一条兼香

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一条 兼香
時代 江戸時代中期
生誕 元禄5年12月16日1693年1月21日
死没 寛延4年8月2日1751年9月21日
諡号 後円成寺
官位 従一位関白太政大臣
主君 東山天皇中御門天皇桜町天皇
氏族 鷹司家一条家
父母 父:鷹司房輔、母:家女房
養父:一条兼輝、養母:山科言行
兄弟 鷹司兼熙西園寺実輔鷹司輔信、房演、信覚、日顕、隆尊、兼香
正室:泰姫(浅野綱長娘)
継室:智子(池田綱政養女)
側室:梅町
道香鷹司基輝醍醐兼純良演、顕子、郁子重子恭礼門院
養子:鷹司輔平
特記
事項
後桃園天皇の外祖父
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一条 兼香(いちじょう かねよし)は、江戸時代中期の公卿従一位関白左大臣太政大臣後円成寺と号する。

概要[編集]

鷹司房輔の末子として誕生[1]。母は家女房。一条兼輝に男子がいなかったために、元禄14年(1701年)に養子として一条家に入った。蔵書家として知られた養父の影響で学問に励み、後に政敵となる近衛家熙からも「当世の才」として高く評価された。また、養父ともども、垂加神道の理解者であり、同神道とつながりが深い下御霊神社を保護している[2]。元禄15年(1701年)10歳で元服すると、3年後に従三位中納言に任ぜられて公卿に加わる。宝永2年(1705年)に養父が薨去し14歳(数え歳)で一条家を継いだ。当時、近衛基熙・家熙父子が江戸幕府将軍徳川家宣外戚である事を背景として 院政を行っていた霊元上皇と対立し、家熙の娘を中御門天皇女御にするなど朝廷内で絶大な力を振るっていた。これに対して兼香は実兄の鷹司兼熙、父方の従兄弟である九条輔実二条綱平兄弟(兄弟の父である九条兼晴は兼香の実父・鷹司房輔の弟)と結んでこれに対抗した。その後、享保7年(1722年)に内大臣に任じられる。

ところが、享保元年(1716年)に諸大夫の保田盛福が突然自害した事件をきっかけに、養子である兼香に対して一条家の家臣達が反抗的な態度を示すようになる(ただし、家礼を務めていた権大納言中山兼親は養父兼輝が当主の時代からそうした風潮があったと指摘している[3])。更に享保7年(1722年)には一条家の家臣が富籤に関与した疑いで摘発され、享保15年(1730年)には岡山藩(一条家の縁戚)の不正事件に一条家の家臣が関わっていたことが判明するなど、次々と問題が発覚した。これに対して、兼香は邸内に兼輝が定めた家法を掲示し、学問講義を行わせて家臣達の啓蒙を図るなどの引き締めを行っている。しかし、改善がみられなかったために、岡山藩の事件に関わった諸大夫の難波定規を遠慮処分として事実上家中から追放(後に息子の出仕を許す)して、更に新たな規定を設けるなど強い姿勢で対応している。身分秩序の維持を通じた公家社会の安定化という課題は、兼香の公私に共通する課題であった[4]

享保13年(1728年)、右大臣であった兼香は皇太子昭仁親王の東宮傅を兼務する。博識で有職故実や垂加神道にも精通していた兼香は、衰退した朝廷儀式の再興と組織改革の実現を志していた昭仁親王から厚い信任を得るようになる。この間の享保17年(1732年)に従一位に叙せられ、享保20年(1735年)には昭仁親王が桜町天皇として即位する。だが、この時期には新天皇の外戚である近衛家が発言力が強く、また天皇自身も若い頃は学問熱心とは言えなかったため、兼香はその日記に近衛家への反発や新天皇への不満をたびたび記している[2][5]。一方、享保17年に没した霊元法皇は兼香にとっては忠節・追慕の対象であり、崩御後に下御霊社が霊元法皇に「天中柱皇神」の神号を授けられて合祀されると、兼香は度々同社で開かれる「天中柱皇神」の祭祀に自らも参加するようになる[2]

元文2年8月29日1737年9月23日)、父である中御門上皇を失って親政を開始した桜町天皇は左大臣であった兼香を関白に任じた。関白となった兼香は東山天皇の時代に一度は復活しながらも財政不足から次の中御門天皇時代には開けなかった大嘗祭復活のための支援を江戸幕府に求めた。当時の将軍徳川吉宗も朝廷の伝統儀式の復活に賛同を示し、翌年元文3年(1738年)には桜町天皇の大嘗祭が開催される事になった。また、元文4年(1739年)には吉宗の依頼により、当時和歌に優れた4人の公家(中院通躬烏丸光栄三条西公福冷泉為久)を推挙して吉宗に自作の和歌を提出させている。

この元文2・3年は兼香と桜町天皇にとっては重要な意義の持つ年であった。そもそも兼香の関白就任の直接の要因は、前任の二条吉忠の病死によるものであったが、この年には基熙・家熙と並んで3代にわたって朝廷で優位を保ってきた太政大臣近衛家久も病死、更に翌年には右大臣になったばかりの二条宗熙が父・吉忠の後を追うように病死した。この結果、摂関家(一条家・近衛家二条家九条家・鷹司家)の当主は、元文3年(1738年)から寛保3年(1743年)までの5年間に以下のような変動に見舞われることになった。

なお、二条宗基は九条稙基の弟、鷹司基輝は兼香の子、輔平は一旦兼香の養子となり、兄・基輝の相続という名目で鷹司家に入る。また、寛保3年(1743年)の内大臣は九条稙基(19歳・薨去)→鷹司基輝(17歳・薨去)→近衛内前(16歳)の順で任じられている。

この時期、一条家以外の各家では、幼い当主の擁立と死去が相次ぎ、摂関家としての役割を果たせる状況ではなかった[注 1]。また、幕府の朝廷統制政策により清華家以下の諸家は政治の最高意思決定の場から実質排除されていたため、兼香と嫡男の道香が左右大臣として政務を取り仕切らなければ、政務が進まないという事態に陥ったのである(なお、道香は元文4年(1739年)に兼香が一時中風によって静養を余儀なくされた際に内覧に任じられている)。逆にそれは桜町天皇と兼香の進める政策を阻む障害が存在しないという状況でもあった。

桜町天皇と兼香の二人は先の大嘗祭復活に続いて、元文5年(1740年)に新嘗祭復活、次いで延享元年(1744年)の甲子改元時における宇佐神宮香椎宮への奉幣使復活など、廃絶していた朝廷行事の再興を実現する。またこれと並行して大嘗祭が復活した元文3年頃より、天皇と兼香は朝廷官制の見直しの準備を開始していた。この動きは延享3年12月15日1747年1月25日)に兼香がこれまで内覧を務めてきた道香に関白職を譲って太政大臣に昇進し、半年後に桜町天皇が桃園天皇に譲位して院政を開始すると、早くも兼香の娘・富子の入内が決定(実施は兼香没後の宝暦5年(1755年)11月)され、官制改革の構想も徐々に進めていく事になる。

もっとも、桜町天皇と兼香の間が常に円滑ではなかったとする見方もある。特に摂家の地位を巡る問題では、摂家の大臣が独占していた勅問に清華家の大臣を加えるという桜町天皇の提案を拒んで反対に非大臣の摂家の当主を勅問の対象にすることを天皇に認めさせたことや摂家への養子を清華家以下の家格から出すことを認めるとする桜町天皇の意向を拒絶したことなど、度重なる急逝によって生じた摂家当主の不在に対する桜町天皇の対応策(結果的には摂家の力を削ぐことになる)とこれに反対して却って摂家の力を強化を実現させることになった兼香の対立の構図も指摘されている[6]

だが、寛延3年4月23日1750年5月28日)桜町上皇が31歳で急死すると、兼香の長年の宮廷主導に対する風当たりが一気に強まった。その年の9月24日、故上皇と兼香による本格的な改革案「官位御定」が上皇の遺詔として桃園天皇の摂政である道香によって発表された。これは侍従近衛府における定員の制限、成人前の天皇の猶子門跡の禁止、堂上家以下地下諸大夫に至るまで官人の官位昇進に厳しい規定を課した。更にこれまで朝廷が手を付けてこなかった諸社の祠官の任官・門跡諸大夫の官位・門跡寺院や両本願寺などの坊官の呼称を停止する事など形式的に流されがちであった公家官位の仕組みを根本的に改めるものであった。

この重大決定が他の摂関家や武家伝奏、更には江戸幕府にも知らせずに上皇と兼香によって決められていた事に内外は騒然とした。特に近衛内前(左大臣・23歳)・二条宗基(右大臣・24歳)・九条尚実(内大臣兼左近衛大将・34歳)の摂家三当主の憤慨は激しかった。13年にわたって続いた桜町天皇と兼香の宮廷主導が続いている間に幼少であった彼らも成長して朝廷政務への参画を勝ち取ろうと図ったのである。彼らは桜町天皇の女御であった二条舎子(青綺門院)や幕府を動かして圧力をかけた。

また、幕府との対立を危惧する武家伝奏(広橋兼胤柳原光綱)も若い道香を説得した。その結果、12月27日に道香はその圧力に屈して「官位御定」の事実上の白紙撤回(「官位御定」そのものは認められたものの、最重要項目とされていた諸社の祠官の任官・門跡の諸大夫の官位・坊官の呼称の廃止が撤回されてしまった)に至ったのである。この決定に衝撃を受けた兼香は翌年には失意のうちに病に倒れた。太政大臣を辞した兼香には前代の功労者として准三宮が与えられるが、間もなく60歳で病没した。

兼香の日記として『兼香公記』及び同別記(文章集『求玉鈔』、官位改革の経緯を綴った『玉藻秘記』他)が残されている。

人物[編集]

水戸藩が刊行しようとした大日本史の「南北朝正閏論」に関して、朝廷に対し幕府将軍徳川吉宗から質問があり、これを博識の兼香が担当している。[7]

家族・親族[編集]

系譜[編集]

一条家は、九条道家の子である一条実経を始祖とし、摂家の一つであった。

官位履歴一覧[編集]

2月1日から7日間、櫛笥隆賀広幡豊忠の2人に内大臣職を譲る。両者が内大臣を務めた(同4日に櫛笥→広幡)後、8日付で内大臣還任。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 最年長の九条尚実は幼少時から寺院に入っていたため政治経験がなかった。

出典[編集]

  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、122頁。 
  2. ^ a b c 山口和夫「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」(初出:大津透 編『史学会シンポジウム叢書 王権を考える-前近代日本の天皇と権力-』(山川出版社、2006年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7) 2017年、P255-263 第5節「一条兼香の天中柱皇神(霊元院)祭祀と朝廷運営・朝儀再興」
  3. ^ 『兼香公記』享保4年6月6日条
  4. ^ 田中暁龍「享保期における摂家の家内騒動と家法」『近世の公家社会と幕府』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-04331-1 P123-148.(原論文:2017年)
  5. ^ 田中暁龍「禁中并公家中諸法度第一条について」『近世朝廷の法制と秩序』(山川出版社、2012年) ISBN 978-4-634-52015-8 P36-41
  6. ^ 村和明「桜町上皇と朝廷運営」 『近世の朝廷制度と朝幕関係』(東京大学出版会、2013年) ISBN 978-4-13-026233-0(原論文:2010年)
  7. ^ 『兼香公記』享保6年閏7月20日条
  8. ^ 『東福寺誌』享保15年6月27日条
  9. ^ 『東福寺誌』寛政2年6月3日条

参考文献[編集]

  • 久保貴子『近世の朝廷運営:朝幕関係の展開』岩田書院、1998年。ISBN 4872941152 C3321

関連項目[編集]