リャザン (ルーシ)

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スタラヤ・リャザンの遺跡がある、オカ川のそばに広がる高台

本頁は、中世(繁栄期は11世紀末から13世紀前半)にリャザンロシア語: Рязань)の名で存在していた都市について述べる。同都市は現存せず、現在はスタラヤ・リャザンロシア語: Старая Рязань:古いリャザンの意)の名で呼ばれる遺構が、同名の村(ru)ロシアリャザン州スパッスク地区(ru))内に存在している。また、当時の都市機能は移転して、現在のリャザン(当時ペレヤスラヴリ=リャザンスキー)に統合していった。

(留意事項)本頁の地は1778年までリャザンの名で呼ばれ、現リャザンは1778年までペレヤスラヴリ=リャザンスキーと呼ばれていた。1778年にペレヤスラヴリ=リャザンスキーを現在の名称であるリャザンに改称したため、本頁の都市遺構、また都市遺構のある村がスタラヤ・リャザンと呼ばれることになった。ただし便宜上、1778年以前でも本頁の地を指すのに「スタラヤ・リャザン」を用い、現在のリャザンを指す場合は「現リャザン」を用いることとする。

歴史[編集]

スタラヤ・リャザンの土塁から臨むオカ川

年代記レートピシ)上でのスタラヤ・リャザンの最初の言及(リャザンの名で言及される)は1096年である[1]。スタラヤ・リャザンは現リャザンからおよそ60km南東に離れた位置にあり[2]、セレブリャンカ川がオカ川に流入する、岬状の高台に立地していた。

スタラヤ・リャザンはヴャチチ族の移住した地域に含まれる。都市の建設は、おそらく1060年頃に、チェルニゴフ公スヴャトスラフによるものと考えられる[3]。初期の都市の人口は1500人ほどであったが、耕作民以外にも、青銅、陶器、骨細工[訳語疑問点]などの加工技術をもつ手工業者が居住していた形跡が認められる。12世紀の中頃に、ルーシの他地域からの積極的な移住があり、都市の防衛設備が作られた。おそらくスタラヤ・リャザン近郊が、ルーシと遊牧民との支配圏の境界であった。防衛設備に囲まれた街は48ヘクタール[1](あるいは60ヘクタール[要出典])の面積を有し、往時のキエフ・ルーシ期の都市の中で最大級の面積を持つ都市だった。また、ウスペンスキー大聖堂などの都市の主要な建築物が、リャザン公グレプの治世期の、1250年代末から1260年代はじめにかけて作られた。12世紀末から13世紀初頭のスタラヤ・リャザンにはスパッスク、ボリスとグレブ、ウスペンスキーの3つの聖堂があった[2]。また13世紀初頭には、都市の人口はおよそ8000人に達した。キエフ・ルーシ期のリャザン公国は、スタラヤ・リャザンを首都としていた。

『バトゥのリャザン襲撃の物語』中のミニアチュール(16世紀の写本)

しかし1230年代にモンゴルのルーシ侵攻が始まり、スタラヤ・リャザンは1237年に、バトゥの率いるモンゴル帝国軍によって破壊された[1]。スタラヤ・リャザンは陥落し、リャザン公やその家族をはじめ、多くの住民が殺害された。この包囲戦を元に、『バトゥのリャザン襲撃の物語』という単独の作品が書かれている(成立は包囲戦から数十年後[4]、14世紀半ば以前[5]と推測される)。また、モンゴル帝国との戦いにおいて戦死した、リャザン公国のヴォエヴォダ・エヴパーチー・コロヴラート(ru)は、半伝説的なボガトィリ(ru)(ロシアの民話・伝承中の英雄)として語られている[6]

モンゴルのルーシ侵攻以降もリャザン公国(ヴェリーキー・クニャージ:大公を号しリャザン大公国)は存続するが、14世紀に、その首都機能や主教座は現リャザンへと徐々に移転していった[1]1588年まではスタラヤ・リャザンを都市(город / ゴロド)と記す史料があるが、17世紀には村(село / セロ)と呼ばれていた[2]1778年、リャザンの名は現リャザンの正式名称となった。

都市遺構[編集]

スタラヤ・リャザンはロシアで最も大きい都市遺構(ゴロディシチェ)であり、考古学的保護区、また歴史的景観区としてロシア政府が保護している[7](リャザン国立歴史考古博物保護区(ru) (※名称は直訳)の一部)。クレムリ生神女就寝大聖堂の跡地や、14世紀の貨幣[8]白樺文書[9]なども出土している。

出典[編集]

  1. ^ a b c d Рязань Старая // Большая Советская Энциклопедияソビエト大百科事典
  2. ^ a b c СТАРАЯ РЯЗАНЬ // Энциклопедический словарь
  3. ^ Рязань // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефронаブロックハウス・エフロン百科事典
  4. ^ 中村喜和『ロシア中世物語集』筑摩書房、1985年。p391
  5. ^ ПОВЕСТЬ О РАЗОРЕНИИ РЯЗАНИ БАТЫЕМ // Русская история
  6. ^ ЕВПАТИЙ КОЛОВРАТ // Большой Энциклопедический словарь
  7. ^ Объект культурного наследия
  8. ^ Пачкалов А. В. Восточные монеты XIV—XV вв. в Рязанской земле // Великое княжество Рязанское. Историко-археологические исследования и материалы. М., 2005.
  9. ^ Старая Рязань (Раскопки и находки)