調布インターチェンジ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
調布インターチェンジ
国道20号甲州街道 八王子方面側入口
所属路線 E20 中央自動車道
IC番号 3
料金所番号 01-402(入口)
01-269(出口)
本線標識の表記 (上り線)調布
(下り線)調布 府中
起点からの距離 7.7 km(高井戸IC起点)
高井戸IC (7.7 km)
(2.3 km) 稲城IC
接続する一般道 国道20号
供用開始日 1967年(昭和42年)12月15日
通行台数 x台/日
所在地 182-0033
東京都調布市富士見町1丁目12-7
北緯35度39分41.33秒 東経139度32分8.22秒 / 北緯35.6614806度 東経139.5356167度 / 35.6614806; 139.5356167
テンプレートを表示
航空写真。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

調布インターチェンジ(ちょうふインターチェンジ)は、東京都調布市にある中央自動車道インターチェンジである。

調布市の他、狛江市府中市東部、小金井市小平市東部、三鷹市西部、武蔵野市西部、世田谷区西部の最寄りのインターチェンジである。

均一料金区域内のインターチェンジであるため料金所は入り口にのみに設置されている。ETC車以外はここで料金が徴収される。

接続する道路[編集]

国道20号との接続部分はトランペット型になっているが、出口の合流部手前に信号機が設置されている。また、国道20号下りからの入口には横断歩道が設置されている。

歴史[編集]

東京都心(高井戸IC)と山梨県河口湖町(現:富士河口湖町河口湖IC)の間で事業化された中央自動車道の中間インターチェンジとして設置された[1]。1967年に調布IC-八王子ICが開通して供用開始。翌年に高井戸IC-調布ICも開通する予定だったが、沿線住民の反対により工事が中断し、暫定的に都心方面の起点となっていた[2]。このことにより調布市の幹線道路の沿線住民が車の排ガスや騒音の害、交通事故の危険性にさらされているとして、調布市議会が1973年6月に日本道路公団に対してインターチェンジの閉鎖を要求することを決議した[2]。1974年度までに開通するとして公団は閉鎖を拒否したため[2]8月27日に調布市の本多嘉一郎市長らが先導して調布ICを実力封鎖した。その後1975年になっても開通に至らなかったことから再度市議会が閉鎖を要求したが、公団は広域交通に影響を及ぼすとして拒否した[2]。高井戸IC-調布ICの開通は翌1976年となった[3]。この開通によってIC周辺の交通量はおよそ3割減少し、一酸化炭素濃度はほとんど半減したことが市の調査で分かった[3]

年表[編集]

料金所[編集]

中央道均一区間入口[編集]

  • ブース数:4

周辺[編集]

調布市の西部、調布飛行場の南東側に位置する。周辺には住宅街が広がっている。

富士見町一丁目の一部区域は調布ICによっておにぎり状に囲まれ[1][4]、4本の道路によって外部と接続している[1]。ICに囲まれることになった29世帯は移転補償の対象とならず、住民への説明も完成の約2年前の1966年1月と遅かった[1]。住民は遠回りを強いられることによる不便、騒音や排ガスによる影響の心配、高架で囲まれることによる圧迫感を理由に移転補償を求めた[1]。しかし日本道路公団は盛土ではなく高架であり見通しに影響はない、外に繋がる4本の道路を付けるとして補償をしない方針を貫いた[1]。開通後は窓を開けっ放しにはできず、大きな声で話さなければ伝わらないような状況であることが伝えられている[4]。しかし東京都心まで約30分の土地であることから、1982年には車保有世帯を中心に約80軒まで家が増加している[4]

[編集]

E20 中央自動車道
(1)高井戸IC(上り線出口) - 中央JCT(仮称・事業中) - 三鷹TB/BS - 深大寺BS - (3)調布IC - (3-1)稲城IC(高井戸方面出入口)(3-2)府中SIC(甲府・河口湖方面出入口) - (4)国立府中IC

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 「インターチェンジの輪 30軒をすっぽり 住民が補償を訴える」『朝日新聞』、1966年2月19日、東京 夕刊、8面。
  2. ^ a b c d 「中央高速調布インタ 紛争、ヤマ場に 実力封鎖辞さぬ 市議会」『朝日新聞』、1975年7月16日、東京 朝刊、21面。
  3. ^ a b c 「中央道調布-高井戸開通で一酸化炭素は半減 調布インタ付近の調査」『朝日新聞』、1976年6月4日、東京 朝刊、20面。
  4. ^ a b c 「オニギリ村 木曜訪問 ヘリの目」『朝日新聞』、1982年8月5日、東京 夕刊、7面。

関連項目[編集]