鍋島直大
鍋島直大 | |
時代 | 江戸時代末期 - 大正時代 |
生誕 | 弘化3年8月27日(1846年10月17日) |
死没 | 大正10年(1921年)6月19日 |
改名 | 淳一郎(幼名)→ 直縄 → 茂実 → 直大 |
官位 | 肥前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 肥前佐賀藩主 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 | 父:鍋島直正 |
兄弟 | 直大、直虎、直柔 |
妻 |
正室:梅渓通善の娘・胤子 継室:広橋榮子 |
子 |
直映(長男)、直英(次男)、南部信孝(三男)、直縄(四男)、 朗子(前田利嗣継室)、伊都子、 茂子(九条良政室のち牧野忠篤継室)、 信子、 俊子(松平胖正室、李鍵公妃誠子の母)、 尚子(柳沢保承正室)、ほか |
鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。
佐賀藩10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。
来歴・人物
父・直正(当時は斉正)の正室・盛姫(11代将軍徳川家斉の18女)には子がなく、37歳で早逝したため継室として迎えた筆姫(田安徳川斉匡の19女、1830年 - 1886年)の嫡男として弘化3年(1846年)8月27日の江戸に生まれる。幼名は淳一郎、後に直縄、茂美、1868年より直大(別説に継室・濱(鍋島茂卿の娘、茂卿は鍋島茂恒に養子に入った多久茂堯の子)の2男、がある)。嘉永2年(1849年)、当時不治の病とされた牛痘の治療のため父・直正がオランダ商館から種痘苗を取り寄せて4歳の淳一郎で試した。この種痘が後に日野鼎哉や緒方洪庵に頒けられ、種痘所を開くきっかけとなった。後の外交官で洋画家の百武兼行は淳一郎の4つ上のお相手役だった。
文久元年(1861年)11月20日、父の隠居により16歳で佐賀藩第11代藩主を襲封した。藩政刷新を進め、藩の殖産としてパリ万博(1867年)に有田焼を出展している。慶応4年(1864年)戊辰戦争では政府軍に組みし佐賀藩兵を率いて指揮を執り、東北に派兵、各地を転戦した。とくに関東に移ってからは上野戦争や野洲梁田で戦い、5月、下総野鎮撫府に任命されると下総国、上総国の監督にあたった。しかし下野国での旧幕軍との戦闘が激しくなり、佐賀藩士を駐屯させたまま6月に鎮撫府を宇都宮城に移すなどして7月まで勤めた。
明治政府に出仕すると、軍制改革と海軍創設の急務を説き、議定職外国事務局輔、横浜裁判所副総督、外国官副知事等、江戸開市取扱総督等を歴任した。父の代にオランダから佐賀藩が購入し明治政府が徴発していた軍艦電流丸で、明治元年(1868)3月26日、大阪の天保山沖で日本初の「観艦式」に旗艦として臨んだ。また明治2年に議政官が行政官に統合された折、それまで31名いた議定の公選により、筆頭輔相に三条実美、続く定員4名の議定に岩倉具視、徳大寺実則とならび大名家から唯一、直大が選出された。また戊辰戦争の功績で賞典禄2万石を賞与された。直大は亡くなった藩士を奉じて佐賀縣護國神社を建てた。
明治4年(1871年)、廃藩置県によりに佐賀知藩事となったがこれを辞して岩倉使節団としてアメリカに留学、また明治6年(1873年)には2人の弟直虎・直柔とともにイギリスに留学している。この間に起きた江藤新平らが起こした佐賀の乱は父・直正が鎮めている。明治11(1878年)年に帰国すると、翌年外務省御用掛となり、明治12年(1879年)には渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会設立、徳大寺実則、寺島宗則らと共同競馬会社設立などに動き、明治13年(1880年)駐イタリア王国特命全権公使となる。次女伊都子はこのとき産まれた子で名前はイタリアにちなんでいる。明治15年(1882年)帰国し、元老院議官、宮中顧問官等を歴任。明治天皇・大正天皇の信頼も厚かった。明治16年には鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営に与し、鉄道建設、音楽推進など数少ない洋行帰りの名士として井上馨とともに近代化政策を牽引した。明治17年(1884年)には侯爵に列し、明治23年(1890年)には貴族院議員となった。明治25年(1892年)叙勲一等、正二位。明治44年(1911年)、皇典講究所第4代所長、國學院大學学長に就任した。
大正10年(1921年)没、享年76。墓地は菩提寺の賢崇寺ではなく青山霊園。佐嘉神社には父・直正とともに祀られている。
家族
- 側妾:朝千代
- 養子
略歴
- 1861年(文久元年) -従四位下侍従兼信濃守に叙任 (肥前守に改まる)[1]。
- 1868年(明治元年) - 外国事務局権輔[1]。横浜裁判所副総裁を兼任[1]。外国官副知事[1]。
- 1869年(明治2年) - スペインとの和親貿易条約締結の全権委任、正四位下右近衛権少将[1]。
- 1871年 (明治4年) - 佐賀県知事。知事職を辞し英国留学[1]。佐賀藩主の家督を八男
- 1873年 (明治6年) - 帰国するも、英国へ5年間再留学[1]。
- 1879年 (明治12年) - 来日するドイツ皇族・イタリア王族および米前大統領の接伴掛。従三位。外務省御用掛[1]。
- 1880年 (明治13年) - イタリア王国特命全権公使に赴任。
- 1882年 (明治15年)
- 1884年 (明治17年)
- 1886年 (明治19年) 2月15日 - 元老院議官を辞[1][2]。
- 1890年 (明治23年) - 貴族院議員。勲二等旭日重光章[1]。
- 1892年 (明治25年) - 正二位勲一等[1]
栄典
- 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[6]
- 1887年(明治20年)
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1895年(明治28年)7月23日 - 勲一等瑞宝章[10]
- 1897年(明治30年)
- 1915年(大正4年)
- 1921年(大正10年)6月18日 - 従一位・旭日桐花大綬章[15]
- 外国勲章佩用允許
- 1882年(明治15年) - イタリア王国サンモーリスエラザル第一等勲章[16]
- 1888年(明治21年)3月6日 - ロシア帝国神聖アンナ第一勲章[17]
- 1891年(明治24年)5月1日 - シャム王国暹羅王冠第一等勲章[18]
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l 「なべしま・ちょくだい(侯爵鍋島直大)」『日本現今人名辞典』訂正3版。
- ^ a b c d e 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』287-293頁。
- ^ 7月の官員名簿だと「式部寮」(217頁)の頭は空白だが、「元老院」以下に「議官兼式部頭 従三位 鍋島直大」とある(彦根, 正三 (Hikone, Shōzō) 編『改正官員録. 明治15年7月』博公書院、1880-1884、21頁 。 (NDLJP:779311)。そして彦根, 正三 (Hikone, Shōzō), ed (1880-1884). 改正官員録. 明治15年8月. 博公書院. p. 219 (NDLJP:779312)で「式部寮」の部に頭として明記
- ^ 爵位#明治17年7月7日の叙勲を参照。
- ^ 式部寮を式部職に再組織の際、職名を「長官」と改名。大蔵省印刷局, ed (1884年10月3日). 官報. 1884年10月03日. 5. 太政官第80号: 日本マイクロ写真. pp. 2-. NDLJP:2943586 . "宮内省中式部寮を廃し更に式部職を被置、職制・俸給、左の通り被定候。条此旨相達候事(左大臣)"
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3620号「叙任及辞令」1895年7月24日。
- ^ 『官報』第4198号「叙任及辞令」1897年7月1日。
- ^ 『官報』第4200号「叙任及辞令」1897年7月3日。
- ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2665号「叙任及辞令」1921年6月20日。
- ^ 「元老院議官鍋島直大伊国勲章佩用」 アジア歴史資料センター Ref.A15110035300
- ^ 『官報』第1403号「叙任及辞令」1888年3月7日。
- ^ 『官報』第2350号「叙任及辞令」1891年5月4日。
参考文献
- 「なべしま・ちょくだい(侯爵鍋島直大)」『日本現今人名辞典』(訂正3版)日本現今人名辞典発行所、1903年。NDLJP:782773 。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。