バトゥ
| バトゥ باتو 抜都 | |
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ジョチ・ウルス第2代当主 初代ハン | |
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『集史』パリ本、ジョチ・ハン紀のバトゥの条より) | |
| 在位 | 1225年 - 1256年 |
| 別号 | シャー、ツァーリ |
| 出生 |
1207年 モンゴル高原 |
| 死去 |
1256年(48歳) サライ |
| 配偶者 | ボラクチン・ハトゥン |
| ベキ・ハトゥン | |
| 子女 |
サルタク トクカン エブゲン ウラクチ |
| 家名 | ボルジギン氏 |
| 父親 | ジョチ |
| 母親 | オキ・フジン |
バトゥ(ペルシア語 : باتو Bātū、1207年 - 1256年)は、ジョチ家の2代目当主(ハン:在位1225年 - 1256年)で、ジョチ・ウルスの実質的な創設者。チンギス・カンの長男のジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。カナ表記ではバツ、バト。
生涯
[編集]生まれ
[編集]ジョチの死
[編集]1225年、ジョチが他界すると、バトゥはジョチ家当主を相続してその兄オルダと父の軍隊を分け合い、オルダはスィフーン(シル)川の北方に位置する地方を領有し(オルダ・ウルス)、バトゥはサライを中心にヴォルガ河畔地方を領有した(バトゥ・ウルス)[1][注釈 1]。オルダとその子孫はバトゥ・ウルスと区別するため、「左翼の諸侯王」とよばれ、スィグナーク、サウラーン、オトラル付近に住んだ[3]。オルダ・ウルスは代々バトゥ・ウルスを宗主として承認し、勅令の冒頭にバトゥの名を掲げた[3]。
チンギス・カンの崩御
[編集]1227年、チンギス・カンが崩御すると遺言どおりに遺産相続が行われ、その大部分である1万1千人が四男トルイ家が相続し、トルイは監国となった[4]。長男ジョチ家には4000人が相続された[5]。葬儀の後、参列した諸王侯・部族・軍隊の首領たちは別れてそれぞれの幕営地へ帰った[6]。しかし2年後、長期にわたる空位は帝国に弊害を招くということで、再び一族は会して皇帝選挙をすべきてあるという意見が一致した[7]。
1229年春、諸王侯と諸将はモンゴル高原のあらゆる地点からケルレン河畔へ赴いた[7]。カスピ海北方の地方からはオルダ、バトゥ、シバン、タングト、ベルケ、ベルケチェル、トカ・テムルなどのジョチの諸子が、イリ川流域からはチャガタイとその諸子・孫が、イミル河畔からはオゴデイが、女真族と接する地方からはテムゲ・オッチギンが参集し、監国であるトルイはこれらの諸王侯をチンギス・カンのオルドで迎えた[7]。
クリルタイでの皇帝選挙
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新皇帝選挙のためクリルタイが開催されると、最初の三昼夜は宴会をおこない、その後選挙について討議した[7]。参会者の多くはトルイ推挙に傾いていたが、大臣の耶律楚材はオゴデイを強く推し、生前の遺言に従ってトルイもそれに賛同したため、一同はオゴデイに票を投じた[8]。しかしオゴデイ自身は年長者である叔父や兄、あるいは監国であるトルイを差し置いてなるわけにはいかないと固辞し、40日が過ぎた[8]。そして41日が経過すると諸侯の熱烈な懇請を受け入れて兄チャガタイと叔父のテムゲ・オッチギンの先導によって玉座に就いた(1229年9月)[8]。オゴデイは父帝の「チンギス・カン」の称号を襲名せず、新たに「カアン Qa'an」という称号を採用し、皇帝号とした[8]。
1235年のクリルタイ
[編集]1234年、オゴデイ・カアンはダラン・ダバスの地でクリルタイを開催した[9]。翌年(1235年)にはオルホン河畔の新都カラコルムでクリルタイを招集した[9]。この会議では南宋遠征軍、高麗遠征軍、バトゥを総司令官とする征西軍も決められた[10]。金遠征中に将軍チョルマグンによってホラズム・シャー朝の残党を殲滅され、その君主ジャラールッディーン・メングベルディーは死去していたため、将軍フカトにはカシミールとインドの攻略を命じた[10]。オゴデイはまた遊牧民は百頭につき1頭を、農民は収穫物の10分の1を税として納めさせ、貧民の救済に充て、使者の往来を迅速にするため帝国全土に駅伝(ジャムチ)を設けさせた[10]。
バトゥの西方遠征軍
[編集]クリルタイの後、諸王侯はその準備をするため、それぞれの領地へ帰った[11]。西方遠征軍は帝室の4つの王家からそれぞれ決められた割り当てに応じて提供された兵士によって構成された[11]。これらを束ねる皇族はジョチ家からは総司令官バトゥ、オルダ、シバン、タングトが、チャガタイ家からはバイダル、ブリが、オゴデイ家からはグユク、カダアン・オグル、クルゲンが、トルイ家からはモンケ、ボチュクらが参加した[11]。オゴデイ・カアンは副司令官として歴戦の将であるスブタイを中国中部から召還して任命した[11]。
ヴォルガ・ブルガールの征服
[編集]1236年春、諸王侯はそれぞれの幕営地を出発し、軍隊を率いてブルガール人の地方の国境上に定められた全軍の集合地へ集結した[12]。将軍スブタイは一部を率いてブルガール地方に入り、この国の首都ブルガル市を掠奪した[12]。敗北したブルガール人の首領たちはモンゴルの諸王侯に忠誠を誓いに行った[12]。彼らはまもなく反旗を翻したが、スブタイによって鎮圧され、ブルガール地方の征服を完了した[12]。
キプチャクの征服
[編集]1237年春、遠征軍は続いてキプチャク族を攻撃した[12]。キプチャクの一部は滅ぼされ、一部は移動し、その他はすべてモンゴル軍に降伏した[12]。キプチャクの首領の一人でバチュマンという者は奇襲して輜重を奪っては姿を消し、森の中へ隠れて絶えずその場所をかえるため、ながらくモンゴル軍を悩ませていた[13]。そこでモンケの弟ブチェクは森ごと包囲することを決意し、モンゴル兵は森の中を走り回って野営地の跡を見つけ、この地に捨てられた病気の老婆からバチュマンがヴォルガ川の川中島に逃げ込んだことを聞き入れた[14]。モンゴル軍は浅瀬を徒渉して島に渡り、キプチャク人を奇襲して粉砕した[14]。バチュマンはモンケの面前に引き出され、自決する許可を乞うたが、モンケはブチェクに命じて身体の中部から切断させた[14]。この他、周辺のフィン系のブルタス人、モルドヴィン人、コーカサス系のチェルケス人、ヴェゾフィナク人、サクスィーン人などの民族も征服した[14]。
ルーシの征服
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1237年11月、遠征軍はウラジーミル・スーズダリ大公国の国境上に現れ、コロムナ公ロマンとリャザン公ユーリー兄弟に対し、帰順してその臣民および財産の10分の1を差し出すよう勧告した[15]。この両公はウラジーミル・スーズダリ大公ユーリー2世に援兵を求めたが、大公は自分の直轄領の防衛に軍隊が必要であるとして断った[15]。ロマンとユーリーはリャザン市に立て籠もったが、モンゴル軍に包囲され、7日間弩砲を浴びせられて陥落した[15]。モンゴル軍は住民を虐殺・略奪・放火し、ユーリー公も殺された[15]。ロマン公はコロムナ市に逃れたが、そこへもモンゴル軍が迫った[15]。ウラジーミル・スーズダリ大公はようやく息子のフセヴォロド・ユーリエヴィチを救援に向かわせ、ロマンと合流させた[15]。しかし、ロマンがコロムナ市を開城して突撃したが戦死したため、フセヴォロドは慌てて逃げだし、ウラジーミルに帰った[15]。モンゴル軍はコロムナを陥落させた後、モスクワも陥落させ、そこの住民は虐殺または捕虜となり、ウラジーミル大公ユーリーの子ウラジーミル・ユーリエヴィチは捕虜となった[15]。この事態にウラジーミル大公ユーリーは援軍を急がせるために首都ウラジーミルをフセヴォロドとムスチスラフに任せてモロガ川に注ぐシティ川のほとりに本営を置き、弟のヤロスラフとスヴァトスラフの軍を待った[16]。
1238年2月2日、モンゴル軍はウラジーミル市の正面に現れ、捕虜のウラジーミル・ユーリエヴィチを城壁の下に立たせて降伏勧告をした[16]。モンゴル軍は一方でスーズダリへ進軍し、これを陥落させて火を放ち、住民を虐殺して一部を奴隷にした[17]。その後、この部隊はウラジーミル攻略に合流した[17]。2月8日、モンゴル軍は城壁をよじ登り、ウラジーミルも陥落させ、虐殺と掠奪・放火をおこなった[17]。ここを守っていたフセヴォロドとムスチスラフ兄弟も殺された[17]。続いてモンゴル軍は2月中にロストフ、トヴェリ、カシン、ヴォーロク、クスニャティンなどの都市を掠奪し、3月にシティ川のほとりにいた大公ユーリーも援軍が来る前に殺された[17]。次にモンゴル軍はノヴゴロド市に向かおうとしたが中止し、バトゥは南に転じてコゼリスクを攻撃して破壊し、コーカサス北部へ向かった[18]。
コーカサス北部の征服
[編集]遠征軍はコーカサス北部地方へ戻り、この地方に住む諸民族の征服を開始した[19]。チェルケス人とクリム人は早々に征服され、キプチャク人の残りをバトゥの弟ベルケが攻撃した[19]。キプチャクの首領の一人コチャン・ハンはガーリチ公ムスチスラフ・ムスチスラヴィチの舅であり、部下の4万戸を率いて避難場所を求めるためにハンガリー王国へ移動した[19]。1238年冬、モンゴル軍はマンガスを包囲し、6週間の末にこれを奪い、翌年(1239年)の春、これに隣接するデルベント地方を征服した[19]。
1239年秋、グユクとモンケは急にオゴデイ・カアンから帰還命令を受けたため戦線を離脱し、2年後に二人がモンゴル高原に到着したころにはオゴデイは崩御していた[19]。
南部ロシアの征服
[編集]続いて遠征軍は再びルーシの地方に入り、チェルニゴフとペレヤスラヴリを掠奪した後、ルーシの首都キエフに向かって進軍した[20]。1240年11月19日、キエフはモンゴル軍によって大部分が破壊され、続いてガーリチ公国も略奪を受けた[20]。この時、ガーリチ公ダヌィーロ・ロマーノヴィチはハンガリーに退却した[20]。
ポーランドの征服
[編集]1240年、遠征軍は100年間空位が続くポーランド王国に侵入し、ルブリン州を掠奪し、戦利品を携えてガーリチに退却した[21]。翌年(1241年)、モンゴル軍は再び侵入し、凍結したウィスラ川を渡り、サンドミェシュを掠奪し、何の抵抗を受けることなくクラクフまで迫った[21]。2月13日、モンゴル軍は戦利品を満載して後退しようとした際、クラクフ州知事のヴウォジミェシュの襲撃に遭い、すぐに蹴散らした[21]。3月、またポーランドに侵入し、サンドミェシュ付近にて二手に分かれ、一方はレンチィツァ州とクヤヴィア州を、もう一方はサンドミェシュ州を掠奪した[21]。3月18日、クラクフ州の貴族たちはスィドロフ市付近でモンゴル軍を攻撃したが敗北し、多数の将校・兵卒が戦士した[21]。サンドミェシュ公ボレスワフ5世はその母と妻クニグンダとともにサンデツ市に近いカルパチア山脈の麓に位置する城に避難し、多数のポーランド人(特に富豪)も彼に倣ってハンガリーまたはドイツ(神聖ローマ帝国)へ避難した[21]。モンゴル軍は無人と化したクラクフに火を放ち、シレジアへ入った[22]。オポーレ=ラチブシュ公のミェシュコ2世オティウィは少数の部下しか持っていなかったので、その従兄ポーランド大公(クラクフ公・首位公)ヘンリク2世が軍を集結していたレグニツァへ退却した[22]。モンゴル軍はシロンスク公国の首都ヴロツワフへまっすぐ進んだが、すでに灰燼に帰していたため、数日間滞在した後、クヤヴィア州を経てレグニツァへ進軍した[22]。
レグニツァの戦い
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1241年4月9日、ヘンリク2世率いるポーランド軍はリグニツァを出発し、ナイス川の流れる平原でモンゴル軍と対峙し、攻撃の合図をした[23]。ポーランド軍は5つの部隊に分かれており、第一隊はボレスワフ率いる十字架を握ったドイツ人とゴルドベルグの鉱山夫の部隊、第二隊はスリスラフ率いるポーランド正規軍とクラクフ人の小部隊、第三隊はオポーレ=ラチブシュ公のミェシュコ2世オティウィの部隊、第四隊はドイツ騎士団の部隊、第五隊はシロンスクとポーランド人の精鋭とドイツ外人部隊からなっていた[22]。対するモンゴル軍を指揮するのはチャガタイの六男バイダルであった[24]。モンゴル軍は故意に後退するとポーランド軍の前衛が軽率にもこれを追撃した[23]。ポーランド軍の騎兵と歩兵が遠ざかったあたりで、モンゴル軍は反転してこれを取り巻いていっせいに矢を放ち、その主将ボレスワフをはじめ第一隊はほとんど戦死した[23]。第二隊と第三隊はこれを救援しようとしたが撃退されて潰走した[23]。ヘンリク2世と第四隊はモンゴル軍に突撃したが、奮闘むなしく敗北を喫した[23]。ヘンリク2世はそこから逃げる途中に殺された[25]。モンゴル軍はヘンリク2世の首を槍の先端に刺してリグニツァの正面で降伏勧告したが、リグニツァはすでに焦土作戦によって焦土と化していたため、しかたなく周辺の地方を荒らしまわった[26]。モンゴル軍はボレスィスコに1週間滞在後、モラヴィアに入り、ボヘミア王国とオーストリア公国の国境に至るまで兵火と流血の巷と化した[26]。
6月24日、バイダルの部隊はボヘミア王国領のモラヴィア州全土を荒廃させ、シュテルンベルグ公ヤロスラフの守るオロモウツ城を襲撃した[27]。バイダルの部隊はこの守備隊を留め置くのが目的だったので、3日後に陣を取り払ってハンガリーへ前進し、バトゥの本隊と合流した[27]。
ハンガリーの征服
[編集]バトゥはポーランドの攻略をバイダルに委ねている間、自らはハンガリー王国へ侵攻した[28]。バトゥは攻撃に先立ち、ハンガリー王ベーラ4世に降伏勧告書を送り付けた[28]。1241年、バトゥはロシア門からハンガリーへ侵入し、やや遅れてバイダルがモラヴィア経由でハンガリー門から侵入し、オゴデイの六男カダアン・オグルとスブタイはモルタヴィア方面から侵入した[29]。バトゥはまっすぐにペシュトへ進み、その途上を兵火と流血の巷と化し、バイダルも周辺の地方を掠奪した[29]。ハンガリー王国内では2年前に入国を許可したコチャン率いるクマン人がモンゴル人を呼び寄せたのではないかという憶測が蔓延し、その首領コチャンは殺され、多くのクマン人が虐殺された[30]。残ったクマン人たちはハンガリー人を撃退しつつ、ブルガリアへ逃亡した[30]。
モヒの戦い
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ハンガリー軍が集結されるなりベーラ4世はペシュトを出発してモンゴル軍に向かって前進した[31]。モンゴル軍はただちに兵力を集中し、もと来た道をゆっくり後退した[31]。ベーラ4世はシャイオ川の西岸のモヒ草原に本営を置き、ここら遠くない一つの橋を千人の兵で守備させた[31]。この川幅が広く、泥土が多いため、橋だけを守備させたのである[31]。しかし、モンゴル軍は夜明けから7つの弩砲(投石機)を備えた砲台を置いてハンガリー軍に弩砲と矢の雨を浴びせた[31]。さらにモンゴル軍は敵陣を包囲し、それに驚いたハンガリー軍は恐怖にかられ、将校たちは大混乱に陥った[31]。この時敵兵に向かって突撃したのはベーラ4世の弟のコロマン公と大司教のウゴリン、神殿騎士修道会長だけであった[31]。ハンガリー軍の大部分は混乱の中死んでいったが、ベーラ4世のみは逃げることができ、カルパチア山脈近くのトロチュ伯爵領へ避難した[32]。そこでたまたまポーランドから避難してきたサンドミェシュ公ボレスワフ5世と出会った[32]。モンゴル軍は敗残兵の追撃から戻り、敵の遺留品をあさっていた時、内大臣の懐から国璽を見つけた[32]。バトゥはこれをもってハンガリー人を欺くことにした[32]。バトゥは捕虜に命じ、ハンガリー国王の名において貴族と民衆に宛てた勅書を書かせた[32]。その中では「自分の住地を離れないようにし、敵を倒せるよう神に祈りなさい」とあった[32]。その後モンゴル軍はペシュトを攻略し、全住民を虐殺したうえ、これに火を放った[33]。バトゥはカダアン・オグルにトランシルヴァニアの攻略と逃走したベーラ4世の追跡を命じた[34]。ベーラ4世はオーストリア公国を経由してクロアチアのアドリア海沿岸のダルマチア地方まで逃れたので、カダアン・オグルは信じられないほどの速さで追跡したが、あと一歩のところで発見できず、セルビア経由でバトゥと合流した[35]。
遠征軍の帰還命令
[編集]1241年12月11日、エステルゴムとサン・マルタン城塞を攻略中のバトゥにモンゴル本国から急使が届き、オゴデイ・カアンが崩御したという知らせと同時に遠征軍の帰還命令がもたらされた[36]。バトゥら諸王侯は数か月間コーカサス北部に滞在し、バトゥの弟シンクルを攻撃したキプチャクの残党を征服した[37]。その後の1243年末から翌年(1244年)にかけて西方遠征軍はモンゴル高原へ帰還した[37]。
グユクの皇帝選挙
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オゴデイ・カアンの崩御後、チャガタイをはじめとする帝国の有力者たちは次の皇帝が決まるまで皇后(カアトゥン)ドレゲネを摂政とした[38]。オゴデイ・カアンは生前、三男クチュの子シレムンを後継者に指名していたが、ドレゲネは自分の子である長男グユクを帝位につけたいと考えていた[38]。
1246年、オゴデイが夏営地としていたクケ・ノール付近の地で皇帝選挙のクリルタイが召集された[39]。この年までクリルタイが開催されなかったのはバトゥによる引き延ばし行為のためであり、彼はドレゲネとグユクをよく思っておらず、足の病だと言って欠席していたのであった[39]。バトゥは帝国皇族の長老であったため、バトゥ不在では皇帝選挙ができなかったが、この時はバトゥが欠席したにもかかわらず開催が決行された[39]。この会議に出席したのはチンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギン、トルイの寡婦ソルコクタニ・ベキ、オゴデイ家、ジョチ家、チャガタイ家の子孫とそのノヤンと首領たち、中国の長官、ペルシア総督のアルグン・アカ、トルキスタン総督のマスウード・ベク、ルーム・セルジューク朝のルクヌッディーン・キリジ・アルスラーン4世、ウラジーミル大公ヤロスラフ2世、グルジア王国のダヴィト6世とダヴィト7世、アレッポの君主の弟、アッバース朝カリフの使節、ニザール派の教主ムハンマド3世、モースルのザンギー朝、ファールスのサルグル朝、ケルマーンのカラヒタイ朝の各使節であり、いずれも見事な貢納品を携えてきた[40]。8月、会議の参加者は摂政ドレゲネの勢力に屈して満場一致でグユクに投票し、グユクは第3代モンゴル帝国の皇帝に即位した[41]。グユクは父オゴデイが使っていた皇帝号「カアン」を使わず、ただの「カン」を名乗った[42]。
プラノ・カルピニが来訪
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皇帝選挙を欠席したバトゥはヴォルガ河畔のサライに首都を定め、カスピ海と黒海の北方地域を支配し、ルーシの諸侯をその属国としたため、彼らは貢納品を献上することが義務付けられた(タタールのくびき)[43]。ルーシ諸侯同士のいざこざや大公の任命権もすべてバトゥの一族が握ることとなった[43]。
1246年3月、グユクの皇帝選挙に出席するため、フランシスコ修道会の宣教師プラノ・カルピニとベネディクトはモンゴル高原へ行く途上、バトゥのオルドに立ち寄った[44]。彼らはバトゥに献上品と旅の目的とローマ教皇から預かった書簡を提出した[45]。バトゥは皇帝選挙の地へ赴くよう告げ、二人は4月8日にバトゥのオルドを出発し、7月22日にモンゴリアの大オルドに到着した[46]。
1247年5月、グユク・カンと謁見した後、ローマ教皇への返書を携えて二人はふたたびバトゥのオルドを訪れた[47]。二人はバトゥにも教皇への返答を求めたが、バトゥは「グユクの書簡中に含まれていること以外回答することはない」と答え、二人をヴェネツィア共和国へ帰した[47]。
グユクの崩御と新皇帝選挙
[編集]1248年4月、グユク・カンはイミル河畔に向かう途中ビシュバリクから7日ほどの地点で崩御した(享年43歳)[48][注釈 2]。グユクが崩御すると、慣例通りに警戒網を敷いて帝位が空白となったことを帝国の主要な首領たちに報告される前に交通を遮断し、旅行者を足止めするかたわら、急使がトルイの正妃ソルコクタニ・ベキとバトゥのもとへ派遣された[50]。アラ・カマク山にいたバトゥはまず慣習に従い、摂政の任務をグユクの后妃の中で位階第一位であるオグルガイミシュに与えると、その場でクリルタイを招集した[50]。オゴデイ家の諸王侯はそこへ行くことを拒絶し、皇帝選挙はモンゴリアで開催されるべきであると反論したうえでカラコルムの知事テムル・ノヤンを代わりに出席させた[50]。会議ではオゴデイ家とジョチ家、トルイ家とで意見が分かれ、オゴデイ家派であるジャライル部の将軍イルチギデイは前回の選挙でオゴデイの子孫がいる限り皇帝権はオゴデイの子孫にあるとする一方、ジョチ・トルイ家派であるクビライはヤサを無視し、裁判を行わないでアルタルンを死刑にしたこと、オゴデイの意志であったシレムンを即位させずにグユクを即位させたことを議題に出し、オゴデイ家を敵視していたバトゥはソルコクタニ妃と連携してその長男であるモンケを推挙した[51]。チンギス・カンの末子相続によりトルイに軍隊の大部分が継承されたことが優位にはたらき、トルイの死後にそのウルスをまとめ上げ、多数の部族を統制し、人望も厚かったソルコクタニ妃の功績も大きく、ゆえにジョチ家のバトゥも彼女を尊敬していたためトルイ家になびいたのである[52]。
将軍のモンケセルはモンケを最初に帝位につかせようと提案した人物で、モンケが父トルイに従って中国において戦い、バトゥのもとで西方で戦った輝かしい功績を挙げて推薦したが、諸王侯は最長老であるバトゥをまず推挙した[53]。しかし、バトゥはこれを辞退したため、諸王侯はバトゥが指名する人物を皇帝にすることに同意した[53]。そこでバトゥが推挙したのがモンケであり、バトゥはチンギス・カンのヤサに精通している者でなければならないとし、モンケを指名した[53]。しかし、モンケもまたこれを辞退し、会議は数日間も長引いた[53]。そこでモンケの弟のモゲは「われわれは皆バトゥの判断に従うことを約束した。それにモンケが身勝手に従わないのならば、他の者も将来同様の例を利用するかもしれない」と言い、モンケはそれに心を打たれてようやく受諾した[53]。一同は慣例に従って新皇帝となる人物に敬礼し、バトゥは彼に杯を捧げた[53]。
クリルタイは翌年(1249年)春にも開催され、今度はオノン川、ケルレン川に近いチンギス・カンの旧直轄地において行われた[53]。この会議では諸王侯と軍の首領たち全体にモンケを承認させ、それまでの間はオグルガイミシュに摂政の任を継続してもらうよう布告した[53]。この頃のオグルガイミシュはその息子ホージャ・オグルとナグとで摂政業務を分担していたが、その仕事は各州に対する約束手形を振り出してあらかじめ国庫の歳入を処分することだけであった[53]。さらにオグルガイミシュはカム(巫術師)による妖術にハマり、室内にこもりきりで帝国は無政府状態となっていた[53]。ホージャ・オグルとナグはオゴデイ家の代表としてクリルタイに出席し、モンケの選挙に同意したテムル・ノヤンを非難するとともに、バトゥに書をしたため、チンギス・カンの郷土から離れた場所でクリルタイを開催したこと、不完全な状態で決定したことに同意できないと伝えた[54]。対してバトゥは新たなクリルタイに参加するよう勧めるとともに、参集した諸王侯は新皇帝に最もふさわしい人物を選択したのであり、この決定は撤回できないことを伝えた[54]。その後も何度も両者間で使者のやり取りがあったものの、何の進展がなかったため、バトゥは弟ベルケとトカ・テムルに多数の軍隊を率いさせてモンケに随行させ、ケルレン河畔まで赴かせた[54]。しかし、この会議にオゴデイ家とチャガタイ家は出席せず、モンケの選挙は不当であり、帝位はオゴデイ家にあるとした[54]。ベルケは1年の猶予をしたのち、バトゥに命令を仰ぐと、バトゥはもはや遅滞することはくモンケを即位させるよう命じ、国家を乱す者はその首を犠牲にすることになるだろうと明言した[55]。
モンケの即位
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ジョチ家、トルイ家、ジョチ・カサル家、カチウン家、オッチギン家らはクイトン・オラの地に参集し、オゴデイ家、チャガタイ家に最後通告を行った[55]。このときオゴデイ家のシレムン、ホージャ・オグル、ナグは来会することを約束したが、期日になっても来なかったので、ついに占星学者に即位日を指定させ、1251年7月1日[注釈 3]に即位式が決行されると、モンケは第4代の皇帝(カアン)に即位した[55]。時にモンケは43歳であった[54]。諸王侯がその帯を肩に投げかけ、9回膝を曲げて敬礼した瞬間に皇帝の天幕の周りに整列していた1万の将士もこれにならった[54]。モンケは最初の命令として、この日は労働や喧嘩をやめ、歓楽にふけるようにし、馬に乗ることも、駄獣に荷物を積むこと、動物を殺すこと、狩猟すること、魚を捕ること、地面を掘ること、水を汚すことを禁止した[57]。翌日モンケは豪華な毛氈を張り巡らした壮麗な天幕の中で盛大な宴を催し、玉座の右には皇族の諸王侯が、左には王妃たちがそれぞれ着座し、モンケの兄弟7人はその前に立ち、将軍とノヤンたちはモンケセルを筆頭に整列し、文官、書記、代官、侍従らはその主席のボルガイ・アカを先頭に式部官の指定した席を占め、天幕の外には将校と兵士たちが武装をして列席していた[58]。この宴は1週間にわたって続けられ、クリルタイの参加者は毎日色違いの衣服を身に着け、牛馬300頭、羊3000頭、葡萄酒とクミーズ2000車の分量が消費された[58]。
この宴会中にオゴデイ家のシレムン、ナグ、クトクの命令で、クリルタイを妨害する動きがあったため、モンケセルは軍隊を率いてその者たち20人以上を捕らえ、その首謀者である3人の王侯をモンケ自らが審問した[59]。3人の王侯が否認したので、続いてシレムンの後見人を棒で打って拷問すると、自白したが間もなく自害した[59]。モンケは3人の王侯の処分に迷い、優柔不断のあまり、左右の者たちにその処遇の意見を聞いた[59]。大官たちの意見はどれもモンケの心に感銘を与えるものはなかったが、一人マフムード・ヤラワーチュがアレクサンドロス大王の故事を引用して意見を述べると、たちまちモンケは心を打たたれて拘留している77人の将校たちを処刑することができた[60]。のちにそれに関与していたペルシアの司令官で将軍のイルチギデイはホラーサーンのバードギース地区で逮捕され、バトゥによって処刑された[60]。
オグルガイミシュを処刑
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1252年8月、モンケはカラコルムに赴き、モンケ即位に反対していた諸王侯の処分を決定した[61]。その筆頭でグユクの皇后オグルガイミシュとシレムンの母はモンケの幕営に連行され、ソルコクタニの幕営地に移されると、そこでモンケセルによって衣服をはがされて全裸で尋問された[61]。判決は妖術を使ってモンケ・カアンの生命に危害を加えたとして有罪となり、毛氈に包まれて溺死の刑に処された[61]。オグルガイミシュの顧問の中で主要な地位にあったカダクとチンカイは死刑に処され、チャガタイの孫ブリはバトゥのもとで死刑となった[62]。モンケは親族のつながりに免じてホージャ・オグル、ナク、シレムンに特赦を与え、その他の王侯からは相続した軍隊を没収し、自分の軍隊に分配した[62]。例外的にオゴデイの次男コデン、六男カダアン・オグル、七男メリクは快く忠誠を誓いに来たので、恩赦によって軍隊を没収せず、オゴデイのオルドと寡婦と分配してやった[62]。
ウィリアム・ルブルックの来訪
[編集]1253年末、フランス国王ルイ9世の書簡を携えた2人のヨーロッパ修道士がモンケの宮廷に到着した[63]。はじめ、ウィリアム・ルブルック修道士はクレモナのバーソロミューという修道士とともにパレスチナを出発し、コンスタンティノープル経由でバトゥの子サルタクの幕営に訪れ、その次にバトゥのオルドに訪れ、12月にカラコルムの南方数日ほどの距離にいたモンケのオルドに到着した[64]。二人は旅行の目的をモンケの官吏に伝えたが、官吏はフランスの降伏の申し入れだと思い込んだままだった[64]。彼らの目的はイエズス会の布教であり、フランス王の使節ではなく宣教師であることを何度も伝えた[64]。
1254年1月、二人はモンケ・カアンに謁見することを許された[65]。この時のモンケは小さなしとねの上に座り、アザラシの皮のような毛皮の豪華な服を着ていたという[65]。モンケは葡萄酒、米から作った酒(テラシン)、クミーズ、蜂蜜から作った酒(バル)のどれが良いかを尋ねると、「陛下の下賜されたものなら何でも」と言うのでテラシンをふるまった[66]。二人の修道士は旅の目的を伝えるとモンケから2か月間の滞在を許可された[67]。ある時モンケはルブルックに「宮廷にいるすべての人々は唯一にして永遠なる同一の神を崇拝するから、おのおの自分のやり方で神を礼拝する自由を持たねばならない」と述べた[68]。モンケはキリスト教、イスラム教、仏教、各派の人々にあまねく恩恵を施したので、各自は自分の宗教が優遇されていると信じていた[69]。
モンケの宮廷に5か月間も滞在したのち、ルブルックは出発の準備をした[70]。モンケは彼にフランス王に対する回答の書簡を託し、別れを告げた[71]。ルブルックは1254年7月に出発し、バトゥの宮廷を経由してカフカスを通ってカッパドキアのカイサリア、イコニウムを経てサンジャン・ダクル修道院に帰り、ルイ9世に旅の記録を報告した[72]。
キリキア・アルメニア国王ヘトゥム1世の入朝
[編集]1254年、キリキア・アルメニア王国のヘトゥム1世自ら本国を出発してデルベンド街道からバトゥとサルタクのオルドに行き、9月にモンケの宮廷に到着すると、特別な厚遇を受けた[73]。50日の滞在ののち、11月に宮廷を去ったが、この際王国授与の特許状と、キリキア・アルメニア王国に課せられた貢賦の減額、聖職者に対する課税の免除を保証した勅書を授けられた[73]。ヘトゥム1世はビシュバリク、アルマリク、アム川、ペルシアを経て1255年7月に帰国した[73]。
死去
[編集]1256年[注釈 4]、ヴォルガ河畔でバトゥは死去した(享年48)[74]。彼はサイン・カン(Sāyin khān/Sain qan)と称されたが、これは「善良なるカン」という意味である[74]。
バトゥが死去する前、春にモンケが第2回のクリルタイを開催していたため、嫡子のサルタクがこのクリルタイに派遣されていた[3]。訃報はただちにモンケの宮廷に伝えられ、モンケはサルタクをバトゥの後継者に任命した[75]。しかしながらサルタクはジョチ・ウルスへ帰還中に病没し、さらにモンケがその後継者に追認した末弟のウラクチもその半年後に夭折したため、最終的にはバトゥの次弟のベルケが継いだ[75]。
宗室
[編集]父母
[編集]- 父 ジョチ
- 母 オキ・フジン
兄弟
[編集]后妃
[編集]- ボラクチン・ハトゥン
- ベキ・ハトゥン
子
[編集]系図
[編集]ジョチから大オルダまでの系図
映画に登場するバトゥの描写
[編集]2017年のロシア映画『フューリアス 双剣の戦士』に登場するバトゥは、ローマ教皇遣使プラノ・カルピニの記述通り、服従したり協力的な民には慈悲深く、反抗的な民には情け容赦無い人物として描写されている。主人公コロヴラートが住んでいるリャザン公国が、15万ものバトゥの大軍に包囲され、コロヴラートは大公と共にバトゥの陣営を訪問し、停戦交渉を行う。バトゥは、モンゴル帝国に服従するなら、リャザン公国の住民を保護し、さらに危機が迫れば、リャザンに食料や兵力を提供することを約束する。だが、その宴席でコロヴラートは、バトゥ軍に抵抗し、奴隷のように扱われているロシア人を見つけ激昂しモンゴル兵を殺して脱出させる。バトゥは、降伏拒否したと判断し、リャザンに総攻撃を開始する。コロヴラートはリャザンが滅亡したあとも、生き残りの数人を率いてバトゥ軍を追撃しゲリラ戦を仕掛ける。バトゥ軍との最終決戦でコロヴラート1人になるまで戦うが、ついに敗れバトゥの足元で息絶える。この時にバトゥが「英雄にふさわしい敬意をもって、この者を埋葬せよ」と兵士に命令して、映画は終わる。
2018年のウクライナ映画『グラディウス 希望への奪還』にもバトゥが登場している。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ バトゥが青帳汗(Kök Orda)、長兄のオルダが白帳汗(Aq Orda)を任じて、それぞれジョチ・ウルスの右翼(西部)・左翼(東部)の統治を分担した。13-14世紀のモンゴル帝国時代にはこのような記録は見えず、赤坂恒明によれば、これはバトゥ家が断絶した後、ジョチ・ウルスが青帳(キョク・オルダ、Kök Orda)、白帳(アク・オルダ、Aq Orda)に政治的に分かれていたとする後代の年代記やロシア側の資料などの記述を、バトゥの時代に溯及して論じたものであろうとしている[2]。
- ↑ バトゥが刺客を放って暗殺したとも言われている[49]
- ↑ 『世界征服者の歴史』では7月1日だが、『集史』では1,2月としている。[56]
- ↑ 『集史』『ムイッズ・アル=アンサーブ』ではバトゥ他界の年をヒジュラ暦560年(1252年 - 1253年)としているが、『タリーフ・イ・キプチャク・ハーニー』『タリーフ・イ・ミュネッジム・バーシー』ではヒジュラ暦654年(1256年)としており、ウィリアム・ルブルックとヘトゥム1世が1254年にバトゥと会っていることを考えて、この方が正確であるとされる[74]。
出典
[編集]- ↑ 佐口 1968, p. 348-349.
- ↑ 赤坂 2005, p. 293-305.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 349.
- ↑ 佐口 1968, p. 57.
- ↑ 佐口 1968, p. 59.
- ↑ 佐口 1968, p. 62.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 63.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 64.
- 1 2 佐口 1968, p. 104.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 105.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 150.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1968, p. 151.
- ↑ 佐口 1968, p. 151-152.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 152.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 佐口 1968, p. 154.
- 1 2 佐口 1968, p. 155.
- 1 2 3 4 5 佐口 1968, p. 156.
- ↑ 佐口 1968, p. 158.
- 1 2 3 4 5 佐口 1968, p. 159.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 161.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1968, p. 163.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 164.
- 1 2 3 4 5 佐口 1968, p. 166.
- ↑ 佐口 1968, p. 165.
- ↑ 佐口 1968, p. 167.
- 1 2 佐口 1968, p. 169.
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- 1 2 佐口 1968, p. 172.
- 1 2 佐口 1968, p. 177.
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- 1 2 3 4 5 6 7 佐口 1968, p. 180.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1968, p. 183.
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- 1 2 3 佐口 1968, p. 288.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 289.
- ↑ 佐口 1968, p. 301.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 308.
- 1 2 佐口 1968, p. 309.
- ↑ 佐口 1968, p. 310.
- ↑ 佐口 1968, p. 312.
- ↑ 佐口 1968, p. 315.
- ↑ 佐口 1968, p. 316.
- ↑ 佐口 1968, p. 320.
- ↑ 佐口 1968, p. 321.
- ↑ 佐口 1968, p. 324.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 326.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 348.
- 1 2 佐口 1968, p. 350.
参考資料
[編集]- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。
- 杉山正明『疾駆する草原の征服者』講談社〈講談社学術文庫 2658〉、2005年10月20日。ISBN 978-4065223109。
一次資料
[編集]- 北川誠一「ジョチ・ウルスの研究 1『ジョチ・ハン紀』訳文 1」『ペルシャ語古写本史料精査によるモンゴル帝国諸王家に関する総合的研究』、平成7年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書、1996年3月、67-90頁。
- 北川誠一「ジョチ・ウルスの研究 2『ジョチ・ハン紀』訳文 2」『史朋』第30巻、1998年3月、1-13頁。
- カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』護雅夫訳、桃源社〈東西交渉旅行記全集 1〉、1965年4月。ISBN 978-4062923743。
- レーベヂェフ『ロシヤ年代記』除村吉太郎訳、弘文堂〈ユーラシア叢書〉、1946年。ISBN 978-4562006311。
- 中村喜和編訳『ロシア中世物語集』筑摩書房〈筑摩叢書 168〉、1970年6月。ISBN 978-4480011688。
関連論文・書籍
[編集]関連項目
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