甲斐の黒駒

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甲斐の黒駒(かいのくろこま)は、古代甲斐国に関係する伝承

古代甲斐が良の産地であったことから成立したと考えられている伝承で、甲斐から中央へ貢上された駿馬を指す。ヤマトタケル酒折宮伝承と並び、古代甲斐と中央のヤマト王権との関係を示す伝承としても注目されている。

記録に見える黒駒伝承[編集]

甲斐黒駒に関する伝承は『日本書紀』雄略記に記されている。『書記』雄略天皇13年9月条の歌物語によれば、雄略は不実を働いた木工韋那部真根を処刑しようとするが思い直し、韋那部を赦免する際に刑場に使わした駿馬が「甲斐の黒駒」であるという。

雄略朝には同様の逸話が数多く存在し、『書記』においても雄略12年10月壬午条に黒駒伝承と類似した話があることが指摘されており、必ずしも雄略朝にあたる5世紀後半期の史実を反映しているとは考えられていないが書記編纂時の歴史的事実が反映されている可能性が考えられており、高橋富雄は書記編纂時に甲斐国産の馬が都で早馬として使われていた可能性を指摘し、平川南東山道東海道の交差する古代甲斐国に早馬が配されていたと指摘している。

続日本紀』天平3年(731年)12月21日条では甲斐国司田辺史広足が朝廷に神馬を献上した瑞祥を伝えている。このため田辺史は恩賞を受け甲斐では庸・調が免除され、全国的な大赦が行われたという。田辺史氏は馬飼技術をもった渡来系氏族であると考えられており、天平勝宝2年(750年)には後に御牧が設置される上毛野君に任じられている。また『書記』に記される壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の要請で出兵した甲斐の勇者が騎馬で活躍したという。

考古学的知見とヤマト王権[編集]

考古学的には、5世紀はヤマト王権による中央集権化に伴い東国の軍事的征服が行われている時期で、この頃には朝鮮半島から乗馬風習が伝来している。甲府盆地では東海地方から古墳文化が流入し、盆地南部の曾根丘陵甲府市、旧東八代郡中道町)において定着する。曾根丘陵に展開された米倉山・東山古墳群では4世紀から畿内色の強い前方後円墳が出現しヤマト王権に臣従していたと考えられており、この頃には盆地北部の甲府市下向山町の東山北遺跡や塩部遺跡では方形周溝墓から馬の歯が出土している。

東山古墳群では4世紀後半に最大規模の甲斐銚子塚古墳が出現する。銚子塚古墳の被葬者はヤマト王権と強い関係を持ち、東国経営において重要な役割を果たした人物であると考えられているが、これを記紀に記されるヤマトタケルの東征の途上に立ち寄った酒折宮伝承と関係付ける説がある。これはヤマト王権の東国制覇を反映していると考えられている東征において、ヤマトタケルを饗応した御火焼之老人を甲斐の在地首長とするもので、黒駒伝承と並び古代甲斐とヤマト政権を結ぶ伝承であると位置づけられている。

甲府盆地では黒駒伝承の時期にあたる5世紀以降に中道勢力が弱体化し、盆地各地へ勢力が拡散し中小規模の古墳が築造されている。5世紀後半には部民が設置され、中道勢力の首長権力を継承した盟主墳である考えられているかんかん塚古墳や新興勢力の王塚古墳・大塚古墳などで馬具が出土しているが、現在のところ馬産や貢上が行われていた確証はなく、雄略朝の黒駒伝承が同時代の歴史的事情を反映しているかは不明。

また、南アルプス市百々遺跡や甲府市の武田氏館跡からは全身骨格を推定できる馬骨が出土しており、出土遺馬や在来馬の検討から甲斐黒駒の実像を想定する研究も行われている。また、鳴沢村では北海道和種と木曽馬の交配により『書記』にみえる青毛の馬を再現する試みも行われている。

太子伝承の付加と甲斐の馬[編集]

平安時代には、黒駒伝承に聖徳太子(厩戸皇子)と関係させる説話が加わる。太子は7世紀初頭の推古朝を主導した皇族で、後に太子信仰の成立に伴い数々の伝説が生じている。『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。

『伝暦』は平安初期に成立した太子関係の説話を集める『上宮聖徳太子伝補闕記』や太子伝の類を参照して記されたと言われ、『扶桑略記』も『伝暦』をベースにしている。現在伝わる『補闕記』には太子の所有していた飛行能力を持つ鳥斑の馬の産地を甲斐とする記述は見られず、舎人の調使麿は別箇所の片岡山飢人説話において登場していることから、『伝暦』の作者により『書記』以来の黒駒伝承と関連付けた創作が含まれていると考えられている。ほか、太子と黒駒説話には『水鑑』では多くの類話が成立し、大江匡房本朝神仙伝』では太子が黒駒で全国に至った説話に発展する。また、『聖徳太子絵伝』(国宝東京国立博物館所蔵)では富士を越える様子が描かれた。

なお、調使氏は厩戸皇子の上宮王家に奉仕する渡来系氏族であることが確認されており、諸国からの貢物管理を担当している。また、上宮王家の家政機関には馬を飼育する馬司の存在が指摘されており(伊藤敦史による)、甲斐巨麻郡には上宮王家と関係のある壬生部が置かれている。また、平安時代には甲斐はじめ東国の4か国には御牧が成立し朝廷への貢上が行われているが、長屋王家木簡によれば8世紀から甲斐はじめ東国からの貢上が確認されており、伝承の背景となった歴史的事情の検討が行われている。

地域に残る黒駒伝承[編集]

黒駒伝承は山梨県や奈良県に残されており、山梨県では地域に残される黒駒伝承や太子開創伝説を持つ寺院、「黒駒」地名や黒駒由来の地名、太子像や太子像図などが数多く残されている。また、富士山は古代から噴火を繰り返したため崇拝を受け地元では浅間大神を祀り遙拝していたが、中世には修験者が富士登拝を行う山岳信仰が成立し、近世には関東を中心に富士講が成立した。これらの富士信仰と関係し中世には黒駒太子が描かれた『富士曼陀羅図』など絵画の画題になったほか、富士山麓では太子や黒駒に関係する地名や信仰遺跡が残されている。

山梨県立博物館では、「甲斐の黒駒」と題した古代甲斐と馬や牧に関する展示が行われている。

参考文献[編集]

  • 大隅清陽「甲斐黒駒の伝承」『山梨県史通史編1原始・古代』第四章第六節
  • 池田尚隆「聖徳太子と甲斐黒駒」『山梨県史通史編1原始・古代』第十章第二節
  • 末木健「甲斐黒駒と聖徳太子伝承」『甲斐112号』
  • 富士吉田市歴史民俗博物館『富士の信仰遺跡』

関連項目[編集]