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考烈王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
考烈王 熊完
第23代王
王朝
在位期間 前262年 - 前238年
都城 寿春
姓・諱 熊完
諡号 考烈王
生年 不詳
没年 考烈王25年(前238年
頃襄王
后妃 李環(李園の妹)

考烈王(こうれつおう)は、中国戦国時代の王(在位:紀元前262年 - 紀元前238年)。[1]

生涯

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頃襄王の子として生まれ、太子に立てられた[2]

頃襄王27年(紀元前272年)、楚がと和平を結んだ時、人質として秦に入った。左徒[3]の黄歇(後の春申君)が太子完に付き従った[2]

頃襄王36年(紀元前263年)、父の頃襄王が病に倒れると、太子完は帰国して王位を継ごうと考えた。だが、秦の昭襄王はこれを許可しなかったため、黄歇の策で髭を剃って変装して密かに秦を脱出した。昭襄王は激怒して黄歇の処刑を命じたが、范雎が「黄歇は忠臣であり、太子が即位すれば重用されるため、帰すことで楚との関係を良好に保てる」と進言し、帰国を許された。黄歇の帰国から3か月後、頃襄王が崩御し、太子完は楚王(考烈王)に即位した。考烈王はこの功により黄歇を令尹に任じ、淮北(淮河以北)の12県に封じて春申君の号を与えた[2][4]

考烈王元年(紀元前262年)、楚の州を秦に割譲して和平を結んだ。これによって楚はますます弱体化した[2]

考烈王2年(紀元前261年)、楚はを攻め、徐州を取った[5]

考烈王6年(紀元前257年)、秦が邯鄲を包囲すると、趙は楚に助けを求めた。趙の平原君が楚に赴き、考烈王に合従の利を説いたが、考烈王はなかなか決断を下さなかった。そこで平原君の食客毛遂が剣を抜いて進み寄り、楚がかつて秦に国都のを蹂躙され、先王の陵墓を焼き払われた恥辱を引き合いに出し、楚王の血を奮い立たせた。考烈王は己を恥じ、ついに合従を承諾して趙と盟約を結び、春申君と景陽を将とした援軍を趙に送った。同時に信陵君も出兵し、秦軍を大破して邯鄲の包囲を解いた[2][4][6]

考烈王7年(紀元前256年)、楚と魏の連合軍は寧新中で秦の張唐の軍と戦い、勝利を収めた。さらに追撃し、汾城の秦軍を敗走させて趙を救った。この大勝によって楚の国際的影響力は一時期高まった[2][7]

考烈王8年(紀元前255年)、考烈王は春申君を遣わして魯を滅ぼし、魯最後の君主である頃公を莒の地に封じた。また、荀子蘭陵の令(太守)に任命した。この時期、楚は再び強盛となった[5][8]

考烈王10年(紀元前253年)、鉅陽(現在の安徽省阜陽市太和県東)に遷都した[9]。『資治通鑑』によると鉅陽は陪都であり、楚の正式な都は依然として陳にあったとされる。

考烈王12年(紀元前251年)、秦の昭襄王が崩御し、考烈王は春申君を秦に遣わして弔問と祭祀を行わせた[2]

考烈王22年(紀元前241年)、諸侯(楚・趙・魏・は秦の攻伐に対抗し、楚を中心とする合従軍を結成した。考烈王が従長(盟主)となり、春申君が実権を握って事を主導した。合従軍は寿陵を奪い、函谷関を攻めたが、敗北した(函谷関の戦い)。考烈王は敗戦の責は春申君にあると考え、これ以降疎んじるようになった。同年、迫る秦の国境から離れるために陳から寿春に遷都し、寿春を郢と命名した[2][4][7]

春申君の舎人李園は、妹の李環を春申君に献じたが、春申君はさらに自らの子を身籠った李環を考烈王に献上した。李環は考烈王の寵愛を受け、太子悍(幽王)を産み、王后に立てられた。李園は外戚を背景に楚の政治に関与するようになった[4]

考烈王25年(紀元前238年)、崩御。李園は秘密が漏れるのを危惧して春申君を暗殺し、外甥の太子悍を即位させて楚の国政を掌握した[2][4]

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安徽省淮南市にある武王墩墓が、その規模や構造、出土品に刻まれた銘文などから考烈王の墓である可能性が高いと考えられている[10][11]

子女

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史記』春申君列伝によると、「考烈王に子はなく、ついに子はできなかった」とされるが、『史記索隠』は「哀王猶の他に負芻昌平君を儲けているので、これは誤りである」と述べている。しかし劉向の『列女伝』によると、幽王悍の同母弟で遺腹子の哀王は王統に疑いがあり、さらに負芻は考烈王の弟とされている。疑義がないのは昌平君のみであるが、そもそも「幽王は考烈王の子ではない」という記録は、負芻の一派が弑逆を正当化するために流布した流言の可能性もある。

  • 熊悍(幽王) - 母は李園の妹の李環
  • 熊猶(哀王) - 母は李園の妹の李環
  • 熊負芻 - 庶子
  • 昌平君[12]

脚注

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  1. ^ 史記』春申君列伝による。同書、楚世家では金文ではとされる
  2. ^ a b c d e f g h i 『史記』楚世家”. ja.wikisource.org. 2025年8月28日閲覧。
  3. ^ 楚特有の官職であり、主に国政の議論に参与し、命令を公布し、国外に出れば賓客を接待する役目を担った。
  4. ^ a b c d e 『史記』春申君列伝”. ja.wikisource.org. 2025年8月28日閲覧。
  5. ^ a b 『史記』魯周公世家”. ja.wikisource.org. 2025年8月28日閲覧。
  6. ^ 『史記』平原君虞卿列伝”. ja.wikisource.org. 2025年8月28日閲覧。
  7. ^ a b 『史記』秦本紀”. ja.wikisource.org. 2025年8月28日閲覧。
  8. ^ 『史記』孟子荀卿列伝”. ja.wikisource.org. 2025年8月28日閲覧。
  9. ^ 『史記』六国年表”. ja.wikisource.org. 2025年8月28日閲覧。
  10. ^ “楚国最大級王墓・武王墩墓、君主の威厳を示す青銅器”. 新華網日本語. (2024年6月9日). https://jp.news.cn/20240619/1de8442bc47642aab6dd61bff9b6b549/c.html 2025年3月28日閲覧。 
  11. ^ “中国武王墩墓の考古学調査で進展 墓の主は戦国時代の楚考烈王か”. AFPBB NEWS. (2024年5月20日). https://www.afpbb.com/articles/-/3520270 2025年3月28日閲覧。 
  12. ^ 史記索隠』による。
先代
頃襄王
前262年 - 前238年
次代
幽王