帝都電鉄モハ100形電車

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帝都電鉄モハ100形電車(ていとでんてつもは100がたでんしゃ)は、現在の京王電鉄井の頭線の前身である帝都電鉄1933年の帝都線開業に際して製造した通勤形電車である。

本項では同系車のモハ200形クハ250形および後身となる各形式についても記述する。

概要[編集]

城西電気鉄道(後に渋谷急行電鉄へ改称)が取得し、小田原急行鉄道の総帥であった利光鶴松配下の東京山手急行電鉄(後に東京郊外鉄道を経て帝都電鉄へ改称)の手で建設された帝都線のための車両として、川崎車輌によって設計された。設計当時としては典型的な設計の郊外私鉄向け電車である。

1933年8月1日の帝都線渋谷 - 井の頭公園間12.1kmの開業に備え、以下の各車が製造された。

  • モハ100形101 - 109
    1933年7月 川崎車輌兵庫工場製 両運転台式制御電動車(Mc)

更に1934年4月1日の井の頭公園 - 吉祥寺間0.7kmの開業後、乗客増に対応して以下の各車が順次増備された。

  • モハ200形201 - 204
    1934年10月 日本車輌製造東京支店製 両運転台式制御電動車(Mc)
  • モハ200形205 - 208
    1936年10月 日本車輌製造東京支店製 両運転台式制御電動車(Mc)
  • クハ250形251 - 254
    1938年5月 日本車輌製造東京支店製 両運転台式制御車(Tc)
  • クハ250形255・256
    1940年9月 日本車輌製造東京支店製 両運転台式制御車(Tc)
  • クハ250形257 - 260
    1941年4月 日本車輌製造東京支店製 両運転台式制御車(Tc)

なお、クハ255以降は小田原急行鉄道に合併後に竣工しており、帝都電鉄には入籍していない。

車体[編集]

帝都電鉄100形107(1936年3月24日)

いずれも設計当時としては一般的な、リベット組み立てと溶接を併用し、窓の上下にそれぞれウィンドウヘッダー・ウィンドウシルと呼ばれる補強帯板が露出して取り付けられた、17.5m級半鋼製車体を備える。

極力不要な梁を排した軽量構造の台枠上に、定尺鋼板を効率よく使用して構成された腰板と、低い幕板部の間に幅800mm、高さ1,000mmの大きな下段上昇式の側窓[1]を並べ、前照灯を幕板中央に置き、更に浅い鋼板製の屋根を載せた明朗な車体設計はメーカーである川崎車輌が1930年に手がけた湘南電気鉄道デ1形(後の京急230形)との共通点が多く、1930年代における岡村馨技師長を筆頭とする川崎車輌技術陣の標準的な作風を示す。

それに対し窓配置は全車ともにd1D(1)3D(1)3D(1)1(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)で妻面は半流線型で窓を3枚並べ、内2枚は下段上昇式、運転台の1枚は1段固定窓でひさし付きとなっていて、幕板中央部に前照灯を、前面向かって左側の腰板下部には標識灯をそれぞれ1灯ずつ備える。

これはやはり本形式のメーカーである川崎車輌が1931年より日本車輌製造と共に設計・製造に参加した目黒蒲田電鉄東京横浜電鉄向けモハ510形のそれを踏襲した配置であり、片隅式の運転台や前面運転台窓へのひさしの設置[2]、それに車体幅の半分程度の幅に留められた鋳鋼製アンチクライマーなどにその影響が色濃く現れている。

つまり本形式の車体は湘南デ1形と東横・目蒲モハ510形を折衷したデザインや構造となっており、平凡ながらリベットが少なく軽快でバランスの取れたその外観は竣工当時の愛好者達の人気を集めた。

塗装はチョコレート色1色を基本とし、屋根部を鉛丹仕上げとしている。

定員は100名、内座席定員は40名で座席はロングシートを採用する。運転台は前述の通り片隅式の配置となっており、運転台と反対側の座席は車端部まで延長されている。この運転台は下半分のみ板で仕切り上部は柱のみ立てて必要に応じて夜間のみカーテンを降ろす構造としてあって、開放的な室内を演出している。また車内各扉部中央には、当時郊外電車などで一般的に採用されていたスタンション・ポールと呼ばれるつかみ棒が立てられていた。

本形式は新規開業線向けであったためか当初より全車各扉共にドアエンジンを装備した自動扉車として竣工している。そのため客用扉には乗客に注意を喚起する目的で「此扉は自動的に開閉致しますから御注意下さい」の注意書きが表記されていた。

なお、モハ100形のこの車体構造はメーカーを変えて日本車輌製造東京支店で製造されたモハ200・クハ250形でもほぼ忠実に再現されている。相違は屋根部材の接合部の工作法と、これに伴う屋根の若干の形状変化程度に留まっていた。

主要機器[編集]

東京山手急行電鉄線の建設計画が存在した時期に設計されたため、モハ100形には帝都線で使用する範囲では過剰性能となる比較的大出力の主電動機が搭載された。また一体鋳鋼製台車枠や自動加速制御器の採用など、設計当時最新の技術が盛り込まれているのが特徴である。

主電動機[編集]

モハ100形は芝浦製作所SE-139B[3]を、モハ200形は東洋電機製造TDK-516[4]を、それぞれ各台車に2基ずつ吊り掛け式で装架する。

制御器[編集]

イングリッシュ・エレクトリック社(English Electric Co.:EE社)の前身の1つであるディック・カー・アンド・カンパニー(Dick, Kerr & Co.)が開発した、通称「デッカー・システム(DICK-KERR SYSTEM)」の系譜に連なる電動カム軸式自動加速制御器である東洋電機製造ES-509を搭載する。この制御器はマスコンハンドルにばねによる跳ね上げ機構を内蔵した押し下げボタンを用いたデッドマン装置を備えており、乗務員が運転中、何らかの事故等によりこのボタンから手を離すと自動的にブレーキが機能するように設計されている。

なお制御車であるクハ250形は車体が電動車と同一の片隅運転台による両運転台構造として設計されたが、実際には吉祥寺寄りの運転台にのみ主幹制御器等の制御機器が設置されており、渋谷寄りについては運転台スペースが用意され尾灯は設置されていたものの前照灯は取り付け金具のみの準備工事に留められ運転台機器も未設置状態であった。そのため同形式は吉祥寺向き制御車として運用されていた。

台車[編集]

モハ100形については川崎車輌がボールドウィンA形台車の台車枠を一体鋳鋼製部品で置き換えて設計した、軸距2,430mmの釣り合い梁式台車を装着する。この台車は特にメーカー固有形式を与えられていなかったが、後の京王帝都電鉄時代に社内形式としてK-3の名を与えられた。

本形式の設計された1933年は、大阪市電気局100形住友製鋼所KS-63LとしてこのK-3と同種の一体鋳鋼製台車枠を備えた釣り合い梁式台車が製造された直後の時期であり、後の京王帝都電鉄時代にK-3と呼称されることとなるこの台車はいわば当時の最新トレンドを取り入れた最先端技術の結晶であった。

川崎車輌はコイルばねを積極的に導入した上毛電気鉄道デハ100型電車用KO台車や吉野鉄道モハ201形電車用台車に見られるように、こと電車用台車に関しては野心的な設計を導入する傾向が戦前から強く[5]、これもその技術的な潮流に乗ったものであった。

鋳鋼製台車枠は通常の形鋼組み立て式の台車枠と比較して重量が重くなるものの丈夫でゆるみが一切発生せず、保守が容易というメリットがある。そのため後年軸受のローラーベアリング化は行われたものの、このK-3台車は第二次世界大戦後、本形式の井の頭線残存車が淘汰されるまで長く装着され続けた。

それに対し、モハ200・クハ250形は同じく釣り合い梁式ながら台車枠を従来通り組み立て式として軸距を2,100mmへ短縮することで大幅に軽量化した、一般的な設計の日本車輌製造D-18台車を装着する。

こちらの設計は台車枠の軽量化によりばね間重量が軽減されるというメリットがあったが、部材接合部の緩みを定期的に締め直す必要があるなど日常の保守に手間のかかる構造であり、戦後はK-3が極力残される一方でこちらは台車振り替えにより順次その数を減じている。

なお、これらはいずれも新造時には一般的な平軸受を備えて完成している。

ブレーキ[編集]

全車共にウェスティングハウス・エア・ブレーキ社(WABCO)が設計したM三動弁による元空気溜管式M自動空気ブレーキの、日本エヤーブレーキ社によるライセンス生産品を搭載する。

このブレーキシステムは運転台に搭載するブレーキ制御弁を自動空気ブレーキ専用のM23弁ではなくブレーキ機能の切り替え動作に対応するM24弁とし、下部に二方コックを取り付けてここを操作することで連結運転用の自動空気ブレーキと単車運転用の直通ブレーキを切り替え可能としている[6]

運用[編集]

1574(駒場駅、1952年撮影)

新造[編集]

開業時に9両が用意されたモハ100形は帝都電鉄線の主力車として重用された。

その後増備されたモハ200形8両は開業後単行での運転が多かったモハ100形の運用実態に合わせて電動機が低出力化されたが、これは制御車の増結に当たって出力不足が問題となった。 このため2両が製造されたクハ500形や10両が製造されたクハ250形を主に充当する渋谷 - 永福町間の区間運用は電動機出力の大きなモハ100形が限定運用され、低出力のモハ200形は単行あるいはモハ200形のみによる2両編成で渋谷 - 吉祥寺間の直通運用を主体に運用された。

もっとも制御車の増備が進むと、車両運用のやりくりが付かずモハ200形1両に制御車1両を増結した編成での運転を強いられる状況が生じており、モハ200形が低出力であったが故にモハ100形の性能を前提としたダイヤでの定時運転は難しく、また電動機に過負荷がかかることから車両故障も多発したとされる。

合併[編集]

1940年5月1日に帝都電鉄は経営難から資本系列が同一の小田原急行鉄道に合併されたが、この際には改番は実施されずそのままの陣容で運用が続けられた。

更に1942年5月1日の小田原急行鉄道の大東急への合併で帝都線は同社井の頭線へ改称された。この際、同線在籍の各車は他社形式との車号の重複を避けて元の小田原急行鉄道の各形式と同じ1000番台の枠内で整理され改番されることになった。これに伴い、旧帝都電鉄の車両は製造初年が小田原急行からの引継ぎ車両よりも新しかった[7]ためかそれらの続番が与えられ、1400・1500番台に区分された。

  • モハ100形101 - 109 → デハ1400形1401 - 1409
  • モハ200形201 - 208 → デハ1450形1451 - 1458
  • クハ250形251 - 260 → クハ1550形1551 - 1560

焼失[編集]

もっとも旧帝都電鉄の車両が新車番で全車が揃って運用されていた期間は短かった。1945年5月25日から同月26日にかけてアメリカ陸軍航空軍が実施した戦略爆撃東京大空襲#その後の空襲参照)によって井の頭線の車両基地であった永福町車庫が被災、同車庫に留置されていた以下の計22両が焼失した[8]

  • デハ1400形1401 - 1403・1406 - 1409
  • デハ1450形1451 - 1456
  • クハ1550形1551 - 1559

これにより井の頭線において稼働可能な車両は電動車がデハ1404・1405・1457・1458、および1943年に小田原線から転入していたデハ1366の計5両、制御車がクハ1560および旧帝都電鉄クハ500形であるクハ1502の2両のみと壊滅的な打撃を受けた。

復旧[編集]

空襲後、東京急行電鉄は急遽京浜線向け新造制御車クハ5350形(後のデハ1710形)や東横線向け新造電動車デハ3550形(後のデハ1700形)を井の頭線へ投入する一方で、永福町で焼失した各車については可能な範囲で修理・復旧工事を実施した。

もっとも車体の状態が悪い電動車については台枠などの強度面の不安から電装は困難であり、また制御車についても運用の都合上、井の頭線の主力となった新造電動車と共通のMMC制御器を搭載する車両を増やす必要があった。

そこで戦災復旧車のうちデハ1407 - 1409・1451 - 1456およびクハ1555 - 1558はデハの電動車としての復旧を断念し、一括してMMC制御器搭載の制御車であるクハ1570形へ改造・改番された。

クハ1570形となった各車の番号対応および復旧時期は以下の通り。

  • クハ1556→クハ1571 1946年11月
  • クハ1555→クハ1572 1946年11月
  • クハ1557→クハ1573 1947年1月
  • クハ1558→クハ1574 1947年2月
  • デハ1451→クハ1575 1947年7月
  • デハ1452→クハ1576 1947年9月
  • デハ1453→クハ1577 1947年5月
  • デハ1454→クハ1578 1947年9月
  • デハ1455→クハ1579 1948年1月
  • デハ1456→クハ1580 1947年8月
  • デハ1408→クハ1581 1947年4月
  • デハ1409→クハ1582 1947年3月
  • デハ1407→クハ1583 1948年2月

また、改番は伴っていないが、やはり空襲で被災したデハ1401 - 1403・1406およびクハ1551 - 1554・1559の各車についても同時期に同様の車体復旧工事が実施されている。

転出[編集]

この内、比較的被害が少なかったデハ1401はクハ1553・1554および元小田急車であるデハ1366[9]と共に同一番号のままで1947年11月に東横線へ転出[10]し、また同じく1947年11月に空襲での被災を免れたデハ1458がやはり被災を免れたクハ1502と共に小田急線へ転出している[11]

これらの転出車は翌1948年6月1日の東京急行電鉄解体→京王帝都電鉄成立に伴い、そのまま転出先各線の帰属会社籍に編入されている。

なお、大東急統合後は車体の塗装が戦前のチョコレート色1色からダークグリーン1色へ変更され、更に京王帝都電鉄成立後は順次ライトグリーン1色に再変更されている。

更新[編集]

この後、京王帝都電鉄に編入された井の頭線に残った各車については、特に復旧車は車体に火が通っていて強度に不安があり、実際にクハ1551が吉祥寺駅構内の転轍ミスで橋桁に車体側面を衝突させ、台枠が変形してしまい復旧後わずか3か月で廃車となったことから、世相が安定し始め、また1950年のデハ1760形竣工で井の頭線の車両数に余裕ができたことから、これらの復旧車について車体の新造による載せ替え工事が開始された。

1950年度[編集]

最初に着手されたのが、戦災復旧車であるクハ1550形およびクハ1570形で、1950年度の予算で以下の3両が台枠流用により同一仕様で東京急行電鉄横浜製作所(後の東急車輛製造)で更新された。

  • クハ1552→クハ1558(2代目) 1950年7月
  • クハ1559 1951年3月
  • クハ1581 1951年8月

なお、クハ1552のみ改番されているが、これは当時存在した空番を埋めて車番整理を実施する意図があったためとされる。窓配置は従来通りd1D(1)3D(1)3D(1)1で、全室式運転台を吉祥寺寄りに設置する片運転台式制御車となっている。

1951年度[編集]

さらに状況が好転し始めたことから、1951年度予算での更新車は台枠を流用せず車体新製することに変更され、東急横浜製作所と日本車輌製造で以下のように18m級に延伸し窓幅を900mmに拡大した京急デハ300形と同様の、つまりデハ1710形の寸法を引き継ぐデハ1760形と同一仕様の車体を新造して載せ替える工事を実施した。

  • クハ1571 1951年12月 日本車輌製造
  • クハ1573 1951年12月 東急横浜製作所
  • クハ1574 1952年2月 日本車輌製造
  • クハ1575 1952年2月 日本車輌製造
  • クハ1577 1951年12月 日本車輌製造
  • クハ1579 1951年12月 日本車輌製造
  • クハ1583 1952年3月 日本車輌製造

これらも窓配置がd1D(1)3D(1)3D(1)1の、全室式運転台を吉祥寺寄りに設置する片運転台式制御車である。これらでは車体の仕上がりが格段に向上し、また前照灯が屋根に埋め込み式となるなど、外観面でも新車をアピールする要素が盛り込まれている。

1952年度[編集]

翌1952年度には車両増を受けて渋谷 - 永福町間で3両編成運転が開始され、さらに吉祥寺向きの片運転台式制御電動車(Mc)であるデハ1800形1804 - 1808を新製投入して全線での3両編成化が実施されることとなった。

そのため、残る戦災復旧車の更新についてもこの新造車に合わせた設計に変更されることとなり、デハ1400形とクハ1570形の残存未更新車全車について以下の通り更新工事が実施された。

まず、デハ1400形については台車をはじめとする主要機器を流用、東京急行電鉄横浜製作所でデハ1800形1804以降と同じ車体を新造して、渋谷向きの片運転台式制御電動車となった。

  • デハ1402→デハ1801 1952年8月
  • デハ1403→デハ1802 1952年8月
  • デハ1406→デハ1803 1952年8月

これらはデハ1760形を基本としつつ、張り上げ屋根を採用するなど同時期の他社での流行を取り入れた設計となっている。

また、クハ1570形の未更新で残っていた5両については以下の通りデハ1800形などの電動車を両端につないだ3両編成の中間車とすべく、デハ1800形と共通仕様のサハとしてこれらも東京急行電鉄横浜製作所で更新が実施されている。

  • クハ1572→サハ1305 1952年9月
  • クハ1576→サハ1301 1952年9月
  • クハ1578→サハ1304 1952年9月
  • クハ1580→サハ1302 1952年9月
  • クハ1582→サハ1303 1952年9月

これらは窓配置2D(1)3D(1)3D(1)1で両妻面に広幅貫通路を備え、デハ1800形と同様に張り上げ屋根構造を採用して編成としての外観の統一が図られている。

なお、東急横浜製作所で最後に更新されたクハ1572・1578・1582の3両の旧台枠や柱などの構体の一部は、状態が比較的良好であったためか東急車輛製造による相模鉄道クハ2500形2508(1954年製)、モハ2000形2015・2016(1955年製)の車体新製時に流用されたとされる。この内モハ2015・2016は1971年に実施された2000系2100系への更新で不要となった旧車体が再度東急車輛製造→西武鉄道所沢工場経由で改造・機器取り付けの上で伊予鉄道へ売却され、同社のモハ130形131・132として1991年まで使用の後、廃車解体されている。

これらの新造車と更新車の竣工により、井の頭線全線において広幅貫通路を備えた3両編成での列車運行が開始されている。

改番[編集]

かくして24両の戦災復旧車全車について車体更新による全復旧工事が完了したが、制御車については特に車番と形状が錯綜した状況となっていたため、1952年10月に未更新車を含めて以下の通り車番の整理が実施された。

クハ1200形
  • クハ1560→クハ1201
  • クハ1558(2代目)→クハ1202
  • クハ1559→クハ1203
  • クハ1581→クハ1204
クハ1250形
  • クハ1579→クハ1251
  • クハ1577→クハ1252
  • クハ1575→クハ1253
  • クハ1574→クハ1254
  • クハ1571→クハ1255
  • クハ1583→クハ1256
  • クハ1573→クハ1257

改造[編集]

一方、空襲で被災しなかったデハ1400・1450形の残存車であるデハ1404・1405・1457の3両は、運転室の全室化[12]や主制御器のオリジナルのES-509から電動カム軸式自動加速制御器である日立製作所MMC-H-200Bへの交換[13]、長大編成化に伴う自動空気ブレーキの応答性の良いA動作弁によるAブレーキへの換装[14]、それにデハ1457の台車および主電動機の交換[15]、といった工事を施工後、順にデハ1402・1401・1403(いずれも2代目)に改番されている。

これらはその後も井の頭線で使用されたが、運転台ひさしの撤去や前照灯の2灯化改造、ウィンドウシル・ウィンドウヘッダーの補強などが実施されて本来の軽快さを喪った。

転用[編集]

1964年7月にはクハ1200形は全車とも運転台を撤去して中間車化、サハ1200形1201 - 1204へ改番され、更に1966年8月にサハ1202が京王線へ転属、翌1967年9月にはサハ1203・1204がクハ1203・1204へ復元された上で、改軌に伴い台車を5070系→5100系の台車交換で不要となった、2700系由来の東急車輛TS-101へ交換したデハ1401 - 1403やデハ1801 - 1803と共にこちらも京王線へ転属となった。

これらは主に動物園線競馬場線高尾線と3つの支線を中心に運用され、1969年の京王線系統ATS稼働開始に備えてデハとクハにはATS機器の搭載工事が実施されている。

また、井の頭線に残ったクハ1250形は1970年11月に中間車化されてサハ1250形1251 - 1257となり[16]、サハ1300形と共にデハ1900形などの編成に組み込まれるようになった。

廃車[編集]

伊予鉄道130形電車133(元デハ1400形1402) 小田急デニ1000形(元モハ208の車体を流用)
伊予鉄道130形電車133(元デハ1400形1402)
小田急デニ1000形(元モハ208の車体を流用)

その後、京王線系統へ転出したデハ1400形とクハ1200・サハ1200形は6000系の増備で1974年までに全車廃車となり、同時期廃車のデハ1402・1403とクハ1203・1204と共に伊予鉄道へ譲渡[17]され、奇しくも本形式由来の台枠を備えるモハ131・132の続番としてモハ130形133 - 136となった後、1988年までに全車廃車解体された。

井の頭線に最後まで残ったサハ1200・1250・1300形もサハ1200形が1977年、サハ1250・1300形も1984年までに全車廃車解体されている。

また、小田急線へ転出した2両の車体を流用した小田急デユニ1000形→デニ1000形[18]も同じ1984年に廃車解体されており、帝都電鉄由来の電車はこの年に社名の由来となった帝都=首都圏から全車姿を消している。

帝都電鉄→京王井の頭線の創業期を支えた重要な車両であるが、以上のような事情から保存車は存在しない。

参考文献[編集]

  • 『日本車輛製品案内 昭和5年(NSK型トラック)』、日本車輛製造、1930年
  • 合葉博治・池田光雅『カラーブックス 日本の私鉄11 京王帝都』、保育社、1981年
  • 『鉄道ピクトリアル No.422 1983年9月臨時増刊号<特集>京王帝都電鉄』、電気車研究会、1983年
  • 合葉博治「帝都線の電車」、『鉄道ファン1984年7月 No.279』、交友社、1984年
  • 『鉄道ピクトリアル No.468 1986年8月臨時増刊号<特集>相模鉄道』、電気車研究会、1986年
  • 『鉄道ピクトリアル No.578 1993年7月臨時増刊号<特集>京王帝都電鉄』、電気車研究会、1993年
  • 日本車両鉄道同好部 鉄道史資料保存会 編著 『日車の車輌史 図面集-戦前私鉄編 上』、鉄道史資料保存会、1996年
  • 川崎重工業株式会社 車両事業本部 編 『蒸気機関車から超高速車両まで 写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史』、交友社(翻刻)、1996年
  • 鉄道友の会 編集 『高田隆雄 写真集 追憶の汽車電車』、交友社、1998年
  • 『鉄道ピクトリアル No.672 1999年7月臨時増刊号<特集>相模鉄道』、電気車研究会、1999年
  • 鉄道史料編集部「帝都電鐵モハ200形明細図」、『鉄道史資料保存会会報 鉄道史料 第98号』、鉄道史資料保存会、2000年、pp.49-54
  • 『鉄道ピクトリアル No.734 2003年7月臨時増刊号<特集>京王電鉄』、電気車研究会、2003年

脚注[編集]

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  1. ^ 上段窓高さは340mm、下段窓高さは540mmで桟の幅は各40mm。
  2. ^ もっともこの意匠は川崎が1929年に製造した吉野鉄道モハ201や1931年に製造した淡路鉄道キハニ1形、それに本形式と同じ1933年に日本車輛製造と川崎が1両ずつ納品した小湊鉄道ジハ100形などでも採用されており、同時期の川崎製私鉄向け車両の標準的な装備品であった。
  3. ^ 端子電圧750V時1時間定格出力105kW。戦前の公称定格出力は125馬力(94kW)とされるが、これは端子電圧を1割の電圧降下を見込んで675Vとして計算した値とほぼ一致する。
  4. ^ 戦前の公称出力は75馬力(56kW)。これはイングリッシュ・エレクトリック社製DK-31を、同社の日本におけるライセンス供与先である東洋電機製造でスケッチ生産した機種で、合併前の京王電軌が同等品をTDK-31-Nと称して標準電動機として多数採用していた。日本における電動機国産化の黎明期の製品であったためか、他社での1時間定格出力は端子電圧600V時56kW/705rpmなど、納入先によりその公称出力が52 - 63kW前後と大きな相違があったことで知られる。
  5. ^ その伝統は第二次世界大戦後、川崎車輌OK形台車として開花することとなる。
  6. ^ もっともこれは連結時に乗務員がコックの切り替えを失念して直通ブレーキのままで連結運転を行うなど、誤操作によるトラブルが頻発したことから、連結運転が増えた後年は直通ブレーキとしての機能を殺して自動空気ブレーキのみ機能するように変更されている。
  7. ^ 合併の時点で小田原急行では仮称モハ1000形の製作が進み、また先行してクハ601形の投入が1941年から始まっていたが、これらは旧帝都車の後の1600番台形式が割り当てられた。
  8. ^ この空襲では他にデハ1367・クハ1501が焼失しており、井の頭線全体では24両の焼失となった。
  9. ^ 帝都線→井の頭線運用期間中に故障が発生して電装品と台車を一揃えでデハ1400形の予備品と交換していた。
  10. ^ これらは後の車体更新でデハ1401・1366がデハ3553・3554、クハ1553・1554がサハ3366・3365となった。この更新で余剰となった旧車体はデハ1366のものがデワ3041の鋼体化用に転用され1981年まで使用されたが、本系由来の3両のものはいずれも更新時に解体されている。詳細は東急3000系電車 (初代)#デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形を参照。
  11. ^ これらはそれぞれ小田急デハ1501・クハ1551となった後、車体更新でデハ1914およびクハ1964となり、この更新で余剰となった旧車体は2両とも1960年デユニ1000形の車体更新に活用されている。詳細は小田急1500形電車を参照。
  12. ^ これに伴い乗務員扉が車掌台側にも追加設置され、窓配置はd1D(1)3D(1)3D(1)dとなっている。
  13. ^ これは井の頭線へ戦後新製投入されたデハ1700・1710形の機器に合わせた仕様変更である。
  14. ^ これは京王帝都電鉄への移管後、各形式について順次実施されている。
  15. ^ デハ1400形の被災車から捻出した物と交換された。これにより台車は川崎車輌K-3へ、主電動機は芝浦SE-139Bへ、それぞれ交換されている。東横線へ転出したデハ1366・1458についても、転出前にそれぞれ同じ改造が実施されている。
  16. ^ なお、クハ1250形には本形式由来の1251 - 1257の他、デハ1760形1761・1762の電装解除により登場した1258・1259が存在する。この2両は他車と異なり渋谷向きに運転台が設置されていた。1969年にデハ1760形の残存車1763が1970年にクハ1251 - 1257が中間車化された際も運転台撤去はされずに残り、1980年に廃車となっている。
  17. ^ この際、デハ1800形1802・1803も電装解除と中間車化改造を実施された上で譲渡され、サハ510形511・512となっている。
  18. ^ 1971年の郵便輸送廃止で改形式。

関連項目[編集]