ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)
表示
ヤロスラフ・フセヴォロドヴィチ Ярослав Всеволодович | |
---|---|
キエフ大公(3世) ウラジーミル大公(2世) | |
| |
在位 |
キエフ大公:1236年 ウラジーミル大公:1238年 - 1246年 |
出生 |
1191年2月8日 |
死去 |
1246年9月30日(55歳没) カラコルム |
配偶者 | ユーリー・コンチャーコヴィチの娘 |
フェオドシヤ・ムスチスラヴナ | |
フェオドシヤ・イーゴレヴナ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | リューリク家 |
王朝 | リューリク朝 |
父親 | フセヴォロド3世 |
母親 | マリヤ・シュヴァルノヴナ |
ヤロスラフ・フセヴォロドヴィチ(Ярослав II Всеволодович、1191年2月8日 - 1246年9月30日)は、フセヴォロド3世の子、母はチェコ公女マリヤ。キエフ大公としてはヤロスラフ3世と数えられる。ペレヤスラヴリ・ザレスキーで生まれる。ペレヤスラヴリ公、ノヴゴロド公、キエフ大公(1236年)を歴任。兄ユーリー2世の死後、ウラジーミル大公(1238年 - 1246年)。
生涯
[編集]- 1201年に、父フセヴォロドにより、ペレヤスラヴリ・ルースキーの公に据えられる。
- 1204年に、ステップ遊牧民のポーロヴェツ人(クマン人)と戦った。
- 1223年にノヴゴロド公になるが、すぐに追放される。しかし、ライヴァルのチェルニゴフ公ミハイルを破り、1229年に再度ノヴゴロド公に。
- 1234年にドルパト(ユーリエフ)において、リヴォニア帯剣騎士団を破る[1][注 1]。
- 1236年には、ノヴゴロド軍と共にキエフに来たる。しかし、すぐに撤退。
- 1238年に兄ユーリーの戦死の後、1243年、バトゥによりサライの宮廷に召喚され、ウラジーミル大公位に任じられ「ルーシ諸公の長老」としての権威を認められる。
- 1246年にグユクの大ハーン即位式に赴いた先のカラコルムにて死去。モンゴルにより毒殺されたという話が同時代の年代記で伝わる。
子女
[編集]ヤロスラフは1205年頃にクマン族のハンであるユーリー・コンチャーコヴィチの娘と最初の結婚をした。この妃はキプチャク族の血を引いており、トルコ系の好戦的な遊牧民との同盟を構築するためであった。彼はその後、1214年にノヴゴロド公ムスチスラフとクマンの君主コチャン・ハンの娘との間に生まれたロスチスラヴァと再婚したが、2年後には離別している。
1218年、ヤロスラフはリャザンのイーゴリ・グレボヴィチ公子の娘フェオドシヤを3度目の妻に迎えた。彼女の父イーゴリ・グレボヴィチはリャザン大公グレプ・ロスティスラヴィチの次男で、母アガフィヤはロスチスラフ1世の娘である。彼女との間には少なくとも12人の子供をもうけた。
- フョードル(ru)(1219年 - 1233年6月5日) - チェルニゴフ公家の公女エウフロシニヤの許嫁となった。彼女はキエフ大公ミハイル2世とハールィチ・ヴォルィーニ公国の公女マリヤ・ロマノヴナとの間に生まれた娘だが、結婚式の前日に死去した。
- アレクサンドル・ネフスキー(1220年5月30日 - 1263年11月14日)
- アンドレイ2世(1222年頃 - 1264年)
- ミハイル・ホロブリト
- ダニール(? - 1256年)
- ヤロスラフ3世(? - 1271年9月9日)
- コンスタンチン(ru) - ガーリチ(ガーリチ・メルスキー)およびドミトロフの公
- マリヤ(1240年 - ?)
- ヴァシーリー(1241年 - 1276年)
- アファナシー
- エウドキヤ
- ウリヤナ
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ この戦いの詳細はru:Сражение на Омовжеを参照。
出典
[編集]- ^ 山内進『北の十字軍』p148
参考文献
[編集]- 山内進 『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』講談社、1997年。
|
|
|
|
|