「リッチモンド・K・ターナー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ZéroBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: eu:Richmond K. Turner
en:Richmond K. Turner(02:11, 4 April 2012‎ UTC)を一部翻訳した上で記述の追加。問題あれば適宜な修正を。
タグ: サイズの大幅な増減
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
6行目: 6行目:
| 画像 = Richmond_K._Turner.jpg
| 画像 = Richmond_K._Turner.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 揚陸指揮艦エルドラド(''USS Eldorado, AGC-11'')艦上のターナー中将
| 画像説明 = 揚陸指揮艦エルドラド (''USS Eldorado, AGC-11'') 艦上のターナー中将
| 渾名 =
| 渾名 = テリブル・ターナー
| 生誕地 = [[オレゴン州]] [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]
| 生誕地 = [[オレゴン州]] [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]
| 死没地 = [[カリフォルニア州]] [[モントレー]]
| 死没地 = [[カリフォルニア州]] [[モントレー]]
13行目: 13行目:
| 所属組織 = {{USNAVY}}
| 所属組織 = {{USNAVY}}
| 軍歴 = 1904 - 1947
| 軍歴 = 1904 - 1947
| 最終階級 = 海軍[[大将]]
| 最終階級 = [[File:US-O10 insignia.svg|35px]] 海軍[[大将]]
| 指揮 = 太平洋艦隊両用戦部隊司令官<br />第5両用戦隊司令<br />海軍作戦部次長<br />[[アストリア (重巡洋艦)|CA-34 アストリア]]艦長<br />[[サラトガ (CV-3)|CV-3 サラトガ]]艦長<br />アジア艦隊航空戦隊司令
| 指揮 = 太平洋艦隊両用戦部隊司令官<br />第5両用戦隊司令<br />海軍作戦部次長<br />[[アストリア (重巡洋艦)|CA-34 アストリア]]艦長<br />[[サラトガ (CV-3)|CV-3 サラトガ]]艦長<br />アジア艦隊航空戦隊司令
| 部隊 =
| 部隊 =
| 戦闘 = [[第二次世界大戦]]<br />*[[ガダルカナル島の戦い]]<br />*[[第一次ソロモン海戦]]<br />*[[ソロモン諸島の戦い]]
| 戦闘 = [[第二次世界大戦]]<br />*[[ガダルカナル島の戦い]]<br />*[[第一次ソロモン海戦]]<br />*[[ソロモン諸島の戦い]]<br />*[[クェゼリンの戦い]]<br />*[[マリアナ・パラオ諸島の戦い]]<br />*[[沖縄戦]]
| 戦功 =
| 戦功 =
| 賞罰 =
| 賞罰 =
23行目: 23行目:
}}
}}


'''リッチモンド・ケリー・ターナー''' ('''Richmond Kelly Turner''', [[1885年]][[5月27日]] - [[1961年]][[2月12日]])は、[[アメリカ海軍]]の軍人、最終階級は[[大将]]。
'''リッチモンド・ケリー「テリブル」・ターナー''' ('''Richmond Kelly Turner''', [[1885年]][[5月27日]] - [[1961年]][[2月12日]])は、[[アメリカ海軍]]の軍人、最終階級は[[大将]]。[[第二次世界大戦]]においては、[[ソロモン諸島]]から[[沖縄諸島|沖縄]]にいたる主だった上陸作戦の指揮を執った


== 経歴 ==
== 生涯 ==
===幼年期から青年期===
ターナーは[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]に生まれる。1904年に[[カリフォルニア州]]選出の下院議員James Carion Needhamニ-ダムからの推薦で[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]に入学、[[1908年]]6月に卒業し、続く四年にわたって様々な艦艇で勤務する。1913年にターナー少尉は短期間[[駆逐艦]][[スチュワート (DD-13)|スチュワート]]の艦長任務に従事する。その後[[砲艦]][[マリエッタ (砲艦)|マリエッタ]](''USS Marietta'')で勤務、続いて1916年から1919年にかけて[[戦艦]][[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]](''USS Pennsylvania, BB-38'')、[[ミシガン (戦艦)|ミシガン]](''USS Michigan, BB-27'')、[[ミシシッピ (BB-23)|ミシシッピ]](''USS Mississippi, BB-23'')に乗艦する。
リッチモンド・ケリー・ターナーは1885年5月27日、[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]に父エノク・ターナー、母ローラ・フランシス・ターナーの8人兄弟の7番目の子として生まれる<ref name="a">[[#谷光(2)]]p.372</ref>。「リッチモンド」の名は、{{仮リンク|リッチモンド公爵|en|Duke of Richmond}}に由来する<ref name="a"/>。ターナーの父系は[[イングランド系アメリカ人]]で、[[アメリカ独立戦争]]よりも前に[[メリーランド植民地]]に住み着いて農業を営んでいたが、[[アメリカ合衆国]]の領土が拡大するにつれて西へ西へと移っていった<ref>[[#谷光(2)]]p.371</ref>。エノクは[[ゴールドラッシュ]]に沸く[[カリフォルニア州]][[ストックトン (カリフォルニア州)|ストックトン]]で商店を営んでいたジョン・ターナーの9番目の子であり、長じてポートランドで[[週刊誌]]を発行していた兄トーマスの下に移った<ref>[[#谷光(2)]]pp.371-372</ref>。母系のケリー家は[[アイルランド系アメリカ人]]由来で、こちらもアメリカ独立戦争より前に[[ペンシルベニア]]に移住していたが、やがて西部に移り住んだ<ref name="a"/>。また、ケリー家は[[フィランソロピー|フィランソロピスト]]として学校や教会に幾度となく寄付を行った<ref name="a"/>。一家はやがてストックトンに戻り、エノクはここでも週刊誌を発行した<ref name="a"/>。ターナーもまた、一時期サンタアナに住んでいた時期を除いてストックトンで幼年期を過ごし、1904年にストックトン・ハイスクールを卒業した<ref>{{cite book |author=Dyer, George Carroll |year=1972 |title=The Amphibians Came to Conquer |publisher=Washington, D.C.: U.S. Dept. of the Navy; U.S. Government Printing Office |pages=3–9 |oclc=476880 }}</ref>。


ターナーの学業成績はよく<ref name="a"/>、[[カリフォルニア州]]選出の[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員ジェームズ・キャリオン・ニーダムからの推薦を得て、1904年に[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]に入学する。この時同時に入学した者の中には[[マーク・ミッチャー]]や[[トーマス・C・キンケイド]]らがおり、卒業年次から「アナポリス1908年組」と呼称された世代である<ref name="b">[[#谷光(2)]]序頁</ref><ref group="注釈">[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校(江田島)]]の卒業年次に換算すると、[[南雲忠一]]、[[沢本頼雄]]、[[塚原二四三]]らを輩出した36期に相当する([[#谷光(2)]]序頁)。</ref>。しかし、ミッチャーは2年目の秋、クラスのグループ同士で発生した喧嘩で死亡者が出た事件に巻き込まれ、また日頃の素行や成績もよくなかったこともあって退学処分となり、一旦アナポリスから去っていった<ref>[[#谷光(2)]]p.419</ref>。ターナーのアナポリスでの成績も比較的よく、1年目の総合成績は297名中14位で、1908年6月5日の卒業時には201名中5位にまで上昇していた<ref name="r">[[#谷光(2)]]p.373</ref>。ちなみに、キンケイドの卒業成績は201名中136位だった<ref name="b"/>。
[[真珠湾攻撃]]に関するクラウゼン報告([[ヘンリー・スティムソン|スティムソン]][[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]から議会に提出)では、海軍作戦部次長(1941年12月~1942年6月)・少将として海軍全体に([[ハロルド・スターク]][[海軍作戦部長|作戦部長]]以上の)権威をふるい、思いこみにより[[真珠湾]]防衛の計画を台無しにしたとされる。


卒業後、少尉候補生となったターナーは[[グレート・ホワイト・フリート]]の世界一周に途中から参加<ref>[[#谷光(2)]]pp.373-374</ref>。また[[防護巡洋艦]]「[[ミルウォーキー (防護巡洋艦)|ミルウォーキー]]」 (''USS Milwaukee, C-21'') 、[[駆逐艦]]「[[プレブル (DD-12)|プレブル]]」 (''USS Preble, DD-12'') 、[[装甲巡洋艦]]「[[ウェストバージニア (装甲巡洋艦)|ウェストバージニア]]」 (''USS West Virginia, ACR-5'') に乗り組む。2年後の1910年に少尉に任官し、8月3日にはストックトンでハリエット「ハーティー」・スターリングと結婚した<ref name="c">[[#谷光(2)]]p.374</ref>。1913年に中尉に進級すると<ref name="c"/>、駆逐艦「[[スチュワート (DD-13)|スチュワート]]」 (''USS Stewart, DD-13'') の艦長任務に従事する。その後、[[砲艦]]「{{仮リンク|マリエッタ (砲艦)|en|USS Marietta (PG-15)|label=マリエッタ}}」 (''USS Marietta, PG-15'') で勤務し、砲術に関する訓練や[[サントドミンゴ]]派遣などを経験<ref name="c"/>。続いて1916年から1919年にかけて[[戦艦]]「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」 (''USS Pennsylvania, BB-38'')、「[[ミシガン (戦艦)|ミシガン]]」(''USS Michigan, BB-27'') および「[[ミシシッピ (BB-23)|ミシシッピ]]」 (''USS Mississippi, BB-23'') で砲術士官として乗艦する。1919年から1922年までの間、少佐に進級していたターナーは[[ワシントン海軍工廠]]に転任。その後は戦艦「[[カリフォルニア (戦艦)|カリフォルニア]]」 (''USS California, BB-44'') 砲術長、駆逐艦「{{仮リンク|マーヴィン (駆逐艦)|en|USS Mervine (DD-322)|label=マーヴィン}}」 (''USS Mervine, DD-322'') 艦長を務める。1925年には中佐に昇進して[[アメリカ合衆国海軍省|海軍省]]{{仮リンク|アメリカ海軍兵站局|en|Bureau of Ordnance|label=兵站局}}勤務となる。
[[第二次世界大戦]]中は[[ガダルカナル島]]攻略作戦で水上部隊を指揮。


兵站局時代、ターナーはアメリカ海軍航空隊を作った{{仮リンク|ウィリアム・A・モフェット|en|William A. Moffett}}少将(アナポリス1890組)の勧めで、[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]の海軍飛行学校でパイロットとしての訓練を受け、1927年に海軍パイロットの免許を取得<ref>[[#谷光(2)]]pp.378-379</ref>。[[水上機母艦]]「{{仮リンク|ジェイソン (給炭艦)|en|USS Jason (AC-12)|label=ジェイソン}}」 (''USS Jason, AC-12'') 艦長を経て、翌1928年には{{仮リンク|アジア艦隊 (アメリカ海軍)|en|United States Asiatic Fleet|label=アジア艦隊}}の水上機部隊指揮官を務める。アジア艦隊時代には、[[フィリピン]]各地の写真偵察を行い、仮想敵国日本が侵攻してきた場合の参考資料をそろえた<ref>[[#谷光(2)]]p.379</ref>。1929年には{{仮リンク|アメリカ海軍航空局|en|Bureau of Aeronautics}}計画課長、1932年から1934年までは[[航空母艦|空母]]「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」 (''USS Saratoga, CV-3'') 副長を務め、航空分野にも深く関わる<ref>[[#谷光(2)]]pp.380-381</ref>。1935年から1938年の間は{{仮リンク|海軍大学校 (アメリカ合衆国)|en|Naval War College|label=海軍大学校}}兵站部門を受講し、受講後は戦略部門の教官に就任した<ref>[[#谷光(2)]]pp.381-382</ref>。海軍大学校でのターナーは航空の重要性を説き、後にターナーの予想が的中するが、この時点では賛同者は少数派だった<ref>[[#谷光(2)]]p.382</ref>。
第二次世界大戦が終わるとターナーは海軍省の総合委員会に勤務し、[[国際連合|国連]]軍事委員会の[[アメリカ海軍]]代表となった。ターナーは1947年7月に退役し、[[1961年]]にカリフォルニア州[[モントレー]]で死去した。


海軍大学校時代に大佐に昇進したターナーは、将官への昇進のために大型艦艦長のポストを望み、その結果、[[重巡洋艦]]「[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]]」 (''USS Astoria, CA-34'') 艦長を務める<ref>[[#谷光(2)]]p.383</ref>。「アストリア」は、1939年2月26日に死去した日本の[[斎藤博]]駐米[[特命全権大使|大使]]の遺骨の礼送を行った<ref>[[#アストリア(1)]]</ref><ref>[[#アストリア(2)]]</ref>。この際、ターナーは日本政府から[[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]を授与されている<ref>[[#ターナー叙勲]]</ref>。
[[リーヒ級ミサイル巡洋艦]]の5番艦、[[リッチモンド・K・ターナー (ミサイル巡洋艦)|リッチモンド・K・ターナー]](''USS Richmond K. Turner, DLG-20'')は、彼に因んで命名された。


===戦争計画部長と真珠湾===
{{seealso|真珠湾攻撃}}
{{seealso|真珠湾攻撃陰謀説}}
1940年10月、ターナーは[[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]][[ハロルド・スターク]]大将(アナポリス1903年組)の下で戦争計画部長を務める。1940年2月には少将に進級し、[[アメリカ統合参謀本部|陸海軍合同会議]]メンバーにも選ばれた<ref name="d">[[#谷光(2)]]p.386</ref>。戦争計画部長在職中のターナーは、スタークや作戦部次長{{仮リンク|ロイヤル・E・インガソル|en|Royal E. Ingersoll}}少将(アナポリス1905年組)らとともに海軍作戦部を切り盛りしていたが、ターナーは次第に絶大な権力を持ち、上官であるはずのスタークやインガソルをも顎で使うようになり、スタークやインガソルは、ターナーが出した案をそのまま丸呑みにするようになる<ref name="d"/>。そういった最中に[[真珠湾攻撃]]が起き、アメリカは大戦に突入していく。

[[ヘンリー・スティムソン]][[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]から議会に提出されていたクラウゼン報告など、真珠湾攻撃に関するさまざまな報告を総合すれば、当時[[ミリタリー・インテリジェンス]]の海軍部門の筆頭だった{{仮リンク|セオドア・S・ウィルキンソン|en|Theodore Stark Wilkinson}}大佐(アナポリス1909年組<ref>[[:en:Theodore Stark Wilkinson]]</ref>)は、名目上はスタークに報告したことになっていたが、実際には前述のようにターナーが事実上仕切っていたため、スタークへの報告の返答はターナーによって行われていた。これらの報告の中には、[[パープル暗号]]などの解析による情報も含まれていたが、ターナーはこれを独断で握りつぶし、増援を派遣しない決定を下した。真珠湾攻撃当時の[[合衆国艦隊]]兼[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官だった[[ハズバンド・キンメル]]大将(アナポリス1904年組)は、もし情報が届けられていたなら高いレベルの警戒態勢を維持できただろう。と戦争終結後に回想した。

真珠湾攻撃研究を行っていた[[メリーランド大学カレッジパーク校]]の歴史学教授だった[[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]博士は、その著作 "''Pearl Harbor: The Verdict of History''" で、歴史の評価やキンメルの真情を考慮した上で、次のように評した。

{{quotation|ターナーが情報を解析して「ハワイへの日本軍の空襲を少なくとも50パーセントはある」と判断し、キンメルに警告を発することは簡単であった。ターナーは戦争計画部を事実上支配しており、キンメルはその警告を受け止める義務があった。ターナーは警告を通報していたならば、真珠湾攻撃を回避して国家から賞賛されていただろうし、残りの確率で攻撃を受けて、やはり非難を受けていただろう。<ref>Gordon W. Prange, Donald M. Goldstein and Katherine V. Dillon, ''Pearl Harbor: The Verdict of History'', McGraw-Hill, 1986, 292-295</ref>}}

ターナーはこの件で、のちに椿事を引き起こす([[#酒好き|後述]])。

真珠湾攻撃後、ターナーは1942年6月まで合衆国艦隊の参謀副長となった<ref name="d"/>。合衆国艦隊司令長官は、キンメル罷免を受けて[[アーネスト・キング]]大将(アナポリス1901年組)が就任していた。合衆国艦隊参謀副長のターナーは、将来の作戦を見据えて[[エスピリトゥサント]]などへ前進基地を設置することを進言し、これらの基地はのちの作戦で大いに活用されることになる<ref>[[#谷光(2)]]pp.386-387</ref>。

===上陸軍司令官===
====ソロモン====
[[ミッドウェー海戦]]で日本艦隊が敗北したことを受け、キングは南太平洋方面での攻勢をかけることとなる。日本軍が企図していた[[FS作戦]]はミッドウェーでの敗戦で一頓挫したが、依然脅威であることには変わりはなかった。キングは南太平洋方面部隊を編成して、指揮を[[ロバート・L・ゴームレー]]中将(アナポリス1906年組)に委ねて対処した。そして、南太平洋方面で展開される上陸戦の指揮官としてターナーが起用されることになった<ref name="e">[[#谷光(2)]]p.387</ref><ref>[[#ポッター]]p.254</ref>。ターナーは[[ガダルカナル島]]への上陸部隊を率い、8月7日朝に上陸作戦を行って、早々に[[ホニアラ国際空港|日本軍が建設していた飛行場]]を押さえた。最終的には日本軍が「転進」して終わる[[ガダルカナル島の戦い]]の幕開けだった。

ところが、空中掩護を担当していた[[フランク・J・フレッチャー]]中将(アナポリス1906年組)率いる空母任務群が、日本軍の反撃を警戒して後退していった<ref>[[#ポッター]]p.256</ref>。そもそも、上陸前に行われた「サラトガ」での会談でフレッチャーはターナーに対し「援護は48時間」と告げ、ターナーがこれに対して「48時間では全ての部隊や物資を揚陸させるのは難しい」と反論していた<ref>[[#木俣軽巡]]p.254</ref>。上陸翌日の8月8日、潜水艦や偵察機が[[三川軍一]]中将率いる重巡洋艦「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」以下の日本艦隊を発見し、その情報はターナーの元に届けられたが、ターナーはこれらの情報を重要視しなかった<ref>[[#木俣軽巡]]p.256,258</ref>。それでも警戒だけはすることとなり、またフレッチャーの空母任務群が後退したことを受け、ターナーは護衛と火力支援を行う水上部隊を指揮する[[オーストラリア海軍]]の{{仮リンク|ヴィクター・クラッチレー|en|Victor Crutchley}}少将と会談を行うため、クラッチレーの旗艦だった重巡洋艦「[[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]]」 (''HMAS Australia, D84'') に移乗し、前線から[[ルンガ岬]]方向に下がっていった<ref>[[#木俣軽巡]]p.263</ref>。三川の艦隊はその間隙を突いて奇襲を行い、大戦果を挙げた([[第一次ソロモン海戦]])。敗戦は公表されず<ref>[[#ポッター]]p.257</ref>、ターナーも特に咎めも受けなかった。

ガダルカナルの攻防戦が続く中、キングと太平洋艦隊司令長官[[チェスター・ニミッツ]]大将(アナポリス1905年組)の目には、ゴームレーの指揮は冴えないものと判断され、ゴームレーは結果的に更迭される。ターナーは当初、ゴームレーの後任候補に挙がったが、性格などの問題により却下され([[#性格|後述]])、[[ウィリアム・ハルゼー]]中将(アナポリス1904年組)の登板となった<ref name="n">[[#ポッター]]p.265</ref>。ターナーは引き続き、ソロモン方面の上陸部隊の指揮を執り続けたが、その任は[[ニュージョージア島の戦い]]を目前にした1943年7月15日に終わることとなり、後任には戦争計画部長時代の同僚だったウィルキンソンが就いた<ref name="f">[[#ポッター]]p.357</ref>。

====中部太平洋====
ターナーは、[[レイモンド・スプルーアンス]]中将(アナポリス1907年組)の要請により中部太平洋方面に転じた。激闘のソロモン戦線とは打って変わって、1943年中旬ごろまでの中部太平洋方面はあまり大きな戦いもなかったが、この方面を担当する[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]が編成されて[[エセックス級航空母艦]]などの新鋭艦も第5艦隊に宛がわれ、有数の大艦隊となっていた<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]pp.207-208</ref>。第5艦隊司令長官に就任したスプルーアンスではあったが、上陸部隊の指揮官の選考に悩んでいた。そこで目をつけたのが、知己であり海軍大学校の同僚だったターナーだった<ref name="f"/><ref name="g">[[#ブュエル]]pp.269-270</ref>。スプルーアンスは無理を承知でニミッツにターナーの招聘を要請したところ承認され、また、キングとハルゼーの了解も得られたのでターナーは中部太平洋に転じることとなったのである<ref name="f"/><ref>[[#ブュエル]]p.270</ref>。スプルーアンスはまた、ターナーの下での[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]指揮官に[[ホーランド・スミス|ホーランド・M「マッド」・スミス]]海兵少将を要望して承認された<ref name="g"/>。「[[テリブル|テリブル(恐ろしい)]]・ターナー」と「マッド(狂人)・スミス」の組み合わせは、この時完成した。

ターナーは以後、1943年から1944年には[[ガルヴァニック作戦]]、[[クェゼリンの戦い]]、[[マリアナ・パラオ諸島の戦い]]で上陸戦の総指揮を執り、1945年も[[硫黄島の戦い]]と[[沖縄戦]]を指揮した。[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]のみは[[ダグラス・マッカーサー]]陸軍大将とキンケイドの[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]に部隊を預けていたため指揮を執っていない。上陸戦自体も、決して順調とはいえなかった。ガルヴァニック作戦中の[[マキンの戦い]]では[[アメリカ陸軍|陸軍]]第27歩兵師団のレベルの低さから戦闘に時間がかかり、スミスとともにこれを批判した<ref name="h">[[#ブュエル]]pp.316-317</ref>。続くクェゼリンの戦いでは、当初はスプルーアンス、スミスとともに攻略に反対したが、ニミッツが更迭カードをちらつかせたため黙らざるを得なかった<ref name="i">[[#ブュエル]]pp.330-331</ref>。硫黄島の戦いの直前には一時体調を崩して周囲を心配させた<ref name="j">[[#ブュエル]]pp.500-501</ref>。ターナーは1945年5月の第5艦隊と[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]の交代時に戦線を去り<ref>[[#ブュエル]]p.553</ref>、日本本土上陸の[[ダウンフォール作戦]]でも指揮を執っただろうが、これは日本の降伏により実現しなかった。沖縄戦が、ターナー最後の戦闘となった。

===戦後===
第二次世界大戦が終わると、1945年5月に大将に昇進していた<ref name="e"/>ターナーは{{仮リンク|アメリカ海軍将官会議|en|General Board of the United States Navy|label=将官会議}}議長を務め、また、[[国際連合|国連]]軍事委員会の[[アメリカ海軍]]代表となり、第1回の[[国際連合総会|国連総会]]にも出席した<ref name="q">[[#谷光(2)]]p.389</ref>。ターナーは1947年7月に退役し、1961年2月12日にカリフォルニア州[[モントレー]]で死去した。75歳没。ターナーはカリフォルニア州{{仮リンク|サンブルーノ|en|San Bruno, California|}}の{{仮リンク|ゴールデン・ゲート国立墓地|en|Golden Gate National Cemetery}}で、ニミッツ、スプルーアンス、[[チャールズ・A・ロックウッド]](アナポリス1912年組)といった、ともに太平洋戦線で戦った将官、妻のハリエットとともに眠っている<ref name="q"/>。

==人物==
ターナーの人物像のうち、「テリブル」と渾名されるほどの強烈な性格および個性と、[[アルコール依存症]]とも言うべき[[酒]]好きの2つの面は、時には大きなトラブルになる原因にもなった。

====性格====
アナポリスでの学業成績のよかったターナーではあるが、素行面のみ取り上げると111位を記録したこともあった<ref name="r"/>。ターナーが乗り組んでいた時の「カリフォルニア」艦長だったリシウス・ボストウィック少将(アナポリス1890年組)<ref name="k">[[#谷光(2)]]p.376</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.history.navy.mil/danfs/b8/bostwick-i.htm|title=Bostwick|publisher=NAVAL HISTORICAL CENTER|language=英語|accessdate=2012-04-11}}</ref>によれば「きわめて強い性格。精力な仕事振り。職務遂行能力は抜群」という評価を与えたものの、「協調性、我慢強さ、受けた教育、従順さ」を問題点とした<ref name="k"/>。{{仮リンク|ニュートン・マックリー|en|Newton A. McCully}}大将(アナポリス1887年組<ref>[[:en:Newton A. McCully]]</ref>)も、自分の参謀として仕えていた時期のターナーについて、有能であるとしながらも「自己の意見に強く固執し、時に他の士官の意見に我慢できない態度を示す。良き部下になるにはあまりにも能力があり過ぎる」とも評価した<ref name="k"/>。ターナーがいたころのアジア艦隊司令長官だった{{仮リンク|マーク・ブリストル|en|Mark Lambert Bristol}}大将(アナポリス1887年組<ref>[[:en:Mark Lambert Bristol]]</ref>)、伊達者のマッカーサーとも上手くやっていけたこの提督<ref name="l">[[#谷光(2)]]p.379</ref>のターナー評も、我慢強さと自己抑制の二点で平均点しか与えなかった<ref name="l"/>。

昇進して人を扱う立場になると、ターナーの強烈な性格および個性がますます強調されるようになる。海軍大学校時代のターナーに絞られた者は、「ターナーの下での一年間は最も苦しい一年間」だとし、別の者は「口が厳しく、全くユーモアというものがない」と回想する<ref name="m">[[#谷光(2)]]p.382</ref>。戦争計画部長在職中も変わらず、「威圧的」、「[[ジョージ・パットン|パットン]]のようだった」などという回想が続出<ref name="d"/>。ソロモン戦線に出動すれば、ガダルカナル攻防戦に関して[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]]海兵少将以下海兵隊の面々と火花を散らし、戦略への影響が懸念されてゴームレーの後任になれなかった<ref name="n"/>。スプルーアンスに請われて第5艦隊に転じれば、同じくスプルーアンスの手引きで幕閣に加わった「狂人」スミスと一部の例外を除けば<ref name="h"/><ref name="i"/>常に角をつき合わせ、最後の顔合わせとなった硫黄島の戦いの時ですら、「歩み寄る気配は毛頭、感じられなかった」<ref>[[#ニューカム]]p.50</ref>。「テリブル」と「狂人」のにらみ合いにはスプルーアンスも頭を悩ませたが、これといった対策を打ち出すことはできなかった<ref>[[#ブュエル]]p.385</ref>。強烈な性格は、ついにニミッツをも怒らせる結果となり、ニミッツがターナーを殴り飛ばしてターナーもこれに応じようとした時に、スプルーアンスが間に入って仲裁することすらあった<ref name="o">[[#谷光(2)]]p.388</ref>。

ターナーの強烈な性格は「諸刃の剣」であり、自分で何でもやらないと気が済まない点が周囲との摩擦をたびたび招いたものの、良い面だけで言えば、強烈な性格が勝利への原動力の一つとなったとも言え、ターナーの存在が欠ければ戦いが非常に困難になるとさえ考えられた<ref name="j"/>。経営学者の[[谷光太郎]]は、キングが異常な女好き、ターナーが後述の酒好きであるという点を除けば、ターナーとキングは似ている点が多いとしている<ref name="p">[[#谷光(2)]]p.381</ref>。

====酒好き====
ターナーの酒好きについては、遅くとも「サラトガ」副長時代には認知されていたが<ref name="p"/>、海軍大学校時代にはボロを見せていなかった<ref name="m"/>。ひどくなったのはガダルカナル戦のころからで、あらゆる戦闘計画を長時間にわたってチェックし、かつ平静さを保つのに酒の力が必要になっていった<ref name="e"/>。ターナー自身、常に疲れきっていたと回想していたが<ref name="o"/>、実際、前述の硫黄島の戦い前のターナーはまさに病人で、背中に痛みを覚えて体の抵抗力は弱まっており、[[肺炎]]の危険性すらあった<ref name="j"/>。酒浸りの度合いはエスカレートし、これは酒浸りによる醜態をしばしば晒すことも意味していた。[[テニアンの戦い]]後の国旗掲揚式や、沖縄戦から離れてニミッツやスプルーアンスと会食したときは「出来上がった状態」で現れる始末だった<ref name="o"/>。

酒浸りによる醜態の極めつけは戦争終結後に起こった。1945年9月2日の[[降伏文書]]調印式のあと、式典に出席していたターナーは、ニミッツが乗艦していたため臨時の太平洋艦隊の旗艦になっていた戦艦「[[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]」 (''USS South Dakota, BB-57'') <ref name="o"/><ref>[[#ポッター]]pp.557-558</ref>の士官室で「出来上がった状態」になっていた<ref name="o"/>。そこにやってきた太平洋艦隊主任参謀[[エドウィン・レイトン]]大佐(アナポリス1924年組)<ref>[[#谷光(2)]]p.568</ref>が前述の真珠湾攻撃の件の話を切り出したところ癇に障ったのか、ターナーはいきなりレイトンの首を締め上げに掛かった<ref name="o"/>。居合わせた「サウスダコタ」艦長が間に入らなかったら、ターナーは(その気が本当にあったとして)レイトンを絞め殺すところだった<ref name="o"/>。

退役後も酒が手放せなかったが<ref name="q"/>、重度の酒浸りかつ心身を相当にすり減らしていたものの、ミッチャーや[[ジョン・S・マケイン・シニア]](アナポリス1906年組)のように、戦争終結から間を置かずして急死するようなこともなく、75歳まで生きたのもまた事実である。谷光は、その理由を長生きした者や頑健な身体を持つ者が多かったターナーの父系に求めている<ref>[[#谷光(2)]]p.372,389</ref>。

==その他==
*ストックトンで結婚したハリエットとの間には子供はなく、代わりに[[イヌ|愛犬]]を可愛がった<ref name="q"/>。長年病身だったハリエットはまた、[[結婚記念日|金婚式]]を挙げて[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]で[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]に票を入れることが夢で、その双方が実現したあとの1961年1月に亡くなった<ref name="q"/>。ターナーがハリエットの後を追うように亡くなったのは、それからわずか37日後のことだった<ref name="q"/>。
*[[リーヒ級ミサイル巡洋艦]]の5番艦、[[リッチモンド・K・ターナー (ミサイル巡洋艦)|リッチモンド・K・ターナー]] (''USS Richmond K. Turner, DLG-20'') は、彼に因んで命名された。

==脚注==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}

==参考文献==
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](国立公文書館)(防衛省防衛研究所)
**Ref.{{Cite book|和書|author=A10113310500|title=米国海軍大佐「リッチモンド、ケリー、ターナー」外一名叙勲ノ件|ref=ターナー叙勲}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C01001773600|title=故齋藤大使遺骨礼送艦「アストリア」号来朝ニ関スル件|ref=アストリア(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04014732600|title=故齋藤大使葬儀並ニ「アストリア」号乗組員ニ対スル便宜供与ニ関シ謝意表明方ノ件|ref=アストリア(2)}}
*{{Cite book|和書|author=[[防衛研究所]]戦史室編|year=1972|title=戦史叢書56 海軍捷号作戦(2){{small|フィリピン沖海戦}}|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|ref=戦史56}}
*{{Cite book|和書|author=防衛研究所戦史室編|year=1973|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2){{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史62}}
*{{Cite book|和書|author=防衛研究所戦史室編|year=1976|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3){{small|ガ島撤収後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史96}}
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣軽巡}}
*{{Cite book|和書|author=E.B.ポッター|others=秋山信雄(訳)|year=1991|title=BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史|publisher=光人社|isbn=4-7698-0576-4|ref=ポッター}}
*{{Cite journal|和書|author=青木勉|year=1992|title=特別掲載 検証「真珠湾奇襲」米調査委員会全報告|journal=[[丸 (雑誌)|丸]]|volume=45|issue=1|publisher=潮書房|pages=67-76|ref=青木}}
*{{Cite book|和書|author=[[チェスター・ニミッツ|C.W.ニミッツ]]|coauthors=E.B.ポッター|others=[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)|year=1992|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=4-7704-0757-2|ref=ニミッツ、ポッター}}
*{{Cite book|和書|author=[[谷光太郎]]|others=野中郁次郎(解説)|year=1993|title=アーネスト・キング {{small|太平洋戦争を指揮した米海軍戦略家}}|publisher=白桃書房|isbn=4-561-51021-4|ref=谷光(1)}}
*{{Cite book|和書|author=リチャード.F.ニューカム|others=田中至(訳)|year=1996|title=硫黄島 {{small|太平洋戦争死闘記}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2113-1|ref=ニューカム}}
*{{Cite book|和書|author=米国陸軍省(編)|others=外間正四郎(訳)|year=1997|title=沖縄 {{small|日米最後の戦闘}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2152-2|ref=沖縄 日米最後の戦闘}}
*{{Cite book|和書|author=[[谷光太郎]]|year=2000|title=米軍提督と太平洋戦争|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4-05-400982-0|ref=谷光(2)}}
*{{Cite book|和書|author=トーマス.B.ブュエル|others=小城正(訳)|year=2000|title=提督スプルーアンス|publisher=[[学習研究社]]|isbn=4-05-401144-6|ref=ブュエル}}
{{DANFS}}

==外部リンク==
*[http://www.history.navy.mil/photos/pers-us/uspers-t/rk-turnr.htm -- PEOPLE -- UNITED STATES -- Admiral Richmond K. Turner, USN (1885-1961)]

{{Normdaten|VIAF=11872294|LCCN=n/71/603853}}
{{DEFAULTSORT:たーなー りつちもんと}}
{{DEFAULTSORT:たーなー りつちもんと}}
[[Category:アメリカ合衆国海軍の軍人]]
[[Category:アメリカ合衆国海軍の軍人]]

2012年4月11日 (水) 11:23時点における版

リッチモンド・K・ターナー
Richmond Kelly Turner
揚陸指揮艦エルドラド (USS Eldorado, AGC-11) 艦上のターナー中将
渾名 テリブル・ターナー
生誕 1885年5月27日
オレゴン州 ポートランド
死没 (1961-02-12) 1961年2月12日(75歳没)
カリフォルニア州 モントレー
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
軍歴 1904 - 1947
最終階級 海軍大将
指揮 太平洋艦隊両用戦部隊司令官
第5両用戦隊司令
海軍作戦部次長
CA-34 アストリア艦長
CV-3 サラトガ艦長
アジア艦隊航空戦隊司令
戦闘 第二次世界大戦
*ガダルカナル島の戦い
*第一次ソロモン海戦
*ソロモン諸島の戦い
*クェゼリンの戦い
*マリアナ・パラオ諸島の戦い
*沖縄戦
除隊後 海軍殊勲章
テンプレートを表示

リッチモンド・ケリー「テリブル」・ターナー (Richmond Kelly Turner, 1885年5月27日 - 1961年2月12日)は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は大将第二次世界大戦においては、ソロモン諸島から沖縄にいたる主だった上陸作戦の指揮を執った。

生涯

幼年期から青年期

リッチモンド・ケリー・ターナーは1885年5月27日、オレゴン州ポートランドに父エノク・ターナー、母ローラ・フランシス・ターナーの8人兄弟の7番目の子として生まれる[1]。「リッチモンド」の名は、リッチモンド公爵に由来する[1]。ターナーの父系はイングランド系アメリカ人で、アメリカ独立戦争よりも前にメリーランド植民地に住み着いて農業を営んでいたが、アメリカ合衆国の領土が拡大するにつれて西へ西へと移っていった[2]。エノクはゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州ストックトンで商店を営んでいたジョン・ターナーの9番目の子であり、長じてポートランドで週刊誌を発行していた兄トーマスの下に移った[3]。母系のケリー家はアイルランド系アメリカ人由来で、こちらもアメリカ独立戦争より前にペンシルベニアに移住していたが、やがて西部に移り住んだ[1]。また、ケリー家はフィランソロピストとして学校や教会に幾度となく寄付を行った[1]。一家はやがてストックトンに戻り、エノクはここでも週刊誌を発行した[1]。ターナーもまた、一時期サンタアナに住んでいた時期を除いてストックトンで幼年期を過ごし、1904年にストックトン・ハイスクールを卒業した[4]

ターナーの学業成績はよく[1]カリフォルニア州選出の下院議員ジェームズ・キャリオン・ニーダムからの推薦を得て、1904年に海軍兵学校に入学する。この時同時に入学した者の中にはマーク・ミッチャートーマス・C・キンケイドらがおり、卒業年次から「アナポリス1908年組」と呼称された世代である[5][注釈 1]。しかし、ミッチャーは2年目の秋、クラスのグループ同士で発生した喧嘩で死亡者が出た事件に巻き込まれ、また日頃の素行や成績もよくなかったこともあって退学処分となり、一旦アナポリスから去っていった[6]。ターナーのアナポリスでの成績も比較的よく、1年目の総合成績は297名中14位で、1908年6月5日の卒業時には201名中5位にまで上昇していた[7]。ちなみに、キンケイドの卒業成績は201名中136位だった[5]

卒業後、少尉候補生となったターナーはグレート・ホワイト・フリートの世界一周に途中から参加[8]。また防護巡洋艦ミルウォーキー」 (USS Milwaukee, C-21) 、駆逐艦プレブル」 (USS Preble, DD-12) 、装甲巡洋艦ウェストバージニア」 (USS West Virginia, ACR-5) に乗り組む。2年後の1910年に少尉に任官し、8月3日にはストックトンでハリエット「ハーティー」・スターリングと結婚した[9]。1913年に中尉に進級すると[9]、駆逐艦「スチュワート」 (USS Stewart, DD-13) の艦長任務に従事する。その後、砲艦マリエッタ英語版」 (USS Marietta, PG-15) で勤務し、砲術に関する訓練やサントドミンゴ派遣などを経験[9]。続いて1916年から1919年にかけて戦艦ペンシルベニア」 (USS Pennsylvania, BB-38)、「ミシガン」(USS Michigan, BB-27) および「ミシシッピ」 (USS Mississippi, BB-23) で砲術士官として乗艦する。1919年から1922年までの間、少佐に進級していたターナーはワシントン海軍工廠に転任。その後は戦艦「カリフォルニア」 (USS California, BB-44) 砲術長、駆逐艦「マーヴィン英語版」 (USS Mervine, DD-322) 艦長を務める。1925年には中佐に昇進して海軍省兵站局英語版勤務となる。

兵站局時代、ターナーはアメリカ海軍航空隊を作ったウィリアム・A・モフェット少将(アナポリス1890組)の勧めで、ペンサコーラの海軍飛行学校でパイロットとしての訓練を受け、1927年に海軍パイロットの免許を取得[10]水上機母艦ジェイソン英語版」 (USS Jason, AC-12) 艦長を経て、翌1928年にはアジア艦隊英語版の水上機部隊指揮官を務める。アジア艦隊時代には、フィリピン各地の写真偵察を行い、仮想敵国日本が侵攻してきた場合の参考資料をそろえた[11]。1929年にはアメリカ海軍航空局英語版計画課長、1932年から1934年までは空母サラトガ」 (USS Saratoga, CV-3) 副長を務め、航空分野にも深く関わる[12]。1935年から1938年の間は海軍大学校兵站部門を受講し、受講後は戦略部門の教官に就任した[13]。海軍大学校でのターナーは航空の重要性を説き、後にターナーの予想が的中するが、この時点では賛同者は少数派だった[14]

海軍大学校時代に大佐に昇進したターナーは、将官への昇進のために大型艦艦長のポストを望み、その結果、重巡洋艦アストリア」 (USS Astoria, CA-34) 艦長を務める[15]。「アストリア」は、1939年2月26日に死去した日本の斎藤博駐米大使の遺骨の礼送を行った[16][17]。この際、ターナーは日本政府から勲三等瑞宝章を授与されている[18]

戦争計画部長と真珠湾

1940年10月、ターナーは海軍作戦部長ハロルド・スターク大将(アナポリス1903年組)の下で戦争計画部長を務める。1940年2月には少将に進級し、陸海軍合同会議メンバーにも選ばれた[19]。戦争計画部長在職中のターナーは、スタークや作戦部次長ロイヤル・E・インガソル英語版少将(アナポリス1905年組)らとともに海軍作戦部を切り盛りしていたが、ターナーは次第に絶大な権力を持ち、上官であるはずのスタークやインガソルをも顎で使うようになり、スタークやインガソルは、ターナーが出した案をそのまま丸呑みにするようになる[19]。そういった最中に真珠湾攻撃が起き、アメリカは大戦に突入していく。

ヘンリー・スティムソン陸軍長官から議会に提出されていたクラウゼン報告など、真珠湾攻撃に関するさまざまな報告を総合すれば、当時ミリタリー・インテリジェンスの海軍部門の筆頭だったセオドア・S・ウィルキンソン大佐(アナポリス1909年組[20])は、名目上はスタークに報告したことになっていたが、実際には前述のようにターナーが事実上仕切っていたため、スタークへの報告の返答はターナーによって行われていた。これらの報告の中には、パープル暗号などの解析による情報も含まれていたが、ターナーはこれを独断で握りつぶし、増援を派遣しない決定を下した。真珠湾攻撃当時の合衆国艦隊太平洋艦隊司令長官だったハズバンド・キンメル大将(アナポリス1904年組)は、もし情報が届けられていたなら高いレベルの警戒態勢を維持できただろう。と戦争終結後に回想した。

真珠湾攻撃研究を行っていたメリーランド大学カレッジパーク校の歴史学教授だったゴードン・ウィリアム・プランゲ博士は、その著作 "Pearl Harbor: The Verdict of History" で、歴史の評価やキンメルの真情を考慮した上で、次のように評した。

ターナーが情報を解析して「ハワイへの日本軍の空襲を少なくとも50パーセントはある」と判断し、キンメルに警告を発することは簡単であった。ターナーは戦争計画部を事実上支配しており、キンメルはその警告を受け止める義務があった。ターナーは警告を通報していたならば、真珠湾攻撃を回避して国家から賞賛されていただろうし、残りの確率で攻撃を受けて、やはり非難を受けていただろう。[21]

ターナーはこの件で、のちに椿事を引き起こす(後述)。

真珠湾攻撃後、ターナーは1942年6月まで合衆国艦隊の参謀副長となった[19]。合衆国艦隊司令長官は、キンメル罷免を受けてアーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)が就任していた。合衆国艦隊参謀副長のターナーは、将来の作戦を見据えてエスピリトゥサントなどへ前進基地を設置することを進言し、これらの基地はのちの作戦で大いに活用されることになる[22]

上陸軍司令官

ソロモン

ミッドウェー海戦で日本艦隊が敗北したことを受け、キングは南太平洋方面での攻勢をかけることとなる。日本軍が企図していたFS作戦はミッドウェーでの敗戦で一頓挫したが、依然脅威であることには変わりはなかった。キングは南太平洋方面部隊を編成して、指揮をロバート・L・ゴームレー中将(アナポリス1906年組)に委ねて対処した。そして、南太平洋方面で展開される上陸戦の指揮官としてターナーが起用されることになった[23][24]。ターナーはガダルカナル島への上陸部隊を率い、8月7日朝に上陸作戦を行って、早々に日本軍が建設していた飛行場を押さえた。最終的には日本軍が「転進」して終わるガダルカナル島の戦いの幕開けだった。

ところが、空中掩護を担当していたフランク・J・フレッチャー中将(アナポリス1906年組)率いる空母任務群が、日本軍の反撃を警戒して後退していった[25]。そもそも、上陸前に行われた「サラトガ」での会談でフレッチャーはターナーに対し「援護は48時間」と告げ、ターナーがこれに対して「48時間では全ての部隊や物資を揚陸させるのは難しい」と反論していた[26]。上陸翌日の8月8日、潜水艦や偵察機が三川軍一中将率いる重巡洋艦「鳥海」以下の日本艦隊を発見し、その情報はターナーの元に届けられたが、ターナーはこれらの情報を重要視しなかった[27]。それでも警戒だけはすることとなり、またフレッチャーの空母任務群が後退したことを受け、ターナーは護衛と火力支援を行う水上部隊を指揮するオーストラリア海軍ヴィクター・クラッチレー英語版少将と会談を行うため、クラッチレーの旗艦だった重巡洋艦「オーストラリア」 (HMAS Australia, D84) に移乗し、前線からルンガ岬方向に下がっていった[28]。三川の艦隊はその間隙を突いて奇襲を行い、大戦果を挙げた(第一次ソロモン海戦)。敗戦は公表されず[29]、ターナーも特に咎めも受けなかった。

ガダルカナルの攻防戦が続く中、キングと太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)の目には、ゴームレーの指揮は冴えないものと判断され、ゴームレーは結果的に更迭される。ターナーは当初、ゴームレーの後任候補に挙がったが、性格などの問題により却下され(後述)、ウィリアム・ハルゼー中将(アナポリス1904年組)の登板となった[30]。ターナーは引き続き、ソロモン方面の上陸部隊の指揮を執り続けたが、その任はニュージョージア島の戦いを目前にした1943年7月15日に終わることとなり、後任には戦争計画部長時代の同僚だったウィルキンソンが就いた[31]

中部太平洋

ターナーは、レイモンド・スプルーアンス中将(アナポリス1907年組)の要請により中部太平洋方面に転じた。激闘のソロモン戦線とは打って変わって、1943年中旬ごろまでの中部太平洋方面はあまり大きな戦いもなかったが、この方面を担当する第5艦隊が編成されてエセックス級航空母艦などの新鋭艦も第5艦隊に宛がわれ、有数の大艦隊となっていた[32]。第5艦隊司令長官に就任したスプルーアンスではあったが、上陸部隊の指揮官の選考に悩んでいた。そこで目をつけたのが、知己であり海軍大学校の同僚だったターナーだった[31][33]。スプルーアンスは無理を承知でニミッツにターナーの招聘を要請したところ承認され、また、キングとハルゼーの了解も得られたのでターナーは中部太平洋に転じることとなったのである[31][34]。スプルーアンスはまた、ターナーの下での海兵隊指揮官にホーランド・M「マッド」・スミス海兵少将を要望して承認された[33]。「テリブル(恐ろしい)・ターナー」と「マッド(狂人)・スミス」の組み合わせは、この時完成した。

ターナーは以後、1943年から1944年にはガルヴァニック作戦クェゼリンの戦いマリアナ・パラオ諸島の戦いで上陸戦の総指揮を執り、1945年も硫黄島の戦い沖縄戦を指揮した。フィリピンの戦いのみはダグラス・マッカーサー陸軍大将とキンケイドの第7艦隊に部隊を預けていたため指揮を執っていない。上陸戦自体も、決して順調とはいえなかった。ガルヴァニック作戦中のマキンの戦いでは陸軍第27歩兵師団のレベルの低さから戦闘に時間がかかり、スミスとともにこれを批判した[35]。続くクェゼリンの戦いでは、当初はスプルーアンス、スミスとともに攻略に反対したが、ニミッツが更迭カードをちらつかせたため黙らざるを得なかった[36]。硫黄島の戦いの直前には一時体調を崩して周囲を心配させた[37]。ターナーは1945年5月の第5艦隊と第3艦隊の交代時に戦線を去り[38]、日本本土上陸のダウンフォール作戦でも指揮を執っただろうが、これは日本の降伏により実現しなかった。沖縄戦が、ターナー最後の戦闘となった。

戦後

第二次世界大戦が終わると、1945年5月に大将に昇進していた[23]ターナーは将官会議英語版議長を務め、また、国連軍事委員会のアメリカ海軍代表となり、第1回の国連総会にも出席した[39]。ターナーは1947年7月に退役し、1961年2月12日にカリフォルニア州モントレーで死去した。75歳没。ターナーはカリフォルニア州サンブルーノゴールデン・ゲート国立墓地英語版で、ニミッツ、スプルーアンス、チャールズ・A・ロックウッド(アナポリス1912年組)といった、ともに太平洋戦線で戦った将官、妻のハリエットとともに眠っている[39]

人物

ターナーの人物像のうち、「テリブル」と渾名されるほどの強烈な性格および個性と、アルコール依存症とも言うべき好きの2つの面は、時には大きなトラブルになる原因にもなった。

性格

アナポリスでの学業成績のよかったターナーではあるが、素行面のみ取り上げると111位を記録したこともあった[7]。ターナーが乗り組んでいた時の「カリフォルニア」艦長だったリシウス・ボストウィック少将(アナポリス1890年組)[40][41]によれば「きわめて強い性格。精力な仕事振り。職務遂行能力は抜群」という評価を与えたものの、「協調性、我慢強さ、受けた教育、従順さ」を問題点とした[40]ニュートン・マックリー英語版大将(アナポリス1887年組[42])も、自分の参謀として仕えていた時期のターナーについて、有能であるとしながらも「自己の意見に強く固執し、時に他の士官の意見に我慢できない態度を示す。良き部下になるにはあまりにも能力があり過ぎる」とも評価した[40]。ターナーがいたころのアジア艦隊司令長官だったマーク・ブリストル英語版大将(アナポリス1887年組[43])、伊達者のマッカーサーとも上手くやっていけたこの提督[44]のターナー評も、我慢強さと自己抑制の二点で平均点しか与えなかった[44]

昇進して人を扱う立場になると、ターナーの強烈な性格および個性がますます強調されるようになる。海軍大学校時代のターナーに絞られた者は、「ターナーの下での一年間は最も苦しい一年間」だとし、別の者は「口が厳しく、全くユーモアというものがない」と回想する[45]。戦争計画部長在職中も変わらず、「威圧的」、「パットンのようだった」などという回想が続出[19]。ソロモン戦線に出動すれば、ガダルカナル攻防戦に関してアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵少将以下海兵隊の面々と火花を散らし、戦略への影響が懸念されてゴームレーの後任になれなかった[30]。スプルーアンスに請われて第5艦隊に転じれば、同じくスプルーアンスの手引きで幕閣に加わった「狂人」スミスと一部の例外を除けば[35][36]常に角をつき合わせ、最後の顔合わせとなった硫黄島の戦いの時ですら、「歩み寄る気配は毛頭、感じられなかった」[46]。「テリブル」と「狂人」のにらみ合いにはスプルーアンスも頭を悩ませたが、これといった対策を打ち出すことはできなかった[47]。強烈な性格は、ついにニミッツをも怒らせる結果となり、ニミッツがターナーを殴り飛ばしてターナーもこれに応じようとした時に、スプルーアンスが間に入って仲裁することすらあった[48]

ターナーの強烈な性格は「諸刃の剣」であり、自分で何でもやらないと気が済まない点が周囲との摩擦をたびたび招いたものの、良い面だけで言えば、強烈な性格が勝利への原動力の一つとなったとも言え、ターナーの存在が欠ければ戦いが非常に困難になるとさえ考えられた[37]。経営学者の谷光太郎は、キングが異常な女好き、ターナーが後述の酒好きであるという点を除けば、ターナーとキングは似ている点が多いとしている[49]

酒好き

ターナーの酒好きについては、遅くとも「サラトガ」副長時代には認知されていたが[49]、海軍大学校時代にはボロを見せていなかった[45]。ひどくなったのはガダルカナル戦のころからで、あらゆる戦闘計画を長時間にわたってチェックし、かつ平静さを保つのに酒の力が必要になっていった[23]。ターナー自身、常に疲れきっていたと回想していたが[48]、実際、前述の硫黄島の戦い前のターナーはまさに病人で、背中に痛みを覚えて体の抵抗力は弱まっており、肺炎の危険性すらあった[37]。酒浸りの度合いはエスカレートし、これは酒浸りによる醜態をしばしば晒すことも意味していた。テニアンの戦い後の国旗掲揚式や、沖縄戦から離れてニミッツやスプルーアンスと会食したときは「出来上がった状態」で現れる始末だった[48]

酒浸りによる醜態の極めつけは戦争終結後に起こった。1945年9月2日の降伏文書調印式のあと、式典に出席していたターナーは、ニミッツが乗艦していたため臨時の太平洋艦隊の旗艦になっていた戦艦「サウスダコタ」 (USS South Dakota, BB-57) [48][50]の士官室で「出来上がった状態」になっていた[48]。そこにやってきた太平洋艦隊主任参謀エドウィン・レイトン大佐(アナポリス1924年組)[51]が前述の真珠湾攻撃の件の話を切り出したところ癇に障ったのか、ターナーはいきなりレイトンの首を締め上げに掛かった[48]。居合わせた「サウスダコタ」艦長が間に入らなかったら、ターナーは(その気が本当にあったとして)レイトンを絞め殺すところだった[48]

退役後も酒が手放せなかったが[39]、重度の酒浸りかつ心身を相当にすり減らしていたものの、ミッチャーやジョン・S・マケイン・シニア(アナポリス1906年組)のように、戦争終結から間を置かずして急死するようなこともなく、75歳まで生きたのもまた事実である。谷光は、その理由を長生きした者や頑健な身体を持つ者が多かったターナーの父系に求めている[52]

その他

  • ストックトンで結婚したハリエットとの間には子供はなく、代わりに愛犬を可愛がった[39]。長年病身だったハリエットはまた、金婚式を挙げて大統領選挙ニクソンに票を入れることが夢で、その双方が実現したあとの1961年1月に亡くなった[39]。ターナーがハリエットの後を追うように亡くなったのは、それからわずか37日後のことだった[39]
  • リーヒ級ミサイル巡洋艦の5番艦、リッチモンド・K・ターナー (USS Richmond K. Turner, DLG-20) は、彼に因んで命名された。

脚注

注釈

  1. ^ 海軍兵学校(江田島)の卒業年次に換算すると、南雲忠一沢本頼雄塚原二四三らを輩出した36期に相当する(#谷光(2)序頁)。

出典

  1. ^ a b c d e f #谷光(2)p.372
  2. ^ #谷光(2)p.371
  3. ^ #谷光(2)pp.371-372
  4. ^ Dyer, George Carroll (1972). The Amphibians Came to Conquer. Washington, D.C.: U.S. Dept. of the Navy; U.S. Government Printing Office. pp. 3–9. OCLC 476880 
  5. ^ a b #谷光(2)序頁
  6. ^ #谷光(2)p.419
  7. ^ a b #谷光(2)p.373
  8. ^ #谷光(2)pp.373-374
  9. ^ a b c #谷光(2)p.374
  10. ^ #谷光(2)pp.378-379
  11. ^ #谷光(2)p.379
  12. ^ #谷光(2)pp.380-381
  13. ^ #谷光(2)pp.381-382
  14. ^ #谷光(2)p.382
  15. ^ #谷光(2)p.383
  16. ^ #アストリア(1)
  17. ^ #アストリア(2)
  18. ^ #ターナー叙勲
  19. ^ a b c d #谷光(2)p.386
  20. ^ en:Theodore Stark Wilkinson
  21. ^ Gordon W. Prange, Donald M. Goldstein and Katherine V. Dillon, Pearl Harbor: The Verdict of History, McGraw-Hill, 1986, 292-295
  22. ^ #谷光(2)pp.386-387
  23. ^ a b c #谷光(2)p.387
  24. ^ #ポッターp.254
  25. ^ #ポッターp.256
  26. ^ #木俣軽巡p.254
  27. ^ #木俣軽巡p.256,258
  28. ^ #木俣軽巡p.263
  29. ^ #ポッターp.257
  30. ^ a b #ポッターp.265
  31. ^ a b c #ポッターp.357
  32. ^ #ニミッツ、ポッターpp.207-208
  33. ^ a b #ブュエルpp.269-270
  34. ^ #ブュエルp.270
  35. ^ a b #ブュエルpp.316-317
  36. ^ a b #ブュエルpp.330-331
  37. ^ a b c #ブュエルpp.500-501
  38. ^ #ブュエルp.553
  39. ^ a b c d e f #谷光(2)p.389
  40. ^ a b c #谷光(2)p.376
  41. ^ Bostwick” (英語). NAVAL HISTORICAL CENTER. 2012年4月11日閲覧。
  42. ^ en:Newton A. McCully
  43. ^ en:Mark Lambert Bristol
  44. ^ a b #谷光(2)p.379
  45. ^ a b #谷光(2)p.382
  46. ^ #ニューカムp.50
  47. ^ #ブュエルp.385
  48. ^ a b c d e f g #谷光(2)p.388
  49. ^ a b #谷光(2)p.381
  50. ^ #ポッターpp.557-558
  51. ^ #谷光(2)p.568
  52. ^ #谷光(2)p.372,389

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A10113310500『米国海軍大佐「リッチモンド、ケリー、ターナー」外一名叙勲ノ件』。 
    • Ref.C01001773600『故齋藤大使遺骨礼送艦「アストリア」号来朝ニ関スル件』。 
    • Ref.C04014732600『故齋藤大使葬儀並ニ「アストリア」号乗組員ニ対スル便宜供与ニ関シ謝意表明方ノ件』。 
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦朝雲新聞社、1972年。 
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年。 
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。 
  • E.B.ポッター『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』秋山信雄(訳)、光人社、1991年。ISBN 4-7698-0576-4 
  • 青木勉「特別掲載 検証「真珠湾奇襲」米調査委員会全報告」『』第45巻第1号、潮書房、1992年、67-76頁。 
  • C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、冨永謙吾(共訳)、恒文社、1992年。ISBN 4-7704-0757-2 
  • 谷光太郎『アーネスト・キング 太平洋戦争を指揮した米海軍戦略家』野中郁次郎(解説)、白桃書房、1993年。ISBN 4-561-51021-4 
  • リチャード.F.ニューカム『硫黄島 太平洋戦争死闘記』田中至(訳)、光人社NF文庫、1996年。ISBN 4-7698-2113-1 
  • 米国陸軍省(編)『沖縄 日米最後の戦闘』外間正四郎(訳)、光人社NF文庫、1997年。ISBN 4-7698-2152-2 
  • 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年。ISBN 978-4-05-400982-0 
  • トーマス.B.ブュエル『提督スプルーアンス』小城正(訳)、学習研究社、2000年。ISBN 4-05-401144-6 
  • この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。

外部リンク