ニザーム王国

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ニザーム藩王国の国旗

ニザーム王国ヒンディー語: हैदराबाद स्टेट英語: Hyderabad stateアラビア語: حیدر آباد‎ - Hajder abad[1])は、1724年から1948年までの間、インド亜大陸に存在した王国。「ニザーム」の称号を持つ、ムスリム(イスラム教徒)の王によって統治された。首都ハイデラーバード

目次

[編集] 名称

ムスリム5王国英語版のひとつであるゴールコンダ王国(クトゥブ・シャーヒー王国)の王ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーが、寵姫バーグマティー英語版の名にちなみ、1589年に「バーグナガル(バーグマティーの町)」(Bhaganagar)と命名した。しかし、1605年に寵姫バーグマティーがムスリムに改宗しハイダル・マハル(Hyder Mahal)に改名するとその名にちなみ、「ハイダラーバード(ハイダルの町)」(アラビア語: حیدر آباد‎ - Hajder abad)と改名した。

1766年以降はニザーム藩王国ハイデラーバード藩王国として扱われる(年代には諸説あり)。ハイダラーバード王国とも呼ばれる。

[編集] 歴史

ニザーム藩王国の版図(1909年

デカン高原に派遣されたムガル帝国総督ミール・カマルッディーンが自立して成立した国である。1766年にはインドに進出してきたイギリスといち早く友好条約を結び、その隷下に入った。この年をニザーム王国が藩王国となった年とする場合がある。ただし、最初の友好条約に外交権を返上する旨が直接書かれていたわけではなく、外交権の喪失は数次にわたる改定の結果によるものである。

1857年インド大反乱ではイギリス側につき、反乱の鎮圧を支援した。名目上イギリスの「同盟者」であり、またインド最大の藩王国でもあった。イギリスが定めた藩王国の序列の筆頭に位置づけられ、藩王を迎える際の礼砲の発数は、独立国家の元首に準じた「21発」と規定されていた。

近代化事業に熱心だった。領内には有望な石炭の鉱脈があり、綿花栽培も盛んだったため、産業開発の可能性は大いにあったと言える。しかし、一方でこのような事業は常にイギリス(インド政庁)の干渉を受けた。内政権はイギリスから保証されていたが、実際には藩王国に置かれたイギリス人の駐在官による内政干渉が日常化しており、自国の資本で鉄道を建設する際にも強い干渉を受けた。この結果、建設費の高価な広軌を採用することを余儀なくされ、また完成後の鉄道運営をインド政庁に握られることになり、莫大な負債を負うことになった。

インド軍に降伏を申し入れたハイデラバード軍の司令官(右)

インド・パキスタン分離独立の際には当初、ムスリムである藩王はパキスタンへの帰属を望んだが、西パキスタンからも東パキスタンからも遠い位置にあったこともあり、単独で独立を宣言した。一方で住民の大多数はヒンドゥー教徒で、彼らは独立よりもインドへの帰属を望むという状況が発生した。インド亜大陸の中心部に独立した政権が出来るのをインド政府が嫌ったことから、1948年9月13日ポロ作戦英語版でインドに併合された。

[編集] ニザーム王国の歴代君主

  1. ミール・カマルッディーン(在位1724年 - 1748年)
  2. ナーシル・ジャング(在位1748年 - 1750年)
  3. ムザッファル・ジャング(在位1750年 - 1751年)
  4. サラバット・ジャング(在位1751年 - 1762年)
  5. ミール・ニザーム・アリー・ハーン(在位1762年 - 1803年)
  6. シカンダル・ジャー(在位1803年 - 1829年)
  7. ナーシル・ウッダウラ(在位1829年 - 1857年)
  8. アフザル・ウッダウラ(在位1857年 - 1869年)
  9. ミール・マフブーブ・アリー・ハーン(在位1869年 - 1911年)
  10. ミール・オスマーン・アリー・ハーン(在位1911年 - 1948年)

[編集] 脚注

  1. ^ "hajder" は 英語: lion または 英語: braveの意。。"abad" は 英語: city の意。

[編集] 関連項目

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