藤原兼輔
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中納言兼輔(百人一首より) | |
時代 | 平安時代前期 – 中期 |
生誕 | 元慶元年(877年) |
死没 | 承平3年2月18日(933年3月21日) |
改名 | 堤中納言 |
官位 | 従三位権中納言 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇 |
氏族 | 藤原北家、良門流 |
父母 | 藤原利基、伴氏 |
兄弟 | 世秀、兼生、忠彦、兼茂、惟彦、兼輔 |
妻 | 藤原定方女、他 |
子 | 雅正、清正、守正、庶正、公正、桑子、 |
藤原 兼輔(ふじわら の かねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日(933年3月21日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、右中将・藤原利基の六男。官位は従三位・中納言。また賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言とよばれた。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言兼輔。
経歴
醍醐天皇の外戚であったことから、その春宮時代より仕え、寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、讃岐権掾・右衛門少尉を経て、延喜2年(902年)従五位下に叙せられる。
延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されたのち内蔵寮の次官次いで長官を務める傍ら、左兵衛佐・右衛門佐・左近衛少将といった武官や五位蔵人を兼任して引き続き天皇の側近として仕え、またこの間、延喜10年(910年)従五位上、延喜15年(915年)正五位下、延喜16年(916年)従四位下と順調に昇進する。延喜17年(917年)蔵人頭、延喜19年(819年)左近衛権中将を経て、延喜21年(921年)に参議として公卿に列した。延長5年(927年)従三位・権中納言に至る。
承平3年(933年)2月18日薨去。享年57。最終官位は権中納言従三位行右衛門督。
人物
和歌・管弦に優れる。従兄弟で妻の父である三条右大臣・藤原定方とともに当時の歌壇の中心的な人物であり、紀貫之や凡河内躬恒など多くの歌人が邸宅に集まった。『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に56首が入集[1]。家集に『兼輔集』がある。
官歴
- 寛平9年7月7日(897年8月8日) 昇殿(元東宮殿上。3日践祚)。
- 寛平10年
- 正月19日(898年2月13日) 讃岐権掾(殿上労)。
- 4月8日(898年5月2日) 如故昇殿。
- 昌泰4年2月19日(901年3月12日)[2] 右衛門少尉。
- 延喜2年
- 延喜3年2月26日(903年3月27日) 内蔵助。
- 延喜7年2月29日(907年4月14日) 右兵衛佐[3]、内蔵助如元。
- 延喜9年正月27日(909年2月20日) 五位蔵人。
- 延喜10年正月7日(910年2月19日) 従五位上、右衛門佐、助如元。
- 延喜13年正月21日(913年3月1日) 兼左近衛少将。
- 延喜14年正月12日(914年2月9日) 兼近江介。
- 延喜15年正月7日(915年1月24日) 正五位下。
- 延喜16年
- 延喜19年正月28日(919年3月3日) 兼備前守、兼左近衛権中将。
- 延喜21年
- 正月30日(921年3月12日) 任参議。
- 2月7日(921年3月19日) 左近衛権中将如元。
- 延喜22年正月7日(922年2月6日) 従四位上。
- 延長2年2月1日(924年3月8日) 兼近江守。
- 延長5年正月12日(927年2月16日) 叙従三位。任権中納言。
- 延長8年12月17日(931年1月8日) 中納言兼右衛門督。
- 承平3年2月18日(933年3月16日) 薨去。
系譜
雅正の孫に紫式部がいる。
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
脚注
関連項目
- 堤中納言物語 - 平安時代後期の物語集。題名に堤中納言とあるが、堤中納言(藤原兼輔)本人は登場しない。題名の由来については諸説ある。
軍職 | ||
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先代 藤原恒佐 |
右衛門督 931 - 933 |
次代 藤原実頼 |