クマン人
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| Polovtsi/Polovtsy | |
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クマン・キプチャク連合の領域(1200年頃) | |
| 居住地域 | |
| クマニア | |
| 言語 | |
| クマン語 | |
| 宗教 | |
| シャーマニズム、天上神など | |
| 関連する民族 | |
| キプチャク人、タタール人、ノガイ人、バシキール人、カザフ人、キルギス人、南アルタイ人、ペチェネグ人 |
クマン人(Cumans、ロシア語:Polovtsians、またはPolovtsy)[1]は、クマン・キプチャク連合の西部支部を構成したテュルク系民族である[2][3][4][5]。クン人、コマン人とも呼ばれる。民族名の由来はクマ川、あるいはクバン川とクバン地方などから(下記も参照)。
概要
[編集]ペチェネグ人の近縁とされる[6]。黒海の北方にあるクマニア(キプチャク草原)として知られるヴォルガ川沿いの変化する地域に住み、そこで同じテュルク系キプチャク人と共にクマン・キプチャク連合を結成した。彼らはコーカサス周辺諸国とテュルク系ホラズム帝国の政治に干渉した[7]。クマン人は、中世のバルカン半島に永続的な影響を及ぼしたユーラシアステップの猛烈果敢で手強い遊牧民集団であった[8][9]。多人数の集団で、文化的に洗練されており、軍事的に強力であった[10]。
チュルク語において、qu、qun、qūn、quman、qomanなどの単語は、黄色系統の色を指しており、「淡いクリーム色」、「淡い黄色」、または「黄色がかった灰色」の意味となる。この単語が民族名となった理由としては、以下の説がある[11][12]。
- クマン人には金髪・碧眼が多かったために、コーカソイドの特徴を持った種族とする説があり、これが最有力の説とされる(ただし、クマン人は多種族の集団だったため、黒髪・黒眼の一派(モンゴロイド)も存在した)。
- クマン人が乗っていた馬の色に由来する説。アハルテケなどの中央アジアに産する馬の品種では、白に近い黄色が見られる。
- クマン人が持っていた伝統的な水瓶の名に由来する説。
- 「力」を表すチュルク語に由来する説。
多くのクマン人が、キプチャク人と共に最終的に黒海の西方に定住し、ジョチ・ウルスをはじめ、キエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、第二次ブルガリア帝国、セルビア王国、ハンガリー王国、モルダビア、グルジア王国、東ローマ帝国、ニカイア帝国、ラテン帝国、ワラキア等々の政治に、クマン人が影響を与えた[13]。クマン人はまた、第4回十字軍と、第二次ブルガリア帝国の創設において重要な役割を果たし[7][14]、積極的に政治の参加をした[10]。ハンガリー王のラースロー4世の母のエルジェーベトは、ハンガリーに移住したクマン人の族長のケテニュの娘である。また、クマン人のオルブルリク(オルベルリ)部族の族長のバチュマンは、遠征したモンゴル帝国の総司令官のバトゥの従兄である副司令官のモンケを迎え撃った。彼は、ヴォルガ川付近の森林の奥の中に潜伏しながら、ゲリラ奇襲の指揮を繰り返して、モンケ率いるモンゴル軍を散々に苦しめるなどの激戦の末に、追い詰められたバチュマンはヴォルガ川の中洲で捕虜となって、モンケの目前に引き出されて、彼は自害を乞うが、許されずにそのまま処刑された。
クマン語は、キプチャク諸語とは親近関係にあり、いくつかの中世の文書で証明されており、初期のチュルク語の中で最もよく知られている[5]。 Codex Cumanicusは、カトリックの宣教師がクマンの人々とコミュニケーションをとるのを助けるために書かれた言語マニュアルである。
脚注
[編集]- ↑ “Polovtsy | Meaning of Polovtsy by Lexico”. 2020年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月25日閲覧。
- ↑ Encyclopædia Britannica Online Cuman Archived 2015-06-14 at the Wayback Machine.
- ↑ Robert Lee Wolff: "The 'Second Bulgarian Empire'. Its Origin and History to 1204". Speculum, Volume 24, Issue 2 (April 1949), 179. "Thereafter, the influx of Pechenegs and Cumans turned Bulgaria into a battleground between Byzantium and these Turkish tribes ..."
- ↑ Bartusis, Mark C. (1997). The Late Byzantine Army: Arms and Society, 1204–1453. University of Pennsylvania Press. pp. 26–27. ISBN 978-0-8122-1620-2
- 1 2 Spinei, Victor (2009). The Romanians and the Turkic Nomads North of the Danube Delta from the Tenth to the Mid-Thirteenth Century. Leiden: Brill. ISBN 978-9004175365. オリジナルの2016-12-07時点におけるアーカイブ。 2015年10月19日閲覧。
- ↑ “Cumans”. Encyclopediaofukraine.com. 2011年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月13日閲覧。
- 1 2 Vásáry, István (2005). Cumans and Tatars Oriental Military in the Pre-Ottoman Balkans 1185–1365. Cambridge University Press. ISBN 978-0-5218-3756-9
- ↑ Bartlett, W. B. (2012). The Mongols: From Genghis Khan to Tamerlane. Amberley Publishing Limited. ISBN 978-1-4456-0791-7
- ↑ Prawdin, Michael (1940). The Mongol Empire: Its Rise and Legacy. Transaction Publishers. pp. 212–15. ISBN 978-1-4128-2897-0. オリジナルの8 January 2016時点におけるアーカイブ。 2015年6月14日閲覧。
- 1 2 Nicolle, David; Shpakovsky, Victor (2001). Kalka River 1223: Genghiz Khan's Mongols Invade Russia. Osprey Publishing. ISBN 978-1-84176-233-3
- ↑ Boĭkova, Elena Vladimirovna; Rybakov, R. B. (2006). Kinship in the Altaic World. Otto Harrassowitz Verlag. ISBN 978-3-4470-5416-4
- ↑ Khazanov, Anatoly M.; Wink, André, eds (2001). Nomads in the Sedentary World. Psychology Press. p. 44. ISBN 978-0-7007-1370-7
- ↑ Sinor, Sinor, ed (1990). The Cambridge History of Early Inner Asia, Volume 1. Cambridge University Press. ISBN 978-0-5212-4304-9
- ↑ Grumeza, Ion (4 August 2010). The Roots of Balkanization: Eastern Europe C.E. 500–1500. University Press of America. ISBN 978-0-7618-5135-6. オリジナルの8 January 2016時点におけるアーカイブ。 2015年10月19日閲覧。