富士講

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東口本宮冨士浅間神社(静岡県小山町須走)にある富士講の記念碑。元々は江戸・麻布の富士塚に富士登山を記念して建てられていたが、講の解散時に須走へ移された。

富士講(ふじこう)、浅間講(せんげんこう)

  1. 富士山とそこに住まう神への信仰を行うための講社である。広義の富士講。
  2. 特に江戸を中心とした関東で流行した、角行の系譜を組むものをいう。講社に留まらず、その宗教体系・宗教運動全般を指すことも多い。狭義の富士講。通常はこちらをいう。

目次

[編集] 歴史

富士講碑にみられる「ヤマサン」の笠印(人穴富士講遺跡)
北口本宮冨士浅間神社

狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期[1]に富士山麓の人穴静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏[2]という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。享保期以降、村上光清食行身禄によって発展した。

その経緯から、角行修行の地である人穴は聖地と考えられるようになり、碑塔の建立が相次いだ。それが現在約230基見られる碑塔群である。この他隣接する人穴浅間神社は主祭神を角行としており、それらは現在人穴富士講遺跡として知られている。

このように、富士講信者は記念などの意味から記念碑を奉納する文化が存在し、その記念碑を「富士講碑」という。この富士講碑の特徴として「笠印」というマークが刻まれている点が挙げられる。この笠印は講社により異なり、「マルサン」や「ヤマサン」などの種類がある[3]。またこのように多くの講社が存在していたことも富士講の特徴であり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであった。

身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は富士山の神への信仰であるが、それ自体は既存の宗教勢力に属さず、従って食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力である。一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に甲斐国(現山梨県)の富士吉田北口本宮冨士浅間神社とその登山口(現:吉田口遊歩道)があり、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわい、御師の屋敷が軒を連ねていた(最盛期で百軒近く)。富士講は江戸幕府の宗教政策にとって歓迎された存在ではなく、しばしば禁じられたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたことはなかったようである。

明治以後、富士講の一派不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教など、その一部が教派神道と化した。また、明治以後、特に戦後、富士山や周辺の観光地化と登山自体がレジャーと認識されるようになったため、富士登山の動機を信仰に求める必要がなくなり、富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は1964年以降は行われていない [4]。平成18年現在、十数講が活動し、三軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている。

[編集] 活動

富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成っている。オガミにおいて、彼らは勤行教典「オツタエ(お伝え)」を読み、「オガミダンス(拝み箪笥)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて「オタキアゲ(お焚き上げ)」をする。また信仰の拠りどころとして富士塚という、石や土を盛って富士山の神を祀った塚(自然の山を代用することもある)を築く。現在、江古田東京都練馬区)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区)、木曽呂埼玉県川口市)の4基の富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている。富士詣は彼らの衰退とともにほとんど行われなくなったが、現在でも彼らを富士山で見ることができる。

上に述べたものとは別に、修験道に由来する富士信仰の講集団があり、彼らも富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上で述べたようなものと大きく異なり、富士垢離とよばれる初夏に水辺で行われる水行を特徴とする。また、富士山への登山も行うが大峰山への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる。

[編集] 巡礼

白糸の滝

富士講信者は富士山の登拝だけでなく、巡礼や修行を行っていた[4]。それら巡礼地として富士五湖白糸の滝などがあり、水行を行っていた[4]。また忍野八海や洞穴(船津胎内樹型や吉田胎内樹型など)も霊場・巡礼地となっていた[4]

[編集] 富士八海

富士八海と総称された巡礼地があり、富士山周辺の霊場を中心に構成される内八海と、関東~近畿地方に広がる外八海に分けることができる。内八海は富士五湖の各五湖と明見湖(あすみのうみ、富士吉田市)、四尾連湖(志比礼湖、しびれのうみ、市川三郷町)、泉端・(泉水湖、せんづのうみ、富士吉田市)が近世富士講の巡礼地であった[5]。しかしそれより以前は、泉端ではなく須戸湖(沼津市富士市)を含めて「富士八海」とされていた[6]

外八海は二見海(二見浦、三重県)、竹生島琵琶湖、滋賀県)、諏訪湖(長野県)、榛名湖(群馬県)、日光湖(中禅寺湖、栃木県)、佐倉湖(桜ヶ池、静岡県)、鹿島湖(霞ヶ浦・茨城県)、箱根湖(芦ノ湖、神奈川県)である。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

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  1. ^ 16世紀後半から17世紀前半
  2. ^ 後世、長谷川角行・藤原武邦とも
  3. ^ 博物館だよりMARUBI №25 (PDF)、富士吉田市歴史民俗博物館、(2005.11.30)
  4. ^ a b c d 「富士山」推薦書原案 (PDF)、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2011.07.27
  5. ^ 富士吉田市歴史民俗博物館だより、MARUBI8
  6. ^ 博物館だよりMARUBI №20 (PDF)、富士吉田市歴史民俗博物館、(2003.3.31)
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