コンテンツにスキップ

下地島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。219.118.146.196 (会話) による 2011年7月24日 (日) 13:44個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎島内交通)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

下地島
所在地 日本の旗 日本沖縄県宮古島市
所在海域 太平洋東シナ海
所属諸島 宮古諸島
座標 北緯24度48分58秒 東経125度09分25秒 / 北緯24.81611度 東経125.15694度 / 24.81611; 125.15694
面積 9.54 km²
海岸線長 17.5 km
最高標高 22 m
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

下地島(しもじしま)は沖縄県宮古島市に属する島である。伊良部島の西隣に位置し、6本の橋で繋がっている。国内で唯一、パイロット訓練に用いられる下地島空港がある。

地理

面積9.54km²[1]、周囲17.5km[2]、人口60人[2]で、島全体が第四紀更新世の多孔質の石灰岩で覆われている。河川はなく、伊良部島との間には幅数十mの狭い水路が約3kmにわたって続く。水路が狭いため航空写真などでは伊良部島と一体の島にみえるが別の島である。南側は単調な海岸で、西側は激しい海食崖が続き、北海岸は下地島空港の滑走路が海に突出し、小さな入り江がある。

歴史

15世紀後半に朝鮮の船が宮古島に漂着した記録の中に下地島に比定される「時麻子島」の記述があり、宮古島と下地島など近隣の5島の島民は互いに往来していたという[3]。遺跡は見つかっていないが、当時人が住んでいた事がうかがえる。また、古琉球の頃にはキドマリ村(木泊村)が伊良部島の佐和田にあったとされ、村跡が残る。この村は古琉球の間に津波で壊滅したとされるが、16世紀嘉靖年間に喜屋泊与人に関する記述があり、この喜屋泊が木泊とするならば当時まで村が存在したと考えられる[4]

近世初頭に伊良部村の伊安姓国仲与人が八重山で牡牛・牝牛を2匹購入してきて放牧したといい[5]、以降は牧場があった。乾隆32年(1767年)に与世山親方は、馬が風雨や寒暑をしのぐためにアダンや諸木を植えるよう指示している[6]。乾隆34年(1769年)に伊良部島との間に佐和田矼(ナカユニ橋)が築かれた[7]が、乾隆36年の八重山地震にともなう明和大津波により一部が破壊された。この津波では下地島に13(約40m)もの高さの大波が打寄せ、西岸の帯岩などが打上げられた。平坦なため放牧地やが水没し、馬や牛、などが溺死している[8]

観光スポット

通り池

サーモクラインによって色が変わって見え、古くから神話が伝わる幻想的な池。中央に天然の石橋が架かり、二つに分かれているように見える。水中の洞窟から海へと繋がっており、絶好のダイビングスポット。国の名勝及び天然記念物。周辺にはカルスト地形のカレンフェルトが発達している。

帯岩

1771年明和8年)に起きた八重山地震の際に打ち上げられたと伝わるもの。人がを締めているように見えることから、この名称がついたとされる。現在は島の信仰の中心。

白鳥崎

伊良部島の北部の岬。サンゴ礁が下地島の北海岸から続く。

下地島空港

日本国内唯一のパイロット訓練飛行場ジェット機タッチアンドゴー(離着陸訓練)の見学が可能。

交通

ファイル:Shimoji-shima Airport terminal 2 Okinawa,JAPAN.jpg.JPG
下地島空港事務所

空路

航路

島内交通

  • 佐良浜港から下地島へはタクシー利用
  • 佐良浜港または宮古島からレンタカー利用も便利である
  • 佐良浜港から伊良部島内路線バス、徒歩10分ほどで下地島に入ることもできる。

関連項目

参考文献

  • 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年-2002年 を基にしたデータベース)
  1. ^ 国土交通省 沖縄の島面積(2009年)
  2. ^ a b 沖縄県企画部地域・離島課 島のデータ - 人口は2005年度の国勢調査に基づく。
  3. ^ 『李朝実録』 世祖8年(1463年
  4. ^ 『伊安氏正統家譜』
  5. ^ 『宮古島記事』
  6. ^ 『与世山親方宮古島規模帳』
  7. ^ 『白川氏支流家譜』
  8. ^ 『御問合書』 伊佐家文書