ブルガール (都市)

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再建前の丘の城砦(19世紀のリトグラフ)
丘の城砦の全景
丘の城砦の宗教建造物群

ブルガール (タタール語: Болгар, チュヴァシュ語: Пăлхар) は、西暦8世紀から15世紀の間、ビリャル英語版などとともに断続的にヴォルガ・ブルガールの首都となった都市である。現在のロシア連邦タタールスタン共和国スパッスク地区英語版に存在したヴォルガ川沿岸の都市で、ヴォルガ川とカマ川の合流点から下流に約30 km、現在のカザンからは約130 km に位置していた。その遺跡は現在ではボルガル遺跡と呼ばれており、その西にある小さな町も1991年以降ボルガルと呼ばれている[1]。ボルガル遺跡は2014年にUNESCO世界遺産リストに登録された[2]

歴史[編集]

この都市は8世紀にはヴォルガ・ブルガールの首都となったという説がある[2][注釈 1]。ヴォルガ川沿いではロシア人の侵攻が頻繁に起こっており、多くの犠牲を出した戦いのせいで、ヴォルガ・ブルガールの王たちはビリャルへの遷都を断続的に強いられた。ビリャルがモンゴルの侵攻によって破壊されると、より古いこの都市はジョチ・ウルスの最初の首都となった[3]。モンゴルに支配されていた時期に、ブルガールは莫大な富、多くの壮大な建物を備え、規模の面で十倍に成長した。

トクタミシュティムール間の戦争(トクタミシュ=ティムール戦争英語版)はブルガールの際立った没落を示すものとなった。ブルガールは、ティムールの脅威にさらされていたBulaq-Temirによって掠奪された(1361年)。さらに、1431年にはモスクワ大公国ヴァシーリー2世に破壊された[4]。それでも、カザン・ハン国イヴァン4世に征服され、ロシア領に組み込まれた16世紀半ばまで、ブルガールはムスリムたちの宗教的な中心地として機能していた。16世紀以降、ムスリムの巡礼地になっている[5]

帝政ロシア時代に、かつて都市があった場所にロシアの平民たちが入植した。1722年にピョートル1世は残っていた遺跡を保存するための勅令を出したが[6]、歴史的遺産を保護することを志向したロシアの法規では最初期に属する[5]

ソ連時代、ブルガールは「小ハッジ」(小巡礼)と呼ばれる地域的なムスリム運動の中心地になった。タタールスタンや他のソ連構成地域のムスリムたちはメッカへのハッジに参加することができず、代わりにブルガールへの巡礼をしたのである。

記念建造物群[編集]

現代における位置づけ[編集]

ボルガルの墓碑

タタール人たちは、ヴォルガ・ブルガール王国の首都をShahri Bolghar (タタール語: Шәһри Болгар)、すなわちブルガール市と呼ぶ。都市遺跡は彼らの文化遺産に属している。というのは、タタールスタン共和国では、ヴォルガ・ブルガールが、今日の同共和国と文化的繋がりを持つカザン・ハン国の先祖に当たる国家と見なされているからである。こうした考え方はソ連時代の公式イデオロギーとして採用されていたものだが、ソ連崩壊後には批判的な見解も見られるようになっている[7]

ソ連崩壊後の民族意識の高まりは、タタール人の中で、ブルガールを「父祖の土地、イスラームの中心」[8]と見なす風潮に繋がった。タタールスタン共和国では5月21日はブルガールにおけるイスラーム受容を記念する祝日となっている。[9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ブルガール人のヴォルガ川沿岸への定着時期は7世紀から9世紀初頭までの諸説ある(林2005, pp. 459-460)。

出典[編集]

  1. ^ 櫻間 2012, p. 161
  2. ^ a b 古田 & 古田 2014, p. 161
  3. ^ ICOMOS 2014, p. 20
  4. ^ ICOMOS 2014, p. 22
  5. ^ a b ICOMOS 2000, p. 203
  6. ^ 櫻間 2012, p. 160
  7. ^ 櫻間 2012, pp. 170-171
  8. ^ 櫻間 2012, p. 161
  9. ^ 櫻間 2012, pp. 172-173

参考文献[編集]