バーバラ・ジョーダン (テニス選手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バーバラ・ジョーダン
Barbara Jordan
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・ミルウォーキー
生年月日 (1957-04-02) 1957年4月2日(67歳)
身長 165cm
体重 57kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1977年
引退年 1987年
ツアー通算 8勝
シングルス 2勝
ダブルス 6勝
生涯獲得賞金 145,534 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1979)
全仏 2回戦(1981)
全英 3回戦(1978・1980・83)
全米 3回戦(1977・79)
優勝回数 1(豪1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 2回戦(1982・83)
全仏 ベスト4(1984)
全英 3回戦(1983)
全米 2回戦(1983)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全仏 優勝(1983)
優勝回数 1(仏1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 37位
ダブルス ?位

バーバラ・ジョーダンBarbara Jordan, 1957年4月2日 - )は、アメリカウィスコンシン州ミルウォーキー出身の元女子プロテニス選手。1979年全豪オープン女子シングルス優勝者で、1983年全仏オープン混合ダブルス優勝もある。WTAツアーで1979年全豪オープンを含むシングルス2勝、ダブルス6勝を挙げた。同大会で1983年の準優勝者になったキャシー・ジョーダンは、彼女の実の妹にあたる。1976年全日本テニス選手権の女子シングルスで優勝したこともある。

1976年全日本テニス選手権女子シングルスで優勝した時、バーバラ・ジョーダンはまだ世界的には無名の選手であったが、決勝で中川清美(園田学園女子大学)を 7-6, 6-3 で破って優勝した。それから3年後、1979年全豪オープンで勝ち進んだ時、ジョーダンは大会第5シードでありながら、世界ランキングは「68位」であった。当時は全豪オープンの権威が他の4大大会に比べて格段に低く、開催時期も度重なる変更があった。1978年から1985年まで、全豪オープンは年末の12月に開催されていたが、ジョーダンが優勝したのはその期間中である。参加選手が極端に少なかったため、抽選も32人の選手による5回戦制であった。(1979年当時、ウィンブルドン全米オープンは現在と同じく、128名の選手による7回戦制で、全仏オープンは64名の選手による6回戦制で試合が行われていた。)ジョーダンは3試合目にあたる準々決勝で、チェコスロバキアハナ・マンドリコワを圧倒して波に乗り、決勝戦ではシャロン・ウォルシュアメリカ)を 6-3, 6-3 で破って、4大大会の女子シングルス優勝者に名前を連ねた。これは1970年代の全豪オープン選手権大会において、唯一のアメリカ人女子選手によるシングルス優勝であった。

その後は4大大会を含めた女子テニスツアーでの好成績は少ないが、1983年全仏オープン混合ダブルス部門でエリオット・テルチャーアメリカ)とペアを組み、2つ目のグランドスラム・タイトルを獲得した。ジョーダンとテルチャーは、混合ダブルス決勝でチャールズ・ストロード&レスリー・アレン(ともにアメリカ)組に 6-2, 6-3 のストレート勝ちを収めた。

ジョーダンは1976年全日本テニス選手権で勝った後も、日本のトーナメントで何度かプレーした。1980年名古屋のトーナメントでシングルス準優勝がある。1982年には、日本の「ジャパン・オープン」(当時の名称は「ジャパン・アジアン・オープン」といった)と「ボーデン・クラシック」(現在は消滅)で2つのダブルス優勝を記録した。ジャパン・オープンの女子ダブルスではローラ・デュポンとのペアで、日本佐藤直子とブレンダ・レミルトン(Brenda Remilton)の組を 6-2, 6-7, 6-1 で破って優勝を飾った。バーバラ・ジョーダンは1987年4月に30歳で現役を引退した。

バーバラの全豪優勝から4年後、1983年に妹のキャシー・ジョーダンが同じ全豪オープンで決勝に進出したが、キャシーは強敵マルチナ・ナブラチロワに敗れたため“姉妹優勝”はならなかった。テニスの歴史を通じて、姉妹が揃って4大大会の決勝に進出したのは、1884年に第1回ウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝で“姉妹対決”をしたモード・ワトソンリリアン・ワトソンイングランド)以来のことであり、テニス界の「オープン化時代」(1968年以後)では初めての快挙だった。最近ではアメリカ黒人姉妹、ビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹がともに世界ランキング1位の座に立ち、ワトソン姉妹やジョーダン姉妹とは比較にならないほどのプレーを展開してきた。

外部リンク[編集]