「鎮台」の版間の差分

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オランダに範をとるの出典不明(独自研究?)
(オランダに範をとるの出典不明(独自研究?))
 
=== 歴史 ===
<ref>遠藤芳信「日露戦争前における戦時編成と陸軍動員計画思想」(北海道教育大学紀要2004.2)[http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/783/1/54-2-zinbun-6.pdf]</ref>明治新政府の重要な課題として、近代の中央集権制度にもとづく兵力軍備の統制と編成があった。そのさい全国統一的な常備軍の編成にさいして幕藩体制下での藩兵・旧武士団の解体、および新たな編成の手続きが課題であった。最初の画期は1871年2月に編成された御親兵であり、鹿児島・山口・高知からなる御親兵の編成費用は宮内省の定額金を割いて兵部省に下付され成立した。一方で地方では旧来の藩が兵力を確保・統括しており、地方の兵力運用に際しては特定近隣の藩に兵力を派遣(出張)させるよう通達を出しており、その派遣費用は藩費で負担させるという兵力編成の思想でなされていた。1871年4月に出された東山道と西海道の二鎮台設置の布告はこのようなものであり、当初は鎮台の内部組織や指揮統括関係など規定されず、出先機関の性格が強く兵力編成の統一性や鎮台自体の常設化の計画もみられなかった<ref>遠藤芳信2004.2、PDF-p.4</ref>。
鎮台は[[オランダ陸軍]]に範をとった陸軍編成である。当初日本における陸軍の役割は、外征ではなく、[[戊辰戦争]]後の国内の[[治安]]維持であった。そのため、平時の編成としては鎮台のみ置くこととして、戦時には[[機動]]性に欠ける鎮台を[[旅団]](明治18年以降は[[師団]])に臨時改組することにした。
 
そのため当該地方の警護の任に当たらせる目的として、平時の編成としては鎮台のみ置くこととして、戦時には[[機動]]性に欠ける鎮台を[[旅団]](明治18年以降は[[師団]])に臨時改組することにした。まず、[[太政官]]が将来全国に鎮台を置くことを明らかにした上で、[[1871年]][[6月10日]]([[明治]]4年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]])に現在の[[東北地方]]に[[東山道鎮台]](本営[[石巻市|石巻]]、分営[[福島市|福島]]・[[盛岡市|盛岡]])、現在の[[九州地方]]に[[西海道鎮台]](本営[[小倉市|小倉]]、分営[[博多]]・[[日田市|日田]])の2鎮台を設置することを布告した<ref name=TF/>。しかし、実際に部隊編成を行ったのは西海道鎮台のみであった<ref name=TF/>。同年[[8月29日]](明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]])の[[廃藩置県]]により全国が[[明治政府]]の直轄となったが、同時に[[兵部省]]職員令が出され、[[北海道]]・石巻・[[東京]]・[[大阪]]・小倉の5鎮台制の構想が示された<ref name=TF/>。しかし、他の地方と比べ人口が極端に少ない北海道では鎮台の設置が後回しとなった。結果、同年[[10月4日]](明治4年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]])に旧2鎮台を廃止し、[[東北鎮台]]([[仙台市|仙台]])、[[東京]]鎮台、[[大阪]]鎮台、[[鎮西]]鎮台([[熊本市|熊本]])の4鎮台が設置された<ref name=TF/>。このときの鎮台は、[[御親兵]]から転じた者と、[[士族]]からの志願者で編成された。残る各藩常備兵は[[武装解除]]されることになる<ref name=TF/>。
 
[[1873年]]に2つの鎮台が増設され、[[北海道]]を除く地域を、6[[軍管区]]、14[[師管区]]に分けた。軍管区には鎮台、師団管区には営所が置かれた。新たに設けられたのは名古屋鎮台と広島鎮台で、大阪鎮台から[[北陸地方]]が名古屋鎮台に、[[中国・四国地方]]が広島鎮台にそれぞれ移管された。この年[[徴兵令]]施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった。北海道には徴兵令が施行されず、かわりに[[屯田兵]]が置かれた。

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