朝潮型駆逐艦
朝潮型駆逐艦 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 一等駆逐艦 |
艦名 | 天象・地象名 |
前級 | 白露型駆逐艦 |
次級 | 陽炎型駆逐艦 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:約2,000t 公試:2,394t |
全長 | 118.00m |
全幅 | 10.386m |
吃水 | 3.72m(平均) |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 50,000hp |
最大速力 | 34.85kt |
航続距離 | 18ktで4,000浬 |
燃料 | 重油580t |
乗員 | 230名 |
武装(新造時) | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 Ⅱ×2 (または13mm機銃 Ⅱ×2) 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九〇式魚雷16本) 九一式爆雷×36 |
朝潮型駆逐艦(あさしおかたくちくかん)とは、1937年より大日本帝国海軍(以下海軍)が建造した量産型駆逐艦である。
概要
軍縮条約締結の結果、規定排水量内で戦力を拡充するために「初春型駆逐艦」の建造を行うが、排水量を条約規定内に納めるための無理な設計/建造の結果、復元性に問題があり各部に修正が加えられることになる。次いで、初春型の改良型である「白露型駆逐艦」を建造することとなるが、結局、中型駆逐艦で満足できる性能を持つ艦を建造することが不可能と判断した海軍は、軍縮条約を破棄するに合わせ、大型駆逐艦を建造することにした。
特徴
船体そのものは「特型駆逐艦」とほぼ同じ大きさだが、先代2艦種の影響もあって、艦の強度を確保するために排水量は増大している。
武装は、12.7センチ連装砲3基6門と、配置法も含めこれも特型と同じであるが、魚雷発射管は白露型と同じ四連装2基8門であり。対空装備として、ホチキス社の13ミリ機銃を装備する。この兵装配置は、陽炎型駆逐艦と同じでありこの後建造される駆逐艦の雛形になったと言える。
交流電源
朝潮型最大の特徴ともいえるのは、艦内の電気系統を交流としたことである。当時の軍艦は直流を採用していたが、交流化で電気施設のスペースが小さくなったほか、陸上施設から直接電源を取ることができるという利点があった。
設計変更
友鶴事件の教訓を踏まえて計画された本型の当初の計画要目は以下の様であった。
- 基準排水量:1,961t
- 公試排水量:2,370t
- 吃水:3.69m(平均)
- 速力:35kt
- 燃料:重油387t
しかし1番艦「朝潮」の起工後すぐに第4艦隊事件が発生し、設計変更を余儀なくされた。設計変更後の要目は性能諸元の数値を参照されたい。排水量は当初計画より更に増し速力も35ノットに及ばない34.85ノットとされた。ただ実際の公試成績は(以下は「大潮」の成績)
- 速力:35.98ノット(計画は34.85ノット)
- 航続距離:18ノットで5,190カイリ(計画は4,000カイリ)
と計画を大幅に超過している。用兵側は速力と航続距離に不満があり陽炎型駆逐艦を計画したが、実際には十分満足いく値であった。
また、竣工後に旋回圏の大きいことがわかり艦尾水線下の形状を鋭角に変更し、舵の形状も変更する工事をしている。
臨機調事件
更に1937年(昭和12年)12月に朝潮のタービンの開放検査をしたところ、タービン翼の一部が破損していることが発見され、翌年1月19日に臨時機関調査委員会を組織し原因究明が行われ、一時は日本海軍全艦艇に問題があるのではないかと思われた(臨機調事件)。調査の結果、原因はタービン翼の共振であること、また朝潮型に搭載されたタービン特有の現象で他の艦艇には問題が無いことがわかった。その後に共振対策が施され以後問題はなくなった。
機銃
機銃は計画では13mm連装機銃2基4挺であるが1938年(昭和13年)の年報では朝潮のみ25mm連装機銃2基装備となっている。また荒潮の公式図では毘式40mm単装機銃2挺を装備しているが写真などからの確認はできていない。
大戦中の機銃増備についても不明な点が多い。あ号作戦ごろの朝潮型においては第2砲塔を撤去し25mm3連装機銃2基を装備、13mm機銃は25mm3連装機銃と交換、艦橋前に機銃台を設置し25mm連装機銃1基を設置し、合計25mm3連装機銃4基、連装機銃1基を装備した。その他25mm単装機銃を装備したものと思われる。
魚雷
建造当初は九〇式魚雷(空気式魚雷)を搭載していたが、1941年(昭和16年)の開戦前までに九三式魚雷(いわゆる酸素魚雷)搭載に改装されたとおもわれる。
水測兵器
竣工時にはソナー等の水測兵器は持っていなかったが1940年(昭和15年)に九三式三型探信儀が朝潮型6艦に搭載された。残りの4艦も搭載と推測される。
建造
朝潮型は1939年(昭和14年)の霞の竣工を最後に全10隻がそろった。しかしながら前述したとおり、船体重量が増加したことによる速度・航続距離の低下に海軍は不満であり、改良型ともいえる「陽炎型駆逐艦」に移行することとなる。
戦歴
「朝潮」以下4隻は開戦時第8駆逐隊を編成しマレー上陸作戦等、緒戦の各地攻略作戦に参加。ミッドウェー海戦には第7戦隊(最上型4隻)直衛として参加している。その後はソロモン方面へ進出し1943年(昭和18年)に入り「朝潮」「荒潮」「大潮」がいずれもソロモン方面で戦没。残った「満潮」はレイテ沖海戦において第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)の一員として参加しスリガオ海峡で戦没した。
「朝雲」以下4隻は開戦時第9駆逐隊を編成し第8駆逐隊同様各地の攻略作戦に参加している。うち「山雲」は1941年(昭和16年)12月のリンガエン上陸作戦中に触雷し、修理のため翌年9月まで戦列を離れた。「夏雲」「峯雲」は1942年(昭和17年)10月と翌年3月にソロモン方面で戦没している。残った「朝雲」は復帰の「山雲」、第8駆逐隊生き残りの「満潮」とともに西村艦隊に所属しレイテ沖海戦に参加、3隻ともスリガオ海峡で戦没した。
「霰」「霞」は陽炎型の「陽炎」「不知火」と第18駆逐隊を編成し第一航空艦隊(南雲艦隊)空母を直衛、真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦などに参加する。その後「霰」は1942年(昭和17年)7月にキスカ湾で戦没する。この時「霞」も雷撃により損傷した。修理完了後は北方部隊に編入され船団護衛任務についた。レイテ沖海戦では第二遊撃部隊(志摩艦隊)に所属しスリガオ海峡海戦に参加したが生還する。その後オルモック輸送作戦3回、礼号作戦などに参加。最後は大和とともに坊ノ岬沖海戦に参加したが、敵機の攻撃により航行不能となり、味方に処分された。
同型艦
竣工順に記載
- 朝潮 [II](あさしお / あさしほ)
- 1937年8月31日竣工(佐世保海軍工廠) 1943年3月3日沈没
- 大潮(おおしお / おほしほ)
- 1937年10月31日竣工(舞鶴海軍工廠) 1943年2月20日沈没
- 満潮(みちしお / みちしほ)
- 1937年10月31日竣工(藤永田造船所) 1944年10月25日沈没
- 荒潮(あらしお / あらしほ)
- 1937年12月20日竣工(神戸川崎造船所) 1943年3月3日沈没
- 山雲(やまぐも)
- 1938年1月15日竣工(藤永田造船所) 1944年10月25日沈没
- 夏雲(なつぐも)
- 1938年2月10日竣工(佐世保海軍工廠) 1942年10月12日沈没
- 朝雲(あさぐも)
- 1938年3月31日竣工(神戸川崎造船所) 1944年10月25日沈没
- 峯雲(みねぐも)
- 1938年4月30日竣工(藤永田造船所) 1943年3月5日沈没
- 霰 [II](あられ)
- 1939年4月30日竣工(舞鶴海軍工廠) 1942年7月5日沈没
- 霞 [II](かすみ)
- 1939年6月28日竣工(浦賀船渠) 1945年4月7日沈没
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦Ⅱ』(光人社、1990年)