藤原頼経
藤原 頼経像(『集古十種』より) | |
時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 建保6年1月16日(1218年2月12日) |
死没 | 建長8年8月11日(1256年9月1日)[要出典] |
改名 | 三寅(幼名) → 頼経 → 行賀(法名) |
別名 | 九条 頼経、七条将軍 |
官位 | 正二位、権大納言、鎌倉幕府第4代征夷大将軍 |
氏族 | 九条家(藤原北家九条流) |
父母 | 父:九条道家、母:倫子(西園寺公経の娘) |
兄弟 | 教実、二条良実、頼経、一条実経、法助 |
妻 | 正室:竹御所(源頼家の娘)、藤原親能の娘、持明院家行の娘? |
子 | 頼嗣、道増、源恵、乙若丸? |
藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。
両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。
竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。
生涯
九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子として生まれる。生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。
建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。三寅の鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)12月29日、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年(1226年)、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍・源頼家の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎える。しかし、北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、頼経の元服直前に義時と政子が相次いで死去するものの、その立場は北条泰時と叔父時房に引き継がれた。加えて天福2年(1234年)には正室・竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。
暦仁元年(1238年)、頼経は北条泰時・北条時房らを率いて上洛をする。正月28日に鎌倉を出た頼経は2月17日に京都に入り、10月13日まで滞在した。この間に祖父母や両親、兄弟たちと再会した他、権中納言、検非違使別当を経て一気に権大納言まで昇進、更に6月5日には北条時房[注釈 1]らを率いて春日大社に参詣した。また、既に竹御所が亡くなっているため、代わりとなる正室を然るべきから迎えるための候補者選定も目的であった可能性がある[2]。
しかし、年齢を重ね官位を高めていくにつれ、義時の次男・朝時を筆頭とした反得宗・反執権政治勢力が頼経に接近し、幕府内での権力基盤を徐々に強めていく。また、父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として朝廷・幕府の双方に権力を振るい始めた事も深刻な問題と化してきた。特に北条氏との関係に配慮してきた公経が死去し、北条氏に反感を抱く道家が関東申次となると道家が幕政に介入を試みるようになってきた。そのため、頼経と執権・北条経時との関係が悪化し、寛元2年(1244年)経時により将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされた[注釈 2]。日本史研究者の青山幹也によれば、この頃の側近は、藤原定員・中原師員・藤原親実・後藤基綱の4人だったという[5]。
しかし、頼経はその後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けた。寛元3年(1245年)2月に「大殿」として再度の上洛を計画するが、直前(寛元2年12月26日)に経時・時頼兄弟の屋敷から出た失火によって政所が焼失したことを理由に延期された。教育学者で北条重時とその周辺に関する歴史論文も書いている石井清文によれば、北条氏(経時・時頼)からすれば「大殿」頼経の上洛は御家人の負担になるだけでなく、上洛に従った御家人が頼経の働きかけによって官位を授けられて側近の強化につながり、更に摂関家の子弟で現在大納言の頼経が上洛すれば更なる昇進(大臣など)も想定され、その場合には北条氏と言えども頼経を抑え込むのが不可能となるため、北条氏が上洛を阻止するためにわざと自分の屋敷に火をかけた可能性もあるとしている[6]。
寛元3年(1245年)鎌倉久遠寿量院で出家、行賀と号する。しかし、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され、執権時頼により寛元4年(1246年)に京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により父道家も関東申次を罷免され籠居させられた(宮騒動)。
その後、宝治元年(1247年)三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)。また、建長3年(1251年)足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、道家・頼経父子が関与していたとされる。建長3年(1252年)、頼嗣が将軍職を解任され、京都へ送還された。まもなく父・道家は失意の内に没した。
4年後の康元元年8月11日(1256年9月1日)[注釈 3]、赤痢のため39歳で京都で薨去[8]。翌月には頼嗣も死去している。この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之は九条家3代の短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している[9][10]。
頼経と頼嗣の2代を摂家将軍・藤原将軍・公卿将軍と呼ぶ。頼経の死に際して、中流公家の吉田経俊の日記『経俊卿記』は「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」と記している。
官歴
※ 日付 = 旧暦
- 嘉禄元年(1225年[注釈 4])12月29日、元服。
- 嘉禄2年(1226年)
- 貞永元年(1232年)
- 天福元年(1233年)1月28日、権中納言に転任。
- 文暦元年(1235年)12月21日、正三位に昇叙、権中納言は元の如し。
- 嘉禎元年(1235年)
- 嘉禎2年(1236年)7月20日、正二位に昇叙、権中納言は元の如し。民部卿を兼任。按察使止める。
- 暦仁元年(1238年)
- 寛元2年(1244年)4月28日、征夷大将軍辞職。
- 寛元3年(1245年)7月5日、出家。行賀と号す。
系譜
なお、『吾妻鏡』寛元元年正月5日条には若君(頼嗣)とその母(二棟御方=大宮殿)とは別に御台所と乙若君(頼嗣の異母弟)の母子が登場しており、竹御所の没後に頼経が新しい正室を迎えたと推測される。『鎌倉九代記』仁治3年7月4日条の記述から権中納言持明院家行の娘と推測されているが詳細は不明である。
系図
源義朝 | 源頼朝 | 源頼家 | 竹御所 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源実朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
九条良経室 | 九条道家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
坊門姫 (一条能保室) | 藤原頼経 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
全子 (西園寺公経室) | 倫子 | 藤原頼嗣 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤原親能の娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仁子 (近衛兼経室) | 惟康親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西園寺実氏 | 久明親王 | 守邦親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伝説
茨城県鹿嶋市宮中にある鹿島神宮の白馬祭は、頼経が関東に下向したときに神託で悪来王を退治したので、鹿島神宮の神前で禁中で行われていた白馬節絵会を執り行ったのが起源という[11]。
登場作品
- 北条時宗 (NHK大河ドラマ) - 2001年、演:宇梶剛士
脚注
注釈
- ^ 『吾妻鏡』では時房と共に泰時も参詣したと記されているが、頼経の父である九条道家の日記『玉蘂』には当日泰時は京都で留守を守っていたことが記されている。『吾妻鏡』が何らかの事情で泰時も春日大社参詣に同行していたかのように曲筆された可能性が高い[1]。
- ^ 『吾妻鏡』では頼経の意志によるものと記されるが、状況から勘案して信じるに足らないとされる[3]。ただし、頼経が現職の将軍としての制約を脱して「大殿」として院政的な形で権力を掌握することを考えていたとすれば、頼経にとっても決してマイナスな提案では無かったとする見方もある[4]。
- ^ 偶然にも北条時利(のちの時輔)が元服をした日でもある[7]。
- ^ 嘉禄元年12月29日はユリウス暦では1226年1月28日。
- ^ 『尊卑分脈』では綸子、『百錬抄』では淑子とする。
出典
- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、178-180頁。
- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、168-204頁。
- ^ 石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』〈中公文庫〉1974年、415頁。
- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、299-300頁。
- ^ 永井晋『金沢北条氏の研究』八木書店、2006年、107頁。ISBN 978-4840620253。
- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、304-306頁。
- ^ 佐藤和彦; 樋口州男 編『北条時宗のすべて』新人物往来社、2000年、272頁。
- ^ 高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年、152頁。
- ^ 奥富敬之『鎌倉北条氏の興亡』吉川弘文館、2003年。
- ^ 奥富敬之 著「九条頼経」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、2000年。
- ^ 阿部幹男『東北の田村語り』三弥井書店〈三弥井民俗選書〉、2004年1月21日、76頁。