ラッカ
座標: 北緯35度57分 東経39度01分 / 北緯35.950度 東経39.017度
| ラッカ الرقة Ar-Raqqah |
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| 現代のラッカ市街から見る日没 | |
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シリア国内の位置 |
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| 座標: 北緯35度57分0秒 東経39度1分0秒 / 北緯35.95000度 東経39.01667度 | |
| 国 | |
| 県 | アル・ラッカー県 |
| 郡 | アル・ラッカー郡 |
| 標高 | 250m (820ft) |
| 人口 (2008年) | |
| - 計 | 191,784人 |
| 等時帯 | EET (UTC+2) |
| - 夏時間 | +3 (UTC) |
| 市外局番 | 22 |
ラッカ(アル・ラッカー、Ar-Raqqah、Rakka、アラビア語: الرقة)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部の都市で、アレッポの160km東にあり、ユーフラテス川中流域の北岸に位置する。アル・ラッカー県の県都。
ジャズィーラ地方(Jazīra、メソポタミア北部、現在のイラク北西部とシリア北東部にまたがる地域)西部の主要都市で、モースル(モスル、Mosul)、デリゾール(Deir ez-Zor)、ハッサケ(ハサカ、Al Hasakah)、カーミシュリー(カミシリ、Qamishli)などと並びジャズィーラを代表する都市のひとつである。人口は190,000人から200,000人と推計されており、シリア第6位の都市。
ラッカはアレッポとデリゾールを結ぶ道路や鉄道が通り、ユーフラテス中流の農産物を集散する農業都市である。ラッカ西方にはユーフラテス川をせき止めたダム湖・アサド湖が広がる。ラッカのすぐ東で北からユーフラテスに合流する支流バリフ川(Balikh)があり二つの川沿いに農地が広がる。バリフ川を北へ遡るとトルコ領に入り、ハッラーンやウルファ(エデッサ)の平原に至る。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 古代のキリスト教都市
セレウコス朝の王セレウコス2世カリニコス(在位紀元前246年 - 紀元前225年)は、自らの名にちなみカリニクム(Callinicum)またはカリニコス(Kallinikos)という街を現在のラッカに建設した。ビザンティン帝国時代、皇帝レオ1世にちなんで短期間レオントゥポリス(Leontupolis)と改名されたが定着せず、カリニコスの名が使われ続けた。542年、サーサーン朝ペルシャのホスロー1世はメソポタミアに侵入してカリニコスを破壊したが、ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世が再建した。
6世紀、カリニコスはシリアの修道院制度の中心となり、市街の北の丘にある聖ザアカイ修道院(Deir Mār Zakkā / Saint Zacchaeus Monastery)が高名だった。跡地には509年に遡るモザイクの碑文があり、これがおそらく修道院の創設の時期とみられる。この修道院は10世紀頃までの様々な資料に名が見られる。もう一つ重要な修道院は「柱の修道院」(Dairā d-Esţunā / Bīzūnā monastery)であり、9世紀ごろ、アッバース朝の西半分の都がラッカであった時期にはシリア正教会のアンティオキア総主教座は「柱の修道院」にあった。
[編集] イスラムの進出とアッバース朝の宮殿
639年、キリスト教の都市だったカリニコスはアラブ人たちによるイスラム国家により陥落し、以後アラビア語の文書には現在の「アル・ラッカー」の名が登場するようになったが、シリア語文書では従来どおりカリニコスと表記された。640年、キリスト教徒が圧倒的多数を占めるラッカの街にジャズィーラ最初の会衆モスク(大モスク)が建てられ、信者が多く移り住むようになった。ラッカの戦略的重要性はウマイヤ朝末期・アッバース朝初期の戦乱期に高まった。ラッカはシリア地方とイラク地方を結ぶ十字路であり、南はタドムール(パルミラ)を通って大都市ダマスカスへ、北はハッラーンの街を通りカリフの臨時の在所であるアル=ルサファ(ar-Rusafa、別名エデッサ、今日のトルコ領シャンルウルファ)へ、東はイラクやペルシャへ、西はビザンティン帝国との国境の戦場へと道が走る場所だからである。
771年、アッバース朝の第2代カリフマンスールは市街の200m西に、自身の持つホラーサーン人部隊の分遣隊の兵営都市を築き、アル=ラフィカ(ar-Rāfiqah)と名づけた。その印象的な城壁は今も残り、アッバース朝の軍事力の強大さを物語る。
ラッカとラフィカは一つの大都市へと融合し、ウマイヤ朝の首都だったダマスカスよりも大きくなった。796年に第5代カリフハールーン・アッ=ラシードは、ラッカ/ラフィカに宮殿を構えた。行政機能はバグダードに残したものの、治世のほとんどの期間である13年間に渡りカリフの居城が置かれ、中央アジアから北アフリカに広がる帝国の帝都となり、ビザンティン帝国の侵攻に対する守りの拠点となった。ラッカは交通の便が良く、各地の軍隊への指令も容易で、後背地に豊かな農村を抱え大きな人口を支えることができたことが優れた点であった。
ラッカの宮殿は、双子都市ラッカ/ラフィカの北にある10平方kmの敷地を占めた。イスラム教法学の主要な学派・ハナフィー学派の創設者の一人シャイバーニーはラッカの裁判官であり、数学者・天文学者バッターニーはラッカで活躍した。ラッカの宮廷の輝きは、アブ・アル=ファラジュ・アル=イスファハーニーが編纂した『キターブ・アル・アガーニー』(Kitāb al-Aghāni、歌の書)のいくつかの詩に記録されている。現在では、宮殿跡地のはずれにある、東宮殿という名の修復された小さな建物が、アッバース朝建築の印象を伝えている。ラッカの西8kmには、未完成に終わったハールーン・アッ=ラシードの時代の勝利記念碑、ヘラクラ(Heraqla)が残っている。これは、小アジアにあるビザンティンの都市ヘラクレイア征服を記念したものとされるが、これを天体に起こった出来事とを結びつける異論もある。記念碑は直径500mの円形の城壁の中央にある四角い建物に守られているが、建物の上部はハールーン・アッ=ラシードがホラーサーンで急死したため未完成のままになった。アッバース朝の宮廷は809年バグダードに戻ったが、ラッカ/ラフィカはエジプトも含む帝国西半分の副都となった。
[編集] 戦乱とラッカの衰退
9世紀末、エジプトおよびシリアで分立したトゥールーン朝がジャズィーラに侵攻し、アッバース朝と交戦が続いた。続いてシーア派過激派勢力カルマト派がシリアで反乱を起こしたため戦乱が続きラッカの繁栄は終わりを告げた。940年代、ベドウィン系のハムダーン朝がアッバース朝の政権を奪うとラッカは急速に衰えた。10世紀末から12世紀始めにかけ、ラッカはウカイル朝ほかベドウィン系王朝が支配した。
[編集] 第二の全盛期とモンゴルによる破壊
12世紀半ばのザンギー支配下(ザンギー朝)から13世紀前半のアイユーブ朝初期にかけての時代、ラッカは農業と手工業の生産力をもとに第二の繁栄期を迎える。この時期、ラッカの名を世界に轟かせたのはラッカ・ウェア(Raqqa ware)と呼ばれる青い釉薬をかけた陶器であり、イスラム陶芸の中心地のひとつであった。ラッカに現存するバーブ・バグダード(バグダード門)とカスル・アル・バナート(Qasr al-Banāt、淑女の城)は、当時の大都市ラッカの繁栄振りを物語る。しかし1260年代、モンゴル帝国の侵入と徹底的な破壊でラッカの歴史は終わる。1288年の記録では、ラッカの街の廃墟にいた最後の生き残りの住民が殺されたとの報告がある。以後長い間ラッカは再建されなかった。
[編集] オスマン時代のラッカ再建と現在
16世紀に入り、オスマン帝国がユーフラテス川沿岸のラッカに税関を置いたことで、ラッカの名が再び歴史に登場する。ラッカを中心にした新たな州(eyalet)「ラッカ州」が創設されたが、実際の州都は200km北の現トルコ領ウルファに置かれた。17世紀のオスマンの旅行者・作家 Evliyâ Çelebi は、ラッカではアラブ人とトルクメン人の遊牧民が廃墟の近くで宿営をしているだけだと書いている。1683年、城塞が部分的に再建されイェニチェリ軍団の分遣隊が置かれた。続く10年でラッカは部族定住政策の中心となった。
ラッカが再び都市となったのは1864年であり、最初は軍の前哨として、次はロシア帝国の北カフカス征服から逃れてきたムスリムのチェチェン人難民やベドウィンの元遊牧民の定住地として、住民が定着し始めた。
第一次世界大戦後、この一帯がフランス委任統治領シリアとなると行政府の建物が作られた(現在のラッカ博物館)。1950年代、朝鮮戦争で世界的な綿花景気が発生するとラッカの農業は前例のない成長を見せ、ユーフラテス川中流域の再耕地化が進んだ。以来、綿花はラッカ地方の主農産物である。都市の成長は一方で、残っていた古代や中世の廃墟が掘り返されて失われてしまうことも意味した。アッバース朝の宮殿だった場所は現在ほとんど住宅地化し、古代・中世のラッカ市街地(現在のミシュラブ地区 Mishlab)やアッバース朝時代の工房地区(現在のアル=ムクタルタ地区 al-Mukhtalţa)も宅地化してしまい、発掘は部分的にしか行われていない。12世紀の城塞は1950年代に撤去され現在では時計塔のある広場(Dawwār as-Sā'a)になっている。1980年代に入り、宮殿地区の緊急発掘とアッバース朝時代の市壁やモスク、バグダード門、記念碑、カスル・アル・バナートなどの保存が始まっている。