坊門姫 (一条能保室)

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後藤実基と坊門姫/明治時代前賢故実』より。画:菊池容斎

坊門姫(ぼうもんひめ、久寿元年(1154年)または久安元年(1145年) - 建久元年4月20日1190年5月25日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。『平治物語』で坊門の姫と呼ばれる。本名は不明。

略歴[編集]

父は源義朝、母は正室の由良御前で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の同母妹(または姉)である。一条能保の妻。子に一条高能[1][2]九条良経室(1167年[3])、西園寺公経室全子[4]後鳥羽天皇乳母大納言三位保子。

父義朝は平治の乱で討たれ、同母兄弟の頼朝・希義が流罪となったのち、坊門姫は後藤実基に預けられ、都で密かに匿われて育てられた(『平治物語』)。のちに貴族である一条能保の妻となり、仁安2年(1167年)には九条良経室を、安元2年(1176年)に嫡男高能を生んだ。この縁戚関係が、挙兵し東国の主になった兄弟頼朝の重要な都との接点となり、能保は都における鎌倉政権の出先機関として重用された。文治2年(1186年)2月、頼朝は坊門姫を後鳥羽天皇の乳母に推挙している(実際には娘の保子が出仕)。また、頼朝は坊門姫自身にもいくつかの地頭職を与えている。

建久元年(1190年)4月20日、難産によって死去。享年46(もしくは36)。頼朝が深く悲しんだ事が『吾妻鏡』に見える。また、その追善法要が鎌倉の勝長寿院にて行われたことも『吾妻鏡』に記載されている。

子孫[編集]

坊門姫の死後、その娘が九条良経に嫁ぎ九条道家順徳天皇中宮立子を産み、もう一人の娘が西園寺公経に嫁ぎ西園寺実氏と倫子を産む。坊門姫の孫に当たる九条道家と倫子が結婚し、その子供たちが五摂家のうち九条、一条、二条家を興す。また、道家と倫子の間に生まれた子の中に藤原頼経がいる。

頼朝の死後、鎌倉幕府で源氏の将軍が断絶すると、頼朝の姉妹である坊門姫の血筋であることによって、曾孫の藤原頼経が4代将軍に迎えられている。また下記の系図の通り、鎌倉将軍の7代惟康親王と8代久明親王は来孫、9代守邦親王は昆孫にあたる。惟康親王と守邦親王は九条道家の子孫(それぞれ曾孫と来孫)であり、藤原頼経・藤原頼嗣父子の縁者でもある。

源義朝
 
坊門姫
(一条能保室)
 
全子
西園寺公経室)
 
西園寺実氏
 
姞子
後嵯峨天皇中宮)
 
後深草天皇
 
久明親王
 
 
 
 
 
 
守邦親王
 
守恵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倫子
 
 
仁子
近衛兼経室)
 
宰子
宗尊親王妃)
 
惟康親王
 
久明親王室
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
九条良経
 
九条道家
 
 
藤原頼経
 
藤原頼嗣
 
 
 
 

生年について[編集]

多くの資料では頼朝の妹説が有力だが、『吾妻鏡』建久元年(1190年)4月20日条に書かれた享年46から逆算すると、1145年生まれとなり、1147年生まれの頼朝の姉になる。『平治物語』では平治の乱(平治元年(1159年)12月9日)時に「今年6歳になる」とある。坊門姫の生年については古くから学者間で論争があり、角田文衞(「源頼朝の妹」『王朝の明暗』1975年)は46歳での産褥死は不自然であり、『吾妻鏡』に書かれた享年六(46)は六(36)の誤記で、『平治物語』に書かれた年齢に従うとしている。貫達人(「再び一条能保室は源頼朝の妹か」『鎌倉』84、1997年)は『吾妻鏡』に書かれた享年を重視し、それに従うとする。

脚注[編集]

  1. ^ 『吾妻鏡』より
  2. ^ 公卿補任
  3. ^ 明月記』正治2年(1200年)7月13日条良経室死没記事の没年齢より逆算
  4. ^ 愚管抄』巻六より