塩の道 (日本)

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塩の道とはは塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道のことをいう。また逆に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた道でもある。 日本はことに動物性タンパクに依らない食生活であったことや、製塩が化学製法になったり、専売法に依る規制がかけられる以前は海辺の塩田に頼っていたことから、日本の各地で、海と山を結ぶかたちで数多くあった。 日本各地にあった塩の道は、現在も整備された形で生活物資輸送の主要なルートとして残っている。

また海外においても、マレーシアボルネオ島サバ州の世界最大の花ラフレシアが咲くクロッカー山脈公園を横切る塩の道をはじめ、各地に存在している。

代表的な塩の道[編集]

千国街道(ちくにかいどう)(糸魚川街道、松本街道とも呼ばれる、新潟県糸魚川から長野県大町そして松本塩尻)や、 三州街道(伊那街道、飯田街道とも呼ばれる、愛知県岡崎から長野県飯田、塩尻)、 秋葉街道静岡県御前崎から長野県飯田、塩尻) などが日本の塩の道を代表している。

これは、①古来からの旧道が多く残っていて観光道・トレッキングルートとして整備されていたり、②景観にすぐれ、四季の変化がはっきりしていること、③古事記奴奈川姫大国主、その子である建御名方神諏訪大社の祭神)や、「上杉謙信武田信玄敵に塩を送る」などといった神話・伝説が数多くあること、④フォッサマグナ糸魚川静岡構造線)に沿っていることから地質学的興味を起こされること、⑤近年ブームになっているパワースポットがルート付近にあること、などなどの魅力によるものと考えられる。

これらの街道沿いには、宿場町、城下町、神社、寺院があるほか、当時の道標、道祖神、二十三夜塔庚申塔馬頭観音牛頭観音(道中死亡した馬や牛の霊を慰める観音)、塩倉(長野県小谷村千国)、牛方宿(人と牛が泊まれる宿。長野県小谷村沓掛)が残っていたり、番所(長野県小谷村千国)が復元されるなど、歴史観光ルートやトレッキングコースになっている。

塩の道を歩くグループやツアーなども多くある。地元教育委員会など行政系のもの、学識経験者が中心になって主宰しているもの、子ども向けに野外活動団体が開催しているものなどがある。旅行業者が主催する観光ツアーの一部に塩の道の散策や名所見学が組み込まれることもある。

一般の人が参加しやすい催しとしては、毎年5月のゴールデンウィークに長野県小谷村白馬村大町市で開催される塩の道祭りがある。当時の歩荷(ぼっか。その昔、荷物を背負ったり、荷物を載せた牛や馬を連れて歩いた人のこと)や旅芸人、旅人などに扮して歩いたり、その様子を撮影し写真を応募する企画もある。

宿駅[編集]

千国街道[編集]

信濃側では糸魚川街道、越後側では松本街道と呼称された。沢渡宿と佐野宿、飯田宿と飯森宿は併せてひとつの宿として機能した。

三州街道[編集]

足助街道[編集]

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三河湾(碧南市や一色町や吉良町など)で取れた三州塩を矢作川とその支流の巴川を舟で遡って豊田まで運び、そこから馬で信州まで運ぶ「塩の道」。奥三河、足助の宿は中馬(馬で荷物を運送する業者)などで輸送された塩や茶荷などをここで積みかえられて信州方面へ送られた。伊那地方では「足助塩」とか「足助直」とよばれるほど、足助は中馬としての位置を占めていた。

故事 敵に塩を送る[編集]

敵の弱みにつけこまずに、逆にその苦境から相手を救うという意味で使われる。 戦国時代、海側からの塩の流通が止まり、甲斐武田信玄の領地で塩が不足して苦しんでいることを知った上杉謙信が、塩を送ったとされる故事で、その塩が運ばれたのが千国街道であると言われることがある。しかしながら、当時の資料からは、塩止め(荷留)をしたという事実は無いと考えられ、後世の人の作った美話とされている。

塩の道を歩くときの注意[編集]

必ずしもメジャーな観光地ばかりではないので、宿泊場所、ルートなど、十分に情報を収集されたい。山道は、しばしば崩落していたり、夏は草が茂っていたり、春は残雪が多かったりする。近年、かもしか、熊などの目撃情報も多い。地元市町村役場、観光協会に確認をとられたい。 テントなど野営はキャンプ場を除いて原則禁止されている。火気の使用も注意が必要。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注欄[編集]

  1. ^ 足助~岡崎間は「足助街道」という呼び方が定着しており、この地域では「三州街道」という呼び方は一般的でない。