土光敏夫
どこう としお 土光 敏夫 | |
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生誕 |
1896年9月15日 岡山県御野郡大野村 (現在の岡山市北区) |
死没 |
1988年8月4日(91歳没) 東京都品川区 |
出身校 |
東京高等工業学校 (現:東京工業大学) |
職業 |
エンジニア、実業家、財界人 東芝社長・経団連名誉会長 |
土光 敏夫(どこう としお、1896年(明治29年)9月15日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は昭和時代の日本のエンジニア、実業家。第4代経済団体連合会(以下「経団連」)会長。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。
経歴
1896年(明治29年)9月15日、岡山県御野郡大野村(現在の岡山市北区)に肥料仲買商の土光菊次郎・登美夫妻の次男として誕生。母の登美は日蓮宗に深く帰依した女性で女子教育の必要性を感じ、1941年(昭和16年)にほとんど独力で横浜市鶴見区に橘学苑を開校した程の女傑であった。校訓を「正しきものは強くあれ」とし、敏夫は母の気性を強く受け継いだ。
敏夫は関西中学(現・関西高等学校)を卒業後、代用教員をしながら一浪して東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科に入学。同期生には茅誠司、武井武などがいた。1920年(大正9年)に卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社。1922年(大正11年)、タービン製造技術を学ぶためスイスに留学する。1936年(昭和11年)、芝浦製作所(現・東芝)と共同出資による石川島芝浦タービン(現:IHIシバウラ)が設立されると技術部長として出向し、1946年(昭和21年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される。
1950年(昭和25年)、経営の危機に本社[1]に復帰、社長に就任し再建に取り組む。土光は徹底した合理化で経営再建に成功する。1959年(昭和34年)、石川島ブラジル造船所を設立。さらに1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業に社名を変えた。この間、1959年(昭和34年)に造船疑獄に巻き込まれて逮捕・勾留されるも最終的に不起訴処分となる。
1965年(昭和40年)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を依頼され社長に就任する。ここでも辣腕を振るい、翌年の1966年(昭和41年)に再建に成功する。しかし、敏夫のいわば「モーレツ経営[2]」は東芝の体質を変えるまでには至らず、1972年(昭和47年)に会長に退いた。
1974年(昭和49年)、第4代経団連会長に就任。以後、2期6年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。一方で日本経済の一層の自由化と国際化をはかり、積極的に海外ミッションを組んで各国に渡航した。
1981年(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、
- 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
- 増税によらない財政再建の実現。
- 各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
- 3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。
の四箇条の申し入れを行い実現を条件とした。行政改革に執念を燃やし2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。
1986年(昭和61年)11月、勲一等旭日桐花大綬章を受章。1988年(昭和63年)8月4日、老衰のため東京都品川区東大井の東芝中央病院で死去。91歳没。法名は「安国院殿法覚顕正日敏大居士」[要出典]。墓碑は神奈川県鎌倉市安国論寺(日蓮宗)。
彼の名を冠する弁論大会の土光杯全日本青年弁論大会・土光杯全日本学生弁論大会がフジサンケイグループ主催で毎年開かれている。
「質素な生活」を宣伝
普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であり、決して蓄財家でもなく生活費以外の残りの多額の収入は全て橘学苑に寄付されていた。(2011/9/4 サンデー・フロントラインの「発掘人物秘話」の土光敏夫特集にて述べている。)
行政改革を推進する宣伝として、NHKで『NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫』(1982年(昭和57年)7月23日)というテレビ番組が放送された。その内容は敏夫の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。敏夫の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
- 戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
- 穴とつぎはぎだらけの帽子。
- 戦前から50年以上使用しているブラシ。
- 妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
- 農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。2003年3月に「アーカイブス特選」としてこの番組が再放送された際、ゲスト出演した瀬島龍三によればある行革に関する集会の終了後、会場の出口で浅草六区の婦人会連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え出てきた土光と瀬島に手渡したという。あまりの量で大変な重さだったと瀬島は述懐した。
しかし、メザシについては演出との指摘がなされている。早房長治の『朝日新聞』1995年2月3日号の「にゅうすらうんじ」によれば、実際は故郷の岡山県から送られて来た山海の珍味を使った直子夫人の手料理にもしばしば舌鼓を打っていたとし、「テレビなどの演出に乗ったのは、『質素なリーダー』のイメージを利用して、行革を成功させるためだったと思う。」と述べている。早房は好意的にこの件を紹介しているが、土光に批判的な側からは「やらせを認めるのか」と強い反発を受けた。またメザシは高級品で知られる丸赤商店のもので、当時でも500~600円したという[要出典]。
経団連会長になってからも通勤には公共のバス・電車を利用していた。石川島播磨社長時代の疑獄事件で土光の捜査を担当した検事によれば、初聴取のため早朝土光宅を訪ね夫人に敏夫の所在を確認したところ、もう出社したという。こんな朝早くにといぶかしむと、「今でたところなのでバス停にいるはずです。呼んできましょうか?」とのこと。すぐさまバス停に向かうと果たして敏夫はバス停でバスを待っていた。この時に検事は彼の無罪を確信したと後に述べている[3]。
経団連会長就任後、それまで会長出張の慣例だった「前泊し2泊3日の日程」を全て日帰り出張に変更、地方側からの接待を一切断った。経団連会館のエレベーターも来客用の1基だけを稼動させ残りは停止。高齢ながらも自ら階段を利用して経費削減に努めた。また、夜の会合を廃止する代わりに朝食会を頻繁に開いたため朝に弱い財界首脳は困り果てたという。
著書や自伝を週刊誌に連載していたことがあるがいずれも敏夫へのインタビューなどを元にゴーストライターが著したもので本人が直接筆を取った事は一度もなくよく「意図と違う事がかかれている」と嘆いていたと、居林次雄(当時の土光の秘書。弁護士、富山大学教授)が自著に記している。
語録
「知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!」
- 但し松下幸之助はこの言葉に批判しており、「あかん、潰れるな」と呟いたといわれている。「『まずは汗を出せ、汗の中から知恵を出せ、それが出来ぬ者は去れ!』と云うべきやね。本当の知恵と言うものは汗から出るものや」と秘書を務めた部下の江口克彦に語っており、敏夫の語録を真似した経営者は失敗し倒産したという。[4]
著書
- 『日々に新た - わが人生を語る』 PHP研究所 1995年
- 『土光敏夫信念の言葉』 PHP研究所 1989年
- 『経営の行動指針』 産業能率大学出版部 1987年
- 『土光敏夫は語る - リーダーよ、自ら火の粉をかぶれ』 講談社 1985年
- 『日本への直言』 東京新聞出版局 1984年
- 『日々に新た - わが心を語る』 東洋経済新報社 1984年
- 『私の履歴書』 日本経済新聞社 1983年
- 『土光さん、やろう - 行革は日本を救う(1982年)』 山手書房 1982年
- 『80年代の課題(1980年)(講演シリーズ〈389〉)』 内外情勢調査会 1980年
論文
関連項目
脚注
- ^ 土光が出向中の{{subst:和暦|1945}}、社名が石川島重工業に変更されている。
- ^ 就任時の取締役会での挨拶は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」というものである[要出典]。
- ^ 若林照光『土光敏夫人望力の研究』 PHP研究所〈PHPビジネス文庫〉(1983年) 108頁
- ^ 江口克彦著・成功の法則