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* [[セレウコス3世]]は、[[アナトリア]]の[[ペルガモン]]を[[アッタロス1世]]から奪い返す戦いを再開した。しかし、最初に派遣した将軍の[[アンドロマコス]]はアッタロス1世に完敗し、捕らえられた。 |
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=== 中国 === |
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2019年5月27日 (月) 03:24時点における版
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
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十年紀 |
前240年代 前230年代 前220年代 前210年代 前200年代 |
年 |
前228年 前227年 前226年 紀元前225年 前224年 前223年 前222年 |
紀元前225年は、ローマ暦の年である。
当時は、「ルキウス・アエミリウス・パプスとガイウス・アティリウス・レグルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元529年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前225年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
共和政ローマ
- ガリア・キサルピナ族の連合は、ガリア・ナルボネンシスからの大量の援軍によって強化され、ローマに反旗を翻した。アリミヌムでローマ軍を回避したガリア軍は、アペニン山脈を越えてエトルリアへ侵攻した。
- この侵攻を受け、ローマはウェネティ族、パドヴァ族、ケノマニ族等に動員を呼びかけ、すぐに防衛軍を結成した。この軍は、執政官ルキウス・アエミリウス・パプスの指揮下に置かれた。フィレンツェ近郊でのファエスラエの戦いでローマ軍は多くの兵を失ったが、もう一人の執政官ガイウス・アティリウス・レグルスとガリア軍を挟撃する事に成功し、テラモンの戦いで勝利した。
セレウコス朝
中国
- 秦の王賁が魏を攻撃し、黄河の水を引いて都の大梁にそそがせ、水攻めにした。3月、大梁の城を破壊した。魏王仮を降伏させ、魏の全土を占領した。
- 秦の李信が楚の平輿を攻め、蒙武が寝を攻めて、楚軍を撃破した。さらに李信は鄢郢を攻撃して破った。そこで兵を西に引き返し、蒙武と城父で合流したが、楚軍はこれについてきており、三日三晩休まず連戦して、李信を大敗させた。楚軍は秦のふたつの城壁に侵入し、7人の都尉を殺した。李信は逃げ帰った。
誕生
「Category:紀元前225年生」も参照
死去
「Category:紀元前225年没」も参照
- ガイウス・アティリウス・レグルス
脚注
注釈
出典