朱熹

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朱 熹
Zhu xi.jpg
各種表記
繁体字 朱 熹
簡体字 朱 熹
拼音 Zhū Xī
和名表記: しゅ き
発音転記: ヂュ シー
ラテン字 Chu1 Hsi1
英語名 Zhu Xi
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朱熹
朱熹
廬山の白鹿洞書院朱熹像
四書集注

朱 熹(しゅ き、1130年10月18日建炎4年9月15日〉- 1200年4月23日慶元6年3月9日〉)は、中国南宋儒学者は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄州病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。は文公。朱子しゅしと尊称される。本籍地は歙州婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。

南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。

「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。

その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。

生涯[編集]

父・朱松[編集]

朱熹の祖先は、の末期に朱古僚(一説には朱瓌)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという[1]。その8世の子孫が朱熹の父の朱松1097年 - 1143年)である[1]

朱松は、字は喬年、徽州婺源県の生まれ。1118年(政和8年)、22歳の時に科挙に合格し、福建北部の政和県の県尉に赴任した[2]。その後、1123年宣和5年)に、南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、1127年建炎元年)に靖康の変が勃発し、軍の侵攻が始まった[2]。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともの転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた[3]1130年10月18日(旧暦:建炎4年9月15日)のことである[4]。朱熹の母は徽州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ[3]

その後しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る[5]。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た[5]1137年(紹興7年)に臨安府に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った[5]。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは秦檜が政権を握ると決定的になった[6]。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、1140年(紹興10年)に中央政界から追われて饒州の知事に左遷された[7]。朱松はこれを拒否し、建安の道教寺院の管理職となった[6]

地方に戻った朱松は、息子の朱熹に二程子の学を教えた[8]。朱松はもともと羅従彦を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である楊時)、これを朱熹に伝えたのであった[8]。3年後、朱松は1143年(紹興13年)に47歳で死去した[6]。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲・劉勉之・劉子翬(建安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した[9][10]

なお、母の祝氏は1169年(乾道5年)に70歳で死去した[11]

科挙合格まで[編集]

朱熹は、は元晦または仲晦[4]。幼い頃から勉学に励み、5歳前後の頃に「宇宙の外側はどうなっているのか」という疑問を覚え、考え詰めた経験があった[12]。父の死後は胡憲・劉勉之・劉子翬のもとで学んだ[9]。 朱熹はこの三先生に数年間師事し、直接指導を受けるという恵まれた環境で成長した[13]。ここで朱熹は「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)という方向性が決定づけられ、また一時期に傾斜した時期もあった[14]

同時に、儒教の古典の勉学に励み[15]、18歳の秋に建州で行われた解試(科挙の第一段階の地方予備試験)に合格すると[16]1148年(紹興18年)、19歳の春に臨安で行われた科挙の本試験の合格し、進士の資格を与えられた[17]。同年の合格者には、『遂初堂書目』の著者として知られる尤袤もいる[18]

朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『楚辞』や禅録、兵法書韓愈曾鞏の文章などを読み、学問に没入した[19]。朱熹はこの頃からすでに、従来の経書解釈に疑念を持つことがあった[20]

同安時代[編集]

朱熹は24歳の頃、泉州同安県(現在の福建省廈門市同安区)に主簿として赴任し、持ち前の几帳面さで県庁内の帳簿の処理に当たった[21]。また、県の学校行政を任せられ、教官の充実や書籍の所蔵管理に当たった[22]。朱熹の文集には、彼が出題した試験問題が30余り記録されている[23]。主簿の務めは、赴任して4年目の1156年(紹興26年)7月に任期が来たが、後任が来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞した[24]

この間、朱熹は李侗(李延平)と出会い、師事した[25]。李侗は父と同じく羅従彦に教えを受け[26]、「体認」(身をもって体得すること)の思想、道理が自分の身体に血肉化された深い自得の状態を重視した[27]。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたが、彼の禅宗批判を聞いて同調し、禅宗を捨てることとなった[28]。朱熹は24歳から34歳に至るまで彼の教えを受け、大きな影響を受けた[25]

張栻との出会い[編集]

紹興27年(1157年)、朱熹は同安を去ると、翌年には母への奉養を理由に祠禄の官を求め[注釈 1]、12月に監潭州南学廟に任命された[29]。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的には官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ[30]。朱熹の官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年、朝廷に立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた[31][32]

隆興元年(1163年)朱熹34歳の時、師であった李侗が逝去するが、この頃張栻と知り合い、以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響を与え合った[33]。両者が実際に対面したのは数回だが、手紙のやり取りは50通以上に及んでいる[34]。張栻は、湖南学の流れを汲み、察識端倪説(心が外物と接触して発動する已発の瞬間に現れる天理を認識し、涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点を置いた修養法を説いた[35]乾道3年(1167年)には、朱熹は長沙の張栻の家を訪問し、ともに衡山に登り、詩の応酬をした[36]。朱熹は張栻の「動」の哲学に大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた[36]

四十歳の定論確立[編集]

しかし、朱熹40歳の春、友人の蔡元定と議論をしている時、自身が誤った解釈をしてきたことに気が付き、大きく考えを改めた[37]。従来、朱熹は察識端倪説を信じ、「心を已発」「性を未発」と考え、心の発動の仕方が正か邪かを省察する、という修養の方法にとらわれていた[37]。しかし、ここに至って朱熹は、心は未発・已発の二つの局面を持っており、心の中に情や思慮が芽生えない状態が「未発」、事物と接触し情や思慮が動いた状態が「已発」であると認識を改めた[38]

これにより、未発の状態でも心を平衡に保つための修養が必要であることになり、朱熹はかつて李侗に教わった「静」の哲学がこれに当たると気が付いた[39]。朱熹は、李侗の「静」の哲学を根底に据えた上で、已発の場での修養として張栻の「動」の哲学を修正しながら組み合わせた[40]。後世、これをもって朱熹思想の「定論」が成立したとされる[41]。これを承けて、張栻の側も認識を改め、朱熹の説に接近した[42]

政治家として[編集]

1162年(紹興32年)に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書武芸の教授)への就任を命じられるが、これを辞退して祠官を続けられるように望み、地元の崇安県に戻った。朱熹と朝廷はその後もこうしたやり取りを何度も繰り返している。

1170年乾道6年)には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。1175年淳熙2年)、呂祖謙の誘いで陸象山と会談(鵝湖の会)。互いの学説の違いを再認識して終わった。なお陸象山の死に際して朱熹は「惜しいことに告子を死なせた」と孟子の論敵になぞらえてその死を悼んでいる。

1179年(淳熙6年)からは南康軍(江西省。軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。更に1180年(淳熙7年)には凶作が酷かったので、主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。しかし朱熹はこのように精力的に政治を行った一方で、何度も知事の任命を辞退し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と元の祠官の地位を求めている。

1181年(淳熙8年)、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。ここで朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。中でも1182年(淳熙9年)7月から始まる知台州(台州の知事。台州の治所は現在の浙江省台州市臨海市)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。

これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である[注釈 2]。結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。

偽学の禁[編集]

1189年(淳熙16年)、孝宗が退位してその子の光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年紹熙5年)の孝宗の死後、趙汝愚韓侂冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は長沙の知事から政治顧問(煥章閣待制兼侍講)に抜擢された。しかし功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。

その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。1196年慶元2年)、権力をより強固にするため、韓侂冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年4月23日(旧暦:慶元6年3月9日〉)[4]、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。

朱子の業績[編集]

経書の整理[編集]

論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。この四書への注釈は『四書集注』(『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)に整理され、後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。また、朱熹は経書を用いて科挙制度の批判を行った。朱熹は儀礼に関する研究も行っている。孔子の祭りである釈奠の儀礼を整備したり儒服の深衣の復元などに取り組んでいた。朱熹の儀礼の研究に関する書物としては『家礼』『儀礼経伝通解』がある[43]

朱熹は、五経に関しても注釈を施しており、『易経(周易)』に関する注釈書『周易本義』、『書経』に関する注釈書『書集伝』、『詩経』に関する注釈書『詩集伝』などがある[44]

朱子学の概要[編集]

朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわちであるとする)、仏教思想の論理体系性、道教無極及び禅宗座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。

なお、朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、互いに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」と呼んだ。

朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論中心的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、『タイム』誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。

後世への影響[編集]

朱熹の死後、朱子学の学術思想を各地にいた朱熹の弟子たちが広めた。最終的に真徳秀(1178年 - 1235年)と魏了翁(1178年 - 1237年)が活躍し、朱子学の地位向上に貢献し、1241年に朱子学は国家に正統性が認められた。このような朱子学の流れの中で、朱子学の影響を受け、考証学という学問が形成される。南宋末の王応麟の『困学紀聞』がとりわけ重要で、その博識ぶりは有名であり、朱熹に対して最大限の敬意を払っている。この時代の考証学は、後に博大の清朝考証学に受け継がれる [45]

代に編纂された『宋史』は、朱子学者の伝を「道学伝」として、それ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、によって行法を除く学問部分が国教と定められた。

13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした[46][47]

日本においても中近世、ことに江戸時代に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。

著作[編集]

70余部、460余巻あるとされる。

著作の一部
  • 『朱自家訓』
  • 『四書章句集注』
  • 『参同契考異』
  • 『童蒙須知』
  • 資治通鑑綱目』
  • 『楚辞集注』
  • 『宋名臣言行録[48]編著
  • 『朱熹詩集伝』
その他に『近思録』呂祖謙共著、弟子がまとめた問答録『朱子語類』が存在する。

朱子の書[編集]

朱子の書

朱子はをよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。陶宗儀は、「正書行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要[49])と記している[50][51][52][53]

古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある[54]

韓琦欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のようなを記している。「韓琦の書は常に端厳であり、これは韓琦の胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる[54][55]

朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法[56]の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾黄庭堅米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる[57][50][58][52][59][54][55]

朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる[50][51][58][52]

劉子羽神道碑[編集]

『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は1179年(淳熙6年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。

劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。

劉珙が1178年(淳熙5年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される[52][59][60][58][61]

尺牘編輯文字帖[編集]

『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、1172年(乾道8年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている[52][62][63]

論語集注残稿[編集]

『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で1177年(淳熙4年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm[62][52][57][64]

有名な言葉[編集]

  • 「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として知られており、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩は無い。平成期に入ってから、確実な出典や日本国内での衆知の経緯が詳らかになってきていることについては「少年老いやすく学なりがたし」の記事を参照。
  • 精神一到何事か成らざらん

子孫[編集]

朱熹は朱塾、朱埜、朱在の三子があり、曾孫である朱潜は、南宋翰林学士太学士秘書閣直学士の重臣を歴任するが、高麗に亡命して朝鮮の氏族新安朱氏の始祖となった。

著作注解[編集]

  • 石本道明; 青木洋司 『論語 朱熹の本文訳と別解』 明徳出版社、2017年。ISBN 978-4-89619-941-3OCLC 1016002743https://www.worldcat.org/oclc/1016002743 
  • 市川安司 『近思録』 明治書院〈新釈漢文大系〉、1991年。ISBN 4-625-57037-9OCLC 27647605https://www.worldcat.org/oclc/27647605 
  • 垣内景子; 恩田裕正編 『『朱子語類』訳注』 汲古書院、2007年。ISBN 9784762913006 (順次刊行中)
  • 島田虔次 『大学 ; 中庸』 朝日新聞社〈新訂中国古典選〉、1967年。 NCID BN01486027 
  • 土田健次郎 『論語集注』 1-4巻 平凡社〈東洋文庫〉、2013-2015。ISBN 978-4-582-80841-4OCLC 893481068https://www.worldcat.org/oclc/893481068 
  • 吹野安 『朱熹詩集伝全注釈』 1-9巻、石本道明 明徳出版社、1996-1999。ISBN 4-89619-421-7OCLC 38097787https://www.worldcat.org/oclc/38097787 
  • 湯浅幸孫 『近思録』 たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、1996年。ISBN 4-88692-603-7OCLC 674668248https://www.worldcat.org/oclc/674668248 

参考文献[編集]

朱子の書

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 祠禄の官とは、名目上は各地の道観などの管理がその任務だが、実際には赴任せずに俸給を受け取ることができ、宋代に始まった官吏の優遇ポストである[9]
  2. ^ 「朱熹の友人から讒言があった」「学閥上の争いである」などの説があるが、はっきりしない。

出典[編集]

  1. ^ a b 三浦 2010, p. 59.
  2. ^ a b 三浦 2010, pp. 65-66.
  3. ^ a b 木下 2013, p. 52.
  4. ^ a b c 木下 2013, p. 51.
  5. ^ a b c 三浦 2010, pp. 66-67.
  6. ^ a b c 三浦 2010, p. 68.
  7. ^ 三浦 2010, pp. 28, 68.
  8. ^ a b 三浦 2010, p. 33.
  9. ^ a b c 三浦 2010, p. 34.
  10. ^ 木下 2013, p. 53.
  11. ^ 三浦 2010, p. 78.
  12. ^ 三浦 2010, p. 25.
  13. ^ 三浦 2010, p. 40.
  14. ^ 三浦 2010, p. 41.
  15. ^ 三浦 2010, p. 42.
  16. ^ 三浦 2010, p. 44.
  17. ^ 三浦 2010, p. 45.
  18. ^ 三浦 2010, p. 46.
  19. ^ 三浦 2010, p. 49.
  20. ^ 三浦 2010, p. 52.
  21. ^ 三浦 2010, pp. 94-95.
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  38. ^ 三浦 2010, pp. 158-9.
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  41. ^ 三浦 2010, p. 162.
  42. ^ 三浦 2010, p. 163.
  43. ^ 湯浅邦弘 『概説中国思想史』(新版) ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書房〉、2010年、117頁。ISBN 978-4-623-05820-4 
  44. ^ 木下鉄矢『朱子学』講談社選書メチエ、2013年7月、107頁。ISBN 978-4-06-258558-3
  45. ^ 湯浅邦弘 『概説中国思想史』(新版) ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書〉、2010年10月25日、120-121頁。ISBN 978-4-623-05820-4 
  46. ^ 「科挙からみた東アジア―科挙社会と科挙文化」 東京大学 06年中国社会文化学会大会シンポジウム ニューズレター
  47. ^ 金京欄「日・韓語り物文芸における女性像と担い手たち : 「堤上」説話・「まつらさよ姫」から『沈清歌』まで」『早稲田大学文学学術院』、早稲田大学リポジトリ保管、2005年、 p153。
  48. ^ 新版『宋名臣言行録』梅原郁編訳、ちくま学芸文庫、2015年
  49. ^ 『書史会要』の原文
  50. ^ a b c 中西 P.421
  51. ^ a b 鈴木洋保 P.94
  52. ^ a b c d e f 飯島 P.341
  53. ^ 西川 P.62
  54. ^ a b c 宮崎 PP..17-18
  55. ^ a b 西林 PP..120-121
  56. ^ 中国の書論#楷の定義を参照。
  57. ^ a b 魚住 P.62
  58. ^ a b c 木村卜堂 P.177
  59. ^ a b 日比野 P.170
  60. ^ 日比野 PP..155-156
  61. ^ 中西 P.991
  62. ^ a b 木村英一 PP..156-157
  63. ^ 東京国立博物館(館蔵品詳細、草書尺牘巻)
  64. ^ 中西 P.1037

関連項目[編集]