近衛忠てる

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近衞 忠煇(このえ ただてる、 (1939-05-08) 1939年5月8日(78歳) - )は、現近衞家当主で国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長及び日本赤十字社社長。特定非営利活動法人日本紛争予防センター顧問。公益財団法人日本国際フォーラム参与[1]

初名は細川 護煇(ほそかわ もりてる)。

経歴[編集]

近衞家の養子に[編集]

肥後熊本藩細川家細川護貞と温子夫人(近衛文麿の二女)の次男として生まれた。兄は細川護熙(第79代内閣総理大臣)。

1962年(昭和37年)学習院大学政治経済学部政治学科卒業後(学位:政治学士)、英国ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスヘ留学、1964年(昭和39年)に帰国。日本赤十字社副総裁三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚した。同年より日本赤十字社に入社。

外祖父近衞文麿の長男で伯父にあたる文隆シベリア抑留中に死去[注釈 1]し、近衞家の当主が不在となったため、1965年(昭和40年)に母の実家である近衞家の養子となった(伯父の文隆の夫人の養子)。

赤十字での活動[編集]

近衛の誕生日は赤十字の祖であるアンリ・デュナンの誕生日国際赤十字デー。また、ロンドン留学中に偶然参加した国際赤十字百周年の記念パレードや、帰国途中に訪れた中近東他アフリカ諸国での経験がきっかけとなり、近衛は赤十字事業への関心を強め、1964年(昭和39年)に日本赤十字社に入社以来、約50年にわたり赤十字一筋で国内外の事業に従事。

1970年(昭和45年)バングラデシュ(当時の東パキスタン)救援活動、ナイジェリア戦後復興支援、グアテマラ地震救援、フィリピン火山噴火救援、メキシコ地震救援、旧ユーゴスラビア紛争救援及び、トルコ地震救援、スマトラ沖地震・津波救援など数多くの災害救援、また赤十字が行なう国交がない国への人道的な戦後処理事業等もリーダーシップを発揮して行なった。ジュネーブの国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)ではアジア太平洋地域災害担当部長として勤務。また、血液事業の分野では、国内の事業展開のみならず、タイ赤十字社と共同でアジア地域赤十字・赤新月血液事業シンポジウムを開催するなど、他国赤十字との協力関係を築いた。

1991年(平成3年)同社副社長、(兼)学校法人日本赤十字学園理事長に就任。1995年 - 2003年(平成7年 - 15年)の間、国際赤十字常置委員として赤十字国際委員会(ICRC)や各国赤十字社とともに世界の赤十字活動においてリーダーシップを発揮した。引き続き国内外の災害救護活動、医療事業、血液事業、社会福祉事業、青少年赤十字活動、救急法等講習普及事業を進める他、看護師の養成のための赤十字看護大学の設立や修士課程・博士課程の創設により看護教育の向上に積極的に関与した。 2005年(平成17年)4月より社長に就任。内閣総理大臣を囲む各関係大臣との中央防災会議や地雷廃絶日本キャンペーンなどの委員として、国内おける数多くの団体に関わり、人道支援活動の普及に貢献。同年11月、187か国が加盟しているIFRCの副会長に選出され就任(兼務)。

2009年(平成21年)11月にアジア地域出身者で初の国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)会長に就任[2](任期は4年)。

IFRC会長就任2年目の2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災が発生し、3月13日には自ら被災各地に出向いた。全国から集まった日本赤十字社救護班ら(約7000人)の活動がマスメディアを通じて各国赤十字・赤新月社に発信され、およそ100か国の赤十字・赤新月社から日本赤十字社の活動(東日本被災地の救援並びに復興支援)が支援された。

年譜[編集]

家系[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 文隆は、浅利慶太が脚本を手がけた劇団四季のミュージカル異国の丘の主人公「九重秀隆」のモデル。

出典[編集]

先代:
J・M・S・デル・トロ
国際赤十字赤新月社連盟会長
2009年11月22日 -
次代:
先代:
藤森昭一
日本赤十字社社長
2005年4月 -
次代: