深良用水

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深良用水(箱根用水)
深良用水3.JPG
延長 1.28km
灌漑面積 500ha
取水 芦ノ湖神奈川県箱根町
合流 深良川(静岡県裾野市
流域 静岡県裾野市
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深良用水(ふからようすい)は、箱根山トンネルで貫き、神奈川県・箱根の芦ノ湖の湖水を静岡県裾野市に引くために造成された灌漑用水路。箱根用水(はこねようすい)とも呼ばれる。

概要[編集]

深良用水記念碑

江戸時代前期の1666年に工事開始。1670年に完成し、以降現在に至るまで、裾野市、御殿場市長泉町および清水町の一部事務組合である芦湖水利組合により、灌漑用水、生活用水、防火用水、東京発電による水力発電用水として利用している。しかし現在は2級河川の芦ノ湖の管理者は河川法により神奈川県となっている。全長は1280m。芦ノ湖の水門から、湖尻峠付近の地下を通り、神奈川・静岡県境を越え、狩野川水系黄瀬川支流の深良川に注いでいる。

日本を代表する用水のひとつとして農林水産省疏水百選に選定され、2014年には国際かんがい排水委員会によるかんがい施設遺産にも登録された。

造成の背景と経緯[編集]

富士山は成層火山のため、その雪解け水は富士山やその麓の地下を通って少し離れた場所に湧出しているが、他方で麓の一帯の表層部は火山灰を含む地質で水もちが悪かったが、その一部である駿河国深良村(現在の静岡県裾野市深良地区)の農民たちは黄瀬川の水を用水とし水田と畑地に利用していた。当時の小田原藩は年貢米の石高増産を目的として、箱根外輪山に隧道を掘って芦ノ湖の水を新川経由で黄瀬川に混ぜて用水に利用し、深良地域の畑地の水田化を目指した。即ち畑成田を増やしたのである。その工事の請負人が友野與右衛門をはじめとする江戸の商人達であった。これは当時の小田原藩が主導して行なった新田開発の町人請負の一つであり、従来の箱根用水の美談化された話は、近代以降に創作されたものである。因みに深良用水は、本来は箱根用水と呼ばれ、また深良水門は、歴史的に四つ留水門と呼ばれてきた経緯がある。なお寛文3年に箱根権現別当快長へ友野與右衛門達3名の元締が提出したと言われる用水工事立願状である欽白立願状だが、箱根権現歴代別当年譜を考察して見ると、寛文3年時点で別当快長というのは時代的整合性に欠ける。これは寛文7年の箱根権現改修工事の棟札に書かれている50世別当快長の名前を無理矢理に関連付けさせ、その真正の裏付けに利用したものと考えられる。つまり、欽白立願状は、明治時代の神奈川県側と静岡県側とが、芦ノ湖水利権争いを起こした逆川事件の裁判において静岡県側の有利な証拠資料として創作された偽古文書であった。

幕府および地元の小田原藩は、1666年に工事を開始して、当初の予定より4年も遅れて1670年に掘り抜き工事が完了した。新川工事を成して灌漑用水路全体が完成したのは寛文12年のことであった。その後友野與右衛門などの元締め達は当初7年間の作り取りと称する資金回収期間を10年間も延長しなければならなかった。これは新田開発よりも畑成田が多く占めた事による、元締めたちの収益石高数の誤算が原因であった。その結果、経済的に破綻状態となった友野與右衛門達元締めは富沢村の年貢米代金110両を横領して訴えられ、最終的には元禄元年に江戸へ退去させられたのであった。

芦ノ湖側と深良側の両方から手作業のみで掘り進めた。この2本のトンネルが出会った地点に1mほどの段差があるが、上流の芦ノ湖側は高めに、下流の深良側は低めに掘り進め当初の計画通りに出来上がった。(設計者は、トンネルの連結部で上流側が低く下流側が高くなる事を恐れた為である。)建設機械やコンピュータもない時代、当時の土木工事や測量の技術の高さを物語っている。また、作業者が酸欠にならないよう、トンネルの途中には息抜き穴も備えている。

<まとめ> 箱根用水は、駿河國新風土記や駿河志料によると、小田原藩御厨代官所の小山源兵衛によって立案された。そして、稲葉家引き送り書(貞享三年)に記載されている江戸の町人四名の者達、即ち浅井佐次右衛門、友野与右衛門、須崎源右衛門、橋本山入らが請け負った町人請負の新田開発であった。掘抜き工事は、小田原藩用水奉行小山源兵衛の指揮のもとに寛文六年七月に始まり、同十年四月に掘抜きが完成し、同十一年五月に初めて通水し、翌十二年五月になって十分な水量の用水が、芦ノ湖より深良村へ流下するようになった。今まで箱根用水の御発起と、伝承されてきた深良村名主大庭源之丞であったが、実際は箱根用水の成立には全く無関係であった。また芦ノ湖を御手洗之池として所領していた箱根権現へは、当時小田原藩より実質的な補償金の代替として、社殿などの大掛かりな普請がなされた。それが現在、箱根神社宝物殿に展示されている「寛文七年棟札」によって明らかなる箱根権現寛文大修造であった。 



逆川事件[編集]

1896年明治29年4月12日)に、耕牧舎支配人須永伝蔵と仙石原農民達が、箱根用水の水確保のために静岡県側水利関係者たちが設けていた湖尻逆川(さかさがわ)人口河床(甲羅伏せ)を破壊するという「逆川事件」が発生した。

1896年に訴訟が始まり、1898年(明治31年)に、大審院判決により、静岡県深良村外六ケ村水利組合が勝訴した。 その後、富田鉄之助の仲介により明治36年に神奈川県側への芦ノ湖一割分水の条件付きで両県は和解した。この契約書を和解決定之証という。しかしながら、その後神奈川県側へ1割の水を流すという約束は、その後守られることはなかった。 この時、逆川裁判において原告勝訴を目的に、静岡県側に有利な内容が書かれた多くの古文書類が捏造された。静岡県側より裁判証拠資料として提出された「差上申手形」「指入證文」などがそれにあたる。その根拠は、両古文書に書かれている友野与右衛門、浅井佐治右衛門、長濱半兵衛、尼ヶ崎嘉右衛門が元締めとされ、それが今まで定説となってきた。しかし、貞享三年小田原藩稲葉家引送書という公式文書では、友野与右衛門、浅井佐治右衛門、須崎源右衛門、橋本山入の四名が、箱根用水の元締めとして書かれている。須崎源右衛門、橋本山入が元締めとされる古文書が他にも存在するのに対して、長濱半兵衛、尼ヶ崎嘉右衛門を元締めとする古文書は、逆川裁判証拠資料6号証・7号証・8号証の「差上申手形」や「指入證文」など原告側に有利なものに限られる。なおかつ、これらの原本の大半は、出典不明、原本無しが多い、その他にも箱根湖水諸色覚なる古文書にも史実に反する元締めが書かれていた。それには、元禄11年、海尻堰留十二間半の記述があり、江戸時代からの逆川〆切の原告静岡県側の主張に沿った内容になっている。しかし、逆川堰留の甲羅伏せなる人口河床は、被告人須永伝蔵が証言した明治22年頃になってから建造された近代土木工事の産物であった。施工者は、元箱根村民達でありその報酬は、明治23年から5年間に渡る深良村他水利組合村から元箱根村への小作米であった。(参考・箱根町郷土資料館発行・明治の模範村、箱根権現領・旧元箱根村の歴史) このように水利妨害を受けたのは、捏造された証拠をもとに有罪となった須永伝蔵達神奈川県側の方であった。然るに逆川裁判は、明らかな冤罪事件であったと言える。 その背景には、時の明治政府による水力発電を奨励する富国強兵策があった。逆川抗争の仲介者とされる富田鉄之助は、実は東京水力電気という電力会社の中心人物で、箱根用水を水力発電として利用する事を自ら計画していたのであった。芦ノ湖を天然のダム化して貯水し、通年安定した水量を確保する為には、逆川堰留は、関係者にとって必須であったのである。このように逆川裁判での原告静岡県側の勝訴は約束されていたのであった。そして、逆川裁判証拠資料とされた捏造古文書や、明治時代に創作された歴史史料を基礎として、今まで誤った箱根用水の歴史が語られてきたのであった。

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]