リューネブルク侯領

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リューネブルク侯領
Fürstentum Lüneburg
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
グルーベンハーゲン侯領
1269年 - 1705年 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
リューネブルク侯領の国章
(国章)
公用語 ニーダーザクセン語ドイツ語
首都 リューネブルクツェレ(1370年以後)
リューネブルク侯
1269年 - 1277年 ヨハン
1665年 - 1705年ゲオルク・ヴィルヘルム
変遷
ザクセン公国の解体 1180年
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国から分立1269年
カレンベルク侯ゲオルク・ルートヴィヒによる相続1705年

リューネブルク侯領ドイツ語:Fürstentum Lüneburg)は、神聖ローマ帝国に属する領邦国家の一つ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の分邦。1269年から1705年までヴェルフ家ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)が治めた。名称は侯領の初期の首都リューネブルクにちなむ。リューネブルク市は1370年以降は侯領には属さず、1637年までブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国全体の共同管理地域であった。そしてリューネブルクに代わってツェレが侯領の首都となった。このためリューネブルク=ツェレ、あるいはツェレと呼ばれることもある。

リューネブルク侯領は1269年、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世の次男ヨハンが兄アルブレヒト1世に自らの分領相続を要求して、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国を分割させた時に成立した。ヨハンの男系直系子孫は1369年に絶え、その遺領継承を巡ってザクセン=ヴィッテンベルクを治めるアスカーニエン家と本家筋でアルブレヒト1世の子孫のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯との間でリューネブルク継承戦争が起きた。リューネブルク侯領は短期間ザクセン=ヴィッテンベルク公の支配を受けたが、1388年にはヴォルフェンビュッテル侯の支配下におかれた。1527年から1641年まで、ハルブルク(現在のハンブルクの一部)を侯の居所とする分邦ハルブルク侯領が存在した。

1582年、リューネブルク侯ヴィルヘルムホーヤ伯領の半分を相続し、1585年にはディープホルツ伯領を手に入れた。1617年クリスティアングルーベンハーゲン侯領を相続、1641年にフリードリヒ4世がハルブルク侯領を相続した。そして1689年にはゲオルク・ヴィルヘルムザクセン=ラウエンブルク公国を獲得した。1648年からはツェレを居所とするリューネブルク侯の弟か甥たちが常にカレンベルク侯領を統治した。

リューネブルク侯領とカレンベルク侯領はその後、共にブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領の一部を形成することになった。同選帝侯領はカレンベルク侯領の首都ハノーファーにちなみ、ハノーファー選帝侯領と呼ばれた。

関連項目[編集]