柴村直弥

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柴村 直弥
名前
愛称 Shei(シェイ)
カタカナ シバムラ ナオヤ
ラテン文字 SHIBAMURA Naoya
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1982-09-11) 1982年9月11日(41歳)
出身地 広島県広島市
身長 179cm
体重 78kg
選手情報
在籍チーム ウズベキスタンの旗 パフタコール
ポジション DF
背番号 33
利き足 左足
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

柴村 直弥(しばむら なおや、1982年9月11日 - )は、広島県広島市出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダーウズベク・リーグFCパフタコール・タシュケント所属。

来歴

広島皆実高校時代(2年先輩に朝日大輔、1年先輩に瀬戸彬仁秦賢二、同級生に田村和也堀健人ら)は、2年時に岩手総体で同校初優勝に貢献。千葉県立八千代高等学校との決勝戦では試合を延長戦に持ち込む同点ゴールを決めている。試合は延長戦の末決着が着かず、3−3の引き分けで総体サッカー競技史上初めての両校優勝となる。森崎和幸浩司兄弟・駒野友一寺内良太らと広島県選抜のメンバーとして1999年熊本国体3位。翌年2000年とやま国体では5位。同年全国高等学校サッカー選手権大会に出場するも、2回戦で東北高等学校に敗れる。

中央大学時代は2年時に2年先輩の中村憲剛らと共に関東大学2部リーグ優勝に貢献。リベロのポジションでリーグ最少失点を誇る鉄壁の守備を構築し、攻撃でも最終戦の中村憲剛のFKを頭で押し込んだ先制点を含む3得点をあげ同リーグベストイレブンを受賞。

大学卒業後、アルビレックス新潟シンガポールに入団し、初年度から両サイドバックで主力で活躍し、2007年アビスパ福岡へ移籍。ピエール・リトバルスキー監督のもと同チームでJリーグデビューを飾る。同じポジションには監督がシドニーFCから連れて来た元オーストラリア代表のチェッコリがいたが、チェッコリ不在時に出場したときには安定したプレーを見せる。その後2008年の徳島ヴォルティスではチーム史上初めて移籍1年目で主将に抜擢され、センターバック、左サイドバックを努める。

2009年ガイナーレ鳥取に移籍。ヴィタヤ・ラオハクル監督の元、開幕2戦目でアシスト、3戦目ではゴールを決めるなど、序盤戦首位を独走するチームに大きく貢献する活躍を見せるが、シーズン中盤にケガのため戦線離脱。それ以降チームも調子を落とし、最終的に5位でシーズンを終え昇格可能な4位以内確保にはならなかった。 2010年シーズン、ヴィタヤ・ラオハクル監督の交通事故により突然監督が交代。出場機会を失う。そして2010年7月、藤枝MYFCへの期限付き移籍が発表される。同クラブでは移籍以降すべての公式戦に先発出場するも同年シーズン終了後に期限満了により藤枝MYFCを退団。保有権を持つガイナーレ鳥取も退団し、自身のブログでかねてからの夢である欧州に挑戦することを明らかにする[1]

2011年3月7日、練習参加していたラトビアリーグFKヴェンツピルスと契約した事を発表した[2]

2011年ラトビアカップでは決勝戦に出場しチームの優勝に貢献。チームメイトの佐藤穣と共に日本人初のラトビアカップ優勝の快挙を成し遂げる。バルト三国の頂点を決める、三か国の上位チームで行うバルティックリーグでは準々決勝以降チーム内でただ一人5試合すべての試合にフル出場し、準々決勝のエストニアFCフローラ・タリン戦、準決勝のリトアニアFCシャウリャイ戦では4試合すべてを完封勝利。スコント・リガとの決勝戦では延長前半に先制されるも、延長後半にCKから3人のDFに競り勝ち、ヘディングで同点ゴールを決める。その後のPK戦でもきっちりゴールを決めるも、9人目までもつれるバルティックリーグ史に残る死闘の末敗退。チームの準優勝に大きく貢献した[3]

UEFAヨーロッパリーグ2011-2012では2回戦でベラルーシFCシャフティオール・ソリゴルスクを倒し、3回戦セルビアレッドスター・ベオグラードに敗戦。ホーム&アウェー4試合すべてにフル出場する[4]

2011年11月、FKヴェンツピルスで日本人初のラトビアヴィルスリーガ優勝。ラトビアカップに続き2冠を達成。シーズンを通して主力選手として活躍し、2冠に大きく貢献する。[5]

2012年2月、ウズベキスタン国内リーグ、カップ共に最多優勝回数を誇り、ACLでは開幕以来すべての大会に出場しているウズベキスタン1の名門クラブFCパフタコール・タシュケントに移籍。同国初の日本人選手となる[6][7]

人物・エピソード

アビスパ福岡時代は博多の森球技場での選手紹介の際に「苦労人から仕事人へ〜」と紹介されたり、ガイナーレ鳥取では「努力とは何か? その答えはガイナーレの左サイドにある。」とホーム戦での選手紹介で紹介されたりと、たゆまぬ努力で夢を掴んできた苦労人のイメージが強い。

また、ふくらはぎが異常に太く、アビスパ福岡時代に同じくふくらはぎの太いチームメイトの布部陽功金古聖司らとともに「ふくら会」を結成していたことを2008年オフに放送されたスカパーのレポーター座談会でレポーターの高木聖佳がエピソードとして話す。

ガイナーレ鳥取時代はFM鳥取で自身がメインパーソナリティを努める番組「GAINARE TOTTORI WEEKLY INFORMATION」をスタートさせ、毎週金曜日18時から放送される。藤枝MYFCへ移籍後はチームメイトで同じ年齢の美尾敦へと引き継ぐ。

2010年にはフットサルブランドSPAZIOとコラボして自身がデザインを手掛けたオリジナルチャリティーTシャツを制作しアフリカにワクチンを送るなど、社会貢献活動にも積極的である。

2010年12月25日、熊谷スポーツ文化公園陸上競技場で行われた天皇杯準々決勝、アビスパ福岡FC東京戦に福岡の応援に訪れ、ハーフタイムにはゴール裏のアビスパサポーターの元に現れ、拡声器を使って感謝のメッセージを伝える。

アビスパ福岡から徳島ヴォルティス移籍時にはブログに100件以上の応援コメントが寄せられるなど、常に謙虚な姿勢と一人一人に丁寧な対応をすることからチームを去ってからも応援し続けるファンも多い。[8]

愛用スパイクはumbro。 愛用飲料はVAAM

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
シンガポール リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2005 新潟S 5 Sリーグ 20 0 3 0 - 23 0
2006 新潟S 5 Sリーグ 6 0 0 0 - 6 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
2007 福岡 32 J2 6 0 - 0 0 6 0
2008 徳島 4 J2 18 0 - 0 0 18 0
2009 鳥取 4 JFL 13 1 - 0 0 13 1
2010 鳥取 4 JFL 0 0 - - 0 0
2010 藤枝 13 東海1部 4 1 - - 4 1
ラトビア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2011 ヴェンツピルス 18 ヴィルスリーガ 16 1 5 1 2 0 23 2
ウズベキスタン リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2012 パフタコール 33 ウズベク・リーグ
通算 シンガポール Sリーグ 26 0 3 0 - 29 0
日本 J2 24 0 - 0 0 24 0
日本 JFL 13 1 - 0 0 13 1
日本 東海1部 4 1 - 0 0 4 1
ラトビア ヴィルスリーガ 16 1 5 1 2 0 23 2
ウズベキスタン ウズベク・リーグ
総通算 83 3 0 0 93 4

その他の公式戦

経歴

チームタイトル

  • ラトビアカップ 優勝: 2011
  • バルティックリーグ 準優勝: 2011
  • ラトビアヴィルスリーガ 優勝: 2011

関連情報

テレビ・ラジオ番組

  • FM鳥取 GAINARE TOTTORI WEEKLY INFORMATION メインパーソナリティ(2009年3月〜2010年7月)

関連項目

脚注

外部リンク