ノート:坊門姫 (一条能保室)

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加筆して頂いてありがとうございます。坊門姫の生年ですが、吾妻鏡に書かれた享年からすると久寿元年(1154年)生まれになり、最新資料の「現代語訳吾妻鏡」(吉川弘文館)でも能保が「頼朝の妹婿」と書かれてるので、頼朝の妹で間違いないかと思います。高能と九条良経室は吾妻鏡で坊門姫の子である事が確認できます。--ちちぶ 2008年4月15日 (火) 05:37 (UTC)[返信]

年齢についてですが、1190年没で数え46歳では、1190-46+1=1145となります。
また、当時の文献では「妹」というのは「女きょうだい」を意味するので「姉」の可能性もあります。
また、現代語訳吾妻鏡の編者は「妹」としており、「妹」説が有力ですが「姉」説も未だに残っているようですので、敢えて追加いたしました。
--219.105.205.3 2008年4月15日 (火) 09:12 (UTC)[返信]

失礼しました。享年から逆算すると219.105.205.3さんが追記してくださった方が正しいですね。そちらで計算してました。お恥ずかしい。たしかに享年から逆算すると姉になりますね。現代語訳吾妻鏡では一条能保室は生没年不詳になってました。享年も46歳で出産というのは高齢過ぎるし、吾妻鏡は結構間違いが多いので、断定は出来ないですね。そのあたりを追記しておきます。--ちちぶ 2008年4月15日 (火) 13:59 (UTC)[返信]

坊門姫の子全子(西園寺公経室)について。「愚管抄」に西園寺公経を頼朝の妹の子の婿にしたとの意の文章(巻六)があります。--219.105.199.15 2008年6月8日 (日) 20:53 (UTC)[返信]