おかしな奴 (1963年の映画)

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おかしな奴
監督 沢島忠
脚本 鈴木尚之
出演者
音楽 佐藤勝
撮影 藤井静
編集 田中修
製作会社 東映東京撮影所
配給 東映
公開 1963年11月1日
上映時間 110分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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おかしな奴』(おかしなやつ)は、1963年11月1日公開の日本映画渥美清主演・沢島忠監督[出典 1]東映東京撮影所製作、東映配給[出典 2]白黒映画[出典 3]。天才落語家三遊亭歌笑の短くも波乱の富んだ人生を渥美清主演で、笑いあり涙ありの軽妙酒脱な新喜劇として描く[出典 4]

モデルとなった三遊亭歌笑は敗戦直後の混乱期に"純情詩集"という七五調のスタイルと"おかしな顔"を売り物に、ラジオや寄席の人気者になった噺家[4]

出演者[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

企画[編集]

当時の東映は東映京都撮影所の製作する時代劇が当たらず[7]、一方、東映東京撮影所所長・岡田茂の指揮する「東映ギャング路線」が大当たりを続け[出典 5]正月を含まない月の配収松竹の正月(1月)の成績を上回るようになっていた[出典 6]。「ギャング路線」の功績により岡田は1962年10月、36歳の若さで東映の取締役に昇格した[7]。本作直前にも東映東京のオールスターによる『ギャング忠臣蔵』という変なタイトルの映画を出し、映画評論家から「酷い」と酷評された[7]。岡田は「映画は路線化(シリーズ化)しなければ単発で当てても儲からない」という持論を持ち[出典 7]、〇〇路線好きで[出典 8]、「東映名作路線」や「戦記路線」(『陸軍残虐物語』のみ)など色々な路線を敷いたが[出典 9]、「東映喜劇路線」と称した第一作が本作となる[出典 10]。岡田が"喜劇路線"を打ち出したのは「東映ギャング路線」と同時期の1962年[出典 11]。東映の社内報1962年10月号の「ギャング路線を基調に多彩なラインアップの編成。東映現代劇の展望」で岡田は「私が来年中(1963年)にどうしても確立させたいと思っているのが喜劇の流れなんですよ。まあ、私に云わしたらね、現代劇の中でアクションものに次いでいわゆる安全企画であって、しかも儲かる企画というのは喜劇の流れなんだ。まだわが社にはこういった流れに応ずるスターとしては、中村嘉葎雄君進藤英太郎さんというような人しかいませんが、私は渥美清をウチの傘下におさめたり、三木のり平を引っぱって来たりというふうに外部タレントの力を借りて、なんとしてでも来年はこの喜劇の流れを確保したいと思っているわけです。(1964年)正月ものとして作っている『次郎長社長』(『次郎長社長と石松社員 安来ぶし道中』)も、今度は例のパンツ屋をやめて、会社を観光会社に切り替えてね。瀬川君の本もよくできておるし、私は非常に面白いものができると思ってるんですよ。この『次郎長社長シリーズ』を年間3本ぐらい、そのほか渥美清だとかが入る『すっぽん大将』、あるいは『加寿天羅甚佐』というような部類の作品を並べて行きたいと思っています。今、今井正の喜劇ものというわけで『赤い水』というのを是非やりたいと云って来ておりますが、これもまあ、ものが良ければ来年やりたいと思っているんですけど、いずれにしても喜劇の流れを来年の終わり頃には、なんとかしてね、ギャング映画の路線に次いだ流れ、セカンドラインとして確立させたい。私は東映の現代劇が、どこの現代劇と見比べても遜色ないというところまでに至る時期は、少なくともギャング映画の流れとこの喜劇の流れの二つを確立した時だ、これが確立されれば、ここもただ形の上だけじゃなく、本当に力のある現代劇のスタジオになると思っとるわけです」などと述べている[16]。岡田が当時、伴淳三郎森繁久彌、三木のり平らがいて出番が回ってこなかった渥美清を東宝から引き抜き[出典 12]沢島忠に撮らせた[17]。渥美は既に数本、松竹映画に出演し、松竹も専属契約を狙っていたが[22]、岡田が東映引き抜きに成功した[出典 13]。渥美引き抜きと同時に本作を企画した[22]。渥美の東映移籍は1963年初夏と見られる[22]

また岡田は1963年7月3日の『読売新聞夕刊「路線もの映画 そのプラスとマイナス」という記事で「昨年(1962年)5月の『ギャング対ギャング』に始まるギャング路線を皮切りに、歌謡路線、やくざ路線ときて、いまは戦記路線と名作路線の製作がピークにある。今後に予定される"新線"は喜劇路線で、渥美清主演の『おかしな奴』(三遊亭歌笑の一代記、沢島忠監督により、封切りは十月)、同じく渥美の『冠婚葬祭』(長谷川幸延原作、大阪の古い葬式屋の親子二代の物語り、伊藤大輔脚本・監督により封切りは来年正月)、藤田まこと主演の『赤いダイヤ』(梶山季之原作、現代版"大番"的な物語り、監督未定、封切りは来年二、三月ごろ)を作る予定。喜劇路線となると、他社の並行線も走っているので、涙と笑いのタッチをつけ、人間関係に深くメスを入れて東映喜劇路線を特色づける」などと述べていた[6]

脚本[編集]

別人名義で『人生劇場 飛車角』の脚本を書かせた鈴木尚之を重用し[23]、1963年の一年間に本作を含め、本作の併映『五番町夕霧楼』『人生劇場 続飛車角』(相井抗名義)『武士道残酷物語』『宮本武蔵 二刀流開眼』と6本の脚本を書かせ[出典 14]、翌1965年に鈴木は『飢餓海峡』の脚本を書き、代表作とした[23]。本作は鈴木のオリジナル脚本。

キャスティング[編集]

東映東京には当時、佐久間良子ファンの"佐久間派"と本作に出演する三田佳子ファンの"三田派"があり[25]、企画としてクレジットされる吉田達プロデューサーは"三田派"の急先鋒だった[25]

撮影[編集]

三遊亭歌笑を演じるにあたり、芸熱心な渥美清は、撮影前から歌笑研究に励み、歌笑とゆかりの深い三代目三遊亭金馬二代目歌笑三笑亭笑三らに付きっ切りで在りし日の歌笑の仕草語り方を学んだ[5]。その成果は渥美の表情に現われ、渥美演じる百面相が歌笑そのままであると関係者を驚かせた[5]。公開時の『月刊平凡』には「歌笑の泣き笑い人生を、しばいのうまいコメディアン、渥美清が故人に生きうつしで演じています」と書かれている[4]

また前半の純情可憐な女中から後半、見事なパン〇ケに変貌する三田佳子は、沢島監督に「あまりの豹変ぶりに驚いた。だから女はこわいよ」と唸らせ[5]、"佐久間派"を中心とした口うるさいスタッフを驚かせた[5]

タイトルロールの後、約10分の間、東京の五日市町(現あきる野市)の武蔵五日市駅など当時の五日市らしき風景が映される。三遊亭歌笑(渥美)が22歳で家出する支那事変(日中戦争)が勃発する1938年頃から歌笑が事故死する1950年が時代設定のため、撮影時からは13年ー25年の開きがある。五日市の場面で渥美の通う小学校の校舎から校庭に降りる間に階段の他、お城の城壁のような壁が数段あり、上の方は高さが大人の身長より高い。2メートルぐらいあり、これを男の子がバンバン飛び降りる。今では有り得ない。以降の100分は落語家になるため家出し、東京の台東区辺りで話が進む。渥美が汽車都心に行くシーンでビル街が映り、画面に「東京」と出る。これ以降は最初に弟子入りを断られ、失意のうち線路上を歩くシーンのみ実景だが、それ以外は全て東映東京撮影所のセットと見られる。ラストの銀座は現在プラッツ大泉があった場所にあったといわれる銀座のセットと見られる。

セリフ[編集]

古い映画のため、今日ではNGと見られるセリフがふんだんにある。実際に歌笑が変な顔で、全編に渡り、自身でも繰り返し変な顔をいじる。セリフとしては「ちゅうぶの気でもあるのかい」「ダメは按摩の目じゃないけえ」「〇形児的容貌」「変な顔…男に生まれてよかったわ。もしも女に生まれたら、動物園か見世物にきっと売られていたでしょう。もしも売られずいたとして母さんお傍にいたとして、嫁の貰い手あるじゃなし、婿の来手はさらになし、哀しく淋しい一生をきっと送ったことでしょう。ほんとにそうね全くね、男なれこそ落語家でどうにか食べていけるのに…」「闇屋とパンスケじゃないか!恥知らずが!」など。

NGセリフではなく、1時間20分過ぎに三田佳子が渥美に「今や押しも押されもしない私たちのアイドルじゃないか」という台詞がある(設定は終戦直後)。「アイドル」という言葉が1963年に出ることは驚きで、フランス映画アイドルを探せ』よりも早い。

興行[編集]

1963年9月6日に定例の全国東映支社長会議があり[出典 15]、1963年10月から11月上旬の番組編成が発表されたが、この時は本作は1963年10月13日からメイン作で公開すると発表されていた(併映作の発表はなし)[26]。その後、異色二本立ての構想が浮上し[5]、「東映の映画造りの枠を世に問う」という大袈裟な理由で[5]、映画業界では各社競って秋の勝負作を出すシルバーウイーク(11月の一週–二週枠)のメイン作『五番町夕霧楼』の併映作になった[5]。この時点では『五番町夕霧楼』の併映は、大川橋蔵主演・長谷川安人監督『花の飛竜剣』(『右京之介巡察記』に改題?)と予定されていた[26]

同時上映[編集]

五番町夕霧楼

興行成績[編集]

『五番町夕霧楼』との二本立ては邦画五社随一の成績で[出典 16]、主要館で続映が行われた[28]。東映はこの年、ゴールデンウィーク(『武士道残酷物語』/『無法松の一生』)、お盆興行(『完結編 新吾二十番勝負』/『暗黒街最大の決斗』)、シルバーウイークと全てに勝利し[26]、トリプルクラウンを達成した[出典 17]

ネット配信[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f おかしな奴 - 国立映画アーカイブ
  2. ^ a b c 平成23年度Tプログラム おかしな奴”. 優秀映画鑑賞推進事業. 国立映画アーカイブ. 2024年3月3日閲覧。
  3. ^ a b c d おかしな奴”. 日本映画製作者連盟. 2024年3月3日閲覧。
  4. ^ a b c 「今月の日本映画ご案内 『おかしな奴』」『月刊平凡』1963年12月号、平凡出版、216頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i 「匿名座談会『邦画五社の健康診断』ー濁流のなかの経営を衝くー」『映画時報』1963年11月号、映画時報社、12–26頁。 
  6. ^ a b c d “〔娯楽〕 路線もの映画 そのプラスとマイナス 企画、宣伝に安定性 一つの型にはまる欠点も”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1963年7月3日) 
  7. ^ a b c d e 酒井寛(朝日新聞学芸部)、隅部佳宏(映画時報)、佐藤忠男品田雄吉「大型映画の題材と企画の背景企画以前のムード助成に欠陥」『映画時報』1963年2月号、映画時報社、12–24頁。 
  8. ^ a b 岡田茂今田智憲「経営革命に直面した東映の第三期計画の全貌」『映画時報』1963年5月号、映画時報社、12–36頁。 
  9. ^ “東映 お盆興行の主導権握る 魅力溢れる娯楽時代劇・ギャング路線”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 8. (1969年6月29日) 
  10. ^ 竹中労「岡田茂東映社長に聞く・下 〔回想のマキノ映画・その3〕」『キネマ旬報』1974年8月上旬号、キネマ旬報社、113頁。 
  11. ^ 103.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 第5節「東映ゼネラルプロデューサー岡田茂・映画企画の歩み5刺激性好色映画」 - 東映
  12. ^ a b クロニクル 1992, pp. 174–175, 証言 製作現場から 『五番町夕霧楼』企画担当 岡田茂
  13. ^ “東映"名作路線"を延長 再映画化で"愛情"を強調”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1963年7月6日) 
  14. ^ 「超高度成長を狙う東映の布陣 ー大川社長・日本映画界の自覚を語るー」『近代映画』1963年6月号、近代映画社、35–41頁。 
  15. ^ a b c “〔娯楽〕 東映喜劇路線に本腰 人間味あふれた笑い 巨匠、新人監督で競い合う 『色ごと師春団治』など登場”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 10. (1965年4月30日) 
  16. ^ a b c 東映の軌跡 2016, p. 165, 喜劇路線の確立目指し渥美清&瀬川昌治監督の人気作『喜劇急行列車』公開
  17. ^ a b c 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 144–147, 第十四章 今だから明かす!?フーテンの寅さん誕生の知られざる話
  18. ^ 仁義なき日本沈没 2012, pp. 102–103
  19. ^ 石坂昌三「評伝・渥美清 『寅さん』渥美清の軌跡」『キネマ旬報』1996年9月下旬号、キネマ旬報社、65頁。 
  20. ^ a b “訃報・おくやみ 引き抜き、タイトル付け、リストラ…岡田茂氏「伝説」の数々”. スポーツ報知 (報知新聞社社). (2011年5月10日). オリジナルの2011年5月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110528151213/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00019.htm 2024年3月3日閲覧。 
  21. ^ 油井宏之「多チャンネル時代到来で注目される"映画界"の雄『東映』発展の足跡 東映会長・岡田茂インタビュー 『デジタル時代を迎えても即応型の東映は大丈夫だ』」『実業界』1996年11月号、実業界、104–105頁。 
  22. ^ a b c d 「匿名座談会『邦画五社の健康診断』ー濁流のなかの経営を衝くー」『映画時報』1963年5月号、映画時報社、12–26頁。 
  23. ^ a b c 鈴木尚之 1998, pp. 24–26
  24. ^ 「『湖の琴』撮影ルポ ―『湖の琴』はどんな映画になるか―」『シナリオ』1966年1月号、日本シナリオ作家協会、36-37頁。 
  25. ^ a b 松島利行 (1992年3月11日). “〔用意、スタート〕 戦後映画史・外伝 風雲映画城/51 三田派か佐久間派か”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 3 
  26. ^ a b c d e f “東映、八月興行好調!! 配収七億七千三百万”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 5. (1963年9月14日) 
  27. ^ “東映、S・W断然首位宣伝力で作品価値倍増”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 5. (1963年11月9日) 
  28. ^ a b c “東映豪華多彩な娯楽大作番組 家族ぐるみの動員で首位の座を!!”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 7. (1963年11月16日) 

出典(リンク)[編集]

参考文献[編集]

  • 岡田茂『クロニクル東映 1947-1991』 1巻、東映、1992年。 
  • 日本シナリオ作家協会『鈴木尚之 人とシナリオ』日本シナリオ作家協会、1998年。ISBN 4-915048-08-X 
  • 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。 
  • 春日太一『仁義なき日本沈没 東宝VS.東映の戦後サバイバル』新潮社、2012年。ISBN 978-4-10-610459-6 
  • 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映、2016年。 

外部リンク[編集]