーシングで中嶋悟とチームメイトだった時代、ドライバーズサロンで普通に昼食を食べる中嶋の姿を見て「レース前なのによくそんなに食べられるな」と思わず声をかけたこともある。現役中はレースウィークに入ると水曜日から全身に湿疹が出て、レース終了後の月曜日になると治っているというサイクルが15年続いた。
  • ライバルレーサーの強さを認めると率直にそれを評価することが多い。例として、
    • 1990年のインタビューで前年の全日本F3000王者に輝いた小河等を「最終的には、小河(等)ちゃんのあのアクセルワークだよ。あの冷静さ、あのハンドリング」と小河のドライビングにこれ以上ない高評価をしている。[41]また「僕のあとは小河クンしかいないよ」とも発言した。[42]
    • 1993年、スポーツランドSUGOでの全日本F3000予選中、馬の背コーナーをとんでもない速さで駆け抜けていくハインツ=ハラルド・フレンツェンに衝撃を受け、ピットに戻るとフレンツェンのもとに駆け寄り「お前はこんなところでくすぶってないで早くF1に行け」と言いに行った[43](星野がライバルを褒めに出向くのは極めて異例)。フレンツェンは翌年ザウバーからF1デビューを果たした。
    • 1995年、F3000第9戦富士でトップを独走し、トラブルもなかったにも関わらず、終盤になって高木虎之介にストレートであっさりかわされ2位に終わる。完敗した星野はレース後会見で高木の監督である中嶋悟に「もうタイレル(ティレル)でもどこでもいいから向こう(F1)にやっちゃってよ」と漏らした。なお、星野は翌年限りでフォーミュラから引退し、高木は1998年にそのティレルからF1デビューを果たした。
    • 自らの引退後、ホシノIMPULで起用したブノワ・トレルイエを高く評価しており、「若い時のブノワをF1に行かせてあげたかった」「人間性から何から全てが素晴らしい」「俺ブノワのファンだから」と公言している[44]
  • 1990年代に入りF3000マシンでシーケンシャル・シフトが普及してからも星野は従来のHパターンシフトにこだわり、ギアボックスを換装していた。更に、シフトアップ時のフリッピング(アクセルを一瞬戻すことによるロス)を減らすため、当時は珍しかったシフトカット装置[注釈 5]を独自に装着していた。
  • プライベートではゴルフ好きだが、自らの熱くなりやすい性格がプレーに出てしまい「(悪いショットの時に)すぐにゴルフクラブを叩き折ってしまう」という。酷い時には「スタート前の練習ですでにクラブを2本叩き折ってしまい、それを見ていた担当キャディーに怖がられてしまい、謝ってからチップをあげてキャディーに付いてもらった」こともあるといい、熱くなりすぎのせいで「一緒に遊んでもらえる友達がいなくなっちゃった(笑)」と述べている[45]。一方でイップス持ちでもある[45]

人間関係[編集]

  • レースを始めるきっかけとなったのは、鈴木忠男(SP忠男レーシングチーム監督/モトクロス全日本チャンピオン)出場のモトクロスレース観戦があったからと言われている。Mr.BIKE(BG)[要文献特定詳細情報] の対談で本人が答えた。以来ずっと鈴木とは信頼関係を持っている。
  • 日産ワークスに入った時の先輩(7歳年上)である北野元を尊敬し、憧れていた。2輪から4輪に転向という同じ経緯をたどった北野のスピードやその技量の高さだけではなく、人柄に惚れており深く慕っていた[46]1989年の全日本ツーリングカー選手権に北野と共に参戦することになった際に星野は「一番尊敬している先輩とのコンビです」と公言している[47]。星野曰く「俺はとにかく練習して練習してレースをしていたが、北野さんは市販マシンでワークスマシンに勝っちゃう人。俺とは全然モノ(才能)が違う」「どの先輩も尊敬しているが、北野さんは(胸の辺りを指して)ハートの部分が一番良い人」と語っている[46]
  • 松本恵二とはライバルであったが馬が合い、「けいちゃん」と呼ぶなど仲が良い[34]。耐久レースでは同チームで組んだが、アンダーステアが大嫌いな星野とは逆に松本は弱アンダーのセッティングを好みドライビングスタイルがかなり違っていたという。
  • 中嶋悟がレギュラードライバーとしてF1に参戦していた期間は、悔しさからF1中継や報道を観るのを避けていた。互いに引退後にはサーキットでのトークイベント等で星野が中嶋に「ホンダに5年もF1行かせてもらって本当うらやましいよ」と言うと、中嶋が「でも俺はあっちに行ってて日本のバブル時代を味わってないんだよ。あの期間に星野さんはビジネスでおカネを掴んだ(笑)」と、逆にうらやましく思われる部分もあると知り、同じくF1に行ける世代ではなかった松本恵二と共に「俺たちは日本レース界でバブルを味わえていい時代だったんだよ」としみじみ語っている[34]
  • 弟子に萩原光がおり、1986年に萩原が事故死した時は大変なショックを受けた。また、他に本山哲[48]や、1984年にカーレーサーを志望し星野に弟子入り志願した歌手近藤真彦[49]も、ドライバーにとってトレードマークである星野のヘルメットデザイン(白×黄)の色違い(黒×シルバー)のヘルメットを近藤が使用することを許可し、デビューレースから近藤のレーシングスーツの胸部にIMPULロゴが大きく配されるなど[50]面倒を見るようになり支援した。
  • 現・シアトル・マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクターのイチローは、星野の現役時代からの星野ファンであり、イチローの依頼で星野が経営するホシノインパル製のチューニングカーマーチシーマスカイラインクーペを作ったことがあり、特にマーチやスカイラインクーペはイチローのアメリカでの愛車となった。ほかにもプロゴルファー尾崎将司もシーマ・IMPULスペシャルを所有している[映像 1]

エピソード[編集]

  • 1982年には日産・シルビアRS(FJ20型エンジン搭載)のテレビCMに出演。ここでも「日本一速い男」と紹介されている。
  • 1980年代後半、全日本耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権で日産ワークスに在籍したまま、全日本F2/F3000選手権ではホンダからワークスエンジンの供給を受けていた時期があり、そのため当時はグループCグループAのレースのときは日産車で、F2/F3000のときは中立の意味でメルセデス・ベンツでサーキット入りしていた。ホンダ本社行きのためにホンダ・レジェンドも所有していた。ちなみにホンダからF2エンジンの供給を受けることが内定した1984年暮れ、星野は日産ワークスからの離脱を覚悟し[注釈 6]、銀座の日産本社に挨拶に出向いたがニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(NISMO)側が星野の能力を惜しんだことに加え[注釈 7]、当時ホンダと日産は直接レースで対決することがなかった[注釈 8]ことなどが理由となり残留が決まった。また、2008年時点で星野率いるIMPULはフォーミュラ・ニッポンにトヨタエンジンで参戦しているが、こちらも日産が参戦していないカテゴリーのため問題視はされていない。ただし、星野との結びつきが強いだけにNISMOのテクニカルスポンサードを受けており、IMPULのマシンにはトヨタとNISMOのステッカーが貼ってあるという希少な組み合わせとなっている。
  • 1985年のWEC-JAPANでは、豪雨と霧のためスタートが3時間遅れるほどの悪天候のため海外のワークス勢がしり込みして棄権するチームが続出する中、星野がドライバー交替をせず1人で後続を引き離し独走優勝を果たし、日本人ドライバーとして初の世界選手権優勝者となる。しかしレース後の記者会見では、その時のはっきりしないレース運営姿勢や、世界選手権というステージで海外勢に対し姿勢があやふやな運営をした日本のモータースポーツ界に対して怒りを露にし、優勝者インタビューとは思えない怒りのインタビューとなった。
  • マシン開発が激化の一途を辿っていたグループCのマシンの走行テストを富士スピードウェイで行っていた際、突然リアウイングが最終コーナーで加速した途端にへし折れ、コントロールを失ったマシンが空中に浮かんで数回転スピンし、コンクリートウォールに激突して停止した。幸運にも怪我一つなく救出されたが、星野は事故後その恐怖から30分以上全身の震えが止まらなかったという。当時日産はグループCカーとしてマーチローラ等外部コンストラクターのシャシーを使用していたが、外部メーカー製パーツの品質管理の難しさを痛感した日産はこの事故を契機にパーツの内製比率を増し、最終的に日産・R91CPにて主要パーツを完全自社製とすることになる。
  • 前記の富士テストでの恐怖は色濃く、雑誌のコラム[要文献特定詳細情報]でも「今まで凄かった車は?」の問いに「日産のグループCカー」と答え「1,000馬力も出たら危ない」と語った。最終的には1250馬力までエンジンパワーは進化し、富士の長いストレートでも終始加速し続けるばかりで恐怖だったと語っており、エンジニアからマシンの改善点を尋ねられても「エンジンはもう何もしないでくれ、これ以上のパワーなんていらないから」と答えていた。引退後に日産のCカーを回想する際にも「乗る面白さなんてないよ、ただただ怖いだけ」と述べた[映像 2]。現役当時は毎レースの予選終了後にチームメイトの長谷見昌弘と顔を合わせて「お互い無事でよかった」と安堵し、Cカーカテゴリーが消滅した際は「もうこれで死ななくて済む」と2人でホッしたという[51]
  • 1990年代、全日本F3000の決勝レースで、若手レーサーのミスに巻き込まれてチャンピオン争い中の星野がリタイヤに追い込まれた[52]。「星野さんに謝りに行ったほうがいい」と周囲に言われてその若手が星野のモーターホームに向かうと、窓ガラスに拳状のヒビが入っており、星野の怒りの大きさにおののいたそのレーサーはその場から退散したという。
  • 1990年10月、F1のベネトンチームから、直前にヘリコプター事故で右腕を切断したアレッサンドロ・ナニーニの代役としてF1日本グランプリにスポット参戦しないかという正式オファーがあった。但し持参金として約2,000万円を要求され用意すれば乗れたのだが、先述の通り「プロのレーシングドライバーは金を貰って乗るもので、それがF1でも自分から1円でも払って乗りたくはない。2万円ぽっちでもいいからギャラを払ってほしかった」という主義を貫いたため、この話はロベルト・モレノへと流れてしまった(結果モレノは2位表彰台獲得、ベネトン1-2フィニッシュ)。この件に関連して、2003年日本グランプリ金曜フリー走行にて弟子である本山哲がジョーダンF1のテストドライブが出来る事になり、その場に星野も立ち合ったが[53]感動のあまり、「俺はベネトンから2,000万円で乗らないか、と言われて断ったが(こんなにF1が凄いのなら)やっぱり金払ってでも乗ればよかった」と語った。
  • 1991年夏にミハエル・シューマッハが全日本F3000に初参戦した際、コース(菅生)もF3000での実戦も初だったシューマッハが日本の第一人者であると感じた星野のピット付近を訪れると数十分ずっと観察し、星野のマシンの様子などから何か得るものはないか凝視し探っていたという。シューマッハの存在を認識していなかった星野はスタッフに「彼は誰?」と聞き、若いながらもその貪欲に敵を研究する姿が印象に残ったと言う[54]
  • 1996年、他力本願ながらシリーズチャンピオン獲得の可能性を残していた雨の富士スピードウェイでのフォーミュラ・ニッポン最終戦において、クラッチトラブルによりピットインしリタイアした際に、星野の姿はTVカメラで終始追われていたが、ピット内でタイトルを逃したあまりの悔しさと怒りからヘルメットを思い切り床に叩き付けてしまったその姿もすべて中継で映し出されていた。後日、星野はヘルメット供給メーカーのアライヘルメットの工場を訪れ、「(ヘルメットに八つ当たりして)申し訳ありませんでした」と謝罪した。結果として、このレースが星野の国内トップフォーミュラ引退レースとなった。
  • 1998年のル・マン24時間レースへ参戦する際、THE ALFEEが星野のパーソナルスポンサーとして就くことになった。その際、乗車する日産・R390-GT1のリアタイヤ前方カウルに"THE ALFEE TOSHIBA EMI"のロゴが貼り付けられた。本来数ヶ月掛かるスポンサー契約交渉だが、この際にはほぼ即断に近い異例の一週間程度で済ませたといわれている。翌年は星野のレーシングスーツに『THE ALFEE』のロゴが貼られた。
  • 2001年3月にはスピード違反で免許停止処分を受けたため全日本GT選手権に出場できなくなり、急遽服部尚貴が星野の代わりにレースに参戦したことがあった。またこの時、免停講習を受ける星野の姿が写真週刊誌に掲載され、世間の話題を呼んだ。
  • レーサーからの完全引退の後にはエディー・アーバインが「ホシノさんの引退によって日本のモータースポーツが下火になったと聞いている。これは寂しい事だ」と発言するなど、引退を惜しむコメントが多数寄せられた。
  • 2012年2月の鈴鹿サーキットモータースポーツファン感謝デーにおいて「1980年代末期、日産の承諾を得た上でホンダのF1用エンジン開発にテストドライバーとして参加していた」事を明かした。公然の秘密ではあったが、公の場で述べたのは初だった。このイベント時のデモランにおいて星野はウィリアムズ・FW11に乗り中嶋ドライブのロータス・100Tと共演している[55]
  • 2017年の鈴鹿サーキットモータースポーツファン感謝デーにて、中学生の頃からの憧れであったマン島TTレース参戦マシン、ホンダ・RC166とRC164のデモランを担当した[4]。星野は過去の同イベントにて度々レーサーバイクに乗せてほしいと発言しており[注釈 9]、また北野元に対しても「(RCに)乗りたい」と訴え続けていたといい、中学生時代からの50数年越しの夢が叶った星野は、走行中に涙を浮かべていたという[56]

レース戦績[編集]

全日本F2000選手権/全日本F2選手権/全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン[編集]

所属チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1974年 コジマエンジニアリング SUZ SUZ SUZ SUZ
3
5位 10
1975年 ビクトリーサークルクラブ FSW SUZ
2
FSW
1
SUZ
3
SUZ
1
1位 59
1976年 ヒーローズレーシングコーポレーション FSW
Ret
SUZ FSW
1
SUZ
1
SUZ
DNS
4位 40
1977年 SUZ
3
SUZ
1
NIS SUZ
2
FSW
1
FSW
1
SUZ
Ret
SUZ
2
1位 90 (102)
1978年 SUZ
1
FSW
1
SUZ
3
SUZ
Ret
SUZ
1
NIS SUZ
12
1位 76
1979年 SUZ
2
NIS SUZ
2
FSW
10
SUZ
2
SUZ
6
SUZ
1
2位 78 (79)
1980年 SUZ
3
NIS
2
SUZ
4
SUZ
Ret
C SUZ
2
SUZ
1
2位 65
1981年 SUZ
2
SUZ
10
SUZ
1
SUZ
3
SUZ
Ret
2位 48
1982年 SUZ
3
FSW
Ret
SUZ
Ret
SUZ
1
SUZ
5
SUZ
2
2位 55
1983年 ホシノレーシング SUZ
4
FSW
DSQ
NIS
3
SUZ
2
SUZ
2
FSW
3
SUZ
2
SUZ
3
2位 79 (89)
1984年 SUZ
2
FSW
2
NIS
1
SUZ
2
SUZ
2
FSW
5
SUZ
2
SUZ
Ret
3位 95 (103)
1985年 SUZ
10
FSW
2
NIS
2
SUZ
DNS
SUZ
1
FSW
11
SUZ
14
SUZ
DNS
4位 51
1986年 SUZ
Ret
FSW
3
NIS
Ret
SUZ
2
SUZ
1
FSW
Ret
SUZ
1
SUZ
1
2位 87
1987年 SUZ
1
FSW
10
NIS
2
SUZ
1
SUZ
1
SUG
1
FSW
6
SUZ
2
SUZ
2
1位 132
1988年 CABIN RACING TEAM WITH IMPUL SUZ
1
FSW
2
NIS
3
SUZ
2
SUG
3
FSW
Ret
SUZ
1
SUZ
1
2位 43
1989年 SUZ
1
FSW
Ret
NIS
Ret
SUZ
Ret
SUG
Ret
FSW
1
SUZ
3
SUZ
Ret
3位 22
1990年 SUZ
1
FSW
1
NIS
4
SUZ
16
SUG
3
FSW
1
FSW
1
SUZ
1
FSW
5
SUZ
1
1位 58 (63)
1991年 SUZ
Ret
AUT
2
FSW
1
MIN
Ret
SUZ
Ret
SUG
Ret
FSW
1
SUZ
Ret
FSW
C
SUZ
Ret
FSW
Ret
4位 24
1992年 SUZ
2
FSW
Ret
MIN
DNS
SUZ
Ret
AUT
Ret
SUG
7
FSW
3
FSW
Ret
SUZ
Ret
FSW
12
FSW
13
12位 10
1993年 NISSEKI IMPUL RACING TEAM SUZ
2
FSW
1
MIN
Ret
SUZ
2
AUT
C
SUG
Ret
FSW
C
FSW
Ret
SUZ
5
FSW
1
SUZ
Ret
1位 32
1994年 SUZ
Ret
FSW
7
MIN
Ret
SUZ
Ret
SUG
Ret
FSW
5
SUZ
15
FSW
Ret
FSW
4
SUZ
6
8位 6
1995年 SUZ
11
FSW
C
MIN
3
SUZ
6
SUG
Ret
FSW
2
TOK
Ret
FSW
2
SUZ
4
4位 20
1996年 カルソニック RACING TEAM with IMPUL SUZ
1
MIN
Ret
FSW
3
TOK
4
SUZ
5
SUG
2
FSW
Ret
MIN
Ret
SUZ
2
FSW
Ret
3位 31

全日本フォーミュラ・パシフィック選手権[編集]

所属チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1979年 TSU TSU FSW
Ret
TSU
1
TSU SUZ
NC
1980年 SUZ TSU FSW TSU TSU TSU SUG SUZ
3
1981年 ホシノレーシング TSU
3
NIS
Ret
FSW
3
TSU
2
TSU
1
TSU
1
SUZ
2
SUG
1
SUZ
Ret
1位
1982年 TSU
1
NIS
Ret
SUG
1
TSU
1
TSU
Ret
TSU
4
FSW
2
SUZ
1
SUG
1
NIS
1
SUZ
1
1位

フォーミュラ1世界選手権[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1976年 ティレルヒーローズ 007 BRA RSA USW ESP BEL MON SWE FRA GBR GER AUT NED ITA CAN USA JPN
Ret
NC
(43位)
0
1977年 コジマヒーローズ KE009 ARG BRA RSA USW ESP MON BEL SWE FRA GBR GER AUT NED ITA USA CAN JPN
11
NC
(37位)
0

(key)

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権[編集]

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1978年 ヒーローズレーシング ノバ・532 BMW THR
HOC
NÜR
PAU MUG
VAL
ROU
Ret
DON
Ret
NOG
PER
MIS
HOC
NC 0
1983年 ジェームス・グレシャム・レーシング マーチ・832 BMW SIL THR HOC NÜR VAL PAU JAR DON
4
MIS PER ZOL MUG 16位 3

全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権[編集]

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1983年 ホシノレーシング シルビアターボCニチラ(マーチ・83G) C1 SUZ
Ret
SUZ
Ret
FUJ
7
NC 0
1984年 C1 SUZ
13
TSU SUZ
12
FSW
Ret
NC 0
1985年 C1 SUZ
2
FSW
Ret
15位 35
シルビアターボCニチラ(マーチ・85G) C1 FSW
Ret
SUZ
Ret
FSW
1
FSW
Ret
1986年 日産・R86V C1 SUZ
DNS
FSW FSW
Ret
SUZ
Ret
FSW
10
FSW
Ret
47位 1
1987年 日産・R87E C1 SUZ
Ret
FSW
Ret
SUZ
6
FSW
16
SEN
C
FSW
Ret
30位 9
日産・R86V FSW
8
1988年 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R88C C1 FSW
Ret
SUZ
6
FSW
7
FSW
5
SUZ
Ret
FSW
9
18位 20
1989年 C1 FSW
Ret
FSW
6
27位 6
日産・R89C FSW
Ret
SUZ
DNS
FSW
Ret
1990年 日産・R90CP C1 FSW
4
FSW
C
FSW
3
SUZ
1
SUG
4
FSW
2
3位 67
1991年 日産・R91CP C1 FSW
1
FSW
1
FSW
2
SUZ
Ret
SUG
11
FSW
1
SUG
2
1位 87
1992年 日産・R92CP C1 SUZ
9
FSW
1
FSW
1
SUG
1
FSW
1
MIN
1
1位 103

世界耐久選手権/世界スポーツプロトタイプカー選手権[編集]

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1983年 ホシノレーシング マーチ・83G/日産 C MNZ SIL NÜR LMN SPA FSW
7
KYA 67位 4
1984年 C1 MNZ SIL LMN NÜR BRH MOS SPA IMO FSW
Ret
KYA SUN NC 0
1985年 マーチ・85G/日産 C1 MUG MNZ SIL LMN HOC MOS SPA BRH FSW
1
SHA 10
1986年 NISMO 日産・R86V C1 MNZ SIL LMN
Ret
NOR BRH JER NÜR SPA FSW
10
1
1987年 日産・R87E C1 JAR JER MNZ SIL LMN
Ret
NOR BRH NÜR SPA FSW
16
NC 0
1988年 日産・R88C C1 JER JAR MNZ SIL LMN
Ret
BRN BRH NÜR SPA FSW
9
SUN 82位 4
1989年 C1 SUZ
4
DIJ JAR BRH NÜR DON SPA MEX 31位 10
1990年 日産・R90CP Cat.2 SUZ
Ret
MNZ SIL SPA DIJ NÜR DON MTL MEX NC 0

全日本GT選手権[編集]

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1995年 HOSHINO RACING 日産・スカイラインGT-R GT1 SUZ
FSW
SEN
2
FSW
7
SUG
2
MIN
3
14位 19
1996年 TEAM IMPUL GT500 SUZ
8
FSW
5
SEN
5
MIN
1
SUG
2
MIN
Ret
4位 54
1997年 GT500 SUZ
Ret
FSW SEN
15
FSW
4
MIN
6
SUG
14
13位 16
1998年 GT500 SUZ
11
FSW SEN
5
FSW
3
TRM
2
MIN
7
SUG
4
3位 49
1999年 GT500 SUZ
10
FSW
3
SUG
5
MIN
6
FSW
5
TAI
10
TRM
7
7位 40
2000年 GT500 TRM
17
FSW
5
SUG
5
FSW
3
TAI
6
MIN
1
SUZ
3
3位 66
2001年 GT500 TAI FSW SUG FSW
7
TRM
3
SUZ
11
MIN
5
13位 24
2002年 GT500 TAI
14
FSW
Ret
SUG
8
SEP
14
FSW
Ret
TRM MIN SUZ 24位 3

全日本ツーリングカー選手権 (JTC)[編集]

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1985年 NISMO 日産・スカイラインRSターボ DIV.3 SUG TSU
Ret
NIS SUZ FSW
1987年 日産・スカイラインGTS-R DIV.3 NIS SEN TSU SUG FSW
9
SUZ
1989年 ホシノレーシング JTC-1 NIS
Ret
SEN
1
TSU
4
SUG
Ret
SUZ
6
FSW
Ret
1990年 日産・スカイラインGT-R JTC-1 NIS
1
SUG
1
SUZ
2
TSU
1
SEN
1
FSW
1
1位 230
1991年 JTC-1 SUG
1
SUZ
Ret
TSU
3
SEN
1
AUT
2
FSW
1
3位 174
1992年 JTC-1 TAI
Ret
AUT
3
SUG
1
SUZ
Ret
MIN
Ret
TSU
1
SEN
1
FSW
6
7位 78
1993年 JTC-1 MIN
1
AUT
3
SUG SUZ
3
TAI
1
TSU
2
TOK
1
SEN
1
FSW
Ret
2位 119

全日本ツーリングカー選手権 (JTCC)[編集]

所属チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1994年 NISMO 日産・プリメーラ OAR1
3
OAR2
Ret
SUG1
Ret
SUG2
3
TOK1
7
TOK2
Ret
SUZ1
3
SUZ2
20
MIN1
16
MIN2
Ret
TAI1
4
TAI2
Ret
TSU1
Ret
TSU2
DNS
SEN1 SEN2 FSW1
1
FSW2
Ret
8位 53
1995年 HOSHINO RACING FSW1
6
FSW2
6
SUG1
24
SUG2
6
TOK1
Ret
TOK2
Ret
SUZ1
3
SUZ2
2
MIN1
14
MIN2
Ret
TAI1
2
TAI2
2
SEN1
6
SEN2
5
FSW1
2
FSW2
1
3位 98
1996年 TEAM IMPUL FSW1
Ret
FSW2
Ret
SUG1
5
SUG2
16
SUZ1
9
SUZ2
17
MIN1
1
MIN2
2
SEN1
4
SEN2
Ret
TOK1
10
TOK2
Ret
FSW1
5
FSW2
2
6位 61
1997年 NISMO FSW1
C
FSW2
C
TAI1
6
TAI2
14
SUG1
2
SUG2
1
SUZ1
2
SUZ2
6
MIN1
4
MIN2
11
SEN1
2
SEN2
Ret
TOK1
3
TOK2
Ret
FSW1
8
FSW2
1
4位 95

ル・マン24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー クラス 周回 総合順位 クラス順位
1986年 日本の旗 NISMO 日産・R86V C1 64 DNF DNF
1987年 日産・R87E C1 181 DNF DNF
1988年 日産・R88C C1 286 DNF DNF
1989年 日産・R89C C1 167 DNF DNF
1990年 日産・R90CP C1 348 5位 5位
1995年 日産 NISMO・GT-R LM GT1 157 DNF DNF
1996年 GT1 307 15位 10位
1997年 日産・R390 GT1 GT1 294 12位 5位
1998年 GT1 347 3位 3位

デイトナ24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1992年 日本の旗 NISMO 日産・R91CP LM 762 1位 1位

バサースト1000[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1981年 オーストラリアの旗日産自動車 日本の旗長谷見昌弘 日産・910ブルーバード ターボ 4 Cylinder 66 DNF DNF
1982年 B 153 8位 1位

主な出演CM[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 免許がなく、公道を走れない事もあり、リヤカーにモトクロッサーを積んでコースと家を行き来している姿を廃品回収を手伝う勤労少年だと思われ、通りすがりのおばさんに誉められたという逸話も残っている。
  2. ^ 金子もカワサキ系モトクロスライダーだった。
  3. ^ 金子豊の妹
  4. ^ 元は桑島正美の車両だった[11]
  5. ^ ボタンを押している間だけエンジンの点火がカットされるため、アクセルを踏みっぱなしでもシフトアップが可能な装置。
  6. ^ フリーの中嶋悟はF2はホンダ、グループCではトヨタから参戦していたが、日産ワークス所属のドライバーは国内他社のマシン・エンジンでのレース参戦も禁じられていた(BMWなど外国メーカーのマシンやエンジンを購入してプライベーターとして参戦する場合はOK)。
  7. ^ 当時すでにNISMOの社内ではル・マン24時間レース参戦に向けた準備が始まっており、星野はエースドライバーとしての起用が有力視されていた。
  8. ^ ホンダはフォーミュラカー路線が基本だったのに対し、日産はグループCを中心に活動していたため。全日本ツーリングカー選手権には両社とも参戦していたが、参戦クラスが異なっていたため直接対決はなかった。
  9. ^ 前述の2012年のイベントの際も、ケビン・シュワンツワイン・ガードナーのWGPマシンを間近で見ながら「俺も乗ってみたい」「俺は元レーシングライダーだったんだぞ」と発言している。

出典[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ Strada 2016.
  2. ^ a b 貝島 & 田口 2002, p. 146.
  3. ^ Racing on 468, p. 41.
  4. ^ a b “星野一義の夢、かなう。ホンダRC166で鈴鹿をデモラン「本当にすごかった!」”. AUTO SPORT Web. (2017年3月4日). https://www.as-web.jp/supergt/96108?all 2018年1月24日閲覧。 
  5. ^ Racing on 474, p. 57.
  6. ^ Racing on 480, p. 91.
  7. ^ a b Racing on 468, p. 45.
  8. ^ a b Racing on 468, pp. 23–24.
  9. ^ Strada 2016, pp. 10–11.
  10. ^ Racing on 474, pp. 44–47, 56–62.
  11. ^ a b c Strada 2016, p. 26.
  12. ^ Strada 2016, p. 22.
  13. ^ Racing on 468, pp. 66f.
  14. ^ Racing on 468, pp. 28–29, 46.
  15. ^ Strada 2016, pp. 46–47.
  16. ^ a b Racing on 468, pp. 31.
  17. ^ a b c 【星野一義】1960年代から70年代「欧州F2挑戦を糧に国内F2、GCダブルタイトルを獲得」【日本一速い男の半生記③】
  18. ^ 1978 Rouen Grand Prix MotorsportMagazine
  19. ^ 1978 Donington F2 SUNDAY, JUNE 25, 1978 MotorsportMagazine
  20. ^ Strada 2016, pp. 64–65, 68.
  21. ^ 定塚 2002.
  22. ^ a b 「日本一速い男」が激白「ホシノインパル」の誕生と苦境からの逆転劇 オートメッセweb 2021年2月21日
  23. ^ Racing on 468, pp. 70.
  24. ^ Strada 2016, pp. 64–65, 69.
  25. ^ 星野インパル初期のカズヨシ100%【OPTION 1984年2月号より 前編】 2017年6月13日
  26. ^ a b Strada 2016, pp. 92–93.
  27. ^ Racing on 480, pp. 94f.
  28. ^ Racing on 480, p. 40.
  29. ^ Racing on 474, p. 33.
  30. ^ Strada 2016, pp. 110–113.
  31. ^ Racing on 474, p. 31.
  32. ^ Racing on 474, pp. 10–11.
  33. ^ & Racing on 468, pp. 89.
  34. ^ a b c あの頃のオレ達へ 星野一義+松本恵二 大いに語る カーグラフィック 2014年12月号
  35. ^ 「私のチームを評価しました!」No.12 カルソニックIMPUL/星野一義監督 SUPER GT.net 2019年9月12日
  36. ^ 「走る人生」パイオニアの挫折 一志治夫 GPX 1991オーストラリア 12頁 山海堂 1991年11月23日発行
  37. ^ Racing on 468, pp. 67.
  38. ^ GRAND PRIX SPECIAL』、ソニー・マガジンズ、2008年2月、 97頁。
  39. ^ Racing on 468, p. [要ページ番号].
  40. ^ 出演したアライヘルメットのテレビCMでは「臆病だよ」と自らを語る場面もあった。
  41. ^ Racing On」』第86巻、武集書房、1990年、 90頁。
  42. ^ 『Racing On』第100巻、武集書房、1991年、 54頁。
  43. ^ 星野一義は本物の剣豪である。 F1っぅ放送作家 高桐唯詩のブログ 2017年4月25日
  44. ^ がんばれブノワ!星野一義監督からアウディワークス入りのトレルイエにエール(貝島由美子) オートスポーツweb 2010年1月29日
  45. ^ a b 星野監督の“神伝説”を亜久里監督が暴露 - オートスポーツ・2016年1月17日
  46. ^ a b 日本レース史の謎を解く①北野元さん オールド・タイマー (雑誌) No.138 52頁 2014年10月号 八重洲出版 2014年8月26日発行
  47. ^ オートスポーツ No.525 45頁 三栄書房 1989年
  48. ^ Racing on 474, pp. 68–71.
  49. ^ Racing on 474, pp. 40–43.
  50. ^ 星野一義がマッチを特訓 3万5400人の観客動員力には脱帽 オートスポーツ400号記念臨時増刊 ザ・タイムトンネル・サーキット 6-7頁 三栄書房 1984年9月30日発行
  51. ^ Racing on 480, p. 15.
  52. ^ 恐れていた結末 全日本F3000第10戦富士 Racing On No.110 68頁 武集書房 1991年12月15日発行
  53. ^ 夢ではなく、必然だった。日本で頂点を極めた本山哲のF1挑戦【F1“テスト”経験者の追憶】 Motorsport.com 2022年8月4日
  54. ^ 舘信秀×星野一義×近藤真彦スーパーフォーミュラ監督対談 前編(3/3) トヨタGAZOO Racing 2014年8月7日
  55. ^ 星野一義と中嶋悟がふたたびF1ドライブ“初対決”のマシンでデモラン オートスポーツweb 2018年1月23日
  56. ^ 星野一義とホンダRC166が夢の競演!【モータースポーツファン感謝デー】in鈴鹿サーキット”. webモーターマガジン (2017年3月10日). 2018年1月24日閲覧。

映像資料[編集]

参考文献[編集]

  • 貝島, 由美子、田口, 朋典「特集 星野一義 魂の休息」『Racing on』第17巻第12号、ニューズ出版、2002年11月、 140-163頁。
  • 定塚, 信行「ジョー・ホンダ レーシングフォトギャラリー 第6回 星野一義 ヨーロッパF2かく戦えり」『Racing on』第17巻第12号、ニューズ出版、2002年11月、 143-167頁。
  • 「特集 星野一義 がむしゃらフォーミュラー編 1974-1986」『Racing on』第468巻、三栄書房、2013年11月、 8-104頁。
  • 「特集 星野一義 王道と郷愁の箱レース編 1969-2002」『Racing on』第474巻、2014年12月、 8-100頁。
  • 「特集 星野一義 宿命のCカーと富士グラチャン編 1972-1992」『Racing on』第480巻、三栄書房、2015年12月、 8-96頁。
  • 『Strada』、三栄書房、2016年、 ISBN 9784779631368

関連項目[編集]

外部リンク[編集]