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「オリンピック開幕2ヶ月前」は必要か、あえて微妙も。
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== 人物 ==
== 人物 ==
[[東京オリンピック]]から[[モントリオールオリンピック]]まで4大会連続でオリンピック出場を果たし、金・銀・銅の3個のメダルを獲得<ref group="注">日本バレーボール界で3種類のメダルを持っているのは猫田と[[南将之]]のみ。</ref>、「'''世界一の[[セッター (バレーボール)|セッター]]'''」と称された。
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[[日本バレーボール協会]]の「バレーボール栄誉選手賞」受賞。[[国際バレーボール連盟]]の「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」受賞<ref name=FIVB>{{Cite news|url=http://www.jva.or.jp/topics/topics200101.html|title=FIVB 20世紀最優秀賞決定|publisher=日本バレーボール協会|date=2001-01|accessdate=2010-04-22}}</ref>。
[[日本バレーボール協会]]の「バレーボール栄誉選手賞」受賞。[[国際バレーボール連盟]]の「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」受賞<ref name=FIVB>{{Cite news|url=http://www.jva.or.jp/topics/topics200101.html|title=FIVB 20世紀最優秀賞決定|publisher=日本バレーボール協会|date=2001-01|accessdate=2010-04-22}}</ref>。
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[[広島市立古市小学校]]時に、バレーボールを始める。[[広島市立安佐中学校]]時代では、9人制でセンターを務めていた。[[崇徳中学校・高等学校|崇徳高校]]に進み、当時の監督の稲葉正文に、セッターとしての素質を見出される。{{和暦|1959}}1年生の時に、[[国民体育大会バレーボール競技|国体高校男子]]で優勝を果たす。
[[広島市立古市小学校]]時に、バレーボールを始める。[[広島市立安佐中学校]]時代では、9人制でセンターを務めていた。[[崇徳中学校・高等学校|崇徳高校]]に進み、当時の監督の稲葉正文に、セッターとしての素質を見出される。{{和暦|1959}}1年生の時に、[[国民体育大会バレーボール競技|国体高校男子]]で優勝を果たす。


{{和暦|1962}}高校卒業後、地元の[[日本専売公社]]広島地方局(現[[日本たばこ産業]]広島支店)に入社。専売広島男子排球部(現[[JTサンダーズ]])に入部した。直後に、当時の[[バレーボール全日本男子|全日本男子]]監督、[[松平康隆]]の目にとまる。同年[[12月]]18歳で初めて[[バレーボール全日本男子|全日本]]に選出される。
{{和暦|1962}}高校卒業後、地元の[[日本専売公社]]広島地方局(現[[日本たばこ産業]]広島支店)に入社。専売広島男子排球部(現[[JTサンダーズ]])に入部した。直後に、当時の[[バレーボール全日本男子|全日本男子]]監督、[[松平康隆]]の目にとまる。


同年[[12月]]、18歳で初めて[[バレーボール全日本男子|全日本]]に選出される。
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{{和暦|1964}}、20歳で[[東京オリンピックにおけるバレーボール競技|東京オリンピック]]に出場し銅メダルを獲得する<ref group="注">当時は[[出町豊]]との[[セター (バレーボール)#ツーセッター|ツーセッター]]。</ref>。これ以降、猫田全日本の正セッターとして不動の地位を築いていく


同年[[8月]][[ミュンヘンオリンピックにおけるバレーボール競技|ミュンヘンオリンピック]]で念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた
{{和暦|1968}}、再び松平監督の下で、[[メキシコシティオリンピックにおけるバレーボール競技|メキシコオリンピック]]でメダルを獲得。


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同年[[8月]]、[[ミュンヘンオリンピックにおけるバレーボール競技|ミュンヘンオリンピック]]で念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。

{{和暦|1976}}、[[モントリオールオリンピックにおけるバレーボール競技|モントリオールオリンピック]]にも出場し、4位入賞を果たした。[[モントリオールオリンピック日本選手団#概要|日本選手団]]の旗手も務めた。

{{和暦|1980}}、[[モスクワオリンピックにおけるバレーボール競技|モスクワオリンピック]]最終予選を最後に、現役を引退。


直後に専売広島の監督に就任し、日本リーグから采配を振った。
直後に専売広島の監督に就任し、日本リーグから采配を振った。


{{和暦|1981}}、[[胃癌]]に蝕まれていることが発覚。 病魔には勝てず、{{和暦|1983}}[[9月4日]]死去。享年39。
{{和暦|1981}}、[[胃癌]]に蝕まれていることが発覚。
{{和暦|1983}}[[9月4日]]、病魔には勝てず死去。享年39。


== エピソード ==
== エピソード ==
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** [[バレーボールワールドカップ|ワールドカップ]] - 1965年、1969年、1977年
** [[バレーボールワールドカップ|ワールドカップ]] - 1965年、1969年、1977年
* 個人受賞
* 個人受賞
** [[1969年ワールドカップバレーボール男子大会|第2回ワールドカップ]]『ベストセッター賞』、1969年
** [[1970年バレーボール世界選手権|第2回ワールドカップ世界選手権]]『ベスト6賞』、1970年
** [[1977年ワールドカップバレーボール|第3回ワールドカップ]]『トス賞』、1977年
** [[日本バレーボール協会]]『バレーボール栄誉選手賞』、1980年
** [[日本バレーボール協会]]『バレーボール栄誉選手賞』、1980年
** 『[[紫綬褒章]]』(遺族追章)、1983年
** [[中華人民共和国]]『オリンピック百年百傑』、1993年
** [[中華人民共和国]]『オリンピック百年百傑』、1993年
** [[国際バレーボール連盟]]『世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞』、2001年
** [[国際バレーボール連盟]]『世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞』、2001年

2010年9月6日 (月) 00:56時点における版

猫田 勝敏
Katsutoshi Nekoda
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1944-02-01) 1944年2月1日
出身地 広島県広島市安古市町
ラテン文字 Katsutoshi Nekoda
身長 179cm
選手情報
愛称 世界一のセッター
ポジション S
獲得メダル
オリンピック
1972 男子バレーボール
1968 男子バレーボール
1964 男子バレーボール
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猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 1983年9月4日)は、日本の元男子バレーボール選手。広島県広島市安佐南区安古市町(旧・安佐郡安古市町)出身。

人物

東京オリンピックからモントリオールオリンピックまで、4大会連続でオリンピック出場を果たし、金・銀・銅の3個のメダルを獲得[注 1]、「世界一のセッター」と称された。

日本バレーボール協会の「バレーボール栄誉選手賞」受賞。国際バレーボール連盟の「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」受賞[1]

努力家であり人格者でもあり、生涯をバレーボールに費やした。奇策「天井サーブ」を編み出したことでも知られる。練習、合宿、遠征、試合の連続で家族を顧みることも出来なかったが、それを思ってか闘病中に「かあちゃん、すまん」という言葉を残した。幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。最期の言葉は「後1本・・・、後1本・・・」。

来歴

広島市立古市小学校時に、バレーボールを始める。広島市立安佐中学校時代では、9人制でセンターを務めていた。崇徳高校に進み、当時の監督の稲葉正文に、セッターとしての素質を見出される。1959年(昭和34年)1年生の時に、国体高校男子で優勝を果たす。

1962年(昭和37年)、高校卒業後、地元の日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業広島支店)に入社。専売広島男子排球部(現JTサンダーズ)に入部した。直後に、当時の全日本男子監督、松平康隆の目にとまる。

同年12月、18歳で初めて全日本に選出される。

1964年(昭和39年)、20歳で東京オリンピックに出場し、銅メダルを獲得する[注 2]。これ以降、猫田は全日本の正セッターとして不動の地位を築いていく。

1968年(昭和43年)、再び松平監督の下で、メキシコオリンピックで銀メダルを獲得。

1971年(昭和46年)9月、翌年にミュンヘンオリンピックが迫っていた中、試合中に西本哲雄と接触し右腕複雑骨折をしてしまう。

1972年(昭和47年)6月、オリンピック出場が危ぶまれていたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末に、NHK杯で試合に復帰する。オリンピック開幕2ヶ月前だった。これには、東京体育館に詰めかけた観客から大きな拍手が起こった。

同年8月ミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。

1976年(昭和51年)、モントリオールオリンピックにも出場し、4位入賞を果たした。日本選手団の旗手も務めた。

1980年(昭和55年)、モスクワオリンピック最終予選を最後に、現役を引退。

直後に専売広島の監督に就任し、日本リーグから采配を振った。

1981年(昭和56年)、胃癌に蝕まれていることが発覚。

1983年(昭和58年)9月4日、病魔には勝てず死去。享年39。

エピソード

猫田記念体育館
  • 没後、盟友の大古誠司は「全盛期、全日本が負けると「セッターの猫田の責任だ」とマスコミに叩かれ、大勝すると「攻撃陣大活躍」と言う活字が新聞に踊ったが、当時のメンバーだけは知っている。負けたのは全部アタッカーのミスで、勝った試合は全部猫田のトスのおかげだ」と語った。
  • 1989年(平成元年)エラー:和暦テンプレートの解説ページを参照してください。[元号要検証]、偉業を記念して猫田記念体育館が広島市に完成した。館内には、猫田の活躍を紹介するギャラリーがある。
  • 2003年(平成15年)、没後20年目にJTサンダーズは公式戦会場に「猫田シート」を設置し、親子ペアを招待している[2]
  • 2007年(平成19年)、没後25年目に広島県スポーツ少年団バレーボール交歓大会小学生の部に「猫田メモリアルベストセッター賞」という記念賞ができた[3]

球歴

  • 所属チーム
広島市立古市小学校広島市立安佐中学校崇徳高等学校→専売広島(現JTサンダーズ)

関連情報

著書

その他書籍

TV

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 日本バレーボール界で3種類のメダルを持っているのは猫田と南将之のみ。
  2. ^ 当時は出町豊とのツーセッター

出典

外部リンク

先代
専売広島監督
(1980年-1983年)
次代
西本哲雄