龍田 (軽巡洋艦)

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龍田
龍田
基本情報
建造所 佐世保海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 軽巡洋艦
級名 天龍型
艦歴
発注 1915年度計画
起工 1917年7月24日
進水 1918年5月29日
就役 1919年3月31日
最期 1944年3月13日戦没
除籍 1944年5月10日
要目
排水量 基準:3,230トン
全長 142.65 m
最大幅 12.34 m
吃水 3.96 m
機関 ロ号艦本式専焼缶8基、同混焼缶2基
ブラウン・カーチス式オールギアードタービン3基3軸
出力 51,000 SHP
速力 33 ノット
燃料 重油:920トン 石炭:150トン
航続距離 5,000 海里 / 14 ノット時
乗員 竣工時定員337名[1]
兵装 50口径14cm単装砲4門
40口径8cm高角砲1門
53cm3連装魚雷発射管2基
装甲 機関部舷側:63mm
水平:16-25mm
司令塔:51mm
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龍田(たつた)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦天龍型の2番艦である。その艦名は、奈良県竜田川から名づけられた。この名を持つ帝国海軍の艦船としては2隻目にあたる。

艦歴

佐世保工廠で建造された。1917年7月24日起工、1918年5月29日進水、1919年3月31日に竣工した。

1920年シベリア出兵に参加、船団護衛に従事した。1924年3月19日には佐世保港外で演習中に第43潜水艦と衝突事故を起こした。この事故で第43潜水艦は沈没、乗員45名全員が死亡した。

1923年の関東大震災ではその高速を活かし、呉から災害援助物資を満載して東京に急行した。

1937年7月8日から1938年12月15日まで日中戦争中国沿岸で行動した。 

1941年9月1日、舞鶴を出港しトラックに進出、12月8日太平洋戦争の開始によりウェーク島攻略のため援護部隊としてクェゼリン環礁を出撃した。12月11日に行われたウェーク島攻略戦では日本軍は如月疾風と2隻の駆逐艦を失い作戦は失敗に終わった。12月21日、2度目のウェーク島攻略作戦のため龍田を含む攻略部隊はクェゼリン環礁を出撃した。22日から23日にかけて行われた戦いで日本軍はウェーク島を占領した。

1942年1月、日本軍はビスマルク諸島ラバウルカビエンの攻略を開始した。龍田はカビエン攻略部隊として同型艦の天龍等と共に1月20日にトラックを出港した。カビエン攻略は22日に行われ無血占領された。

その後、龍田は3月8日に行われたニューギニア島ラエサラモア攻略作戦などを支援した。

6月にはポートモレスビー攻略作戦のため出撃したが珊瑚海海戦の結果作戦は中止された。

その後はガダルカナル島ポナペ島への輸送任務に従事した。

1943年4月1日、練成部隊として第一艦隊第十一水雷戦隊が結成され、龍田はこの部隊の旗艦となった(この頃には最早天龍型が旧式などという贅沢は言っていられない時期であった)。

1944年3月12日、サイパン島への輸送作戦である東松2号船団の護衛部隊旗艦として横須賀を出港、翌13日八丈島沖で米潜水艦サンドランス (USS Sand Lance, SS-381) の雷撃で沈没した。

龍田は5月10日に除籍された。

歴代艦長

※『艦長たちの軍艦史』131-133頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

艤装員長

  1. 加々良乙比古 中佐:1918年5月1日 - 9月20日[2]
  2. (兼)加々良乙比古 中佐:1918年9月20日[2] - 1919年3月31日

艦長

  1. 加々良乙比古 中佐:1918年9月20日[2] - 1920年10月1日 ※1918.12.1大佐
  2. 大寺量吉 大佐:1920年10月2日 - 1921年11月20日[3]
  3. (心得)河村達蔵 中佐:1921年11月20日 - 12月1日
  4. 河村達蔵 大佐:1921年12月1日 - 1922年5月29日
  5. 高橋武次郎 大佐:1922年6月10日 - 11月20日
  6. 館明次郎 大佐:1922年11月20日 - 1923年5月10日
  7. 竹内正 大佐:1923年5月10日 - 1923年12月1日
  8. 市村久雄 大佐:1923年12月1日 - 1924年3月6日[4]
  9. (兼)吉田茂明 大佐:1924年3月6日[4] - 3月25日[5]
  10. 松崎直 大佐:1924年3月25日 - 11月10日
  11. 柴山司馬 中佐:1924年11月10日[6] - 1925年12月1日
  12. 新山良幸 大佐:1925年12月1日 - 1926年5月20日
  13. 高木平次 大佐:1926年5月20日 - 1926年11月1日
  14. 岩村兼言 大佐:1926年11月1日 - 1927年12月1日
  15. 山本松四 大佐:1927年12月1日 - 1929年5月1日
  16. 川名彪雄 大佐:1929年5月1日 - 11月30日
  17. 丹下薫二 大佐:1929年11月30日 - 1930年11月20日
  18. 作間応雄 大佐:1930年11月20日 - 1931年12月1日
  19. 松木益吉 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  20. 藍原有孝 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  21. 大島四郎 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月1日
  22. 原忠一 大佐:1934年11月1日 - 1935年11月15日
  23. 八代祐吉 大佐:1935年11月15日 - 1936年6月1日
  24. 福田貞三郎 大佐:1936年6月1日 - 1937年4月1日
  25. 高柳儀八 大佐:1937年4月1日 -
  26. 山口次平 大佐:1937年12月1日 -
  27. 伊藤安之進 大佐:1938年8月20日 -
  28. 松良祐宏(考行)大佐:1939年5月25日 -
  29. 沢正雄 大佐:1940年9月25日 -
  30. 馬場良文 大佐:1941年8月20日 -
  31. 吉武真武 大佐:1942年7月20日 -
  32. 船木守衛 大佐:1943年1月7日 -
  33. 小川莚喜 大佐:1943年4月5日 -
  34. 島居威美 大佐:1943年12月22日 -

『竜田揚げ』の由来

龍田の司厨長が、醤油を基本とした調味液に漬け込んだ鶏肉に不足がちだった小麦粉の代用として片栗粉をまぶし、唐揚げ風に揚げた料理を発案した。その料理が評判を呼び『龍田式唐揚げ』として海軍で調理法が広まったのが、現在の「竜田揚げ」の由来であるとされる(諸説有り)。現在でも『竜田揚げ』と表記せず、艦名の[要出典]『龍田揚げ』表記で提供されている店も多い[どこ?]

同型艦

脚注

  1. ^ 大正8年3月5日付 海軍内令 第53号改正、海軍定員令「第46表 二等巡洋艦定員表 其3」。この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ a b c 『官報』第1842号、大正7年9月21日。
  3. ^ 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
  4. ^ a b 『官報』第3460号、大正13年3月8日。
  5. ^ 『官報』第3474号、大正13年3月26日。
  6. ^ 『官報』第3666号、大正13年11月11日。

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第8巻 軽巡Ⅰ』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0458-X
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 官報

関連項目