負芻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
王負芻
王朝
在位期間 前228年 - 前223年
都城 (寿春)→
姓・諱 熊負芻
考烈王あるいは頃襄王

負芻(ふすう、生没年不詳)は、中国戦国時代の最後の王(在位:紀元前228年 - 紀元前223年)。考烈王(名は『史記』「楚世家」ではで、「春申君伝」ではと記される)の庶子[1]。『史記』「楚世家」によれば哀王猶の庶兄である[2]

生涯[編集]

紀元前228年に、負芻を支持する楚の国人が王宮を襲撃して哀王を殺害し、負芻は自ら楚王に即位した。だが負芻は主体性の欠けた君主で、この頃の楚は既に往年の強大国の面影は喪失していた。紀元前224年の老将軍王翦で楚の大将軍項燕項羽の祖父)を撃ち破った[3]

翌年になって王翦は蒙武と共に楚を攻め、都のにいた王の負芻は捕虜となった。その後は項燕に擁立された異母兄弟[4][2]昌平君が秦に抵抗したが、王翦の猛攻で昌平君と項燕が戦死したために、春秋時代から続いた楚はついに滅亡したのであった。

脚注[編集]

  1. ^ 劉向の『列女伝』弁通伝によると、考烈王の弟とする。
  2. ^ a b 前述の『列女伝』弁通伝では哀王猶と昌平君の叔父とする。
  3. ^ 『史記』楚世家ではこのときの項燕は王翦の軍勢に討ち取られたと記されている。
  4. ^ 史記索隠
先代:
哀王
前228年 - 前223年
次代:
昌平君