ディケンベ・ムトンボ
引退 | |
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ポジション | センター |
基本情報 | |
愛称 | Mt. Mutombo |
フランス語 | Dikembe Mutombo Mpolondo Mukamba Jean Jacque Wamutombo |
国籍 |
コンゴ民主共和国 アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1966年6月25日(57歳) |
出身地 | ザイール キンシャサ |
身長(現役時) | 218cm (7 ft 2 in) |
体重(現役時) | 118kg (260 lb) |
キャリア情報 | |
出身 | ジョージタウン大学 |
ドラフト | 1991年1巡目4位 デンバー・ナゲッツ |
永久欠番 | 55 ホークス 2015年 |
選手経歴 | |
1991-1996 1996-2001 2001-2002 2002-2003 2003-2004 2004-2009 |
デンバー・ナゲッツ アトランタ・ホークス フィラデルフィア・76ers ニュージャージー・ネッツ ニューヨーク・ニックス ヒューストン・ロケッツ |
受賞歴 | |
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Stats Basketball-Reference.com | |
ディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ジャン・ジャック・ワムトンボ(Dikembe Mutombo Mpolondo Mukamba Jean Jacque Wamutombo, 1966年6月25日 - )は、コンゴ民主共和国(入団時の国名はザイール)出身の元バスケットボール選手。1991年よりNBAのデンバー・ナゲッツに入団して以降2009年に引退するまで数チームでプレーした。
ディフェンスを得意とする好センターである。最優秀守備選手賞を4度受賞、オールスター戦には8度出場。身長218cm、118kg、背番号は55。2015年には殿堂入りを果たした[1]。
経歴
生い立ち
ザイール(現在のコンゴ民主共和国)のキンシャサで、ルバ族の両親のもと10人兄妹の7番目の子供として生まれた。1987年にアメリカ合衆国政府の外郭団体USAIDより奨学金を受ける資格を得、医者を志して米国のジョージタウン大学に留学した[2]。バスケットボールの名門としても知られる同大学のジョン・トンプソン監督はムトンボを見込んでバスケットボールチームに勧誘し、これよりムトンボはバスケットボール選手の道を歩むことになった。
2年生から公式戦に出場したムトンボは徐々に頭角を表し、4年次には平均12.2リバウンド、15.2得点を記録した。ムトンボの1年後輩には同じく好センターとして有名になるアロンゾ・モーニングがいた。
NBAキャリア
言語学と外交学の学位を取得して大学を卒業したムトンボは、1991年のNBAドラフト全体4位でデンバー・ナゲッツに指名された。1年目より2桁平均の得点とリバウンドをあげたムトンボは低迷するナゲッツのインサイドを支えた。ムトンボはルーキーシーズンに1試合平均16.6得点、12.3リバウンド、ほぼ3ブロックを記録してオールスターに選出された。
ムトンボは特にディフェンス面での貢献が目立ち、1990年代を代表するリバウンドやブロックショットの名手に成長していった。しかし、ナゲッツは他に優れた選手を欠きチームは苦戦した。ムトンボは5シーズンをナゲッツでプレイしたが、その間のチーム成績は42勝40敗が最高だった。しかし、入団して3年目の1994年ナゲッツは、ウェスタン・カンファレンス第1シードのシアトル・スーパーソニックスを第8シードのチームとしてはじめてNBAのプレーオフで倒した。ムトンボのディフェンスがこの勝利に大きく貢献し、彼は5試合で31ブロックを記録した。このシリーズではソニックスが2連勝した後、ナゲッツが3連勝したが、第5戦ムトンボは試合終了時にリバウンドで取ったボールを離さずにフロアに倒れこみ目に涙を浮かべた。[1]
プロ入り3年目の1994年から3年連続でブロックの平均と総数でリーグ首位に立ち、ブロック総数はその後も2年間リーグ最多だった。1995年以降リバウンド総数で3度リーグ最多をマークした。
同じく1995年には初めてNBA最優秀守備選手賞を受賞し、アトランタ・ホークスに移籍してからは同賞を2度、フィラデルフィア・セブンティシクサーズに移った2001年にも再度受賞した。
1990年代末から21世紀初めにかけ、NBAではシャキール・オニールを除き有力なセンターが次第に少なくなり、ムトンボはリーグで価値を増していた。2000-01シーズンに好調だったシクサーズは、プレーオフを見越してトレードでムトンボを獲得。シクサーズはNBAファイナルまで勝ち進み、ムトンボはオニールと対戦することになった。初戦は制したものの続く4試合を落とし、シクサーズの優勝はならなかった。
翌シーズンもシクサーズでプレーしたムトンボは、続く2002-03シーズンにはニュージャージー・ネッツに移った。ネッツは前シーズンNBAファイナルに進出したが、オニールを擁するロサンゼルス・レイカーズに完敗しており、対オニールを意識したムトンボ獲得だった。しかしムトンボは手首の怪我でシーズンのほとんどを欠場し、更にバイロン・スコットHCとの確執も表面化し、プレーオフでも出場時間を多く得られなかった。このシーズンもNBAファイナルに進んだネッツはサンアントニオ・スパーズに2勝4敗で敗退した。
ネッツ時代より平均得点・リバウンドとも二桁を割っていたムトンボは次の2003-04シーズンにはニューヨーク・ニックスに放出された。出場した試合のうち多くで先発したが、個人成績はあまり変わらず、シーズン終了後にシカゴ・ブルズにトレード、間もなくヒューストン・ロケッツへと再びトレードされた。ロケッツではもっぱら姚明の控えとしてプレーしている。 2006-07シーズンは姚明の故障もあり33試合に先発、この間は2桁リバウンドを連発し存在感を示した。以降、姚明が不在時の貴重なインサイド要員として活躍した。 2008-09シーズンのプレーオフ1回戦、ポートランド・トレイルブレイザーズの試合中に左膝の前十字靭帯を断裂する重傷を負ってしまった。その試合後、ムトンボは「私のキャリアは終わった」っと言った。そして2009年4月23日、現役引退を発表した。
2015年11月24日、アトランタ・ホークスの本拠地フィリップス・アリーナでのボストン・セルティックス戦のハーフタイムで、永久欠番「55」の授与式が執り行われた[3]。
備考
- 1997年、1998年、2001年にオールNBAディフェンシブファーストチームに選出。1999年にはIBM賞を受賞。これは個人成績を一定の公式に当てはめてチームへの貢献度を算出し、リーグ最高の数値を得た選手に贈られるものである。
- 2007年1月10日のロサンゼルス・レイカーズ戦、通算ブロックショット数でカリーム・アブドゥル=ジャバーを抜き歴代2位になった。1位は、同じくロケッツに在籍したアキーム・オラジュワンである。
- 以前ムトンボは、シュートをブロックした際に相手選手に向かって人差し指を振るしぐさをすることで有名だった。この行為は1990年代末頃よりテクニカルファウルを宣告されるようになったため、その後は観客に向かって行うようになった。
- 1996年に母国で内戦が発生し、戒厳令により脳卒中で倒れた母親が病院に行けず1997年に死去したことをきっかけに、キンシャサに病院を開設する努力を続けた。集められた2900万ドルの募金のうち半分以上となる1500万ドルをムトンボ本人が拠出し[2]、亡くなった母の名を冠したビアンバ・マリー・ムトンボ病院が2006年にオープンした。
- しばしば話題に上る彼の長いフルネームは、親族の名前を貰っていくうちに長くなったとのことである。
脚注
- ^ “Five Direct-Elect Members Announced for the Class of 2015 by the Naismith Memorial Basketball Hall of Fame”. hoophall.com (2015年2月14日). 2015年9月15日閲覧。
- ^ a b “ムトンボ 出身地のコンゴ民主共和国の病院新設に1500万ドルを寄付 - 米国”. AFP (2006年8月17日). 2013年7月8日閲覧。
- ^ Hawks officially retired Dikembe Mutombo's number 55 jersey
- ^ a b “Dikembe Mutombo Info Page”. NBA.com. 2010年9月21日閲覧。
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 NBA、Basketball-Reference、ESPN、Eurobasket、RealGM