カダアン・オグル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カダアン・オグルモンゴル語: Qada'an oγul中国語: 合丹、生没年不詳)は、チンギス・カンの子のオゴデイの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では合丹、『集史』などのペルシア語史料ではقدان اغور(Qadān āghūr)と記される。

オグル(oγul)はテュルク諸語で「王子」の意[1]

概要[編集]

カダアン・オグルはオゴデイの六男として生まれた[2]。『集史』「オゴデイ・カアン紀」によると側室のエルゲネより生まれ、幼い頃はチャガタイオルドで養育されたという[2]

オゴデイ家では長男のグユクを筆頭にトルイ家と確執があり、オゴデイ死後には帝位を巡ってオゴデイ家とトルイ家の間で政争が繰り広げられた。しかしカダアンとコデン家のみはトルイ家のモンケが即位するのに協力し、他のオゴデイ王家が報復人事を受けたのに対し、結果としてその地位を保った。『元史』によると、モンケの即位後カダアンのウルスビシュバリク方面に置かれていたという[3][4]。オゴデイ家の中でもモンケ派にまわったカダアン・ウルスとコデン・ウルスはオゴデイ・ウルスの中でも東方に位置しており、この時オゴデイ・ウルスは西方の反トルイ派と東方の親トルイ派に分裂していたと言える[5]

モンケ・カアンによる南宋親征が始まると、カダアンはカラチャル家のトタクとともにオゴデイ家を代表してモンケ軍に加わったが、モンケ・カアンは遠征先で病没してしまった[6]。モンケ・カアンの死後、再び帝位を巡ってクビライアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、カダアンはクビライ派についた。1260年の上都クリルタイではほとんどの参加者が「左手の五投下」「東道諸王」といった左翼の有力者ばかりであった中で、チャガタイ家のアジキとともに数少ない右翼諸王出身者としてクビライを推戴した[7]郝経賈似道にあてた書簡でクビライ派の主要人物としてカダアン(合丹)大王、モゲ(摩歌)大王、タガチャル(塔察)国王ら3名の名を挙げ、カダアンは「先帝の終わるるや、率先して[クビライを]推戴し」たと述べている[8]

帝位継承戦争において、カダアンはクビライ派の左翼軍として、西方戦線で活躍した。西方戦線における戦闘はアリクブケの有力者の一人アラムダールが軍を率いて南下し、河西地方のコデン・ウルスに大打撃を与え、河西一帯を占領したことより始まった[9]。アラムダールの活躍にクビライ派の中では一時河西地方を放棄する案も出たが、最終的にはクビライの命によりカダアンを長とする軍勢をアラムダール討伐のため西方へ派遣することが決まった。カダアンの軍勢は陝西方面に権益を持つオングト部の汪良臣アンチュルらと合流し、最終的にカダアン、バチン(八春、Bačin)、汪良臣の3名がそれぞれ軍団を率いてアラムダール軍に相対した。

カダアン軍とアラムダール軍が対峙したのは非常に風の強い日だったため、汪良臣は軍士に命じて馬を下り刀剣を用いて攻撃させ、汪良臣手ずから敵兵を数十人斬る奮戦ぶりもあってアラムダール軍は劣勢に陥った。更にカダアン軍はアラムダール軍の逃走経路に待ち伏せてこれを大いに破り、遂に主将たるアラムダール・クンドゥカイを殺害した[10][11]。『集史』ではアラムダールを殺害したのはカダアン・オグルであると明記する[2]

帝位継承戦争以後、カダアンは史料上に現れることが少なくなり間もなく亡くなったものと見られる。

カダアン王家[編集]

カダアンは他のオゴデイ王家とは違いトルイ家に接近することで地位を保つことに成功したが、その息子達は逆に他のオゴデイ王家と協力する道を選んでいった。

カダアンの息子の一人、キプチャクはオゴデイ系カシン家のカイドゥとチャガタイ家のバラクの同盟関係構築を仲介し、後のカイドゥ・ウルス成立に大きな役割を果たした。また、別の息子のイェスン・トゥアはイドゥ・ウルスに身を寄せていたが、カイシャン(後の武宗クルク・カアン)の攻撃によりアルタイ山脈方面で大元ウルスに降伏している。

大元ウルスに降伏後、カダアン・ウルス当主の座は隴王コランサ(Qorangsa、火郎撒)に引き継がれ、領地は河西方面に置かれたものと見られる[12]

子孫[編集]

カダアンの子孫に関しては『元史』に代表される東方の漢文史料と『集史』に代表される西方のペルシア語史料では記述が異なる。

まず、『集史』は「カダアンの息子は7人」であると明記した上で、ドルジ(دورجی/Dūrjī)、イェスル(ییسور/Yīsūr)、キプチャク(قبچاق/Qibchāq)、カダアン・ウブク(قدان اوبوک/Qadān ūbūk)、クルムシ(قورمشی/Qūrmshī)、イェイェ(ییه/Yeye)、アジキ(اجیقی/Ajīqī)という7人の息子の名前を挙げる。また、『集史』の系図を増補した『五族譜』ではアジキを除いてエブゲン(ابوکانAbūkān)という名前を載せる。一方、『元史』「宗室世系表」はドルジ(覩爾赤/dǔěrchì)王、エブゲン(也不干/yěbúgān)大王、イェスル(也速児/yěsùér)大王、イェスン・トゥア(也孫脱/yěsūntuō)大王、コニチ(火你/huǒnǐ)大王という5人の息子の名前を挙げる。

ドルジ(Dorǰi=دورجی/Dūrjī=覩爾赤/dǔěrchì)・イェスル(Yesür=ییسور/Yīsūr=也速児/yěsùér)・エブゲン(Ebügen=ابوکانAbūkān=也不干/yěbúgān)については名前が一致するが、残りの息子たちが同一人物の別名なのか、全くの別人なのかは不明である。

また、高昌故城から出土し、現在はロシア科学アカデミーに所蔵されるウイグル語文書の一つには「コルムチ王子(Qorumči oγul)」という人物の名前が挙げられている。この文書が作成されたのは「羊年(=己未1259年=憲宗モンケの9年)」であること、高昌からほど近いビシュバリクがカダアンの勢力圏であったことなどから、この「コルムチ王子」はカダアンの息子のクルムシ(قورمشی/Qūrmshī)に比定されている[13]

  • オゴデイ・カアン(Ögödei Qa'an >窩闊台,اوگتاى قاآن/Ūgtāī Qā'ān)
    • カダアン・オグル(Qada'an oγul >合丹/hédān,قدان اغور/Qadān āghūr)
      • ドルジ王(Dorǰi >覩爾赤/dǔěrchì,دورجی/Dūrjī)
        • ソセ大王(Söse >小薛/xiǎoxuē,سوسه/Sūse)
          • シンギバル大王(Singgibal >星吉班/xīngjíbān)
        • アスキバ(Askiba >اسکبه/Askiba)
      • イェスル大王(Yesür >也速児/yěsùér,ییسور/Yīsūr)
      • キプチャク(Qibčaq >قبچاق/Qibchāq)
        • クリル(Quril >قوریل/Qūrīl)
      • カダアン・ウブク(Qada'an ubuk >قدان اوبوک/Qadān ūbūk)
      • クルムシ・オグル(Qurmši oγul >قورمشی/Qūrmshī)
      • イェイェ(Yeye >ییه/Yeye)
        • オルク・テムル(Örük temür >اورک تیمور/Ūrk tīmūr)
        • イス・テムル(Yiš temür >ایش تیمور/Yīsh tīmūr)
      • エブゲン大王(Ebügen >也不干/yěbúgān,ابوکانAbūkān)
        • 隴王コランサ(Qorangsa >火郎撒/huǒlángsā)
      • イェスン・トゥア大王(Yesün tu'a,也孫脱/yěsūntuō)
      • コニチ大王(Qoniči >火你/huǒnǐ)
        • ヨウジュ大王(Yoǰu >咬住/yǎozhù)
        • ノカイ大王(Noqai >那海/nàhǎi)

[14]

脚注[編集]

  1. ^ 杉山2004,236頁
  2. ^ a b c 松田1996,31頁
  3. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「二年壬子……夏、駐蹕和林。分遷諸王於各所、合丹於別石八里地……」
  4. ^ 村岡2012,23-24頁
  5. ^ 杉山2004,311頁
  6. ^ 杉山2004,64/75-76頁
  7. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「中統元年春三月戊辰朔、車駕至開平。親王合丹・阿只吉率西道諸王、塔察児・也先哥・忽剌忽児・爪都率東道諸王、皆来会、与諸大臣勧進」
  8. ^ 杉山2004,106-107頁
  9. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「中統元年……是月(九月)、阿藍答児率兵至西涼府、与渾都海軍合、詔諸王合丹・合必赤与総帥汪良臣等率師討之。丙戌、大敗其軍於姑臧、斬阿藍答児及渾都海、西土悉平」
  10. ^ 『元史』巻126廉希憲伝,「渾都海聞京兆有備、遂西渡河、趨甘州、阿藍答児復自和林提兵与之合、分結隴・蜀諸将、又使紐璘兄宿敦為書招紐璘。……渾都海・阿藍答児合軍而東、諸将失利、河右大震、西土親王執畢帖木児輜重皆空、就食秦雍。朝議欲棄両川、退守興元、希憲力言不可、乃止。会親王合丹及汪惟良・八春等合兵復戦西涼、大敗之、俘斬略尽、得二叛首以送、梟之京兆市」
  11. ^ 『元史』巻159商挺伝,「丁巳、憲宗命阿藍答児会計河南・陝右。……中統元年夏五月、至京兆。哈剌不花者、征蜀時名将也、渾都海嘗為之副、時駐六盤山、以兵応阿里不哥……。六盤之兵既北、而阿藍答児自和林引兵南来、与哈剌不花・渾都海遇於甘州。哈剌不花以語不合、引其兵北去,阿藍答児遂与渾都海合軍而南。時諸王合丹率騎兵与八春・汪良臣兵合、乃分為三道以拒之。既陣、大風吹沙、良臣令軍士下馬、以短兵突其左、繞出陣後、潰其右而出、八春直搗其前、合丹勒精騎邀其帰路、大戦於甘州東、殺阿藍答児・渾都海」
  12. ^ 村岡1992,40-41頁
  13. ^ 松井2015,65-66頁
  14. ^ 松田1996,39-40頁

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松井太「古ウイグル語行政命令文書に「みえない」ヤルリグ」『人文社会論叢. 人文科学篇』第33号、弘前大学人文学部、2015年、55-81頁、ISSN 1344-6061NAID 120005553893 
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 新元史』巻111列伝8