対馬警備隊 (陸上自衛隊)

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対馬警備隊
創設 1980年(昭和55年)3月
所属政体 日本の旗 日本
所属組織 陸上自衛隊
部隊編制単位
兵科 諸職種混成
人員 約350名
所在地 長崎県 対馬市
編成地 対馬
愛称 山猫部隊
上級単位 第4師団
担当地域 対馬
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対馬警備隊(つしまけいびたい、: JGSDF Tsushima Area Security Force)は、長崎県対馬市対馬駐屯地に駐屯する第4師団隷下の混成部隊である。

概要

対馬は地政学的に朝鮮半島中国大陸との境界線に位置し、歴史的には大陸と日本との交流の中継地として栄えた。一方では、日本の最前線としての歴史を刻んできた。奈良時代には新羅からの侵略を受け、平安時代刀伊の入寇鎌倉時代文永の役(元寇)、室町時代応永の外寇など外国との軍事的衝突の舞台ともなった。幕末にはロシア帝国海軍の強襲により対馬の一部が一時占領される事件(ポサドニック号事件)も起こり、明治に建軍された帝国陸軍では同名の対馬警備隊対馬警備隊司令部、1920年に対馬要塞司令部に改編)が編成され、多数の海岸砲を擁する対馬要塞も設置されている。第二次世界大戦後の陸上自衛隊でも、対馬海峡の防衛に資するための警備部隊を派遣することとなる。

1980年(昭和55年)以前は別府市に連隊本部を置く第41普通科連隊から1個普通科中隊が派遣されてきていた。しかしながら、普通科中隊は本来継続して独立行動をする能力を有しておらず、またこれを管理する第41普通科連隊の隊務運営上不都合が大きかった。そこで、同中隊を別府駐屯地に帰還させて、新たに対馬に継続駐留する対馬警備隊が編成された。構想段階では舟艇中隊の編制・編入も検討されたが、内局の同意を得られず最終的には断念している[1]

現在の対馬警備隊は、普通科中隊1個を基幹とする小規模な部隊であるが、有事には応援部隊を受けてこれを指揮するために全国の離島警備隊でも類を見ない特別な扱いがなされている。すなわち、対馬警備隊は第4師団長直轄の独立部隊であり、指揮官は連隊長クラスの1等陸佐が充てられているなど、連隊格の扱いとされている。また、同隊は相浦駐屯地西部方面普通科連隊と同様、レンジャー資格者の割合を高めており、レンジャーだけで一個の小隊を編成できる人数と見積もられる。これは、敵のゲリラコマンドが対馬に潜入してきた場合には、森林地帯において掃討する必要があるためである。また、敵が対馬警備隊の対処能力を上回る着上陸侵攻を行なう場合には、森林地帯に転進して抵抗を続けるためでもある。

なお、対馬の防衛には、他にも海上自衛隊対馬防備隊(上対馬警備所・下対馬警備所)が設置されており、対岸の壱岐警備所と協同して対馬海峡の通航監視を行っている。航空自衛隊も、第19警戒隊が対馬の最北端にある海栗島レーダーサイトを設置して朝鮮半島方面の空を警戒している。

関係機関として、長崎県警察警察署を島内に2ヵ所設置している。海上保安庁は島内に対馬海上保安部・比田勝海上保安署を設置し、かがゆき型巡視艇6隻とモーターボート2隻の計8隻を配備している。そのほか、水産庁漁業取締船で対馬沖を監視することがある。

沿革

  • 1961年(昭和36年)9月:第4管区隊対馬作業隊が常駐するようになる。
  • 1962年(昭和37年)8月:第41普通科連隊から対馬派遣隊として1個普通科中隊(約100名)が派遣される。
  • 1980年(昭和55年):対馬警備隊が新編される。
  • 1985年(昭和60年):参議院内閣委員会によって、国政調査の対象として参議院内閣委員会の派遣委員が部隊を訪問する。11月26日の第103回国会参議院内閣委員会で派遣委員の報告が行われる。「対馬警備隊でありますが、同部隊は、隊本部、本部中隊、普通科中隊及び後方支援隊で編成され、人員は約二百八十名であります。同部隊は第四師団長の指揮監督を受け、対馬全島の防衛、警備及び災害派遣等を任務としており、上見坂演習場及び基本射場並びに郷崎、比田勝の両訓練場を効率的に使用し、精強な部隊をつくるべく日夜厳しい訓練を実施しているとのことであります。なお、同部隊において、対馬の地勢及び道路状況、隊員の異動及び居住状況、駐屯地の施設内容等に関して質疑を行いましたが、隊員の生活環境の問題、特に隊舎にはまだ二段ベッドがかなり残っており、また厚生施設にも不備な点があり、これらについて改善の要望がなされました。」(参議院会議議事録から大島友治委員会理事)
  • 2008年(平成20年)11月:対テロ戦闘演習を対馬全域で実施。
  • 2009年(平成21年)1月26日:長崎県の対馬市長、同市会議長らが対馬での防衛力強化(連隊規模の部隊の配備、演習場や防衛施設の増設等)を求める要望書を増田好平防衛事務次官に手渡した[2]
  • 2010年(平成22年):対テロ戦闘演習を実施。

部隊編成

  • 隊本部
    • 本部中隊 - 軽装甲機動車:隊本部班、情報小隊、通信小隊、施設作業小隊、衛生班、対戦車小隊(対戦車隊
    • 普通科中隊 - 軽装甲機動車:4個小銃小隊、迫撃砲小隊
    • 後方支援隊:本部班、整備小隊、補給小隊、管理小隊(駐屯地管理業務を担当)

主要幹部

官職名 階級 氏名 補職発令日 前職
対馬警備隊長
兼 対馬駐屯地司令
1等陸佐 三塚克也 2014年8月1日 第1空挺団本部高級幕僚
歴代の対馬警備隊長
(1等陸佐・対馬駐屯地司令兼補)
氏名 在職期間 前職 後職
01 福留真信 1980年03月25日 - 1982年03月15日 第4師団司令部付 第45普通科連隊
02 稲井淳一 1982年03月16日 - 1984年03月15日 第10師団司令部第4部長 第15普通科連隊
03 内藤茂雄 1984年03月16日 - 1987年03月15日 第45普通科連隊長
04 井上陽市 1987年03月16日 - 1989年03月31日 陸上自衛隊富士学校学校教官 西部方面総監部監察官
05 加賀本昭雄 1989年04月01日 - 1991年03月15日 第13師団司令部第3部長 第17普通科連隊
山口駐屯地司令
06 竹下治雄 1991年03月16日 - 1993年07月31日 陸上幕僚監部装備部需品課
燃料班長
福岡駐屯地業務隊
07 竜野邦明 1993年08月01日 - 1995年06月29日 陸上幕僚監部防衛部研究課
総括班長
陸上幕僚監部防衛部研究課
分析室長
08 中里茂 1995年06月30日 - 1997年12月07日 西部方面総監部防衛部訓練課長 第3教育団副団長
09 松尾隆二 1997年12月08日 - 2000年11月30日 西部方面総監部総務部広報室長 西部方面総監部総務部長
10 興國洋 2000年12月01日 - 2002年12月01日 西部方面総監部総務部広報室長 第1混成団副団長
11 宮口修一 2002年12月02日 - 2005年03月31日 陸上自衛隊九州補給処企画室長
12 川井修一 2005年04月01日 - 2007年12月02日 陸上自衛隊少年工科学校副校長
兼 企画室長
13 安藤隆太 2007年12月03日 - 2010年03月28日 陸上自衛隊幹部学校学校教官 陸上自衛隊研究本部主任研究開発官
14 谷村博志 2010年03月29日 - 2012年07月31日 陸上幕僚監部人事部募集・援護課
援護班長
陸上幕僚監部防衛部防衛課勤務
15 仲川剛 2012年08月01日 - 2014年07月31日 中央即応集団司令部後方補給部長 陸上自衛隊幹部学校主任教官
16 三塚克也 2014年08月01日 - 第1空挺団本部高級幕僚

アリラン祭への部外協力

対馬の厳原港で1964年から開催されている「厳原港まつり」がある。対馬市では、対馬市在住の特別永住者への配慮と、韓国からの観光客誘致を目的に、平成元年に港まつりの伝統的な祭礼を捨てた。その代わり、韓国K-POP歌謡ショーや朝鮮民族の舞踊、朝鮮通信使行列を再現して韓国人を歓迎するパレード等へ港まつりの内容を大幅に改変して「厳原港まつり対馬アリラン祭」という朝鮮通信使の歴史を偲ぶ観光物産イベントとした。

対馬警備隊では、対馬市の民生安定のため毎年の運営に全面的な協力を行なっており、曹友会に属する隊員は地元商工会に協力して祭りの運営を数週間前から支援、警備隊員は朝鮮通信使の扮装をしてパレード、警備隊長は当時の対馬藩藩主の衣装でアリラン祭りの舞台に登壇し、祭りに合わせて対馬に来日する韓国からの観光客に対して歓迎の言葉を述べるのが恒例行事となっている。

2012年に起こった対馬仏像盗難事件のため、2013年に朝鮮通信使行列を中止し祭名から「アリラン」を削除した[3]

ちなみに、現在の対馬市の人口に占める特別永住者(在日韓国・朝鮮人)市民の割合は、約0.5%である。産経新聞の報道によると、対馬市在住の特別永住者(元・韓国民団地方幹部。現在は帰化済。)が、対馬に駐屯する自衛官と対馬市民を交流させる趣旨の「自衛隊協力団体」を結成し、自衛隊員を応援していた。これに心を許した海上自衛隊員を、当該人物が食事や贈答品で饗応することで部内の情報を得ようとした「土台人被疑事案」が発生し、問題になったことがあるという。現在では、事案を起こした当該人物は出入り禁止となったが、出入り禁止になると同時に当該人物は「自衛隊協力団体」を解散して日本に帰化し、対馬市民として生活している。

主要装備

脚注

  1. ^ 横地光明「最後の士官候補生、自衛隊勤務回想録(7) 任は重く、されど身は北面の武士か 第7章 編成班長…陸自の戦力設計を担いて」『軍事研究』2012年5月号P156
  2. ^ 朝雲新聞ニュース、2009年1月29日。
  3. ^ 日韓行事を見つめ直す機会 長崎新聞、2013年5月20日

参考文献

関連項目