神京・京宝特急

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神京・京宝特急(しんけい・けいほうとっきゅう)は、かつて阪急電鉄の前身である京阪神急行電鉄において運転された特急列車の通称である。前者は1949年12月から1951年10月にかけて神戸京都両線を直通して神戸-京都[注 1]に運転された。後者は1950年3月から1968年2月にかけて京都・神戸・今津の各線を経由して京都-宝塚間に運転され、「歌劇号」の別称があったことも知られている。

京阪との戦時統合と分離

現在の阪急京都本線は、京阪電気鉄道を母体とする新京阪鉄道(以下、新京阪)が建設したものであり、神宝線(阪急宝塚本線阪急神戸本線系統の総称)とはその成立を異にしている。新京阪は大阪への乗り入れに際し、十三駅 - 千里山駅間(現在の京都本線十三駅 - 淡路駅間と阪急千里線淡路駅 - 千里山駅間)を営業していた北大阪電気鉄道を買収した。その結果、北大阪電気鉄道が取得していた免許を利用して天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)まで路線を伸ばす一方、十三駅で阪急線と接点を持つことになった。1930年に新京阪は親会社の京阪電気鉄道に合併されて同社の新京阪線となるが、1934年10月には淡路駅で分離された急行列車が十三駅まで乗り入れるようになり、1938年10月からの中断を経て1941年11月には特急として復活する。当時、神戸線の特急は十三駅を通過していたが、新京阪線の特急・急行に接続する特急のみ十三駅に停車させて連絡を図った[1]

日中戦争勃発の翌年である1938年には、国家総動員法の公布と同時に、鉄道・バス事業者の統制と統合を図る陸上交通事業調整法が公布された。これを受けて、1943年には阪急と京阪が合併し「京阪神急行電鉄」が発足した。これにより、神戸線と新京阪線が同じ鉄道事業者の路線となった。

終戦後、電鉄各社が戦時合併を解く中、京阪神急行も旧・京阪各線を分離することとなったが、日本国有鉄道も加わった協議の結果、京阪神地域の将来を見据え、淀川を境として左岸エリアの旧京阪各線と右岸エリアの旧阪急及び新京阪線に分割することが最適との結論に達し、京阪が心血を注いで建設したインターアーバンである新京阪線は阪急側に残ることとなった。

運転開始

神戸-京都間の直通特急の運転構想は、京阪との分離交渉と並行して進められていた。直接の経緯は1948年末に神戸港に入港した外国人観光客が阪急に対して神戸-京都間の直通列車の運転を要望したことに始まる。

しかし、新京阪線が1928年に1500Vに昇圧されていたのに対して、神宝線は未だ600Vのままであり、なおかつ京都線所属の100形では車体寸法が大きすぎて神戸線への入線が不可能[注 2]だった。そこで、当時神戸線最新鋭の700系[注 3]のうち、702-752と703-753の2編成を複電圧車両に改造して直通運用に充当することとなった[注 4]。改造工事は1949年11月中に完了し、11月29日から12月1日の3日間にわたって神戸-京都、十三-梅田、西宮北口-宝塚の各区間において試運転が実施された。なお、753のみ試運転期間中はサロンルーム的な車内に改造し、リクライニングシートなどを配置していたが、営業開始前に元のロングシートに戻されている。試運転中に大きな問題が発生しなかったことから、京阪分離直後の1949年12月3日から、中央貫通扉に翼をモチーフとした「特急」、左右に「神戸」「京都」と書かれた円形の運行標識板を掲げて、平日3往復、日曜祝日3.5往復[注 5]で西宮北口・十三・高槻市西院の各駅に停車して神戸-京都間を所要時間70分で走る直通特急の運転を開始した。神戸線では同年4月に特急運転が復活していたが、京都線ではこの列車が戦後初の特急運転となった。乗務員は神戸線所属の乗務員が京都まで担当し、十三駅で電圧転換を行った。表定速度そのものは高くなかったが、比較的軽量な車体に170kW/hのSE-151モーターを700形、750形に各2基搭載していたことから、1500Vの京都線に入ると、瞬間的ながら高いスピードが出たという。

京宝特急の登場とイベントへの対応

京宝特急の標識版

神京特急の運転開始から3か月過ぎて、春の観光シーズンを前にした1950年3月21日から、直通特急の第二弾として、京都から西宮北口経由で宝塚に向かう日曜祝日運転の不定期特急の運転を開始した。車両は800系の複電圧車2編成である。運転本数は2往復で、停車駅は西院・高槻市・十三・西宮北口・宝塚南口の各駅と、競馬開催時の仁川駅、所要時間は京都行き72分、宝塚行き73分である。西宮北口駅では、神戸線下りホームに入線して客扱い後、一旦神戸側に引き揚げて神戸線上りホームに転線、西宮北口駅改良工事実施まであった神戸-宝塚方面への渡り線を通って今津線に入線した。その後、宝塚南口での利用者が少なかったことと、西宮北口構内の今津線-神戸線の短絡線[注 6]を使用することになったことから、宝塚南口と京都行きの西宮北口については通過扱いとなった。このとき今津線経由となったのは宝塚線の規格向上工事前で、大型車の入線が不可能であったためである[注 7]

アメリカ博塗装となった800形802-852の模型。神京特急にも使用された。

同年4月には800系のうち複電圧車の2編成が、阪急西宮球場周辺で開催されたアメリカ博覧会の宣伝用に、レモンイエロー+コバルトブルーの塗装に変更[注 8]され、開催期間中はそのまま使用された。同時に王子公園で神戸博覧会が開催されたこともあり、直通特急を平日4往復、日曜祝日6往復に増発するとともに、一部の列車は西灘の両駅にも停車した。複電圧車両は神京、京宝の両直通特急以外にも日曜祝日には神戸-宝塚間の直通普通の運用にも充当され、予備車両なしのフル稼働状態となったことから、京宝特急については1往復に削減されている。6月12日にアメリカ博覧会が閉幕すると、神京特急は平日3往復、日曜祝日4往復に削減された。ただし、京宝特急は1往復のままである。特別塗装ももとのマルーンに戻された。

スピードアップと新車の投入

1950年に入ると戦後の復興も一段落したことから同年10月1日に阪急全線のダイヤ改正を実施、神京特急は神戸線内のスピードアップと京阪間をノンストップ運転としたことから65分にスピードアップ、京宝特急も京都行き64分、宝塚行き67分にスピードアップされた。運転本数も変更されることとなり、神京特急は平日・日曜祝日とも4往復に揃えられたが、京宝特急は従来同様日曜祝日のみの1往復運転であった。京阪間ノンストップ運転は長くは続かず、翌1951年4月以降は高槻市にも再び停車するようになった。

また、この頃になると車両面においても大きな変化が見られるようになった。日常的に神戸-京都間の直通列車が走るようになると、神戸・京都の両線だけでなく、近い将来に予定されていた宝塚線の規格向上工事完成後に同線に入線できる車両の規格づくりが行われた。具体的には100形の全長と800系の車体幅を持ち合わせた阪急標準車体寸法を設定し、それに準拠した車両を製造することとなって、同年末までに神宝線向けの810系と京都線向けの710系が複電圧装置を搭載して、扉間固定式クロスシートの優等列車向け車両として登場、1951年1月から810系が神京・京宝特急に充当されることになり、800系の運用は消滅、802-852は810系の予備車として1955年末まで複電圧車のまま残されたが、803-853は直通運用離脱直後の同年4月に600V専用車に復元された[注 9]。一方、710系は運用開始当初神戸線への直通運用はなかったことから、京都線の急行を中心に運用された。

神京特急の運転休止

こうして走り始めた神京特急であったが、神戸・京都両線とも既存の優等列車の間に挟まって走っていたために本数が少なかったことなどから、利用者が十三駅で入れ替わることとなってしまい、当初想定していたより直通客の需要を掘り起こすことができなかった。

そのさなかの1951年10月、電力事情が悪化[注 10]したことから利用率の低い列車の運休や編成両数の削減が実施されることとなった。神京特急もその対象となり、同年10月10日をもって運転が休止されることとなった。しかしながら、京宝特急は日曜・祝日に1往復のみの運転であったことから削減対象とならず、その後も運転されることとなった。

その後の京宝特急

1952年1月からは、京宝特急の運用を運用合理化[注 11]のため京都線側に移管、810系に代わって710系が充当されることとなり、これによって810系の複電圧車グループは定期での京都線乗り入れ運用がなくなった。乗務員もまた、京都線の乗務員が宝塚まで入線することとなった。京宝特急の宝塚到着後、回送で西宮車庫に入庫する際は往路の逆コースをたどって西宮北口駅神戸線上りホームから西宮車庫に入庫、出庫して宝塚に回送される際はこのコースの逆で今津線に入線、京都線帰還時に編成の向きが逆にならないように注意を払った[注 12]。ただし、1954年10月10日から12月19日にかけて実施された西宮北口駅構内配線改良工事の際には、京宝特急は規格向上工事が完成した宝塚線経由[注 13]で運転され、その運用には810系と複電圧車の予備車である802-852が充当されている。これが、宝塚線で特急が運転された初の事例である[2]

京宝特急は1963年6月17日の大宮駅-河原町駅間延伸以降は運転区間を河原町-宝塚間に変更し、西宮車庫で行っていた折り返し待機を正雀車庫に変更、710系も2800系の就役に伴って1965年以降はロングシート化されたが、京都側を朝出発、宝塚を夕方出発というダイヤで走り続けた。1967年10月8日には長年の懸案であった神戸線の架線電圧1500Vへの昇圧が完成、神戸・京都両線の直通運転の大きな障害が除去されたが、京宝特急は神戸高速鉄道開業を前にした1968年2月25日の運転を最後に廃止された。

事実上の復活から現在まで

長らく貸切列車以外では休止していた直通列車だったが、2008年秋、嵐山への観光客誘致キャンペーンの一環として11月17日から21日にかけて西宮北口-嵐山間を直通する臨時列車が、平日指定日の1日1往復のみ運行された。

京都市内側のターミナルが河原町から嵐山に変更されたものの、嵐山も京都市に位置しているため、40年ぶりに事実上の京都市内直通の復活となった。

なお、発着地が河原町ではなく嵐山となったことから、それまでの神京・京宝特急との区別のために「神嵐・嵐宝特急」(しんらん・らんほうとっきゅう)と称すこともある。

これ以降、2009年春の観光シーズンでは川西能勢口豊中・西宮北口・高速神戸の各駅から嵐山に向けた臨時列車が1日1往復運転された[注 14]ほか、2010年の京都線ダイヤ改正時からは列車種別が『臨時』から『直通特急』[注 15]に名前を変えて運行している。

直通運転への動き

『京阪神急行電鉄五十年史』では、「神戸-京都間特急列車運転開始」の項の末尾で、「元来、京都線と神戸線とは一体化する自然的条件を具えており、将来、両線の施設に大きな変革を与える端緒となることと考えられる。」と記しており、その前段では神京特急の運転休止後も京都線から西宮球場への野球観戦列車や阪神競馬場最寄り駅である仁川駅への臨時列車の運転の可能性を検討している記述がある。しかしながら各線とも輸送力増強に追われてしまい、このような臨時列車を運転する機会が生じなかった。数少ない事例としては、大阪万博開催時に神戸・宝塚両線から千里線に直通する臨時列車が運転された事例である。ただし、これらの列車は団体客優先で、一般乗客の利用は限られたものであった。

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 駅名は当時のもの。
  2. ^ 100形のうち、空襲で被災した105が方向転換のために西宮北口まで入線したことはある。
  3. ^ 1950年に800系に改番。
  4. ^ 改造工事の概要については800系の項を参照。
  5. ^ 神戸発平日9:16,12:16,15:16、日曜祝日9:39,14:06,18:06、京都発10:54,13:54,16:44、日曜祝日8:00,12:00,16:22,19:30
  6. ^ 現在宝塚発今津線経由梅田行きの準急が使用。
  7. ^ 宝塚線の規格向上工事は1952年3月に十三-池田間及び箕面線全線が第一期区間として竣工後、同年9月に宝塚までの全線が完成。
  8. ^ 600V専用車の801-851も同時に塗り替えられた。このほか、京都線の100形の元貴賓車である1500号と宝塚線の380形の一部車両も同様の塗色に塗り替えられた。
  9. ^ 同時に、802-852は車内灯の蛍光灯化や車内放送装置の試験車とされた。
  10. ^ 当時は水力発電が主体であったことから渇水等の事態が発生すると電力供給能力が低下し、供給制限や停電がしばしば発生した。
  11. ^ 京宝特急は朝京都発、夕方宝塚発であったことから810系をはじめ神戸線車両が担当した場合、西宮車庫から列車送り込みと入庫のための長距離回送が必要であった。
  12. ^ 神戸線の場合、当時は休日に神戸-宝塚間の直通普通が多く運転されていたことから、920系以降の2両固定編成車両では電動車が神戸側に来る逆編成も日常的に走っていた。しかし、京都線には西宮北口と同様の三角線はなく、一旦逆編成になってしまうと、向きを戻すのが困難であった。
  13. ^ 宝塚線経由は宝塚行きのみ。宝塚線内は無停車である。
  14. ^ 運転日は川西能勢口発が4月13日から15日、豊中発が4月16・17日、高速神戸発が4月20・21日、西宮北口発が4月22日から24日。
  15. ^ 梅田・河原町 - 嵐山間の臨時列車は『快速特急』を名乗っている。

出典

  1. ^ 『レイル No.47』プレス・アイゼンバーン、2004年、16頁。 
  2. ^ 『レイル No.47』プレス・アイゼンバーン、2004年、18頁。 

参考文献

  • 『レイル』 No,47 特集 阪急神戸・宝塚線特急史 2004年
  • 『京阪神急行電鉄五十年史』 京阪神急行電鉄 1957年
  • 『京阪70年のあゆみ』 京阪電気鉄道 1980年
  • 清沢洌、『暗黒日記』 岩波文庫 1990年
  • 『車両アルバム1 阪急810』 レイルロード 1988年
  • 『車両アルバム2 阪急710』 レイルロード 1989年
  • 橋本雅夫、『阪急電車青春物語』 草思社 1996年8月
  • 橋本雅夫、『大阪の電車青春物語』 草思社 1997年12月
  • 浦原利穂、『戦後混乱期の鉄道 阪急電鉄神戸線―京阪神急行電鉄のころ―』 トンボ出版 2003年1月
  • 中田安治、『写真集 昭和の電車がいっぱい 関西私鉄』 成山堂書店 2009年1月
  • 『鉄道ピクトリアル』各号 1978年5月臨時増刊 No.348、1989年12月臨時増刊 No.521、1998年12月臨時増刊 No.663 特集 阪急電鉄、1984年1月臨時増刊 No.427 特集 京阪電気鉄道
  • 『鉄道ファン』1980年8月号No,232 特集 京阪神ライバル物語
  • 『関西の鉄道』No,56 特集 阪急電鉄PartVIII 京都線・千里線 2009年
  • 『レイル』 No,43 特集 阪急京都線特急史 2002年
  • 中西正紀、「国家の動脈を確保せよ!総力戦と鉄道行政」『歴史群像』 No,94 2009年4月号