大川橋蔵 (2代目)

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にだいめ おおかわはしぞう
二代目 大川橋蔵
二代目 大川橋蔵
1956年(昭和31年)
本名 丹羽 富成(旧姓:小野
別名義 藤間勘之丞(舞踊名)
生年月日 (1929-04-09) 1929年4月9日
没年月日 (1984-12-07) 1984年12月7日(55歳没)
出生地 日本の旗 日本東京市(現在の東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 歌舞伎役者
俳優
ジャンル テレビドラマ映画舞台
活動内容 1935年 - 1984年
配偶者 沢村真理子
著名な家族 養父 六代目尾上菊五郎
主な作品
銭形平次
『若さま侍捕物帖シリーズ』
『葵新吾シリーズ』
『草間の半次郎シリーズ』
『江戸三国志シリーズ』
雪之丞変化
『若君千両笠』
『恋や恋なすな恋』
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二代目 大川橋蔵(にだいめ おおかわ はしぞう、1929年昭和4年)4月9日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は東京都出身の歌舞伎役者、のち時代劇俳優。本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。

概要[編集]

歌舞伎役者として[編集]

柳橋芸妓の子として生まれるが、生後まもなく小野家の養子となる。養父は二代目市川瀧之丞という歌舞伎役者で、端整な顔立ちの富成を役者に育てようと、幼い頃から舞踊を仕込む。のち、知り合いだった四代目市川男女蔵の部屋子とした。

1935年(昭和10年)11月、市川男女丸を名乗って初舞台を踏む。そのとき舞台を務めていた六代目尾上菊五郎に素質を認められ、以後目をかけられるようになる。1944年(昭和19年)10月には六代目の妻・寺島千代の養子となり、その実家の「丹羽」姓を継ぐとともに、二代目大川橋蔵襲名した。「大川橋蔵」は、かつて三代目菊五郎が一旦引退した後、舞台復帰した際に名乗った由緒ある名跡である。実子がないので養子(七代目尾上梅幸)をとったら、今更ながらに実子(二代目尾上九朗右衛門)に恵まれてしまったという複雑な家庭の事情をもつ六代目が、この名跡を橋蔵に与えて妻の養子とした意味は大きかった。橋蔵をもう一人の「菊五郎」の継承者候補とすることで、三人の子はより一層の切磋琢磨を強いられることになったのである。

この頃から六代目は体調を崩しはじめ、晩年はその芸も曇りがちになったが、それでも橋蔵は1949年(昭和24年)7月に六代目が死去するまで一つ屋根の下で暮らしを共にし、音羽屋相伝の芸のみならず、役者として、そして大看板として己がいかにあるべきかを身につけていった。

六代目亡き後は菊五郎劇団に属し、主に娘役として頭角を現すようになる。菊五郎劇団の女形としては、まず七代目尾上梅幸がおり、次に七代目中村福助が控えていたが、橋蔵はその後に控える第三の地位を占めるようになった。しかし六代目という絶対の後ろ盾を失った橋蔵は、戦後という新しい時代の中で歌舞伎界の前途や自身の将来に不安を感じていた。またこのころ、一足先に大映から銀幕デビューした八代目市川雷蔵が、自分とよく似た境遇にあった橋蔵に映画界入りをしきりに勧めていたという。1953年に東映入りした中村錦之助の映画界入りの際のゴタゴタなど、保守的で硬直化した当時の梨園の内部事情も影響し、最終的に映画界入りに際して歌舞伎の世界と縁を切ったが、歌舞伎に対する敬意と愛情は終生持ち続け、映画転向後に自身の一座を組んで舞台公演を行う際には、必ず『お夏狂乱』『鏡獅子』『船弁慶』などの歌舞伎舞踊を中幕の演目に選び、観客を喜ばせた。

音羽屋宗家[編集]

橋蔵は音羽屋の中でただ一人「尾上姓」を名乗っていない。その為家系図では外される事が多いのだがれっきとした宗家である。 大川橋蔵(初代)と三代目尾上菊五郎は同一人物である。

三代目尾上菊五郎が最後に使った名前である。菊五郎は四代・五代・六代・七代と続いたが橋蔵の名前は中に浮いたまま残された。2代目橋蔵は子役時代市川男女丸といって菊五郎一座に所属していたが、六代目に素養を見込まれ彼が17歳の時養子に迎えられ2代目大川橋蔵の名跡を与えられた。まさに99年ぶりの襲名だった。[1][2]

映画俳優へ転身(1955年12月〜1966年)[編集]

1955年(昭和30年)12月、『笛吹若武者』でデビュー。しかしこの時は歌舞伎に籍を置いたままだった。2作目の『旗本退屈男』を撮った後マキノ光雄の誘いに応じて東映に入社。デビュー作『笛吹若武者』で共演した美空ひばりから、本名の富成をもじっていきなり「トミー」というニックネームをつけられ戸惑ったが、これが映画界の洗礼となった。この後、東千代之介中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は、「二スケ二ゾウ」と呼ばれ、橋蔵も若手時代劇スターを代表する一人として昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていく。

特に『若さま侍捕物帖』や髪形を総髪にして中性的な主人公像を具現した『新吾十番勝負』シリーズなどが当たり役で、『海賊八幡船』などの大作もある。本人は素顔は頑固な理論派であったが、美形剣士スターとして娯楽に徹したといわれ、町人やヤクザを演じていても武士のような品の良さを醸し出す演技だった。東映と契約した1956年の翌年に、映画雑誌の人気投票でいきなり圏外から2位に、翌年の1958年には1位とアイドルスターのような扱いだった[3]。しかしこの頃には既に28歳、本人としては゛大人っぽい役をやりたい゛と会報紙にこぼすようになる。1958年作『くれない権八』では脚本家の鈴木兵吾史と企画者と三人、深夜まで作品について話し合った。しかし東映から物言いが付き「余り暗いものはダメ。汚れてもダメ。死んでもダメ。ハッピーエンドでないとダメ」と。出来上がった脚本は全然別物になってしまったと嘆いた[4]幼なじみの市川雷蔵と雑誌で対談した時にしきりに「いいな、雷ちゃんはいいな」と対談のほとんどがこの言葉で埋め尽くされるという事態も起こったほど[5]1960年の『炎の城』でも橋蔵と監督の加藤泰は作品のラストは死ぬという方向で押したが、これも東映脚本を変えた。

1959年には橋蔵にとって豊作の年と言える。まず原作吉川英治・監督マキノ雅弘で『恋山彦』を撮る。この作品は戦前に坂東妻三郎主演で同監督で撮っているが、「橋蔵の持ち味を生かした作品を」と2度目のメガホンをとった。橋蔵の立ち回りの美しさには定評があり舞踊そのもの、歌舞伎の様式美そのものであった。歌舞伎出身の橋蔵は映画歌舞伎を融合させ、を連想させる場面が随所に現れ、格調の高さと全作品に流れる気品は、後世他の出演者によってリメイクされても橋蔵版を超える作品は生まれないだろうと言われた。しかもこの時期の東映は他社と比べてもぶっちぎりの全盛期セットも豪華であった。 そして『雪之丞変化』。戦前林長二郎と名乗っていた長谷川一夫で映画化。女形出身の橋蔵は東映に入ったときから演じる事は決まっていたが当時は東千代之介が演じたばかりだったので1959年に撮る事になった。橋蔵は5通りの声(普段の雪之丞・口上・闇太郎・清左衛門・土部三斉と対決する時)で演じ特に口上は歌舞伎女形としての口跡を知る上で貴重な場面となった。共演した片岡仁左衛門は「何気ない手の位置や所作、当時の女形の作法通り」と語り、橋蔵の歌舞伎時代の修練が違和感なく現れていた。せり上がりや引き抜きなど歌舞伎の醍醐味や音羽屋舞踊の粋が凝縮されたものであった。

1962年監督内田吐夢で撮った『恋や恋なすな恋』。この作品は劇中劇的な手法が用いられている。歌舞伎人形浄瑠璃で上演される舞踊「保名狂乱」と「葛の葉子別れ」の部分が舞台様式になっている。「保名狂乱」は橋蔵の養父六代目尾上菊五郎が今の形にしたと言われ、橋蔵の舞は音羽屋の形をしっかりと受け継いだものであった。この作品は2018年8月ヴェネツィア国際映画祭のクラシック部門にノミネートされた。

しかし映画全般がテレビに押され特に時代劇斜陽の時期に入り、橋蔵も映画の本数が1963年辺から激減した。残酷ブームも起こり若さま路線からの脱皮をはかる。゛美しくない゛とファンはそっぽを向いたこの頃の作品、監督加藤泰1964年作『幕末残酷物語』や原作監督伊藤大輔1964年『この首一万石』など21世紀になってぐんぐん評価が上がっている。大島渚監督作品の『天草四郎時貞』以降、そのイメージを破りリアリズムに徹した演技にも挑戦している。

昭和30年代後半に東映がヤクザ映画に路線転換していくと、舞台やテレビに活動の場を移した。祇園で馴染みの芸妓であった沢村真理子と1966年(昭和41年)3月に結婚した。

殺陣[編集]

  • 橋蔵の殺陣には他の役者にはない特徴が大きく分けて3つある。「華麗舞踊型」とも呼ばれ舞踊に近い曲線的な動きだったが他の舞踊出身者の立廻りと違い頭がぶれない。運動神経が良かったのと六代目舞踊の特訓で体幹が鍛えられて一回転しながら相手を斬ったり、軀を反らしながら斬り、目を斜めに流す決まり方にはぞくっとする色気があった。「十文字崩し」と呼ぶ構えで青眼に構えた剣をひねり、刀を上にして構えなおし相手を見据える。市川右太衛門の「諸羽流崩し」と同じでアップにしても刀身が画面からはみ出さない。
  • 殺陣師の福本清三氏「橋蔵さんの立ち回りは良かった。何が良かったというと殺陣師さんと楽屋で相談するんですよ、いわいる口立てです。゛ここで相手がこうかかって来るからこう斬って、次に振り向き様にこう斬って、ここに飛んでズバッと゛とか話してるだけですぐに本番に行き華麗な立廻りをその通りにやってしまうんだから。よほど殺陣が上手でないと10種類ぐらいある殺陣を頭の中だけじゃ理解出来ませんよ。豪快さというより身のこなしが優雅でとても華やかな印象がありますわ」[6]と。本人も殺陣が得意で撮影の合間に剣士会に通い熱心に稽古した。
  • 2つ目の大きな特徴が何人斬っても着流しが絶対着崩れないという事だ。松方弘樹氏が番組の中で橋蔵の殺陣について動きを入れ解説している。「大多数の役者は人を斬る時に足をガバッと開いて太ももが出る事によって豪快さや凄味みたいなものを表すんですが、橋蔵さんの場合相手を斬った瞬間足をクロスするんです。上から下に刀が降りた時です。だから着流しで何人・何十人殺陣をしてもまったく着物が着崩れないんです。」[7]と。橋蔵の殺陣はカメラが回ると最後までノンストップで回せ、最後の刀を閉じその後の動作・台詞などを一気に撮る事が出来るのもこの立廻りの特徴といえる。着物を整える必要がないのでビート感が出るのだ。
  • 3つ目は6代目尾上菊五郎に躾けられた女形の修行の中にある。女は肺で呼吸し男は腹で呼吸する。着物を着る時に女は帯を絞めると自然に肺呼吸になる、男は腹で呼吸するからお腹が膨らむ。「踊りを見せて汗を流したり、呼吸を乱しては玄人としては失格」。呼吸法を自然に使い分け、この事から橋蔵はどんなに激しい立ち回りでも呼吸を乱す事は無かった[8]そして顔に汗をかく事は無かった。映画からテレビ時代劇『銭形平次』へ移ったあともスタッフの結髪(けっぱつ)さんを驚かしている。夏の暑い時ワンシーン事に衣装を脱ぎカツラを取ってしまう役者もいた中で橋蔵は撮影中汗でメイクが崩れヅラ(カツラ)を付け直す事は18年間一度も無かった[9]

舞台へ(1962年〜)[編集]

1956年2月東横ホールを最後に映画界へ入って以来の舞台へ。1962年8月より東映歌舞伎が明治座で公演 7月に準備のために東京へ向かい養母と一緒に六代目尾上菊五郎の墓前へ東映歌舞伎出演の報告をした。 歌舞伎出身の橋蔵は主力メンバーとして出演。他に市川右太衛門片岡千恵蔵大友柳太郎東千代之介らいる。 銀幕スターが生で見られるとあって明治座始まって以来の客入り、明治座の扉が閉まらなかった[10]橋蔵は昼の部3の「濡れつばめ」(川口松太郎作・演出)三幕を皮切りに夜の部「いれずみ判官」三幕五場、「花の折鶴笠」四幕十場に出演。とくに「花の折鶴笠」は好評で半年後に映画化、映画より舞台が先に発表された珍しい例と言えるでしょう。翌年の第二回公演以降は橋蔵が座長と言ってもよいほど、舞台の中心に位置するようになる。東映歌舞伎の舞台出演は橋蔵の舞台への郷愁を呼び覚ましたらしく、その後歌舞伎座の橋蔵公演へと繋がって行く。映画俳優としては1966年の旗本やくざを最後に舞台とテレビに。

1967年12月から大川橋蔵特別公演で歌舞伎座の舞台に復帰した。26歳まで歌舞伎の舞台でしっかり勉強出来たのも復帰出来た理由であるといえる。第一回の初日は13代目仁左衛門丈17代目羽左衛門丈、右団次さん(当時男女蔵)他、浅尾奥山さん他脇役の方達、歌舞伎から多数出演してくれた。舞台パンフレットに初日の事について橋蔵はこう語っている「第一回初日を終えて一人化粧前に座ったとき、感激であふれる涙をどうする事も出来なかった」と。1968年12月の歌舞伎座で『鏡獅子』を踊ったとき場内割れんばかりの拍手の嵐。嘗て菊五郎劇団の女形・舞踊の上手さで頭角を表していたが門閥の壁ゆえ果たせなかった夢を映画で成功し、一枚看板で歌舞伎座を超満員にして念願の『鏡獅子』。演劇書を多数出版された戸坂唐二氏が朝日新聞に寄せたと言葉「どんな時でも橋蔵は本格の歌舞伎舞踊を必ず演じてきたー中略—映画・テレビの世界に入っても歌舞伎から巣立った事、六代目によって芸道の初歩を与えられたことを決して忘れまいとしている。今日の『鏡獅子』は嘗て菊五郎劇団の女形だった時の舞台感覚を少しも失っていない初々しい色気を持っていた。」[11]

橋蔵の魅力はただの美男ではなく眉宇(びう)に漂う憂愁性のせいではあるまいか、それがキリッとしまる知性のひらめきにも見え、男女問わず引きつける。1968年歌舞伎座公演の『鏡獅子』は特に後シテの迫力もあふれるようであった。もう1つは清元『保名』に保名が狂気するまでの筋を書き足して萩原雪夫作『保名物語』を踊っている。これも装置その他新趣向で橋蔵の熱意の現れであった[12]

歌舞伎舞踊[編集]

舞台でなければ味わえない橋蔵の最高の魅力、それは舞踊。初舞台の幼少の頃から踊りに見所があったのを゛踊りの神様゛と言われた名優六代目尾上菊五郎にその素質を認められ養子となった橋蔵は「娘道成寺」「喜撰」の所化、「身替座禅」の腰元をはじめ6代目菊五郎の踊りには必ず舞台に出されて、その至芸を目のあたりに見て勉強すると共に、厳しく教えられ鍛えられてきたわけだが、その六代目の薫陶に応えて天分をのばしてきた事が橋蔵を作り上げた。だから橋蔵の舞踊テレビタレントには真似出来ない本格的なものであった。歌舞伎座だけでも「保名」「鏡獅子」「京鹿子娘道成寺」「藤娘」「船弁慶」「紅葉狩」「お夏狂乱」「鞍馬獅子」「道行旅路の花聟」「落人」「賤機帯」「色彩間苅豆」「かさね」などを上演、明治座や大阪・新歌舞伎座では「浅妻船」「汐汲」「手習子」「幻椀久」「江島生島」等を踊って好評をはくした。

小さい時から宗家・藤間勘十郎師に師事して藤間勘之丞という名を許されている。昭和23年三越劇場坂東光伸と踊った『三社祭』の新鮮さスクリーンステージ紙で優秀演技に選ばれ各新聞の劇評もいっせいに激賞したのは語りぐさになっている[13][14] 1966年以降歌舞伎座新歌舞伎座明治座の年三公演と地方公演で本格的に舞台復帰。 歌舞伎座へ出るのだから、きちんとした本格的な踊りをという藤間勘十郎師の配慮から古典中心にし橋蔵を昔のような美しい女形で踊らせるように構成した。 橋蔵も映画時代、踊り(日本舞踊)だけは忘れられなかった。踊りは一生離さないつもりで映画時代の舞台公演でも毎回本格的な踊りに取り組んでした[15][16]映画を一本取り終わると東京へ戻り踊りの稽古を付けてもらうほどだった[17][18]橋蔵はこうも語っている「小さいときから特に素踊りが好きで初めは舞踊家を志したほどです」[19]

『橋の会』1973年4月20日ホテルニューオータニで盛大な記念パーティーが催された[20]。この橋の会はファンの後援会とは別に財界人のトップクラスが名を連ねている。発起人田実渉(当時三菱銀行会長)・日向方斉(当時住友金属工業社長)・稲山嘉寛(当時新日鉄会長)・鹿島守之助(当時鹿島建設会長)・江戸英雄(当時三井不動産社長)・堤清二(当時西武百貨店社長)・弘世現(当時日本生命社長)・松下幸之助(当時松下電器相談役)などの財界人。しかもこれらの各氏がただ名前を出すだけでなく記念パーティーには挨拶や乾杯、大勢の会員が参加した。役300人の財界人が会員になっており記念パーティーには大勢の会員が出席して当時類のない大物ぞろいのパーティーになり田実渉氏、日向方斉氏が挨拶を行い東映社長岡田茂氏が祝辞、鹿島守之助氏が乾杯の音頭を取るなどし、最後は橋蔵が艶やかな女形姿で「名寄せの寿」を踊って人々の好意に答えた。[21][22][23][24] この橋の会の後援で舞踊公演を1974年と1976年に行っている

テレビドラマ(1966年〜)[編集]

1966年(昭和41年)月からフジテレビで『銭形平次』が放映開始。映画では長谷川一夫主演によるシリーズで知られるが、以後終生にわたる当たり役となった。

1960年を過ぎるとテレビ家庭に浸透しており映画会社はそれに伴う観客の目減りを押さえるのに必死だった五社協定によってテレビ映画俳優を貸さない姿勢を強めていた。フジテレビでは橋蔵をテレビ時代劇にと考え頼んだが東映は貸さないと断った。[25]別の俳優だったらと里見浩太朗へ話を持って行くが里見がVTRにこだわった為、橋蔵に再度話が来る。東映はこの頃方向転換し時代劇テレビへ委ねる方針を打ち出した。映画の頃から橋蔵は娯楽志向で甘い二枚目は衰えてない。京都スタッフも橋蔵の為ならと徹夜覚悟の心意気を見せた。ただ劇場映画にこだわる一部の映画人からはテレビに対する偏見の冷たい視線を受け続けたままだった。そんな時期を乗り越え『銭形平次』は1つの頂点を極めて行く[26] 映画会社の中には貸し渋る俳優を解禁しても、時既に遅し鮮度を失った俳優テレビになじめない俳優も多く居たなかで橋蔵の銭形平次は映画スターが茶の間で見られる事と当時の橋蔵ファンが結婚して家庭テレビを見られるとそのままスライドし高視聴率に繋がった。

  • 平次のキャラクター念頭にフジテレビ開発室プロデューサー(当時)高橋久仁男氏が選んだのが橋蔵だった。「水曜日の夜8時台、時代劇を女性にもみてもらおうと狙いましたが、二枚目でしかも女性ファンにウケると言えば橋蔵さんしかいなかったです」と。[27]橋蔵は「テレビに不安もあるから単発ドラマのほうが」とためらったが高橋は連続物でと押し切った。人気が出るまでに1年とふみ、契約も珍しい1年という長期のものにしたところ、当時の橋蔵ブームに恵まれててかスタートから1位という「思いがけぬ成績」で驚いた。[28]
  • 東映京都テレビプロダクションフジテレビジョンの作品の銭形平次は佐藤忠男の指摘によれば同作のヒットは東映のテレビ事業全体が日本のテレビ映画制作の約40%に及ぶシェアを占める契機となったという[29]

1984年(昭和59年)4月4日、『銭形平次』が最終回を迎え、18年間で888回に及ぶ長期シリーズに終止符を打った。この時点で「1人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマ」としては世界最高記録となり、ギネスブックに認定されている。

晩年[編集]

実は1974年の明治座公演の時に胃に米粒大の腫瘍が見つかって、薬を飲んでいる事がパンフレットに書かれている。 銭形平次が終わってすぐに1984年フジテレビで5月から放送された現代劇『蝶々さんと息子たち』に出演。踊りの家元役であった。この撮影中倒れ入院することになる。この作品が茶の間で見る橋蔵の最後の役であった。

1984年12月7日死去。橋蔵は前年9月頃より体調を崩しており、入退院を繰り返しながら銭形平次の収録だった。11月25日に最後となる入院時、既に結腸癌が肝臓に転移している状態だった。病名は本人には告げられなかったが、自らの病気を察知し、医師に対して「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を遣い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、何故こんな病気になったんですか!?」と訴えたという[30]。12月7日午前1時29分に死去。55歳没。

雑司ヶ谷霊園 大川橋蔵の墓

長男はフジテレビプロデューサーの丹羽朋廣。大川辰五郎の芸名でかつては子役として活躍していた。主に時代劇や商業演劇で活動している俳優の丹羽貞仁は次男。兄弟共に父と『銭形平次』で共演したことがある。

人物・追悼[編集]

  • 演出家蜷川幸雄さん[31]大川橋蔵さんは不思議な俳優であった。二枚目俳優としてキャラクターを固定していたという意味では古典的な生き方をした俳優であったが、実は強度の意志とゆるがぬ技術に支えられ、歌舞伎的な伝統というのは近代的な演技も生み出すものだという驚きさえ僕らに抱かせるほど無駄のない明晰さに充ちていた。中略。あの曇りのない微笑みとそれ以外にはあり得ないと思わせる声の質とトーンの選び方。一切の力みと努力の痕跡を感じさせない見事さ。これらはすべて完璧であった。橋蔵さんの演技の腰の位置の見事さ。重からず軽からず、同世代の他の演技者と比較してみればおのずと明らかである。私達の演劇の風土においては、明晰さ・透明な明るさ・知的な軽さといったものは、闇だまりを背負ったような重さ・内容のない暗さ・深刻さに比べてなかなか評価されにくい。僕は橋蔵さんの舞台を客席のてっぺんから見た時、谷底を眺めるような遠い舞台の中の橋蔵さんがそこだけは日だまりのように暖かく明るかった事を覚えている。その時舞台が黄金色に輝いているように思え橋蔵さんの不思議な魅力に打たれたのだった。中略。ぼくは橋蔵さんで観たいものが沢山あった。例えば近松の作品は是非やって頂きたいと思ったものだ。『心中天の綱島』『冥土の飛脚』『大経師昔暦』等々、橋蔵さんが演ずれば今迄の上演と全く異なった新しい演劇となるはずだった。しかし、その橋蔵さんも今は亡い・・・・。
  • 演劇評論家戸板康二さん[32]菊五郎劇団に居た頃の橋蔵は可憐で美しい若女形であった。歌舞伎座新橋演舞場での一座の中では、立女形の梅幸の次に福助がいたから序列では三番目で良い役は廻ってこない。しかし、その良い役でなくても特写した一枚が『演劇界』という雑誌にわざわざ載るという人気だった。僕は『乗合船』の女先頭を覚えている。良い役だったが歌舞伎の女形に求められる、どこかキツイ端正さがかけている反面フランス人形のような可愛らしさがあった。昭和30年代に女形の芸風もそろそろ変わってゆくものだとぼくは思っていた。映画界から戻った毎年の舞台かならず中幕に舞踊を挟んだ。藤間勘十郎の振り付けでいろいろなものをきちんと踊るのが橋蔵の喜びだったと想像させる。それは郷愁だったと同時に、自分が歌舞伎界に居た事、六代目菊五郎夫人の丹羽家を継いだ人間である事、そして六代目と生活を共にし箸の上げ下ろしまで厳しく躾けられた事を生涯の誇りにしている以上、たとえ『平次』の橋蔵になっても歌舞伎の踊りは自分のものとして演じ続けたいと考えて居たからであろう。橋蔵の『女形余情』を追悼の形で書くまわり合わせになったのは残念でならない。
  • 評論家佐藤忠男さん[33]映画時代の甘い二枚目のタイプを完全な形で実現し、生涯それを守り通した貴重なスターだった。故長谷川一夫を引き継いだ貴公子タイプで本人はおっとり構えていても、まわりの人々が゛この人には苦労をさせられない゛ともり立てる役が多かった。本人もそれをわきまえけして泥まみれの役はやろうとしなかった。日本文化の1つの伝統である二枚目の型を演じ通す事はこれからはもう難しいだろう。
  • 新吾十番勝負』等々監督松田定次さん[34]橋蔵さんとの付き合いは随分長い。中略、彼は非常に頭が良く仕事熱心で売り出した人だった。例えば人気俳優になると台詞を覚えない人も多いのだが、橋蔵さんはいつもちゃんと頭に入れていた。立ち役と二枚目役の2つを合わせてやれる大切な人でした。
  • 俳優萬屋錦之介さん[35][36]ともに東映時代劇に一時代を画した良き友人でありライパルでもあっただけにとても悲しく残念な気持ちです。5月27日に入院先の聖路加国際病院へ見舞った時は顔色も良く大変お元気で、同じく大病した私の体調を心配してくださり、お互い年だしこれからはガンガン働くより健康第一に良い仕事を選んでやろうねと話し合ったのに・・・
  • 女優丘さとみさん[37]今年夏に見舞った時、血色の良さに「本当に病気なの?」と冗談を言い合ったばかりなのに・・。橋蔵さんとは何本も共演しました。いつも繊細で神経の細やかな人でした。昔はスターが各地に巡業したものでしたが、橋蔵さんと一緒だと差し入れが届いて゛これが好きだ゛と言うと毎日運んでくれるんです。私の嫌いな鰻だったから大変困った思い出があります。子供らしさも持ち合わせたスターでした。
  • 映画監督佐々木康さん[38]映画デビュー作『笛吹若武者』の監督した縁でテレビの銭形平次一回目も引き受けた。彼の映画を何本も撮ったが女形のクセを直すのに大変努力していた。大スターになっても誠実な人柄は少しも変わることなく、スタッフからも愛された人だった。銭形平次の最終回の時、私はすでに引退していたが橋蔵さんが声をかけてくれ、お江戸日本橋旅立ち場面のラストカット「よーい、はい」だけやらせてもらった。それが最後になってしまった。責任感の強い人だけに無理を重ねたのかもしれない。まことに残念だ。
  • 映画評論家滝沢一さん[39]スターになるとぶる人が多いのですが橋蔵さんは折り目正しく人柄の良さは抜群でした。『新吾十番勝負』の時の憂い顔と『若さま侍』シリーズの二枚目の愛嬌、この分野に彼の真骨頂がありました。ひたすら大衆娯楽路線を貫いたのは「ファンに愛されたい」をモットーにしていたからでしょう。銭形平次が息長く続けられたのも、そうした橋蔵さんの生き方と無縁では無かったと思います。
  • 銭形平次(最終回までの六年間)監督黒田義之さん[40]私が初めて銭形平次監督をしたのは六年前、大映に居た頃は長谷川一夫さんの平次を何本か助監督としてやっていた事がありました。中略。私が監督しだして最終回までの六年間、円熟した橋蔵平次ではなかったかと思います。甘さに加えて爽やかさが橋蔵さんの魅力ですが五十代という年輪と芝居の風格が橋蔵平次を完成させたのではないでしょうか。日常生活でも規則正しく几帳面でスタッフに対する思いやりも良かったし、細々した所にもよく気の付く方で時代劇をこよなく愛し、会話にしても芸事一辺倒でした。2年ばかり前に京都東映に長谷川一夫さんが来られお会いしたのですが、その時「平次をやってんのやて?一度出てみたいな」とストーリーまで考えておられました。「それはある事件で十手を返上した目明かしが、真犯人を追求してゆく姿の中で平次との友情が生まれ、犯人逮捕の時に富ちゃん(橋蔵の本名)が兄さん(あにさん)と言ってわてに十手を渡すの。そして事件は解決。どうえ?こんなの」と。橋蔵さんもこの時この話を聞いて゛兄さん゛って言うところが流石長谷川さんらしいですねと言ってました。その後やっと脚本が出来たのですが長谷川さんの体調が悪く新旧平次の共演は実現しませんでした。その当時橋蔵さんも大変残念がっておられました。平次が始まってから18年長期にわたる持続は何と言っても橋蔵さんの役者としての努力と精進と視聴者の暖かい声援があったからだと思います。死を目前に控え奥様に「お前が一番の宝だった」と言い残されたと聞きましたが、この一言に橋蔵さんの人間性がまざまざと思い出されてなりません。本当に役者として惜しい方を亡くしました。
  • 評論家由原木七郎さん[41]女形や日舞、55歳と言えば役者はこれからが正念場だ。もともとが歌舞伎出身、それも名人と言われた六代目尾上菊五郎養子に迎えられたほどの丹羽富成さんだ。二枚目の典型的なスターには間違いないが(二枚目を全生涯かけて守ったという人もいるが)、その見方は甘い。例えば平次にしたってノホホンと気楽なムード演じ続けたわけではない。中略。東映時代劇の打ち切り線を出す頃には関西でいうチンピラ『バラケツ勝負』など現代劇にも取り組んでいるし、『幕末残酷物語』のような汚れ役でしかもラストには惨殺されるという役にも挑戦している。しかし会社側からの要求はやはり『若さま侍捕物帖』や『新吾十番勝負』に似た作品のものが多かった。中略。大川橋蔵がもうこの世にいないなんてことは、私は今でも信じられない。多くの人の胸に永遠に残るスターである。

主な出演[編集]

映画[編集]

  • 若さま侍捕物帖シリーズ(1956年 - 1962年)
    • 1956年 『若さま侍捕物手帖 べらんめえ活人剣』、『若さま侍捕物手帖 地獄の皿屋敷』、『若さま侍捕物帖 魔の死美人屋敷』
    • 1957年 『若さま侍捕物帖 鮮血の晴着』、『若さま侍捕物帖 深夜の死美人』、『若さま侍捕物帖 鮮血の人魚』
    • 1958年 『若さま侍捕物帖 紅鶴屋敷』
    • 1960年『若さま侍捕物帖』
    • 1961年 『若さま侍捕物帖 黒い椿』
    • 1962年 『若さま侍捕物帖 お化粧蜘蛛』
  • 新吾十番勝負シリーズ(1959年 - 1964年)
    • 1959年 『新吾十番勝負』、『新吾十番勝負 第二部』
    • 1960年 『新吾十番勝負 第三部』、『新吾十番勝負 完結篇』
    • 1961年 『新吾二十番勝負』、『新吾二十番勝負 第二部』
    • 1963年 『完結篇 新吾二十番勝負』
    • 1964年 『新吾番外勝負』
  • 草間の半次郎シリーズ(1957年 - 1960年)
    • 1957年 『喧嘩道中』
    • 1958年 『旅笠道中』
    • 1959年 『おしどり道中』
    • 1960年 『草間の半次郎 霧の中の渡り鳥』
  • 江戸三国志シリーズ(1956年)
    • 1956年 『江戸三国志』、『江戸三国志 疾風篇』、『江戸三国志 完結迅雷篇』
  • 新諸国物語 七つの誓いシリーズ(1956年 - 1957年)
    • 1956年 『新諸国物語 七つの誓い 黒水仙の巻』
    • 1957年 『新諸国物語 七つの誓い 奴隷船の巻』、『新諸国物語 七つの誓い 凱旋歌の巻』
  • 紫右京之介シリーズ(1963年 - 1964年)
    • 1963年 『右京之介巡察記』
    • 1964年 『紫右京之介 逆一文字斬り』
  • その他シリーズ出演
    • 丹下左膳
      • 1958年 『丹下左膳』
      • 1959年 『丹下左膳 怒濤篇』
      • 1960年 『丹下左膳 妖刀濡れ燕』
      • 1961年 『丹下左膳 濡れ燕一刀流』
    • 水戸黄門
      • 1957年 『水戸黄門』
      • 1959年 『水戸黄門 天下の副将軍』
      • 1960年 『水戸黄門』
  • マミー・トミーコンビ
    • 1955年 『笛吹若武者』(デビュー作)、『旗本退屈男 謎の決闘状』
    • 1956年 『おしどり囃子』、『ふり袖太平記』、『ふり袖捕物帖 若衆変化』
    • 1957年 『大江戸喧嘩纏』、『ふり袖太鼓』
    • 1958年 『花笠若衆』
    • 1959年 『忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻』、『血闘水滸伝 怒濤の対決』
    • 1961年 『幽霊島の掟』
    • 1962年 『お坊主天狗』
    • 1963年 『勢揃い東海道』
  • 平安・鎌倉物
  • 忍者
  • 若様やくざ
    • 1961年 『橋蔵の若様やくざ』
    • 1963年 『若様やくざ 江戸っ子天狗』
  • 年号別 計114作品
    • 1955年『笛吹若武者』『旗本退屈男 謎の決闘』
    • 1956年若さま侍捕物帖 べらんめい活人剣』『若さま侍捕物帖 地獄の皿屋敷』『おしどり囃子』『江戸三国志 第一部』『江戸三国志 疾風篇』『江戸三国志 完結迅雷篇』『若さま侍捕物帖 魔の死美人屋敷』『復讐侠艶録』『海の百万石』『ふり袖太平記』『曽我兄弟 富士の夜襲』『ふり袖捕物帖 若衆変化』『朱鞘り通る』『新諸国物語 七つの誓い 黒水仙の巻』
    • 1957年『新諸国物語 七つの誓い 奴隷船の巻』『任侠清水港』『新諸国物語 七つの誓い 凱旋歌の巻』『大江戸喧嘩纏』『修羅時鳥』『若さま侍捕物帖 鮮血の晴着』『若さま侍捕物帖 深夜の死美人』『喧嘩道中』『ふたり大名』『緋ぼたん肌』『水戸黄門』『ふり袖太鼓』『若さま侍捕物帖 鮮血の人魚』『はやぶさ奉行』『花吹雪鉄火纏』
    • 1958年『任侠東海道』『緋ざくら大名』『丹下左膳』『旅笠道中』『大江戸七人衆』『花笠若衆』『若君千両傘』『旗本退屈男』『不知火小僧評判記 鳴門飛脚』『濡れ燕 くれない権八』『修羅八荒』『若さま侍捕物帖 紅鶴屋敷』『喧嘩笠』
    • 1959年丹下左膳 怒濤篇』『忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻』『新吾十番勝負』『おしどり道中』『風流使者 天下無双の剣』『紅顔の密使』『水戸黄門 天下の副将軍』『血闘水滸伝 怒濤の対決』『新吾十番勝負 第二部』 『恋山彦』『天下の伊賀越 暁の血戦』『血槍無双』『雪之丞変化
    • 1960年『任侠中仙道』『丹下左膳 妖刀濡れ燕』 『大江戸の侠児』『新吾十番勝負 第三部』『新吾十番勝負 完結編』『草間の半次郎 霧の中の渡り鳥』『壮烈新選組 幕末の動乱』『清水港に来た男』『水戸黄門』『海賊八幡船』『炎の城』『若さま侍捕物帖
    • 1961年『新吾二十番勝負』『右門捕物帖 南蛮鮫』『江戸っ子肌』 『赤穂浪士』『富士に立つ若武者』『月形半平太』『丹下左膳 濡れ燕一刀流』『橋蔵の若様やくざ』『新吾二十番勝負 第二部』『幽霊島の掟』『若さま侍捕物帖 黒い椿』『赤い影法師』
    • 1962年 『大江戸評判記 美男の顔役』『天草四郎時貞』『恋や恋なすな恋』『橋蔵のやくざ判官』『まぼろし天狗』『血煙り笠』『お坊主天狗』『血文字屋敷』『花の折鶴笠』『若さま侍捕物帖 お化粧蜘蛛』
    • 1963年 『勢揃い東海道』『いれずみ半太郎』『この首一万石』『用心棒市場』『新吾二十番昭府完結編』『若様やくざ 江戸っ子天狗』『左京之介巡察記』
    • 1964年『人斬り笠』『風の武士』『紫右京之介 逆一文字斬り』『新吾番外勝負』 『御金蔵破り』『大喧嘩』『幕末残酷物語』『黒の盗賊』
    • 1965年 『バラケツ勝負』(橋蔵が主演した唯一の現代劇ヤクザ映画)、『大勝負』、『任侠木曽鴉』『天保遊侠伝 代官所破り』
    • 1966年 『旗本やくざ』(この映画を最後に、舞台・テレビへ移る)
    • 1967年 『銭形平次』(テレビ版銭形平次の人気を受けて制作)

舞台(1962年〜)[編集]

  • 東映歌舞伎 明治座
    • 第一回1962年8月『濡れつばめ』『いれずみ判官、花の折鶴笠』
    • 第二回1963年8月『愛と剣の物語』『天童子絵巻、江戸の陽炎』
    • 第三回1964年8月『元禄春夜抄、さくら吹雪』『火と水の絵巻、蝸』
    • 第四回1965年1月『纏一代』『朧夜ばなし、初しぐれ』
    • 第五回1965年8月『鶴八鶴次郎』『舞踊劇夢の権八、矢太郎太鼓』
    • 第六回1966年1月『長崎絵巻、夜ざくら物語』『春色けんか鳶、旗本退屈男武田葵秘聞帖』
    • 第八回1967年1月『お江戸町々物語、編笠権八』『舞踊寿宝船、初姿銭形平次オランダ銀貨の謎』
  • 東映歌舞伎御園座1966年5月『天童子絵巻、纏一』『矢太郎太鼓、旗本退屈男武田葵秘聞帖』

舞踊[編集]

テレビドラマ[編集]

  • 銭形平次』(1966年 - 1984年、CX / 東映京都) - 銭形平次
  • 時代劇スペシャル(CX)
    • 『沓掛時次郎〜この愛に命をかけた流れ旅』(1981年4月17日 / 東映京都) - 沓掛時次郎
    • 『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(1982年5月14日 / 東映京都) - 荒木又右衛門
  • 平岩弓枝ドラマシリーズ 蝶々さんと息子たち』(1984年5月 - 6月、CX)

参考文献[編集]

  • 丹羽真理子編 『大川橋蔵』 (ワイズ出版 2004年)
  • 大川真理子 『ふたりひとつ わたしの橋蔵親分』 (フジテレビ出版 1985年)
  • 神山彰 「大川橋蔵という<正統>」。『時代劇伝説 チャンバラ映画の輝き』 (岩本憲次編、森話社 2005年)に収録
  • 寺島千代 『私のこんちきしょう人生 夫六代目菊五郎とともに』 (講談社 1987年)

脚注[編集]

  1. ^ 日本経済新聞 記者 岡田聡
  2. ^ 第三回歌舞伎座 大川橋蔵公演パンフレット
  3. ^ 雑誌 「映画ファン」人気投票1957年 1958年
  4. ^ 1958年ファン会報誌トミイの7月号
  5. ^ 1958年10月別冊平凡「僕らは親友でござる」
  6. ^ 日本一の斬られ役・福本清三「どこかで誰かが見ていてくれる」参考
  7. ^ 東映チャンネル・レジェンドトーク ゲスト松方弘樹談
  8. ^ 1980年5月2日朝日新聞夕刊『TVアラカルト長寿の秘訣』
  9. ^ フジテレビ出版『ふたりひとつ』
  10. ^ テリー伊東のラジオにゲスト出演した松方弘樹が語る
  11. ^ 1978年12月17日朝日新聞『芸能めがねふき』
  12. ^ 1968年12月6日朝日新聞夕刊『演劇』秋山安三郎
  13. ^ 演劇評論家 萩原雪夫
  14. ^ 第十二回歌舞伎座公演パンフレット
  15. ^ 第三回歌舞伎座公演パンフレット
  16. ^ 東京新聞 文化部 富田宏
  17. ^ 第六回歌舞伎座パンフレット 榎なつ
  18. ^ 1985年3月彩文社 知識 龍居竹之介 追悼大川橋蔵の気配り人生55年
  19. ^ 1981年12月17日朝日新聞夕刊『ずーむあっぷ
  20. ^ 1973年4月23日東京タイムズ新聞
  21. ^ 第七回歌舞伎座パンフ
  22. ^ 東京タイムス学芸部 萩原雪夫
  23. ^ 第四回明治座公演パンフレット
  24. ^ 1985年3月 彩文社 知識 龍居竹之助介 追悼大川橋蔵の気配り人生55年
  25. ^ 『徹子の部屋』で橋蔵本人が「東映が断っていたそうです」と話す
  26. ^ 日本経済新聞夕刊2011年9月1日・8日
  27. ^ 1983年5月26日朝日新聞夕刊
  28. ^ 1980年5月2日朝日新聞夕刊゛長寿の秘訣゛
  29. ^ 東映京都テレビ・プロダクションのwikiwand概要
  30. ^ 大川橋蔵”. 邦画礼賛. 2014年5月26日閲覧。
  31. ^ フジテレビ出版『ふたりひとつ』後書き
  32. ^ 1985年8月演劇界 女形余情
  33. ^ 1984年12月7日朝日新聞
  34. ^ 1984年12月7日毎日新聞夕刊
  35. ^ 1984年12月7日京都新聞夕刊
  36. ^ 1984年12月7日日本経済新聞夕刊
  37. ^ 1984年12月7日京都新聞夕刊
  38. ^ 1984年12月7日京都新聞夕刊
  39. ^ 1984年12月7日京都新聞夕刊
  40. ^ 1985年1月キネマ旬報大川橋蔵さんとの出逢いそして別れ
  41. ^ 1985年1月キネマ旬報 痛恨・大川橋蔵の急死

外部リンク[編集]