トダ・モンケ
| トダ・モンケ Tödä-Möngke | |
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ジョチ・ウルス第7代当主 第6代ハン | |
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トダ・モンケとジョチ・ウルスの戦士たちを率いる様子を描いたムガル絵画(1596年) | |
| 在位 | 1280年 - 1287年 |
| 死去 |
1287年 |
| 配偶者 | アルカチ・ハトゥン |
| アルチ・ハトゥン | |
| トレ・クトルグ | |
| 子女 | ウズ・モンケ、チェチェクトゥ、トベデイ |
| 家名 | ボルジギン氏 (ジョチ家) |
| 父親 | トクカン |
| 母親 | クチュ・ハトゥン |
トダ・モンケ(Tödä-Möngke、Töde-Mängü、生没年不詳)は、ジョチ・ウルスの第7代当主(ハン、在位:1280年 - 1287年)。バトゥの次男のトクカンの三男にあたり、先代のモンケ・テムルの同母弟である。中世モンゴル語発音ではトデ・モンケ。漢語資料では脱脱蒙哥、脱脱忙哥と表記され、ペルシア語資料ではトゥーダー・ムーンカ(تودا مونككه Tūdā Mūnkka)と表記されている。
生涯
[編集]生まれ
[編集]彼とモンケ・テムルの母はオイラト部族のクチュ・ハトゥンである。クチュ・ハトゥンの父はチンギス・カンに帰順したオイラト部族の首長のクドカ・ベキの子のトレルチという人物であった。クチュ・ハトゥンには他に姉妹がおり、モンケ・カアンの第二正妃(カアトゥン)で大カアトゥンと称されていたオグルガイミシュ皇后(グユクの妃のオグルガイミシュとは別人)と、フレグの第4正妃であったオルジェイ・ハトゥンが知られている。
即位
[編集]1280年、モンケ・テムル・ハンが咽喉部にできた腫瘍を自ら破って死去したため、弟のトダ・モンケが後を継いで第7代当主となり、カン(ハン)となった[1]。モンケ・テムル・ハンには9人の子[注釈 1]がいたが、その遺言により、トダ・モンケがカン位を継承した[1][2]。
廃位
[編集]1287年、トダ・モンケはこれまでの君主同様、イスラーム教を信奉したが、宗教的な実践(祈りや修行)ばかりに専念し、政治をほとんど行わなかったため、親族の4人の有力者であるオルグイ[注釈 2]、トグリルジャ[注釈 3]、クンジュク(ゴンチェク)・ブカ[注釈 4]、トレ・ブカ[注釈 5]によって無能者と判断されて廃位された[1]。トダ・モンケは非常に敬虔な人物であったが、国政に携わらず、まわりにシャイフとファキール[注釈 6]たちを集め、厳粛な斎戒を遵守した[4]。彼は4人の有力者から国家には政務をよくする君主が必要であると聞かされてカン位をトレ・ブカに譲った[4]。
系図
[編集]ジョチから大オルダまでの系図
トダ・モンケの貨幣
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考資料
[編集]- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 6巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫365〉、1979年11月。ISBN 4582803652。
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