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'''ジョージ2世'''({{en|George II}}, [[1683年]][[11月10日]] – [[1760年]][[10月25日]])は、[[ハノーヴァー朝]]第2代[[グレートブリテン王国]][[イギリス君主一覧|国王]](在位:[[1727年]] - 1760年)、[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]]'''ゲオルク2世アウグスト''' ({{de|Georg II. August}}, 在位期間は同じ)。[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]と妃で[[リューネブルク侯領|リューネブルク]][[リューネブルク君主一覧|侯]][[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]の娘[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア]]の息子。
'''ジョージ2世'''({{lang-en|George II}}[[1683年]][[11月9日]] – [[1760年]][[10月25日]])は、[[ハノーヴァー朝]]第2代[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]および[[アイルランド王国|アイルランド]][[イギリス君主一覧|国王]]、[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]](在位:[[1727年]] - 1760年)。選帝侯としては'''ゲオルク2世アウグスト''' ({{lang-de|Georg II. August}})。[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]と妃で[[リューネブルク侯領|リューネブルク]][[リューネブルク君主一覧|侯]][[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]の娘[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア]]の息子。


ジョージ2世は{{仮リンク|北ドイツ|en|Northern Germany}}で生まれ、外国で生まれた[[イギリス君主一覧|イギリスの君主]]としては最後となった。[[1701年王位継承法]]と[[合同法 (1707年)|1707年合同法]]でイギリス王位継承権が[[プロテスタント]]に限定されたため、継承順位が50位以下だった祖母の[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]]は一気に継承順位2位まで上がった。1714年にゾフィーと[[アン (イギリス女王)|アン女王]]が相次いで死去すると、父のハノーファー選帝侯[[ジョージ1世 (イギリス王)|ゲオルク1世ルートヴィヒ]]はイギリス王位を継承した。父の治世初期は反対派の政治家に味方し、1720年に反対派が与党と和解するまで続いた。
== 生涯 ==
=== ハノーファー時代 ===
[[ハノーファー]]で生まれる。10歳の時、母ゾフィー・ドロテアが、[[スウェーデン人]]のケーニヒスマルク伯と不倫をして、父と離婚させられた上、死ぬまでアールデン城に幽閉されるというショッキングな体験をした。この時以来、母と会うことは許されなかった。ゲオルク・アウグストは母に対してこのような仕打ちをした父を憎むようになり、その不仲は終生続いた。母がいなくなってからは、父方の祖母である選帝侯太妃[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]]の元で育った。


1727年に即位した後、イギリスの内政は{{仮リンク|グレートブリテン議会|en|Parliament of Great Britain}}が司り、ジョージ2世が干渉することは少なかった。選帝侯としてはハノーファーで12回の夏を過ごし、そこでは政府の施策を直接指示した。長男の[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]とは仲が悪く、フレデリック・ルイスは議会で野党を支持した。[[オーストリア継承戦争]]中の1743年に[[デッティンゲンの戦い]]に参加、戦闘に参加したイギリス国王としては最後となった。1745年、カトリック教徒である[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]](老僭王)の王位継承権を支持した[[ジャコバイト]]はジェームズの子[[チャールズ・エドワード・ステュアート]](若僭王または「ボニー・プリンス・チャーリー」)に率いられて最後の{{仮リンク|ジャコバイト蜂起|en|Jacobite risings}}を起こし、ジョージ2世を廃位しようとしたが失敗した。フレデリック・ルイスが1751年に早世したため、ジョージ2世が1760年に死去すると、孫の[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が王位を継承した。
[[1705年]][[9月2日]]、祖母の紹介で知り合った[[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]][[ヨハン・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ヨハン・フリードリヒ]]の娘[[キャロライン・オブ・アーンズバック|カロリーネ]](イギリス名キャロライン)と結婚した。また、祖母と父が[[グレートブリテン王国|イギリス]]の[[1701年王位継承法|王位継承法]]で後継者に定められたためゲオルク・アウグストも将来のイギリス王として重要視されるようになり、[[1706年]]に[[ケンブリッジ公]]位と[[ガーター勲章]]をイギリスから送られた。


ジョージ2世の死後2世紀の間、歴史家は彼の愛妾、短気さ、そして粗野さを軽蔑した。その後は再評価が進み、彼の外交政策と軍人の任命に対する影響が評価された。
[[スペイン継承戦争]]の際、ハノーファーはイギリスと共に対[[フランス王国|フランス]]大同盟に加わり、ゲオルク・アウグストは父と共に戦闘に参加した。その軍人としての優れた素質はイギリス軍総司令官であった[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]も認めるほどであった。[[1708年]]の[[アウデナールデの戦い]]で騎兵隊を率いて奮戦、マールバラ公から賞賛されている<ref>友清、P40、P130、P153、P226 - P232。</ref>。


※特記のない限り、日付は[[グレゴリオ暦]]で統一する。
=== イギリスでの治世前期 ===
イギリス国王として即位する父に従い、ゲオルク・アウグストは[[1714年]][[8月31日]]にハノーファーを発ち、9月にイギリスに到着した。父が即位して[[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]]になったが、父との不仲は解消されず、[[1717年]]に宮廷から追われ[[レスター・ハウス]]に居住、政府に不満を抱く野党の集合場所となり、父が亡くなるまで関係は修復されなかった。


== 幼年期 ==
1727年、父の死去によりイギリス王ジョージ2世、及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして王位と選帝侯位を継承した。その治世の前半は、先王より続いていた[[第一大蔵卿]](事実上の初代[[イギリスの首相|首相]])[[ロバート・ウォルポール]]の長期政権の時期に相当する。ジョージ2世は始め父の側近だったウォルポールを信用せず、自分の側近である[[庶民院 (イギリス)|下院]]議長[[スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)|スペンサー・コンプトン]](後にウィルミントン伯)を政府首班に据えようとしたが、コンプトンが無力であったことと、ウォルポールが王室経費を増額させた上で下院に認めさせると、王妃キャロラインの勧めもありあっさりウォルポールを信用するようになった。
[[ファイル:Sophie Dorothea Prinzessin von Ahlden.jpg|thumb|left|alt=ゾフィー・ドロテアとその娘2人|幼年期のジョージ2世と母[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ]]、妹[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー]]、1691年頃。]]
ジョージはドイツの[[ハノーファー]]で[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯]]子ゲオルク・ルートヴィヒ(後のグレートブリテン王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の子)とその妻[[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ]]の間で生まれる。3歳のとき、妹の[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー]]が生まれる。ジョージの両親がそれぞれ不倫した結果、1694年にゾフィーがゲオルク・ルートヴィヒを捨てたとして結婚が解消された<ref>Van der Kiste, p. 6.</ref>。彼女は{{仮リンク|アールデン城|en|Ahlden Castle}}に幽閉されて子供2人と会うこともゆるされず、以降ジョージとその妹は母に会うことがなかったとされる<ref>Black, ''George II'', pp. 35–36; Thompson, p. 19; Van der Kiste, p. 7.</ref>。


ジョージは4歳まで当時外交と宮廷の共通語であった[[フランス語]]しか話さなかったが、その後は家庭教師の1人ヨハン・ヒルマール・ホルシュタイン({{lang|de|Johann Hilmar Holstein}})から[[ドイツ語]]を学んだ<ref>Thompson, p. 16.</ref>。フランス語とドイツ語のほか、[[英語]]と[[イタリア語]]も学び、また系図学、軍事史、戦術をとりわけ勤勉に勉強した<ref>Trench, p. 7; Van der Kiste, p. 9.</ref>。
こうしてジョージ2世はウォルポールとキャロラインの助言によりイギリスを統治することになり、この時代はウォルポールが平和外交政策をとり続けたので、イギリスにとっては平穏な日々が続いた。ウォルポールには[[ダウニング街10番地]]の邸宅を与えたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった<ref>今井、P278、P284 - P285、P293、P319、小林、P45、P52。</ref>。

ジョージの又従妹[[アン (イギリス女王)|アン]]は1702年に[[イングランド王国|イングランド」」、[[スコットランド王国|スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]]の王位を継いだが、子供が全て夭逝したため{{仮リンク|イングランド議会|en|Parliament of England}}は[[1701年王位継承法]]でアンの最近親かつ[[プロテスタント]]である、ジョージの祖母[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]]とその子孫をイングランドとアイルランドにおけるアンの継承者と定めた。その結果、ジョージは祖母と父についで、3王国のうち2国において王位継承順位で3位となった。1705年の{{仮リンク|ゾフィー帰化法|en|Sophia Naturalization Act 1705}}によりジョージはイングランドに帰化、さらに1706年には[[ガーター勲章]]を授与され、[[イングランド貴族]]の[[ケンブリッジ公|ケンブリッジ公爵]]、ケンブリッジ侯爵、ミルフォード・ヘイヴン伯爵、ノーザラトン子爵、テュークスベリー男爵に叙された<ref>Thompson, pp. 35–36.</ref>。[[合同法 (1707年)|1707年合同法]]により、イングランドとスコットランドは[[グレートブリテン王国]]に合併、両国は連合してイングランド法である1701年王位継承法を承認した<ref>[http://www.legislation.gov.uk/aep/Ann/6/11/contents Union with Scotland Act 1706] and [http://www.legislation.gov.uk/aosp/1707/7/contents Union with England Act 1707], The National Archives, retrieved 20 September 2011.</ref>。

== 結婚 ==
[[ファイル:Caroline Wilhelmina of Brandenburg-Ansbach by Sir Godfrey Kneller, Bt.jpg|thumb|[[キャロライン・オブ・アーンズバック]]、[[ゴドフリー・ネラー]]作、1716年。]]
ジョージの父は不幸な結婚をしたが、彼はジョージが同じ轍を踏まないよう、結婚が正式に決定される前にジョージと許嫁を会わせた<ref name="vdk17" />。[[ホルシュタイン=ゴットルプ]]公の未亡人および摂政である[[ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ]]との縁談が1702年から進められたが、後に話が立ち消えとなった<ref>Thompson, p. 28.</ref>。1705年6月、ジョージは「ムッシュー・ド・ブッシュ」({{lang|fr|Monsieur de Bush}})という偽名を使って[[アンスバッハ侯領]]の夏宮のある{{仮リンク|トリースドルフ|de|Triesdorf}}を訪れ、匿名で叔母の[[ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー]]が後見した、縁談の相手[[キャロライン・オブ・アーンズバック]]を調査した。イギリスの駐ハノーファー大使エドマンド・ポーリー({{lang|en|Edmund Poley}})によると、ジョージは「ほかのだれも考えられないほどに彼女に好意を持った」という<ref>Van der Kiste, p. 15.</ref>。婚約は7月末には成立した<ref>Thompson, p. 30; Van der Kiste, p. 16.</ref>。1705年9月2日(グレゴリオ暦)、キャロラインはハノーファーに到着、結婚式はその夜に{{仮リンク|ヘレンホイザー庭園|en|Herrenhausen Gardens|label=ヘレンホイザー宮殿}}で執り行われた<ref name="vdk17">Van der Kiste, p. 17.</ref>。

ジョージは[[スペイン継承戦争|対仏戦争]]の[[フランドル]]戦線に参戦したかったが、彼の父は彼の継承者となる男子が生まれるまでそれを許さなかったとした<ref>Thompson, p. 31; Van der Kiste, p. 18.</ref>。そして、1707年2月に[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]が生まれると、ジョージの参戦という望みが叶った<ref>Van der Kiste, p. 19.</ref>。7月、キャロラインは[[天然痘]]で重病に陥り、ジョージも付き添って看病したため感染した<ref>Van der Kiste, p. 21.</ref>。2人とも回復した。1708年、ジョージは[[アウデナールデの戦い]]でハノーファー騎兵の前衛として参加、乗った軍馬と隣の大佐が戦死したが彼自身は無傷だった<ref>Thompson, p. 32; Trench, p. 18; Van der Kiste, p. 22.</ref>。イギリス軍総司令官[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]は彼を賞賛し<ref>友清、P40、P130、P153、P226 - P232。</ref>、ジョージが「(ハノーファー)軍の先頭に立って突撃し、軍を奮起させたことで極めて目立つ存在となり、このうれしい勝利に大きく貢献した」と記述している<ref>Van der Kiste, p. 23.</ref>。1709年から1713年まで、ジョージとキャロラインの間でさらに3人の娘[[アン (オラニエ公妃)|アン]]、{{仮リンク|アメリア・オブ・グレートブリテン|en|Princess Amelia of Great Britain|label=アメリア}}、{{仮リンク|キャロライン・オブ・グレートブリテン|en|Princess Caroline of Great Britain|label=キャロライン}}が生まれた<ref>Thompson, p. 37.</ref>。

1714年にはアン女王の健康が悪化しており、ハノーファー家の継承を支持した[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]はアンの死後にプロテスタントによる継承を保障するよう、ハノーファー家のうち1人をイングランドに住ませようとした。ジョージが(ケンブリッジ公爵として)イングランド貴族であったため、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に招集することを提案された。しかし、ジョージ、キャロライン、ゾフィーの3人が同意したにもかかわらず、アン女王とジョージの父は反対した<ref>Van der Kiste, p. 30.</ref>。結局ジョージは貴族院へ行かず、同年にゾフィーとアンが死去したためジョージの父が即位した<ref>Thompson, p. 38.</ref>。

== プリンス・オブ・ウェールズ ==
=== ジョージ1世との不和 ===
[[ファイル:The Thames at Horseferry1710.jpg|thumb|right|1710年頃のロンドン]]
[[ファイル:Kneller - George II when Prince of Wales.png|thumb|ジョージ2世の肖像画、[[ゴドフリー・ネラー]]作、1716年。]]
1714年9月27日(グレゴリオ暦)、ジョージは父とともにイングランドへ向かうために[[ハーグ]]を出港、2日後に[[グリニッジ]]に到着した<ref>Van der Kiste, p. 36.</ref>。翌日、式典が執り行われて2人は正式にロンドンは入りした<ref>Trench, p. 38; Van der Kiste, p. 37.</ref>。ジョージは[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の称号を与えられた。キャロラインは10月に娘たちとともにロンドンに着くが、フレデリック・ルイスはハノーファーに残り、家庭教師に育てられた<ref>Thompson, pp. 39–40; Trench, p. 39.</ref>。ジョージにとってロンドンのような大きい町ははじめてであった(ロンドンは大きさでいえばハノーファーの50倍で{{Refnest|group="注"|ハノーファーは家屋が1,800軒あったが、ロンドンは10万軒あった。}}、式典の見物人だけで150万と概算された<ref>Van der Kiste, p. 37.</ref>)。ジョージは自身にはイングランド人の血しか流れていないなどイングランド人を称賛する言葉をたびたび言って人気を博した<ref>Trench, p. 55; Van der Kiste, p. 44.</ref>。

1716年7月、ジョージの父はハノーファーへ6か月間帰国したが、ジョージは父の不在の中、「王国守護兼総督」として限定的な権力を持って統治した<ref>Trench, pp. 63–65; Van der Kiste, p. 55.</ref>。彼はイングランド南部の[[チチェスター]]、{{仮リンク|ハヴァント|en|Havant}}、[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]、[[ギルフォード (イングランド)|ギルフォード]]に[[行幸]]した<ref>Van der Kiste, p. 59.</ref>。また[[ハンプトン・コート宮殿]]では公開で食事をした<ref>Black, ''George II'', p. 45; Thompson, p. 47.</ref>。{{仮リンク|王立劇場 (ドルーリー・レーン)|en|Theatre Royal, Drury Lane|label=ドルーリー・レーン劇場}}ではジョージの暗殺未遂事件がおこり、暗殺者が取り押さえられる前に1人が射殺されたが、この事件はジョージの人気を高めた<ref>Van der Kiste, p. 61.</ref>。

ジョージの父はジョージの人気に嫉妬したか不信感を持ち、それが結果的には2人の不和に寄与した<ref>Trench, p. 75; Van der Kiste, p. 61.</ref>。1717年、ジョージに2人目の男子{{仮リンク|ジョージ・ウィリアム・オブ・グレートブリテン|en|Prince George William of Great Britain|label=ジョージ・ウィリアム}}が誕生するが、家族の内紛を引き起こす事件となった。ジョージの父は慣例に従い{{仮リンク|宮内長官 (イギリス)|en|Lord Chamberlain|label=宮内長官}}の[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|初代ニューカッスル公爵]]を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージはこぶしを突き出して「お前は悪党だ。暴露してやる!」({{lang|en|"You are a rascal; I shall find you out!"}})といい、ニューカッスル公は勘違いして「お前は悪党だ。戦ってやる!」({{lang|en|"You are a rascal; I shall fight you!"}})という[[決闘]]の申し込みと考えたため、ジョージの父は激怒した。ジョージの父の命令によりジョージとキャロラインは軟禁され、2人は後に[[セント・ジェームズ宮殿]]を追放された<ref>Trench, p. 77.</ref>。2人は宮廷を離れたが、2人の子供たちはジョージの父が引き取って養育した<ref>Black, ''George II'', p. 46; Thompson, p. 53; Trench, p. 78.</ref>。

ジョージとキャロラインは子供たちと会うことを切望した。ジョージの父からの許可なしに宮殿を秘密裏に訪れたことがあったが、キャロラインは卒倒してジョージは「子供のように泣いた」<ref>Van der Kiste, p. 66.</ref>。ジョージの父の怒りも少し和らいで、2人が週に一度訪れることを許し、後にはキャロラインに無条件の許可まで与えた<ref>Van der Kiste, pp. 66–67.</ref>。翌年2月、ジョージ・ウィリアムはジョージが看取る中で亡くなった<ref>Trench, p. 80.</ref>。

=== 野党活動 ===
宮殿の出禁を食らい、父からも面会を避けられたことで、ジョージはその後数年間[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の政策の反対派に接近した<ref>Trench, pp. 67, 87.</ref>。これにはグレートブリテンにおける宗教寛容とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領の奪取などが含まれた<ref>Thompson, pp. 48–50, 55.</ref>。ジョージの新しい住居である[[レスター・スクウェア|レスター・ハウス]]はジョージ1世の野党、例えば[[ロバート・ウォルポール]]や[[チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)|第2代タウンゼンド子爵]]など1717年に官職を辞任した人々のたまり場となった<ref>Trench, pp. 79, 82.</ref>。

ジョージ1世は1719年5月から11月の間、ハノーファーに滞在した。今度はジョージを王国守護兼総督に任命せず、摂政委員会を成立させた<ref>Van der Kiste, p. 71.</ref>。1720年、ウォルポールは民衆の団結のためだとしてジョージとジョージ1世の和解を促し、2人は受け入れたが、それはあくまでもしぶしぶやったことであった<ref>Thompson, p. 57; Trench, pp. 88–90; Van der Kiste, pp. 72–74.</ref>。こうして、ウォルポールとタウンゼンドは政権に復帰した<ref>Black, ''George II'', p. 52; Thompson, p. 58; Trench, p. 89.</ref>。しかし、ジョージはすぐに和解の内容に幻滅した。ジョージ1世に引き取られたジョージの3人の娘は引き取られたままであり、またジョージ1世の不在時に摂政に就任することも禁じられたままであった<ref>Trench, pp. 88–89.</ref>。そのため、ジョージはウォルポールが権力を奪回するために彼をうまく騙して和解させたと考えた。その後数年間、ジョージとキャロラインは静かに暮らし、大々的に政治活動をしなかった。2人の間に新しく生まれた[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]、[[メアリー・オブ・グレート・ブリテン|メアリー]]、[[ルイーズ・オブ・グレート・ブリテン|ルイーズ]]はレスター・ハウスとジョージの夏宮である[[リッチモンド (ロンドン)|リッチモンド・ロッジ]]で育てられた<ref>Black, ''George II'', p. 54; Thompson, pp. 58–59.</ref>。。

1721年、ウォルポールは[[南海泡沫事件]]による経済危機で政権の頂点まで上り詰めた<ref>Trench, pp. 104–105.</ref>。この時期、ジョージ1世は[[トーリー党]]が[[1701年王位継承法]]による王位継承を支持しないことを恐れたため、ウォルポールと[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が政界を主導した<ref>Trench, pp. 106–107.</ref>。ホイッグ党の権力の大きさは、その後半世紀もの間トーリー党政権が生まれないほどであった<ref>Thompson, p. 45; Trench, p. 107.</ref>。

== イギリスでの治世前期 ==
[[ファイル:King George II by Charles Jervas.jpg|thumb|left|alt=王笏を持つジョージ2世|{{仮リンク|チャールズ・ジャーヴァス|en|Charles Jervas}}による肖像画、1727年頃]]
1727年6月22日(グレゴリオ暦)、ジョージ1世がハノーファーへの帰国中に死去、ジョージは43歳で(ジョージ2世として)グレートブリテン王を、(ゲオルク2世アウグストとして)ハノーファー選帝侯を継承した。ジョージ2世は父の葬式のためにドイツへ行くことはしないと決めたが、批判を受けることはなく、逆にイングランドへの好意としてイングランドから称賛された<ref name="vdk97">Van der Kiste, p. 97.</ref>。ジョージ1世は遺言状でジョージ2世の孫の代での相続は単独相続でなくイギリスとハノーファーとで分割することを定めたが、ジョージ2世は遺言状を握りつぶした。イギリスとハノーファーの官僚はジョージ1世の一存で相続法を決めることはできないので、遺言状は違法であるとした<ref>Trench, pp. 130–131.</ref>。一部の批評ではジョージ2世が父の遺産を分割したくなかったために遺言状を隠したと考えた<ref>Black, ''George II'', p. 88; Cannon; Trench, pp. 130–131.</ref>。

ジョージ2世は1727年10月22日(グレゴリオ暦)に[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠した<ref name="vdk97" />。作曲家[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]は招聘されて{{仮リンク|司祭ザドク|en|Zadok the Priest}}など[[ジョージ2世の戴冠式アンセム]]の4曲を作曲した<ref>Black, ''George II'', p. 77.</ref>。

ウォルポールがジョージ1世の政府に入閣したため、ジョージ2世に嫌われ、その即位に伴い[[スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)|サー・スペンサー・コンプトン]]に更迭されるものだと思われていた<ref>Black, ''George II'', p. 80; Trench, p. 132.</ref>。実際、ジョージ2世ははじめての勅語の起草をウォルポールではなくコンプトンに求めたが、コンプトンはウォルポールに書かせた。ウォルポールが[[王室費]](国王の公的な支出として議会に認められた、年ごとの固定金額)80万ポンドを確保したことでキャロラインを取り入ることに成功、キャロラインはジョージ2世にウォルポールを留任させることを勧めた<ref>Trench, pp. 132–133.</ref>。ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった<ref>Black, ''George II'', pp. 81–84; Black, ''Walpole in Power'', pp. 29–31, 53, 61.</ref>。コンプトンは翌年{{仮リンク|ウィルミントン男爵|en|Baron Wilmington}}に叙された<ref>Van der Kiste, p. 95.</ref>。

[[ファイル:George II.jpg|thumb|right|alt=オーブに手を置くジョージ|{{仮リンク|イーノック・シーマン|en|Enoch Seeman}}による肖像画、1730年頃]]
ウォルポールは内政を司り、義弟の[[チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)|タウンゼンド子爵]]が1730年に辞任すると外交政策も支配した<ref>Trench, p. 149.</ref>。歴史家の間ではジョージ2世が象徴的な役割しか果たさず、ウォルポールなどの上級官僚の政策や勧めを概ね従ったことが通論である<ref>Thompson, p. 92.</ref>。ジョージ2世はヨーロッパにおける戦争に前向きだったが、内閣はより慎重だった<ref>Black, ''George II'', p. 95.</ref>。{{仮リンク|英西戦争 (1727年-1729年)|en|Anglo-Spanish War (1727–1729)|label=英西戦争}}は終結し、ジョージ2世はウォルポールに圧力をかけて[[ポーランド継承戦争]]にドイツ側で参戦させようとしたが失敗した<ref>Trench, pp. 173–174; Van der Kiste, p. 138.</ref>。1733年4月、ウォルポールの[[物品税]]法は与党を含め反対多数だったため彼は引っ込めざるをえなかった。ジョージ2世はウォルポールを援護して法案に反対した議員を宮廷の官職から罷免した<ref>Black, ''George II'', pp. 141–143; Thompson, pp. 102–103; Trench, pp. 166–167.</ref>。また1732年にはウォルポールに[[ダウニング街10番地]]の邸宅を与えたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった<ref>今井、P278、P284 - P285、P293、P319、小林、P45、P52。</ref>。

== 家族の問題 ==
ジョージ2世と息子で推定相続人の[[プリンス・オブ・ウェールズ]][[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]の関係は1730年代に悪化した。フレデリック・ルイスの両親ジョージ2世とキャロラインが渡英したとき、フレデリック・ルイスはドイツに留め置かれ、以降14年間会うことはなかった。1728年にイングランドに渡ったが、すぐさまに野党の表看板となった<ref>Trench, pp. 141–142; Van der Kiste, pp. 115–116.</ref>。ジョージ2世が1729年、1732年、1735年夏にハノーファーを訪れたとき、イギリスの摂政委員会の委員長にはフレデリック・ルイスではなくキャロラインを任命した<ref>Thompson, pp. 85–86; Van der Kiste, pp. 118, 126, 139.</ref>。また、ジョージ2世と義弟の[[プロイセン王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]の対抗によりプロイセンとハノーファーの辺境で緊張が生じ、国境地帯での動員、および2人の間で[[決闘]]を行う提案がなされた。フレデリック・ルイスとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘[[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1709-1758)|ヴィルヘルミーネ]]の結婚に関する交渉は数年間延びたが、両国とも相手が要求した譲歩に同意せず、結局結婚の提案はお蔵入りとなった<ref>Van der Kiste, p. 118.</ref>。その代わり、フレデリック・ルイスは1736年4月に[[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ]]と結婚した<ref>Trench, p. 179.</ref>。

1736年5月、ジョージ2世は再びハノーファーに帰国したが、今度はイングランドで批判された。[[セント・ジェームズ宮殿]]のゲートには「妻と6人の子供を{{仮リンク|救貧税|en|Poor rate|label=貧困の中}}に残し、いなくなったか家から離れた男」とする風刺的な張り紙が貼られた<ref>Trench, pp. 182–184; Van der Kiste, pp. 149–150.</ref>。12月に天候が荒れ模様になったので、ジョージ2世は戻ろうとしたが嵐に遭い、ロンドンではおぼれて死んだとするうわさが流れた。やがて、ジョージ2世は1737年1月にイングランドに戻った<ref>Trench, p. 185–187; Van der Kiste, p. 152.</ref>が、直後に[[痔核]]と熱を出して寝込んだ。すると、フレデリック・ルイスはジョージ2世がもうすぐ死ぬと言い、ジョージ2世は噂を打ち消すために無理して社交イベントに出席した<ref>Van der Kiste, p. 153.</ref>。

フレデリック・ルイスが議会に王室費の増額を要求すると、口論がおこった。けちで知られたジョージ2世<ref>Black, ''George II'', p. 136; Thompson, pp. 7, 64; Trench, p. 150.</ref>は示談で解決しようとしたが、フレデリック・ルイスで解決された。議会は反対多数で王室費増額を却下したが、ジョージ2世はウォルポールの勧めで嫌々ながらもフレデリック・ルイスへの支給を増やした<ref>Trench, pp. 189–190; Van der Kiste, pp. 153–154.</ref>。1737年7月、さらなる事件がおこった。フレデリック・ルイスは娘の出生にジョージ2世とキャロラインの立会いを防ぐよう、妊娠中の妻を包んで馬車に載せ、真夜中に逃げたのだった<ref>Thompson, p. 120; Trench, p. 192; Van der Kiste, pp. 155–157.</ref>。ジョージ2世はフレデリック・ルイスとその家族を宮廷から追放した。ジョージ1世のジョージ2世に対する仕打ちとほとんど同じであり、ただ1つの違いはフレデリック・ルイスの子供を取り上げなかったことだけだった<ref>Trench, p. 196; Van der Kiste, p. 158.</ref>。

直後、キャロラインが1737年11月20日(ユリウス暦)に死去した。ジョージ2世は妻の死を深く悲しみ、「その敏感さはそれまで皆もが彼にはその感情がないと考えた」ほとであった<ref>Hervey's Memoirs, vol. III, p. 916, quoted in Thompson, p. 124, and Van der Kiste, p. 165.</ref>。キャロラインは自らの死の床で悲しむ夫に再婚するよう言ったが、ジョージ2世は{{lang|fr|"Non, j'aurai des maîtresses!"}}(「いや、愛人をつくる!」)と答えたという<ref>Thompson, p. 124; Trench, p. 199.</ref>。ジョージが結婚のときにはすでに愛人を持っていたことは広く知られており、彼はキャロラインにもそれを知らせた<ref>Thompson, p. 92; Trench, pp. 175, 181.</ref>。サフォーク伯爵夫人{{仮リンク|ヘンリエッタ・ハワード (サフォーク伯爵夫人)|en|Henrietta Howard, Countess of Suffolk|label=ヘンリエッタ・ハワード}}はアン女王の治世に夫とともにハノーファーへ移住し<ref>Van der Kiste, pp. 25, 137.</ref>、キャロラインの{{仮リンク|寝室付き女官|en|Woman of the Bedchamber}}を務めた。彼女はジョージ1世が即位する前からジョージ2世の愛人であり、その関係は1734年11月まで続いた。次の愛人は[[アマーリエ・ゾフィー・フォン・ヴァルモーデン]](後にヤーマス伯爵夫人)であり、1736年に生まれた息子{{仮リンク|ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルモーデン=ギンボルン|en|Johann Ludwig, Reichsgraf von Wallmoden-Gimborn}}はジョージ2世との間で生まれた可能性がある。ヨハン・ルートヴィヒはアマーリエが離婚する前に生まれた子供であり、ジョージ2世は公的には彼を認知しなかった<ref>Black, ''George II'', p. 157; Kilburn; Weir, p. 284.</ref>。


ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロラインが没する[[1737年]]までたびたび摂政を務めた。また北アメリカ大陸に13番目の植民地[[ジョージア州|ジョージア]]が建設されたのもこの時であった。ジョージアの名はジョージ2世にちなんで名づけられたものである。ハノーファーにも[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]が創設された。
ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロラインが没する[[1737年]]までたびたび摂政を務めた。また北アメリカ大陸に13番目の植民地[[ジョージア州|ジョージア]]が建設されたのもこの時であった。ジョージアの名はジョージ2世にちなんで名づけられたものである。ハノーファーにも[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]が創設された。


=== 治世後期 ===
== 戦争と反乱 ==
ウォルポールの意思に反し、ジョージ2世が喜んだことに、イギリスは1739年にスペインとの戦争を再開した<ref>Trench, pp. 205–206.</ref>。イギリスの対スペイン戦争である[[ジェンキンスの耳の戦争]]は1740年に[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が死去した後に勃発した[[オーストリア継承戦争]]の一部となった。問題となったのは、カール6世の娘[[マリア・テレジア]]による[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家領]]の継承権であった<ref>Trench, p. 210.</ref>。ジョージ2世は1740年と1741年の夏をハノーファーで過ごし、選帝侯としてヨーロッパ外交に介入した<ref>Thompson, pp. 133, 139.</ref>。
治世の後半は、[[オーストリア継承戦争]]を皮切りに、大陸における[[七年戦争]]、フランスとの植民地戦争など様々な対外戦争に巻き込まれた。ウォルポールは平和政策が破られたことで支持を失い、オーストリア継承戦争の最中の[[1742年]]に辞職、コンプトンが首相となったが、老齢で病気にかかっていたため[[ジョン・カートレット (第2代グランヴィル伯爵)|ジョン・カートレット]](後にグランヴィル伯)が事実上の首相として取り仕切った。オーストリア継承戦争に際して、ジョージ2世はカートレットを重用し[[親征|自ら軍を率いて]]大陸へと渡り、[[1743年]]6月に[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍と[[デッティンゲンの戦い]]で[[フランス王国|フランス]]軍を撃破した。これは、イギリス国王が自ら指揮を執って戦った最後の対外戦争となった。[[1745年]]、[[ジャコバイト]]が[[スコットランド]]に上陸したが、3男の[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]が翌[[1746年]]に[[カロデンの戦い]]で撃破、ジャコバイトの目的を挫いた。


フレデリック・ルイスは{{仮リンク|1741年イギリス総選挙|en|British general election, 1741}}で野党を支持して選挙活動を精力的に行い、ウォルポールは安定多数を確保することに失敗した。ウォルポールはフレデリック・ルイスに王室費支給の増額と負債の帳消しを提案して買収しようとしたが断られた<ref>Black, ''George II'', p. 174; Trench, p. 212.</ref>。ウォルポールは支持を失ったことで1742年に20年間務めた[[イギリスの首相|首相]]の職を辞め、ジョージ2世が1727年に任命することを考えた[[スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)|ウィルミントン伯爵]]が代わりに就任した。しかし、ウィルミントン伯爵には実権がなく<ref>Black, ''George II'', p. 86.</ref>、実際に権勢をふるったのはジョージ2世の(ウォルポールに次ぐ)寵臣[[ジョン・カートレット (第2代グランヴィル伯爵)|カートレット男爵]]だった<ref name="cannon" />。1743年にウィルミントンが死去すると、[[ヘンリー・ペラム]]が首相に就任した<ref>Thompson, p. 150.</ref>。
しかしイギリス政界はウォルポール派と反対派が争いを続け、1743年にコンプトンが死亡するとウォルポールの部下だったニューカッスル公[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]と[[ヘンリー・ペラム]]兄弟が台頭、首相となったペラムからカートレット更迭を懇願されるとしばらく抵抗したが、カートレットが下院とペラム兄弟を敵に回し孤立した状態では続投は不可能と悟り、[[1744年]]にカートレット辞任を認めペラムの信任を表明した。ペラムはウォルポールと同じく平和政策と内政を重視、[[1748年]]にオーストリア継承戦争が終わり[[1754年]]にペラムが死去するまでの6年間イギリスは平和を保った。


[[ファイル:GeorgeIIWootton1743.jpg|thumb|right|alt=白馬に乗るジョージ2世|1743年の[[デッティンゲンの戦い]]におけるジョージ2世、{{仮リンク|ジョン・ウットン|en|John Wootton}}作。]]
ペラムの死後は兄のニューカッスル公が首相となったが、下院に影響力を持つ[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]](大ピット、後のチャタム伯)が政府を非難し始めるようになり、政権発足時から早くも足並みが乱れた。[[1756年]]、[[プロイセン王国|プロイセン]][[プロイセン国王|王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](妹[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー・ドロテア]]の息子で甥)と[[ウェストミンスター協約]]を結び、反対にフランスはオーストリアと同盟、[[外交革命]]のきっかけを作った。七年戦争の構図は[[プロイセン王国|プロイセン]]・イギリス(ハノーファー)とオーストリア・フランス・[[ロシア帝国|ロシア]]となったが、イギリスとフランスの戦闘は主に植民地戦争に絞られ、プロイセンには軍用金の援助だけを与えて大陸へ派兵しようとしなかった。
[[ファイル:george2coin.jpg|thumb|right|alt=ジョージ2世の肖像が刻印されているコイン|ジョージ2世の[[半クラウン銀貨]]、1746年。刻印は{{lang|la|"GEORGIUS II DEI GRATIA"}}(神の恩寵によるジョージ2世)と書いており、ジョージ2世の肖像の下にある{{lang|es|"LIMA"}}の字はこのコインが[[オーストリア継承戦争]]中に[[リマ]]で[[インディアス艦隊|スペイン財宝艦隊]]から奪った銀で鋳造されたことを示す<ref>[https://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/cm/s/silver_lima_crown_5_shillings.aspx "Silver 'Lima' crown (5 shillings) of George II"], British Museum, retrieved 26 August 2011 {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20110429230829/https://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/cm/s/silver_lima_crown_5_shillings.aspx |date=29 April 2011 |title=Archive }}</ref>。]]
カートレット率いる主戦派はマリア・テレジアがオーストリアを継承できなかった場合、フランスの勢力がさらに増長すると主張した。ジョージ2世はヘッセンとデンマーク傭兵1万2千人をヨーロッパ大陸に派遣して、表面上はマリア・テレジア支持をその目的とした。しかし、彼は内閣と協議せずに派遣軍をハノーファーに駐留させ、フランス軍による選帝侯領への侵攻を防ごうとした<ref>Trench, pp. 211–212.</ref>。イギリス陸軍は20年以上大規模な戦争を戦っておらず、政府はその保守を怠けた<ref>Trench, pp. 206–209.</ref>。ジョージ2世は軍隊の階級に専業主義を導入しようとし、{{仮リンク|イギリス軍における将校任命辞令の購入|en|Purchase of commissions in the British Army|label=階級の売買}}で決めるのではなく戦功による昇進を推進したが、成功しなかった<ref>Black, ''George II'', p. 111; Trench, pp. 136, 208; Van der Kiste, p. 173.</ref>。オーストリア、イギリス、オランダ、ハノーファー、ヘッセンの連合軍は1743年6月27日(グレゴリオ暦)の[[デッティンゲンの戦い]]でフランス軍と戦った。ジョージ2世は[[親征|自ら軍を率いて]][[フランス王国|フランス]]軍を撃破、自ら指揮を執って戦った最後のイギリス国王となった<ref>Thompson, p. 148; Trench, pp. 217–223.</ref>。ジョージ2世の行動は称賛されたが、イギリス大衆はジョージ2世とカートレットがイギリスよりハノーファーの利益を優先したと感じ、戦争自体が不人気となった<ref>Black, ''George II'', pp. 181–184; Van der Kiste, pp. 179–180.</ref>。カートレットは支持を失って辞任、ジョージ2世を狼狽させた<ref>Black, ''George II'', pp. 185–186; Thompson, p. 160; Van der Kiste, p. 181.</ref>。


ジョージ2世がカートレットの勧めばかり採用して、ほかの閣僚からの[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]入閣の圧力<ref group="注">大ピットを入閣させて支持基盤を拡大する、という思惑である。</ref>をはねつけたことで、ペラム内閣との間の緊張が高まった<ref>Black, ''George II'', pp. 190–193; Thompson, pp. 162, 169; Trench, pp. 234–235.</ref>。大ピットは与党の政策に反対し、親ハノーファーと見られた政策を攻撃したことで、ジョージ2世の不興を買っていた<ref>Black, ''George II'', pp. 164, 184, 195.</ref>。1746年、ペラムとの支持者たちは辞任した。ジョージ2世は{{仮リンク|ウィリアム・パルトニー (初代バース伯爵)|en|William Pulteney, 1st Earl of Bath|label=バース伯爵}}とカートレットに組閣を命じたが、どちらも48時間以内に議会の十分な支持を得られないとして辞退した。ペラムは政争に勝利して首相に返り咲き、ジョージ2世はピットの入閣を容認せざるを得なかった<ref>Black, ''George II'', pp. 190–193; Cannon; Trench, pp. 234–235.</ref>。
七年戦争と同時に行われた[[インド]]や[[北アメリカ大陸]]などの植民地での対フランス戦争([[カーナティック戦争]]、[[フレンチ・インディアン戦争]])を指揮したピットとは大変仲が悪かった。<!--根拠は?インド成金の孫である-->ピットは、北アメリカやインドなどの植民地の発展と拡大に関心があり、そのために[[海軍]]を重要視していた。反対にドイツで生まれ育ったジョージ2世はヨーロッパの方に関心があり、ハノーファーの領土を守るためにも[[陸軍]]を重視した。しかし国民に人気があり、ロンドンの商人にも強い支持があったピットの主張を、フランスに勝利するためにも結果的には認めざるを得なかった。ニューカッスル公は1756年に七年戦争の勃発で対応の誤りから世論の非難を浴びて辞任、ジョージ2世はピットの連立政権([[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|デヴォンシャー公]]政権、ニューカッスル公政権)を認め、ピットは事実上の首相として戦争を主導、北アメリカ大陸とインドでフランスを駆逐することに成功したイギリスは植民地競争の最終的な覇者となり、[[イギリス帝国|大英帝国]]の時代が始まった。


フランスはカトリックの王位継承者である[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]](「老僭王」)を支持する[[ジャコバイト]]による{{仮リンク|ジャコバイト蜂起|en|Jacobite risings}}を支持した。ジェームズは1688年に廃位された[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の息子である。{{仮リンク|1715年ジャコバイト蜂起|en|Jacobite rising of 1715|label=1715年の蜂起}}と[[グレン・シールの戦い|1719年の蜂起]]はどちらも失敗したが、老僭王の子[[チャールズ・エドワード・ステュアート]](「若僭王」、「ボニー・プリンス・チャーリー」とも)は1745年7月にジャコバイトが最も支持されているスコットランドに上陸した。ハノーファーで夏を満喫していたジョージ2世は8月末にはロンドンへ戻った<ref>Van der Kiste, p. 184.</ref>。ジャコバイトは9月の{{仮リンク|プレストンパンズの戦い|en|Battle of Prestonpans}}でイギリス軍を破った後、南のイングランド領へ進軍した。しかし、ジャコバイトはさらなる支持を得ることができず、フランスも支援の約束を破ったため、ジャコバイト軍は戦意を失ってスコットランドへ撤退した<ref>Black, ''George II'', pp. 190–191.</ref>。1746年4月27日(グレゴリオ暦)、チャールズはジョージ2世の軍人肌な息子[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]と[[カロデンの戦い]]で戦い、イギリス本土で戦った最後の陸上戦となった。チャールズはフランスへ逃げ帰ったが、多くの支持者が捕らえられて処刑された。ジャコバイト主義はつぶされ、以降[[ステュアート家]]復帰の試みはなくなった<ref>Van der Kiste, pp. 186–187.</ref>。オーストリア継承戦争自体は1748年にマリア・テレジアがオーストリア女大公として承認されるまで続いた。講和はロンドンの{{仮リンク|グリーン・パーク (ロンドン)|en|Green Park|label=グリーン・パーク}}での祝祭で祝われ、ヘンデルは祝祭のために[[王宮の花火の音楽]]を作曲した<ref>Thompson, pp. 187–189.</ref>。
1760年にジョージ2世は動脈破裂で死去し、孫で既に死去していた長男[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]王太子の子が[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]として即位した。七年戦争とフランスとの一連の植民地戦争が[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]で終結する3年ほど前であったが、この時イギリスの勝利はほぼ確実になっていた<ref>今井、P300 - P318、小林、P61 - P65。</ref>。


== 晩年 ==
ハノーファー出身のジョージ2世は戦争継続派の後ろ盾となっていた。当時、既に[[議院内閣制]](責任内閣制)が確立しており、国王の指導力は限定的であったとはいえ、ジョージ2世の逝去は戦争継続派の勢力を弱めさせることになった。
[[ファイル:George II 1755-1767.jpg|thumb|left|alt=70代のジョージ2世|{{仮リンク|ジョン・シャクルトン|en|John Shackleton}}による肖像画、1755年以降]]
{{仮リンク|1747年イギリス総選挙|en|British general election, 1747}}において、フレデリック・ルイスは再び野党側に立って選挙活動をしたが、ペラム派は易々と勝利した<ref>Black, ''George II'', p. 199; Trench, p. 243; Van der Kiste, p. 188.</ref>。ジョージ2世が以前したように、フレデリック・ルイスは[[レスター・スクウェア]]で野党を招待した<ref>Van der Kiste, p. 189.</ref>。フレデリック・ルイスが1751年に急死すると、その長男の[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ王子]]が王位の推定相続人になった。未亡人となった[[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ]]を不憫に思い、ジョージ2世は彼女とともにフレデリック・ルイスの死を悲しんだ<ref>Thompson, p. 208; Trench, p. 247.</ref>。ジョージ王子が成人(18歳)に達するのは1756年まで待たなければならなかったため、新しい摂政法が成立、ジョージ2世が死亡した場合にはオーガスタが摂政に就任、カンバーランド公率いる委員会が補佐するとした<ref>Black, ''George II'', pp. 207–211; Thompson, p. 209; Trench, p. 249; Van der Kiste, p. 195.</ref>。またジョージ2世は新しい遺言状を書き、カンバーランド公をハノーファーにおける単独の摂政に任命した<ref>Thompson, p. 211.</ref>。年末にはジョージ2世の末娘[[ルイーズ・オブ・グレート・ブリテン|ルイーズ]]が死去、ジョージ2世は「我が家庭にとって破滅的な年だった。私は長男を失った――それはうれしく感じたが――今[ルイーズ]が去った。私は私の子供たちが若いころに彼らを愛さず、彼らが私の部屋へ走ってくることを嫌った。しかし、今はほとんどの父親と同じように彼らを愛している」と哀悼した<ref>[[Horace Walpole]]'s memoirs, vol. I, p. 152, quoted in Thompson, p. 213 and Trench, p. 250.</ref>。

=== 七年戦争 ===
1754年、ペラムが死去し、後任の首相に[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|ニューカッスル公爵]]が就任した。フランスとイギリスの敵対、特に[[ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化|北米の植民地化]]をめぐって競争が継続した<ref>Thompson, pp. 233–238.</ref>。フランスによるハノーファー侵攻を恐れたジョージは、(オーストリアと敵対していた)甥の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]が統治していた[[プロイセン王国]]と同盟した。ロシアとフランスは元は敵国であったオーストリアと同盟した。フランスによる[[セント・フィリップ砦包囲戦 (1756年)|イギリス領ミノルカ島への侵攻]]により、1756年に[[七年戦争]]が勃発した。初動で敗北が続いたことで大衆に不満が生じ、ニューカッスル公爵は辞任して、後任首相には[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|デヴォンシャー公爵]]が、{{仮リンク|南部担当大臣|en|Secretary of State for the Southern Department}}には[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]が就任した<ref>Black, ''George II'', pp. 231–232; Thompson, p. 252; Trench, pp. 271–274.</ref>。翌年4月、ジョージ2世はピットを罷免、自分のより好む内閣を組織しようとした。しかし、その後3か月間、安定した政権を樹立する試みは失敗した。例えば、6月には{{仮リンク|ジェームズ・ウォルドグレイヴ (第2代ウォルドグレイヴ伯爵)|en|James Waldegrave, 2nd Earl Waldegrave|label=ウォルドグレイヴ伯爵}}に組閣の大命が下りたが、4日で辞退した。結局、7月のはじめにはピットが召還され、ニューカッスル公爵が首相に返り咲いた。ピットは国務大臣として戦争に関する政策を主導した。グレートブリテン、ハノーファー、プロイセン、そして同盟国の[[ヘッセン=カッセル方伯領]]、[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領]]はフランス、オーストリア、ロシア、スウェーデン、[[ザクセン選帝侯領]]と敵対した。戦争の戦場はヨーロッパ、北米、インドと世界中にわたっていた。そして、[[ロバート・クライヴ]]が{{仮リンク|アルコット包囲戦|en|Siege of Arcot}}と[[プラッシーの戦い]]で勝利したことで、インドにおけるイギリス領が拡大する結果となった<ref>Ashley, p. 677.</ref>。

[[ファイル:William Augustus, Duke of Cumberland by Sir Joshua Reynolds.jpg|thumb|[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]、[[ジョシュア・レノルズ]]作、1759年頃。]]
ジョージ2世の息子であるカンバーランド公は北ドイツで軍を率いていた。1757年、{{仮リンク|ハノーファー侵攻 (1757年)|en|Invasion of Hanover (1757)|label=ハノーファーが侵攻を受けた}}ためジョージ2世はカンバーランド公に全権を任せ、単独講和を許可した<ref>Thompson, pp. 265–266; Trench, p. 283.</ref>。しかし、彼は9月にはカンバーランド公の結んだ[[クローステル・ツェーヴェン協定]]がフランスに有利だとして激怒した<ref>Thompson, p. 268; Trench, p. 284.</ref>。ジョージ2世はカンバーランド公が「私を辱め、自らを貶めた」と言った<ref>Horace Walpole's memoirs, vol. III, p. 61, quoted in Trench, p. 286.</ref>。カンバーランド公は軍を辞任し<ref>Thompson, p. 276; Trench, p. 286.</ref>、ジョージ2世はフランス軍が停戦の後にヘッセン軍の武装解除を行って協定を破ったとして、協定をひっくり返した<ref>Thompson, p. 270; Trench, p. 287.</ref>。

[[奇跡の年 (1759年)|1759年の奇跡の年]]において、イギリス軍は[[エイブラハム平原]]の戦いで勝利して[[ケベック・シティー]]を占領、[[西インド諸島]]では[[グアドループ島侵攻 (1759年)|グアドループ島を占領]]した。{{仮リンク|フランスによるイギリス侵攻計画 (1759年)|en|Planned French invasion of Britain (1759)|label=フランスによるイギリス本土侵攻の計画}}は[[ラゴスの海戦]]と[[キブロン湾の海戦]]の敗北で失敗に終わり<ref>Trench, pp. 293–296.</ref>、ハノーファーでもフランス軍が進軍を再開したが[[ミンデンの戦い]]でイギリスとハノーファーの連合軍に敗れたことで進軍が止まった<ref>Thompson, pp. 282–283.</ref>。

=== 死去 ===
1760年10月にはジョージ2世の片目が失明、また難聴も起こしていた<ref>Thompson, p. 275; Trench, p. 292; Van der Kiste, p. 212.</ref>。10月25日の朝、ジョージ2世はいつも通りに6時に起き、ホットチョコレートを1杯飲んだ後、1人で{{仮リンク|クローズ・スツール|en|Close stool}}([[ポータブルトイレ]]の1種)へ向かった。数分後、近侍が何かが倒れる大きな音を聞きつけてくると、ジョージ2世が床に倒れていた<ref>Thompson, pp. 289–290; Van der Kiste, p. 213.</ref>。ジョージ2世はベッドまで運ばれ、{{仮リンク|アメリア・オブ・グレートブリテン|en|Princess Amelia of Great Britain|label=アメリア王女}}へ報せが送られたが、ジョージ2世はアメリアが駆けつけてくる前に事切れた。ほぼ77歳に達したジョージ2世はそれまでのイングランドやイギリス君主よりも長生きだった<ref>Van der Kiste, p. 213.</ref>。その後、解剖によりジョージ2世の心臓の[[右心室]]が初期の[[大動脈瘤]]で破裂していたことが明らかになった<ref>Nicholls, Frank (1761) [https://books.google.com/books?id=bYWNFD7xRXkC&pg=PA265 "Observations concerning the body of His Late Majesty"], ''Philos Trans Lond'' '''52''': 265–274.</ref>。

ジョージ2世の孫[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が王位を継承した。ジョージ2世は11月11日に[[ウェストミンスター寺院]]で埋蔵された。ジョージ2世の遺言により、2人の棺の横板が外され、2人の遺体が寄り添うことができるようにした<ref>Black, ''George II'', p. 253; Thompson, p. 290.</ref>。彼はウェストミンスター寺院で埋蔵された国王としては最後となった。

ジョージ2世の死去は七年戦争とフランスとの一連の植民地戦争が1763年の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]で終結する3年ほど前であったが、この時イギリスの勝利はほぼ確実になっていた<ref>今井、P300 - P318、小林、P61 - P65。</ref>。


== 後世への影響 ==
== 後世への影響 ==
[[ファイル:George II statue 1.jpg|thumb|left|alt=ローマ風の服装を着た石像|ロンドンの{{仮リンク|ゴールデン・スクエア (ロンドン)|en|Golden Square}}にあるジョージ2世の石像、{{仮リンク|ジョン・ノスト|en|John Nost}}作、1753年<ref>Van der Kiste, between pp. 150 and 151.</ref>。]]
1743年、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』が初めて[[ロンドン]]で演奏された際(初演は[[1742年]][[4月13日]]、[[アイルランド]]の[[ダブリン]])、第2部最後の「ハレルヤ(Hallelujah)」(通称「ハレルヤ・コーラス」)の途中で感動して起立したという逸話がある。今日の演奏会でも聴衆が「ハレルヤ・コーラス」の部分で立ち上がるのもこのジョージ2世の逸話に端を発している。[[女王陛下万歳|イギリスの国歌]]が登場したのもこの頃で、当時の歌詞は今と違って「神よ、われらが国王ジョージを守りたまえ!」であった。
ジョージ2世は[[大英博物館]]が設立された4年後の1757年に王立図書館の蔵書を寄贈した<ref>Black, ''George II'', pp. 68, 127.</ref>。彼は読書<ref>Black, ''George II'', p. 127; Thompson, pp. 97–98; Trench, p. 153.</ref>、美術、科学に興味を持たず、暇なときは馬上で鹿狩りをすることや、カード遊びを好んだ<ref>Black, ''George II'', p. 128; Trench, pp. 140, 152.</ref>。1737年、彼は[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯領]]における初の大学である[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン]]を創設、1748年にそれを訪れた<ref>Black, ''George II'', p. 128.</ref>。1902年には彼を記念して、[[小惑星]]359番が[[ジョージア (小惑星)|ジョージア]]と名付けられた。1716年から1727年までダブリンの[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]の学長を務め、1754年にはニューヨーク市のキングス・カレッジの勅許状を出し、後に[[コロンビア大学]]となった。1732年に勅許状で成立した[[ジョージア植民地]]はジョージ2世に因んで名づけられた<ref>Thompson, p. 96.</ref>。


ジョージ2世の治世、イギリスの領土は世界中で拡大、ジャコバイトのハノーファー朝に対する脅威が消滅、イギリスの内閣と議会の権力が確立した。にもかかわらず、{{仮リンク|ジョン・ハーヴィ (第2代ハーヴィ男爵)|en|John Hervey, 2nd Baron Hervey|label=第2代ハーヴィ男爵}}や[[ホレス・ウォルポール]]など同時代の人々の回想録では妻と閣僚に支配された、弱いお太鼓という印象で叙述された<ref>Black, ''George II'', pp. 255–257.</ref>。19世紀と20世紀初期に書かれたジョージ2世の伝記はこれら偏向した記録に頼っていた<ref>Black, ''George II'', pp. 257–258.</ref>。20世紀最後の四半期では、現存する文通などの学術的な分析により、ジョージ2世は以前思われていたのような無能ではないことを示した<ref>Black, ''George II'', pp. 258–259.</ref>。ジョージ2世は閣僚からの手紙への適切な意見を手紙の註釈につけ、彼の外交政策に対する知識と興味を裏付けた<ref>Black, ''George II'', pp. 144–146; Cannon; Trench, pp. 135–136.</ref>。彼は嫌った閣僚や軍の指揮官の任命を防いだり、閑職に追いやったりすることができた<ref>Black, ''George II'', p. 195.</ref>。しかし、これらの学術的な再評価は「弱々しくばかげた王」という大衆の印象を完全に拭い去ることができなかった<ref>Best, p. 71.</ref>。例えば、彼の倹約さは度々ばかにされたが、彼の伝記作家は浪費よりもけちのほうがいいとした<ref>Black, ''George II'', p. 82; Trench, p. 300; ''Lord Waldegrave's Memoirs'' quoted in Trench, p. 270.</ref>。{{仮リンク|ジェームズ・カウルフィールド (初代チャールモント伯爵)|en|James Caulfeild, 1st Earl of Charlemont|label=初代チャールモント伯爵}}は感覚に正直であることは欺瞞よりいいとしてジョージ2世の短気さを許し、「彼の気性は衝動的で短気だったが、気だてのよく、正直なものだった。王族として、感情を偽装するスキルは全くなかったが、彼はいつも表裏がなかった。彼は人を怒らせるかもしれないが、人を欺くことは決してしなかった。」と書いた<ref>Charlemont quoted in Cannon and Trench, p. 299.</ref>。{{仮リンク|ジェームズ・ウォルドグレイヴ (第2代ウォルドグレイヴ伯爵)|en|James Waldegrave, 2nd Earl Waldegrave|label=第2代ウォルドグレイヴ伯爵}}は「だれも避けられない、最も明るい性格をも汚すしみや汚れが時間とともに落ちた後、彼が愛国王として数えられ、その政府の治下人民が最も幸福に生きた王として記憶されることを、わたしは完全に信じている。」と書いた<ref>Quoted in Trench, p. 270.</ref>。ジョージ2世は歴史において強い役割を演じなかったかもしれないが、時にはその影響力を発揮し、立憲君主制を擁護した<ref>Black, ''George II'', p. 138; Cannon; Trench, p. 300.</ref>。{{仮リンク|エリザベス・モンタギュー|en|Elizabeth Montagu}}はジョージ2世について、「彼といれば、わたしたちの法律と自由は安全である。彼は人民を信じ、外国政府を尊重した。その精確の安定さにより、動乱の時期にも大きな影響力を行使することができた。[...]彼の性格により、史詩の主役になることには値しないが、歴史の落ち着いた1ページではよく見えるでしょう。」と言った<ref>Quoted in Black, ''George II'', p. 254.</ref>。
ジョージ2世の時代は責任内閣制度は発展していった。ウォルポールや大ピットなどの有能な宰相に恵まれたせいもあるが、君主である国王が内閣を主宰したり、政府の通常の決定においていつも重要な役割を果たすことはなくなっていった。君主は教会と国の主要な公職者を任命することができたが、そうした任命を自分の思い通りにする自由は既にかなり縮小されていた。通常は、ウォルポールやペラム兄弟のような第一大蔵卿を筆頭とする大臣達が国王に助言する回数が多くなり、その助言はおおかた受け入れられるものと期待されていた。


== 称号と紋章 ==
国王の任命権(人事権)という巨大な制度を大臣らが取り仕切るようになっていった。ジョージ2世にとってもそのほうが都合がよかった。国王よりも[[オックスブリッジ]]で学んだ第一大蔵卿たちの方が有能で根気があり、国益をよく理解していたからである。イギリスの政府高官達にとっても、自分達の主張が受け入れられる以上、愚鈍なジョージ2世を国王にしておくことになんら大きな問題はなかった。
* 1706年11月9日(ユリウス暦)以降: ケンブリッジ公爵および侯爵、ミルフォード・ヘイヴン伯爵、ノーザラトン子爵、テュークスベリー男爵({{lang|en|Duke and Marquess of Cambridge, Earl of Milford Haven, Viscount Northallerton and Baron of Tewkesbury}})<ref>Weir, p. 277.</ref>
* 1714年8月1日(ユリウス暦) - 1714年9月27日(ユリウス暦): ジョージ・オーガスタス、グレートブリテン王子、ブランズウィック=リューネブルク選帝侯子、コーンウォールおよびロスシー公爵殿下など({{lang|en|''His Royal Highness'' George Augustus, Prince of Great Britain, Electoral Prince of Brunswick-Lüneburg, Duke of Cornwall and Rothesay, etc.}})<ref>e.g. {{London Gazette|issue=5264|page=1|date=28 September 1714}}</ref>
* 1714年9月27日(ユリウス暦) - 1727年6月22日(グレゴリオ暦): プリンス・オブ・ウェールズ殿下など({{lang|en|''His Royal Highness'' The Prince of Wales, etc.}})
* 1727年6月22日(グレゴリオ暦) - 1760年10月25日(グレゴリオ暦): 国王陛下({{lang|en|''His Majesty'' The King}})

ジョージ2世の称号は「ジョージ2世、神の恩寵により、グレートブリテン、{{仮リンク|イギリスによるフランスの王位請求|en|English claims to the French throne|label=フランス}}、アイルランドの王、[[信仰の擁護者]]、ブランズウィック=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」である<ref>e.g. [http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/39038.html A Lima half-crown (MEC1598)], [[National Maritime Museum]], retrieved 7 September 2011</ref>。

ジョージが1714年にプリンス・オブ・ウェールズになると、[[イギリスの国章|国章]]の使用が許可されたが、右下のハノーファーを示す部分に[[ギュールズ]]単色の[[インエスカッシャン]]が追加され、さらに全体で3つの[[アージェント (紋章学)|アージェント]]の垂れがあるホワイト・レイブルが追加された。[[クレスト (紋章学)|クレスト]]にはアーチが1つある[[クラウン (紋章学)|コロネット]]が含まれた。国王に即位した後は父が使用した紋章と同じものを使った<ref>Pinches and Pinches, p. 206.</ref>。

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|-
!width=50% |[[ファイル:Coat of Arms of the Hanoverian Princes of Wales (1714-1760).svg|center|200px]]
!width=50% |[[ファイル:Coat of Arms of Great Britain (1714-1801).svg|center|200px]]
|-
|<center>プリンス・オブ・ウェールズとしての紋章(1714年 - 1727年)</center>
|<center>グレートブリテン王ジョージ2世としての紋章(1727年 - 1760年)</center>
|}


== 子女 ==
== 子女 ==
王妃キャロラインとの間に3男5女をもうけた。
王妃キャロラインは10回妊娠し(うち2回は死産)、合計3男5女をもうけ、うち7人が成人し<ref>Weir, pp. 277–285.</ref>
*[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]](1707年2月1日 – 1751年3月31日) - 王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])。父王に先立って死去したため、長男[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ・ウィリアム・フレデリック]]が王太子となり、後に王位を継承した。
*[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]](1707年2月1日 – 1751年3月31日) - 王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])。父王に先立って死去したため、長男[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ・ウィリアム・フレデリック]]が王太子となり、後に王位を継承した。
*[[アン (オラニエ公妃)|アン]](1709年11月2日 – 1759年1月12日) - [[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィレム4世 (オラニエ公)|ウィレム4世]]と結婚。
*[[アン (オラニエ公妃)|アン]](1709年11月2日 – 1759年1月12日) - [[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィレム4世 (オラニエ公)|ウィレム4世]]と結婚。
*アメリア・ソフィア(1711年7月10日 – 1786年10月31日)
*{{仮リンク|アメリア・オブ・グレートブリテン|en|Princess Amelia of Great Britain|label=メリア}}(1711年7月10日 – 1786年10月31日) - 未婚
*キャロライン・ザベス(1713年6月21日 – 1757年12月28日)
*{{仮リンク|キャロライン・オブ・グレートブテン|en|Princess Caroline of Great Britain|label=キャロライン}}(1713年6月21日 – 1757年12月28日) - 未婚
*死産(1716年11月20日)
*ジョージ・ウィリアム(1717年11月13日 – 1718年2月17日)
*{{仮リンク|ジョージ・ウィリアム・オブ・グレートブリテン|en|Prince George William of Great Britain|label=ジョージ・ウィリアム}}(1717年11月13日 – 1718年2月17日) - 夭逝
*流産(1718年)
*[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]](1721年4月15日 – 1765年10月31日) - [[カンバーランド公]]
*[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]](1721年4月15日 – 1765年10月31日) - [[カンバーランド公]]
*[[メアリー・オブ・グレート・ブリテン|メアリー]](1723年3月5日 – 1772年1月14日) - [[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル]][[ヘッセンの統治者一覧|方伯]][[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]と結婚。
*[[メアリー・オブ・グレート・ブリテン|メアリー]](1723年3月5日 – 1772年1月14日) - [[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル]][[ヘッセンの統治者一覧|方伯]][[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]と結婚。
*[[ルイーズ・オブ・グレート・ブリテン|ルイーズ]](1724年12月18日 – 1751年12月19日) - [[デンマーク]]・[[ノルウェー]]王[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレゼリク5世]]と結婚。
*[[ルイーズ・オブ・グレート・ブリテン|ルイーズ]](1724年12月18日 – 1751年12月19日) - [[デンマーク]]・[[ノルウェー]]王[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレゼリク5世]]と結婚。


==系譜==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
<references />
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== 参考文献 ==
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
{{参照方法|date=2013年6月}}


== 参考文献 ==
* Ashley, Mike (1998) ''The Mammoth Book of British Kings and Queens''. London: Robinson. {{ISBN2|1-84119-096-9}}
* Best, Nicholas (1995) ''The Kings and Queens of England''. London: Weidenfeld & Nicolson. {{ISBN2|0-297-83487-8}}
* Black, Jeremy (2001) ''Walpole in Power''. Stroud, Gloucestershire: Sutton Publishing. {{ISBN2|0-7509-2523-X}}
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* Cannon, John (2004) [http://www.oxforddnb.com/view/article/10539 "George II (1683–1760)"], ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, retrieved 16 August 2011 {{doi|10.1093/ref:odnb/10539}} {{ODNBsub}}
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* Weir, Alison (1996) ''Britain's Royal Families: The Complete Genealogy''. London: Random House. {{ISBN2|0-7126-7448-9}}
* [[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。
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* [[小林章夫]]『イギリス名宰相物語』[[講談社現代新書]]、1999年。
* [[小林章夫]]『イギリス名宰相物語』[[講談社現代新書]]、1999年。
* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 <small>マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史</small>』[[彩流社]]、2007年。
* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 <small>マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史</small>』[[彩流社]]、2007年。


== 関連図書 ==
* Bultmann, William A. (1966) "Early Hanoverian England (1714–1760): Some Recent Writings" in Elizabeth Chapin Furber, ed. ''Changing views on British history: essays on historical writing since 1939''. Harvard University Press, pp. 181–205
* Dickinson, Harry T.; introduced by A. L. Rowse (1973) ''Walpole and the Whig Supremacy''. London: The English Universities Press. {{ISBN2|0-340-11515-7}}
* Hervey, John Hervey Baron (1931) ''Some materials towards memoirs of the reign of King George II''. Eyre & Spottiswoode
* Marshall, Dorothy (1962) ''Eighteenth Century England 1714–1784''
* Robertson, Charles Grant (1911) [https://archive.org/stream/cu31924014654044#page/n6/mode/1up ''England under the Hanoverians'']. London: Methuen
* Smith, Hannah (2005) "The Court in England, 1714–1760: A Declining Political Institution?" ''History'' '''90''' (297): 23–41
* Smith, Hannah (2006) ''Georgian Monarchy: Politics and Culture, 1714–1760''. Cambridge University Press
* Williams, Basil; revized by C. H. Stuart (1962) ''The Whig Supremacy 1714–1760''. Second edition. Oxford: Oxford University Press

== 外部リンク ==
{{Commons|George II of Great Britain}}
{{Commons|George II of Great Britain}}
{{Wikiquote}}
* [http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/george_ii_king.shtml George II] at [[BBC]] History
* [https://www.royal.uk/george-ii-r-1727-1760 George II] at the official website of the British monarchy
* {{UK National Archives ID}}
* {{NPG name|name=King George II}}


{{グレートブリテン王|1727年 – 1760年}}
{{グレートブリテン王|1727年 – 1760年}}
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2017年8月19日 (土) 00:50時点における版

ジョージ2世
George II
グレートブリテン王
ハノーファー選帝侯
トマス・ハドソンによる肖像画、1744年作。
在位 1727年6月22日1760年10月25日
戴冠式 1727年10月22日
別号 アイルランド国王

全名 ジョージ・オーガスタス
ドイツ語名ゲオルク・アウグスト)
出生 1683年11月9日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ハノーファーヘレンホイザー宮殿英語版[1]またはライネ宮殿英語版[2]
死去 (1760-10-25) 1760年10月25日(76歳没)
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 イングランドの旗 イングランドロンドンケンジントン宮殿
埋葬 1760年11月11日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 イングランドの旗 イングランド、ロンドン、ウェストミンスター寺院
配偶者 キャロライン・オブ・アーンズバック
子女
家名 ハノーヴァー家
王朝 ハノーヴァー朝
父親 ジョージ1世
母親 ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
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ジョージ2世英語: George II1683年11月9日1760年10月25日)は、ハノーヴァー朝第2代グレートブリテンおよびアイルランド国王ハノーファー選帝侯(在位:1727年 - 1760年)。選帝侯としてはゲオルク2世アウグスト (ドイツ語: Georg II. August)。ジョージ1世と妃でリューネブルクゲオルク・ヴィルヘルムの娘ゾフィー・ドロテアの息子。

ジョージ2世は北ドイツ英語版で生まれ、外国で生まれたイギリスの君主としては最後となった。1701年王位継承法1707年合同法でイギリス王位継承権がプロテスタントに限定されたため、継承順位が50位以下だった祖母のゾフィー・フォン・デア・プファルツは一気に継承順位2位まで上がった。1714年にゾフィーとアン女王が相次いで死去すると、父のハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒはイギリス王位を継承した。父の治世初期は反対派の政治家に味方し、1720年に反対派が与党と和解するまで続いた。

1727年に即位した後、イギリスの内政はグレートブリテン議会英語版が司り、ジョージ2世が干渉することは少なかった。選帝侯としてはハノーファーで12回の夏を過ごし、そこでは政府の施策を直接指示した。長男のフレデリック・ルイスとは仲が悪く、フレデリック・ルイスは議会で野党を支持した。オーストリア継承戦争中の1743年にデッティンゲンの戦いに参加、戦闘に参加したイギリス国王としては最後となった。1745年、カトリック教徒であるジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(老僭王)の王位継承権を支持したジャコバイトはジェームズの子チャールズ・エドワード・ステュアート(若僭王または「ボニー・プリンス・チャーリー」)に率いられて最後のジャコバイト蜂起を起こし、ジョージ2世を廃位しようとしたが失敗した。フレデリック・ルイスが1751年に早世したため、ジョージ2世が1760年に死去すると、孫のジョージ3世が王位を継承した。

ジョージ2世の死後2世紀の間、歴史家は彼の愛妾、短気さ、そして粗野さを軽蔑した。その後は再評価が進み、彼の外交政策と軍人の任命に対する影響が評価された。

※特記のない限り、日付はグレゴリオ暦で統一する。

幼年期

ゾフィー・ドロテアとその娘2人
幼年期のジョージ2世と母ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ、妹ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー、1691年頃。

ジョージはドイツのハノーファーブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯子ゲオルク・ルートヴィヒ(後のグレートブリテン王ジョージ1世の子)とその妻ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレの間で生まれる。3歳のとき、妹のゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファーが生まれる。ジョージの両親がそれぞれ不倫した結果、1694年にゾフィーがゲオルク・ルートヴィヒを捨てたとして結婚が解消された[3]。彼女はアールデン城英語版に幽閉されて子供2人と会うこともゆるされず、以降ジョージとその妹は母に会うことがなかったとされる[4]

ジョージは4歳まで当時外交と宮廷の共通語であったフランス語しか話さなかったが、その後は家庭教師の1人ヨハン・ヒルマール・ホルシュタイン(Johann Hilmar Holstein)からドイツ語を学んだ[5]。フランス語とドイツ語のほか、英語イタリア語も学び、また系図学、軍事史、戦術をとりわけ勤勉に勉強した[6]

ジョージの又従妹アンは1702年に[[イングランド王国|イングランド」」、スコットランドアイルランドの王位を継いだが、子供が全て夭逝したためイングランド議会1701年王位継承法でアンの最近親かつプロテスタントである、ジョージの祖母ゾフィー・フォン・デア・プファルツとその子孫をイングランドとアイルランドにおけるアンの継承者と定めた。その結果、ジョージは祖母と父についで、3王国のうち2国において王位継承順位で3位となった。1705年のゾフィー帰化法英語版によりジョージはイングランドに帰化、さらに1706年にはガーター勲章を授与され、イングランド貴族ケンブリッジ公爵、ケンブリッジ侯爵、ミルフォード・ヘイヴン伯爵、ノーザラトン子爵、テュークスベリー男爵に叙された[7]1707年合同法により、イングランドとスコットランドはグレートブリテン王国に合併、両国は連合してイングランド法である1701年王位継承法を承認した[8]

結婚

キャロライン・オブ・アーンズバックゴドフリー・ネラー作、1716年。

ジョージの父は不幸な結婚をしたが、彼はジョージが同じ轍を踏まないよう、結婚が正式に決定される前にジョージと許嫁を会わせた[9]ホルシュタイン=ゴットルプ公の未亡人および摂政であるヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエとの縁談が1702年から進められたが、後に話が立ち消えとなった[10]。1705年6月、ジョージは「ムッシュー・ド・ブッシュ」(Monsieur de Bush)という偽名を使ってアンスバッハ侯領の夏宮のあるトリースドルフドイツ語版を訪れ、匿名で叔母のゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファーが後見した、縁談の相手キャロライン・オブ・アーンズバックを調査した。イギリスの駐ハノーファー大使エドマンド・ポーリー(Edmund Poley)によると、ジョージは「ほかのだれも考えられないほどに彼女に好意を持った」という[11]。婚約は7月末には成立した[12]。1705年9月2日(グレゴリオ暦)、キャロラインはハノーファーに到着、結婚式はその夜にヘレンホイザー宮殿英語版で執り行われた[9]

ジョージは対仏戦争フランドル戦線に参戦したかったが、彼の父は彼の継承者となる男子が生まれるまでそれを許さなかったとした[13]。そして、1707年2月にフレデリック・ルイスが生まれると、ジョージの参戦という望みが叶った[14]。7月、キャロラインは天然痘で重病に陥り、ジョージも付き添って看病したため感染した[15]。2人とも回復した。1708年、ジョージはアウデナールデの戦いでハノーファー騎兵の前衛として参加、乗った軍馬と隣の大佐が戦死したが彼自身は無傷だった[16]。イギリス軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルは彼を賞賛し[17]、ジョージが「(ハノーファー)軍の先頭に立って突撃し、軍を奮起させたことで極めて目立つ存在となり、このうれしい勝利に大きく貢献した」と記述している[18]。1709年から1713年まで、ジョージとキャロラインの間でさらに3人の娘アンアメリア英語版キャロラインが生まれた[19]

1714年にはアン女王の健康が悪化しており、ハノーファー家の継承を支持したホイッグ党はアンの死後にプロテスタントによる継承を保障するよう、ハノーファー家のうち1人をイングランドに住ませようとした。ジョージが(ケンブリッジ公爵として)イングランド貴族であったため、貴族院に招集することを提案された。しかし、ジョージ、キャロライン、ゾフィーの3人が同意したにもかかわらず、アン女王とジョージの父は反対した[20]。結局ジョージは貴族院へ行かず、同年にゾフィーとアンが死去したためジョージの父が即位した[21]

プリンス・オブ・ウェールズ

ジョージ1世との不和

1710年頃のロンドン
ジョージ2世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1716年。

1714年9月27日(グレゴリオ暦)、ジョージは父とともにイングランドへ向かうためにハーグを出港、2日後にグリニッジに到着した[22]。翌日、式典が執り行われて2人は正式にロンドンは入りした[23]。ジョージはプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えられた。キャロラインは10月に娘たちとともにロンドンに着くが、フレデリック・ルイスはハノーファーに残り、家庭教師に育てられた[24]。ジョージにとってロンドンのような大きい町ははじめてであった(ロンドンは大きさでいえばハノーファーの50倍で[注 1]、式典の見物人だけで150万と概算された[25])。ジョージは自身にはイングランド人の血しか流れていないなどイングランド人を称賛する言葉をたびたび言って人気を博した[26]

1716年7月、ジョージの父はハノーファーへ6か月間帰国したが、ジョージは父の不在の中、「王国守護兼総督」として限定的な権力を持って統治した[27]。彼はイングランド南部のチチェスターハヴァントポーツマスギルフォード行幸した[28]。またハンプトン・コート宮殿では公開で食事をした[29]ドルーリー・レーン劇場英語版ではジョージの暗殺未遂事件がおこり、暗殺者が取り押さえられる前に1人が射殺されたが、この事件はジョージの人気を高めた[30]

ジョージの父はジョージの人気に嫉妬したか不信感を持ち、それが結果的には2人の不和に寄与した[31]。1717年、ジョージに2人目の男子ジョージ・ウィリアムが誕生するが、家族の内紛を引き起こす事件となった。ジョージの父は慣例に従い宮内長官英語版初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージはこぶしを突き出して「お前は悪党だ。暴露してやる!」("You are a rascal; I shall find you out!")といい、ニューカッスル公は勘違いして「お前は悪党だ。戦ってやる!」("You are a rascal; I shall fight you!")という決闘の申し込みと考えたため、ジョージの父は激怒した。ジョージの父の命令によりジョージとキャロラインは軟禁され、2人は後にセント・ジェームズ宮殿を追放された[32]。2人は宮廷を離れたが、2人の子供たちはジョージの父が引き取って養育した[33]

ジョージとキャロラインは子供たちと会うことを切望した。ジョージの父からの許可なしに宮殿を秘密裏に訪れたことがあったが、キャロラインは卒倒してジョージは「子供のように泣いた」[34]。ジョージの父の怒りも少し和らいで、2人が週に一度訪れることを許し、後にはキャロラインに無条件の許可まで与えた[35]。翌年2月、ジョージ・ウィリアムはジョージが看取る中で亡くなった[36]

野党活動

宮殿の出禁を食らい、父からも面会を避けられたことで、ジョージはその後数年間ジョージ1世の政策の反対派に接近した[37]。これにはグレートブリテンにおける宗教寛容とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領の奪取などが含まれた[38]。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党、例えばロバート・ウォルポール第2代タウンゼンド子爵など1717年に官職を辞任した人々のたまり場となった[39]

ジョージ1世は1719年5月から11月の間、ハノーファーに滞在した。今度はジョージを王国守護兼総督に任命せず、摂政委員会を成立させた[40]。1720年、ウォルポールは民衆の団結のためだとしてジョージとジョージ1世の和解を促し、2人は受け入れたが、それはあくまでもしぶしぶやったことであった[41]。こうして、ウォルポールとタウンゼンドは政権に復帰した[42]。しかし、ジョージはすぐに和解の内容に幻滅した。ジョージ1世に引き取られたジョージの3人の娘は引き取られたままであり、またジョージ1世の不在時に摂政に就任することも禁じられたままであった[43]。そのため、ジョージはウォルポールが権力を奪回するために彼をうまく騙して和解させたと考えた。その後数年間、ジョージとキャロラインは静かに暮らし、大々的に政治活動をしなかった。2人の間に新しく生まれたウィリアム・オーガスタスメアリールイーズはレスター・ハウスとジョージの夏宮であるリッチモンド・ロッジで育てられた[44]。。

1721年、ウォルポールは南海泡沫事件による経済危機で政権の頂点まで上り詰めた[45]。この時期、ジョージ1世はトーリー党1701年王位継承法による王位継承を支持しないことを恐れたため、ウォルポールとホイッグ党が政界を主導した[46]。ホイッグ党の権力の大きさは、その後半世紀もの間トーリー党政権が生まれないほどであった[47]

イギリスでの治世前期

王笏を持つジョージ2世
チャールズ・ジャーヴァスによる肖像画、1727年頃

1727年6月22日(グレゴリオ暦)、ジョージ1世がハノーファーへの帰国中に死去、ジョージは43歳で(ジョージ2世として)グレートブリテン王を、(ゲオルク2世アウグストとして)ハノーファー選帝侯を継承した。ジョージ2世は父の葬式のためにドイツへ行くことはしないと決めたが、批判を受けることはなく、逆にイングランドへの好意としてイングランドから称賛された[48]。ジョージ1世は遺言状でジョージ2世の孫の代での相続は単独相続でなくイギリスとハノーファーとで分割することを定めたが、ジョージ2世は遺言状を握りつぶした。イギリスとハノーファーの官僚はジョージ1世の一存で相続法を決めることはできないので、遺言状は違法であるとした[49]。一部の批評ではジョージ2世が父の遺産を分割したくなかったために遺言状を隠したと考えた[50]

ジョージ2世は1727年10月22日(グレゴリオ暦)にウェストミンスター寺院で戴冠した[48]。作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは招聘されて司祭ザドクなどジョージ2世の戴冠式アンセムの4曲を作曲した[51]

ウォルポールがジョージ1世の政府に入閣したため、ジョージ2世に嫌われ、その即位に伴いサー・スペンサー・コンプトンに更迭されるものだと思われていた[52]。実際、ジョージ2世ははじめての勅語の起草をウォルポールではなくコンプトンに求めたが、コンプトンはウォルポールに書かせた。ウォルポールが王室費(国王の公的な支出として議会に認められた、年ごとの固定金額)80万ポンドを確保したことでキャロラインを取り入ることに成功、キャロラインはジョージ2世にウォルポールを留任させることを勧めた[53]。ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった[54]。コンプトンは翌年ウィルミントン男爵英語版に叙された[55]

オーブに手を置くジョージ
イーノック・シーマン英語版による肖像画、1730年頃

ウォルポールは内政を司り、義弟のタウンゼンド子爵が1730年に辞任すると外交政策も支配した[56]。歴史家の間ではジョージ2世が象徴的な役割しか果たさず、ウォルポールなどの上級官僚の政策や勧めを概ね従ったことが通論である[57]。ジョージ2世はヨーロッパにおける戦争に前向きだったが、内閣はより慎重だった[58]英西戦争は終結し、ジョージ2世はウォルポールに圧力をかけてポーランド継承戦争にドイツ側で参戦させようとしたが失敗した[59]。1733年4月、ウォルポールの物品税法は与党を含め反対多数だったため彼は引っ込めざるをえなかった。ジョージ2世はウォルポールを援護して法案に反対した議員を宮廷の官職から罷免した[60]。また1732年にはウォルポールにダウニング街10番地の邸宅を与えたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった[61]

家族の問題

ジョージ2世と息子で推定相続人のプリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイスの関係は1730年代に悪化した。フレデリック・ルイスの両親ジョージ2世とキャロラインが渡英したとき、フレデリック・ルイスはドイツに留め置かれ、以降14年間会うことはなかった。1728年にイングランドに渡ったが、すぐさまに野党の表看板となった[62]。ジョージ2世が1729年、1732年、1735年夏にハノーファーを訪れたとき、イギリスの摂政委員会の委員長にはフレデリック・ルイスではなくキャロラインを任命した[63]。また、ジョージ2世と義弟のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の対抗によりプロイセンとハノーファーの辺境で緊張が生じ、国境地帯での動員、および2人の間で決闘を行う提案がなされた。フレデリック・ルイスとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘ヴィルヘルミーネの結婚に関する交渉は数年間延びたが、両国とも相手が要求した譲歩に同意せず、結局結婚の提案はお蔵入りとなった[64]。その代わり、フレデリック・ルイスは1736年4月にオーガスタ・オブ・サクス=ゴータと結婚した[65]

1736年5月、ジョージ2世は再びハノーファーに帰国したが、今度はイングランドで批判された。セント・ジェームズ宮殿のゲートには「妻と6人の子供を貧困の中英語版に残し、いなくなったか家から離れた男」とする風刺的な張り紙が貼られた[66]。12月に天候が荒れ模様になったので、ジョージ2世は戻ろうとしたが嵐に遭い、ロンドンではおぼれて死んだとするうわさが流れた。やがて、ジョージ2世は1737年1月にイングランドに戻った[67]が、直後に痔核と熱を出して寝込んだ。すると、フレデリック・ルイスはジョージ2世がもうすぐ死ぬと言い、ジョージ2世は噂を打ち消すために無理して社交イベントに出席した[68]

フレデリック・ルイスが議会に王室費の増額を要求すると、口論がおこった。けちで知られたジョージ2世[69]は示談で解決しようとしたが、フレデリック・ルイスで解決された。議会は反対多数で王室費増額を却下したが、ジョージ2世はウォルポールの勧めで嫌々ながらもフレデリック・ルイスへの支給を増やした[70]。1737年7月、さらなる事件がおこった。フレデリック・ルイスは娘の出生にジョージ2世とキャロラインの立会いを防ぐよう、妊娠中の妻を包んで馬車に載せ、真夜中に逃げたのだった[71]。ジョージ2世はフレデリック・ルイスとその家族を宮廷から追放した。ジョージ1世のジョージ2世に対する仕打ちとほとんど同じであり、ただ1つの違いはフレデリック・ルイスの子供を取り上げなかったことだけだった[72]

直後、キャロラインが1737年11月20日(ユリウス暦)に死去した。ジョージ2世は妻の死を深く悲しみ、「その敏感さはそれまで皆もが彼にはその感情がないと考えた」ほとであった[73]。キャロラインは自らの死の床で悲しむ夫に再婚するよう言ったが、ジョージ2世は"Non, j'aurai des maîtresses!"(「いや、愛人をつくる!」)と答えたという[74]。ジョージが結婚のときにはすでに愛人を持っていたことは広く知られており、彼はキャロラインにもそれを知らせた[75]。サフォーク伯爵夫人ヘンリエッタ・ハワード英語版はアン女王の治世に夫とともにハノーファーへ移住し[76]、キャロラインの寝室付き女官英語版を務めた。彼女はジョージ1世が即位する前からジョージ2世の愛人であり、その関係は1734年11月まで続いた。次の愛人はアマーリエ・ゾフィー・フォン・ヴァルモーデン(後にヤーマス伯爵夫人)であり、1736年に生まれた息子ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルモーデン=ギンボルン英語版はジョージ2世との間で生まれた可能性がある。ヨハン・ルートヴィヒはアマーリエが離婚する前に生まれた子供であり、ジョージ2世は公的には彼を認知しなかった[77]

ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロラインが没する1737年までたびたび摂政を務めた。また北アメリカ大陸に13番目の植民地ジョージアが建設されたのもこの時であった。ジョージアの名はジョージ2世にちなんで名づけられたものである。ハノーファーにもゲッティンゲン大学が創設された。

戦争と反乱

ウォルポールの意思に反し、ジョージ2世が喜んだことに、イギリスは1739年にスペインとの戦争を再開した[78]。イギリスの対スペイン戦争であるジェンキンスの耳の戦争は1740年に神聖ローマ皇帝カール6世が死去した後に勃発したオーストリア継承戦争の一部となった。問題となったのは、カール6世の娘マリア・テレジアによるハプスブルク家領の継承権であった[79]。ジョージ2世は1740年と1741年の夏をハノーファーで過ごし、選帝侯としてヨーロッパ外交に介入した[80]

フレデリック・ルイスは1741年イギリス総選挙で野党を支持して選挙活動を精力的に行い、ウォルポールは安定多数を確保することに失敗した。ウォルポールはフレデリック・ルイスに王室費支給の増額と負債の帳消しを提案して買収しようとしたが断られた[81]。ウォルポールは支持を失ったことで1742年に20年間務めた首相の職を辞め、ジョージ2世が1727年に任命することを考えたウィルミントン伯爵が代わりに就任した。しかし、ウィルミントン伯爵には実権がなく[82]、実際に権勢をふるったのはジョージ2世の(ウォルポールに次ぐ)寵臣カートレット男爵だった[1]。1743年にウィルミントンが死去すると、ヘンリー・ペラムが首相に就任した[83]

白馬に乗るジョージ2世
1743年のデッティンゲンの戦いにおけるジョージ2世、ジョン・ウットン作。
ジョージ2世の肖像が刻印されているコイン
ジョージ2世の半クラウン銀貨、1746年。刻印は"GEORGIUS II DEI GRATIA"(神の恩寵によるジョージ2世)と書いており、ジョージ2世の肖像の下にある"LIMA"の字はこのコインがオーストリア継承戦争中にリマスペイン財宝艦隊から奪った銀で鋳造されたことを示す[84]

カートレット率いる主戦派はマリア・テレジアがオーストリアを継承できなかった場合、フランスの勢力がさらに増長すると主張した。ジョージ2世はヘッセンとデンマーク傭兵1万2千人をヨーロッパ大陸に派遣して、表面上はマリア・テレジア支持をその目的とした。しかし、彼は内閣と協議せずに派遣軍をハノーファーに駐留させ、フランス軍による選帝侯領への侵攻を防ごうとした[85]。イギリス陸軍は20年以上大規模な戦争を戦っておらず、政府はその保守を怠けた[86]。ジョージ2世は軍隊の階級に専業主義を導入しようとし、階級の売買英語版で決めるのではなく戦功による昇進を推進したが、成功しなかった[87]。オーストリア、イギリス、オランダ、ハノーファー、ヘッセンの連合軍は1743年6月27日(グレゴリオ暦)のデッティンゲンの戦いでフランス軍と戦った。ジョージ2世は自ら軍を率いてフランス軍を撃破、自ら指揮を執って戦った最後のイギリス国王となった[88]。ジョージ2世の行動は称賛されたが、イギリス大衆はジョージ2世とカートレットがイギリスよりハノーファーの利益を優先したと感じ、戦争自体が不人気となった[89]。カートレットは支持を失って辞任、ジョージ2世を狼狽させた[90]

ジョージ2世がカートレットの勧めばかり採用して、ほかの閣僚からの大ピット入閣の圧力[注 2]をはねつけたことで、ペラム内閣との間の緊張が高まった[91]。大ピットは与党の政策に反対し、親ハノーファーと見られた政策を攻撃したことで、ジョージ2世の不興を買っていた[92]。1746年、ペラムとの支持者たちは辞任した。ジョージ2世はバース伯爵とカートレットに組閣を命じたが、どちらも48時間以内に議会の十分な支持を得られないとして辞退した。ペラムは政争に勝利して首相に返り咲き、ジョージ2世はピットの入閣を容認せざるを得なかった[93]

フランスはカトリックの王位継承者であるジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(「老僭王」)を支持するジャコバイトによるジャコバイト蜂起を支持した。ジェームズは1688年に廃位されたジェームズ2世の息子である。1715年の蜂起1719年の蜂起はどちらも失敗したが、老僭王の子チャールズ・エドワード・ステュアート(「若僭王」、「ボニー・プリンス・チャーリー」とも)は1745年7月にジャコバイトが最も支持されているスコットランドに上陸した。ハノーファーで夏を満喫していたジョージ2世は8月末にはロンドンへ戻った[94]。ジャコバイトは9月のプレストンパンズの戦い英語版でイギリス軍を破った後、南のイングランド領へ進軍した。しかし、ジャコバイトはさらなる支持を得ることができず、フランスも支援の約束を破ったため、ジャコバイト軍は戦意を失ってスコットランドへ撤退した[95]。1746年4月27日(グレゴリオ暦)、チャールズはジョージ2世の軍人肌な息子カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスカロデンの戦いで戦い、イギリス本土で戦った最後の陸上戦となった。チャールズはフランスへ逃げ帰ったが、多くの支持者が捕らえられて処刑された。ジャコバイト主義はつぶされ、以降ステュアート家復帰の試みはなくなった[96]。オーストリア継承戦争自体は1748年にマリア・テレジアがオーストリア女大公として承認されるまで続いた。講和はロンドンのグリーン・パーク英語版での祝祭で祝われ、ヘンデルは祝祭のために王宮の花火の音楽を作曲した[97]

晩年

70代のジョージ2世
ジョン・シャクルトンによる肖像画、1755年以降

1747年イギリス総選挙において、フレデリック・ルイスは再び野党側に立って選挙活動をしたが、ペラム派は易々と勝利した[98]。ジョージ2世が以前したように、フレデリック・ルイスはレスター・スクウェアで野党を招待した[99]。フレデリック・ルイスが1751年に急死すると、その長男のジョージ王子が王位の推定相続人になった。未亡人となったオーガスタ・オブ・サクス=ゴータを不憫に思い、ジョージ2世は彼女とともにフレデリック・ルイスの死を悲しんだ[100]。ジョージ王子が成人(18歳)に達するのは1756年まで待たなければならなかったため、新しい摂政法が成立、ジョージ2世が死亡した場合にはオーガスタが摂政に就任、カンバーランド公率いる委員会が補佐するとした[101]。またジョージ2世は新しい遺言状を書き、カンバーランド公をハノーファーにおける単独の摂政に任命した[102]。年末にはジョージ2世の末娘ルイーズが死去、ジョージ2世は「我が家庭にとって破滅的な年だった。私は長男を失った――それはうれしく感じたが――今[ルイーズ]が去った。私は私の子供たちが若いころに彼らを愛さず、彼らが私の部屋へ走ってくることを嫌った。しかし、今はほとんどの父親と同じように彼らを愛している」と哀悼した[103]

七年戦争

1754年、ペラムが死去し、後任の首相にニューカッスル公爵が就任した。フランスとイギリスの敵対、特に北米の植民地化をめぐって競争が継続した[104]。フランスによるハノーファー侵攻を恐れたジョージは、(オーストリアと敵対していた)甥のフリードリヒ2世が統治していたプロイセン王国と同盟した。ロシアとフランスは元は敵国であったオーストリアと同盟した。フランスによるイギリス領ミノルカ島への侵攻により、1756年に七年戦争が勃発した。初動で敗北が続いたことで大衆に不満が生じ、ニューカッスル公爵は辞任して、後任首相にはデヴォンシャー公爵が、南部担当大臣には大ピットが就任した[105]。翌年4月、ジョージ2世はピットを罷免、自分のより好む内閣を組織しようとした。しかし、その後3か月間、安定した政権を樹立する試みは失敗した。例えば、6月にはウォルドグレイヴ伯爵に組閣の大命が下りたが、4日で辞退した。結局、7月のはじめにはピットが召還され、ニューカッスル公爵が首相に返り咲いた。ピットは国務大臣として戦争に関する政策を主導した。グレートブリテン、ハノーファー、プロイセン、そして同盟国のヘッセン=カッセル方伯領ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領はフランス、オーストリア、ロシア、スウェーデン、ザクセン選帝侯領と敵対した。戦争の戦場はヨーロッパ、北米、インドと世界中にわたっていた。そして、ロバート・クライヴアルコット包囲戦英語版プラッシーの戦いで勝利したことで、インドにおけるイギリス領が拡大する結果となった[106]

カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスジョシュア・レノルズ作、1759年頃。

ジョージ2世の息子であるカンバーランド公は北ドイツで軍を率いていた。1757年、ハノーファーが侵攻を受けたためジョージ2世はカンバーランド公に全権を任せ、単独講和を許可した[107]。しかし、彼は9月にはカンバーランド公の結んだクローステル・ツェーヴェン協定がフランスに有利だとして激怒した[108]。ジョージ2世はカンバーランド公が「私を辱め、自らを貶めた」と言った[109]。カンバーランド公は軍を辞任し[110]、ジョージ2世はフランス軍が停戦の後にヘッセン軍の武装解除を行って協定を破ったとして、協定をひっくり返した[111]

1759年の奇跡の年において、イギリス軍はエイブラハム平原の戦いで勝利してケベック・シティーを占領、西インド諸島ではグアドループ島を占領した。フランスによるイギリス本土侵攻の計画英語版ラゴスの海戦キブロン湾の海戦の敗北で失敗に終わり[112]、ハノーファーでもフランス軍が進軍を再開したがミンデンの戦いでイギリスとハノーファーの連合軍に敗れたことで進軍が止まった[113]

死去

1760年10月にはジョージ2世の片目が失明、また難聴も起こしていた[114]。10月25日の朝、ジョージ2世はいつも通りに6時に起き、ホットチョコレートを1杯飲んだ後、1人でクローズ・スツール英語版ポータブルトイレの1種)へ向かった。数分後、近侍が何かが倒れる大きな音を聞きつけてくると、ジョージ2世が床に倒れていた[115]。ジョージ2世はベッドまで運ばれ、アメリア王女英語版へ報せが送られたが、ジョージ2世はアメリアが駆けつけてくる前に事切れた。ほぼ77歳に達したジョージ2世はそれまでのイングランドやイギリス君主よりも長生きだった[116]。その後、解剖によりジョージ2世の心臓の右心室が初期の大動脈瘤で破裂していたことが明らかになった[117]

ジョージ2世の孫ジョージ3世が王位を継承した。ジョージ2世は11月11日にウェストミンスター寺院で埋蔵された。ジョージ2世の遺言により、2人の棺の横板が外され、2人の遺体が寄り添うことができるようにした[118]。彼はウェストミンスター寺院で埋蔵された国王としては最後となった。

ジョージ2世の死去は七年戦争とフランスとの一連の植民地戦争が1763年のパリ条約で終結する3年ほど前であったが、この時イギリスの勝利はほぼ確実になっていた[119]

後世への影響

ローマ風の服装を着た石像
ロンドンのゴールデン・スクエア (ロンドン)英語版にあるジョージ2世の石像、ジョン・ノスト英語版作、1753年[120]

ジョージ2世は大英博物館が設立された4年後の1757年に王立図書館の蔵書を寄贈した[121]。彼は読書[122]、美術、科学に興味を持たず、暇なときは馬上で鹿狩りをすることや、カード遊びを好んだ[123]。1737年、彼はハノーファー選帝侯領における初の大学であるゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンを創設、1748年にそれを訪れた[124]。1902年には彼を記念して、小惑星359番がジョージアと名付けられた。1716年から1727年までダブリンのトリニティ・カレッジの学長を務め、1754年にはニューヨーク市のキングス・カレッジの勅許状を出し、後にコロンビア大学となった。1732年に勅許状で成立したジョージア植民地はジョージ2世に因んで名づけられた[125]

ジョージ2世の治世、イギリスの領土は世界中で拡大、ジャコバイトのハノーファー朝に対する脅威が消滅、イギリスの内閣と議会の権力が確立した。にもかかわらず、第2代ハーヴィ男爵ホレス・ウォルポールなど同時代の人々の回想録では妻と閣僚に支配された、弱いお太鼓という印象で叙述された[126]。19世紀と20世紀初期に書かれたジョージ2世の伝記はこれら偏向した記録に頼っていた[127]。20世紀最後の四半期では、現存する文通などの学術的な分析により、ジョージ2世は以前思われていたのような無能ではないことを示した[128]。ジョージ2世は閣僚からの手紙への適切な意見を手紙の註釈につけ、彼の外交政策に対する知識と興味を裏付けた[129]。彼は嫌った閣僚や軍の指揮官の任命を防いだり、閑職に追いやったりすることができた[130]。しかし、これらの学術的な再評価は「弱々しくばかげた王」という大衆の印象を完全に拭い去ることができなかった[131]。例えば、彼の倹約さは度々ばかにされたが、彼の伝記作家は浪費よりもけちのほうがいいとした[132]初代チャールモント伯爵英語版は感覚に正直であることは欺瞞よりいいとしてジョージ2世の短気さを許し、「彼の気性は衝動的で短気だったが、気だてのよく、正直なものだった。王族として、感情を偽装するスキルは全くなかったが、彼はいつも表裏がなかった。彼は人を怒らせるかもしれないが、人を欺くことは決してしなかった。」と書いた[133]第2代ウォルドグレイヴ伯爵は「だれも避けられない、最も明るい性格をも汚すしみや汚れが時間とともに落ちた後、彼が愛国王として数えられ、その政府の治下人民が最も幸福に生きた王として記憶されることを、わたしは完全に信じている。」と書いた[134]。ジョージ2世は歴史において強い役割を演じなかったかもしれないが、時にはその影響力を発揮し、立憲君主制を擁護した[135]エリザベス・モンタギュー英語版はジョージ2世について、「彼といれば、わたしたちの法律と自由は安全である。彼は人民を信じ、外国政府を尊重した。その精確の安定さにより、動乱の時期にも大きな影響力を行使することができた。[...]彼の性格により、史詩の主役になることには値しないが、歴史の落ち着いた1ページではよく見えるでしょう。」と言った[136]

称号と紋章

  • 1706年11月9日(ユリウス暦)以降: ケンブリッジ公爵および侯爵、ミルフォード・ヘイヴン伯爵、ノーザラトン子爵、テュークスベリー男爵(Duke and Marquess of Cambridge, Earl of Milford Haven, Viscount Northallerton and Baron of Tewkesbury[137]
  • 1714年8月1日(ユリウス暦) - 1714年9月27日(ユリウス暦): ジョージ・オーガスタス、グレートブリテン王子、ブランズウィック=リューネブルク選帝侯子、コーンウォールおよびロスシー公爵殿下など(His Royal Highness George Augustus, Prince of Great Britain, Electoral Prince of Brunswick-Lüneburg, Duke of Cornwall and Rothesay, etc.[138]
  • 1714年9月27日(ユリウス暦) - 1727年6月22日(グレゴリオ暦): プリンス・オブ・ウェールズ殿下など(His Royal Highness The Prince of Wales, etc.
  • 1727年6月22日(グレゴリオ暦) - 1760年10月25日(グレゴリオ暦): 国王陛下(His Majesty The King

ジョージ2世の称号は「ジョージ2世、神の恩寵により、グレートブリテン、フランス英語版、アイルランドの王、信仰の擁護者、ブランズウィック=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」である[139]

ジョージが1714年にプリンス・オブ・ウェールズになると、国章の使用が許可されたが、右下のハノーファーを示す部分にギュールズ単色のインエスカッシャンが追加され、さらに全体で3つのアージェントの垂れがあるホワイト・レイブルが追加された。クレストにはアーチが1つあるコロネットが含まれた。国王に即位した後は父が使用した紋章と同じものを使った[140]

プリンス・オブ・ウェールズとしての紋章(1714年 - 1727年)
グレートブリテン王ジョージ2世としての紋章(1727年 - 1760年)

子女

王妃キャロラインは10回妊娠し(うち2回は死産)、合計3男5女をもうけ、うち7人が成人した[141]

系譜

ジョージ2世 父:
ジョージ1世 (イギリス王)
祖父:
エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)
曽祖父:
ゲオルク (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公)
曽祖母:
アンナ・エレオノーレ
祖母:
ゾフィー
曽祖父:
フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)
曽祖母:
エリザベス・ステュアート[1]
母:
ゾフィー・ドロテア
祖父:
ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)
曽祖父:
ゲオルク (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公)
曽祖母:
アンナ・エレオノーレ
祖母:
エレオノール・ドルブリューズ
曽祖父:
アレクサンドル
曽祖母:
ジャケット

[1]はイングランドジェームズ1世と王妃アンの長女、チャールズ1世の姉である。エリザベスの子女のうち、アン女王在位時点で存命、かつプロテスタントだったゾフィーが継承権を持ち、今日でもその子孫のみがイギリスの王位継承権を持つ。

脚注

  1. ^ ハノーファーは家屋が1,800軒あったが、ロンドンは10万軒あった。
  2. ^ 大ピットを入閣させて支持基盤を拡大する、という思惑である。

出典

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参考文献

関連図書

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  • Smith, Hannah (2005) "The Court in England, 1714–1760: A Declining Political Institution?" History 90 (297): 23–41
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外部リンク

ジョージ2世 (イギリス王)
ヴェルフ分家

1683年11月9日 - 1760年10月25日

先代
ジョージ1世
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国国王
アイルランド王国国王

1727年1月11日/22日 - 1760年10月25日
次代
ジョージ3世
先代
ゲオルク1世ルートヴィヒ
ハノーファー選帝侯
1727年1月11日/22日 - 1760年10月25日
次代
ゲオルク3世
イギリス王室
空位 ウェールズ大公
コーンウォール公爵
ロスシー公爵

1714年 – 1727年
次代
フレデリック・ルイス