コンテンツにスキップ

大久保忠順

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おおくぼ ただより

大久保忠順
生誕 1857年5月19日
死没 1914年5月11日
墓地 目青不動教学院
国籍 日本の旗 日本
職業 貴族院議員柔術家
流派 天神真楊流柔術
テンプレートを表示

大久保 忠順(おおくぼ ただより、安政4年4月26日1857年5月19日) - 大正3年(1914年5月11日)は、江戸末期の大名明治から大正期の日本政治家華族勲等爵位勲三等子爵

烏山藩大久保家の9代目の当主で、下野烏山藩第8代(最後)藩主、同藩初代知藩事、烏山県初代知事、貴族院子爵議員などを歴任した。

経歴

[編集]

第7代藩主大久保忠美の長男。母は側室・原田きぬ。先妻は慈光寺有仲の娘。後妻は稲垣長明の娘。子は大久保忠春(長男)、大久保忠誠(次男)、大久保忠篤(三男)、大久保忠邦(四男)、桜井忠正(五男)、娘(諫早家興夫人のち森俊六郎夫人)

元治元年(1864年)、父の死去に伴い8歳で襲封する。明治元年(1868年)11月21日に従五位下・佐渡守の官位を与えられる[1]明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる[1]。同年華族に列す。

明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い烏山県(現在の栃木県那須烏山市)知事となる。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[2]。1890年(明治23年)7月10日、貴族院子爵議員に就任し[3]、死去するまで在任した[4]

大正3年(1914年)、58歳で没した。

栄典

[編集]

家族

[編集]

父母

子女

脚注

[編集]
  1. ^ a b 新田完三 1984, p. 252.
  2. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』38頁。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、22頁。
  5. ^ 『官報』第534号「叙任及辞令」1914年5月12日。

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
烏山大久保家初代
1884年 - 1914年
次代
大久保忠春