廬井鯨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
廬井 鯨
廬井鯨『前賢故実』より
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
主君 大友皇子
氏族 廬井
テンプレートを表示

廬井 鯨(いおい の くじら[1])は、飛鳥時代の人物。近江軍の武将[2]。姓(カバネ)は壬申の乱672年)において、大友皇子(弘文天皇)側の別将となり、中道で戦って敗れた。

経歴[編集]

廬井氏(五百井氏)は、近江国栗太郡廬井(現在の滋賀県草津市志津及び栗東市治田)の地名を由来とする氏族であるが[3]、出自は不詳[4]

壬申の乱勃発時に廬井鯨がどのような地位にあったかは不明だが、大友皇子(弘文天皇)の側の将犬養五十君が倭(大和国)の敵軍に向けて南に進んだとき、その別将であった。

五十君は、村屋まで進んで陣営を置き、鯨に200の精兵を率いさせ、敵将大友吹負の本営を衝かせた。鯨の部隊は少数だったが、そのときは吹負の周りの兵力も少なかった。しかし、鯨の軍の前進は徳麻呂らが射る矢でとどめられた。そうするうちに、下道にあった味方の左翼が破れ、そこから三輪高市麻呂置始菟の敵部隊が転じて来た。鯨の部隊は背後に敵をうけて敗走した。

鯨もまた白馬に乗って逃げたが、馬が泥田にはまった。吹負はこれを見て、甲斐の勇者に「あの白馬に乗る者は廬井鯨だ。急いで追って射よ」と命じた。甲斐の勇者が近づくと、鯨は急いで馬に鞭を打った。馬は泥田から抜け出し、逃げることができた。[5]

日本書紀』において、その後の鯨に関する記載はない。

脚注[編集]

  1. ^ 旧仮名遣いでの読みは「いほゐのくぢら」。
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 78頁。
  3. ^ 佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年、44頁
  4. ^ 新撰姓氏録
  5. ^ 『日本書紀』天武天皇元年7月23日条