トーニャ・ハーディング

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Pix.gif トーニャ・ハーディング
Tonya HARDING
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Tonya Harding with fan.jpg
トーニャ・ハーディング(右)
基本情報
代表国: アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日: 1970年11月12日(44歳)
出生地: オレゴン州ポートランド
身長: 155 cm
元コーチ: Diane Rawlinson
引退: 1994年

トーニャ・マキシン・ハーディングTonya Maxine Harding, 1970年11月12日 - )は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド出身のフィギュアスケート選手で、現在はプロボクサー。1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック女子シングルアメリカ代表。1991年世界フィギュアスケート選手権2位。1991年に女子選手として史上2人目のトリプルアクセルを成功させた。リレハンメル五輪直前の「ナンシー・ケリガン襲撃事件」と、及びリレハンメル五輪開催中の「靴紐事件」が話題となった。

経歴[編集]

1970年11月12日、オレゴン州ポートランドで生まれる。幼くしてスケートを始め、12歳のときにはトリプルルッツをマスターした。

当初、コンパルソリーが苦手でなかなか思うような成績を残せなかったが、1989年-1990年シーズンを最後にコンパルソリーが廃止され、以降は高いジャンプを生かして頭角を現す。

女子選手で史上二人目のトリプルアクセル成功[編集]

1991年の全米選手権でトリプルアクセルを成功させ初優勝を果たし、世界選手権への切符を手に入れる。当時女子選手でトリプルアクセルの成功者は、伊藤みどりに次ぎ史上2人目の快挙だった。初出場となった1991年世界選手権では、クリスティー・ヤマグチに次ぐ2位となり、3位にはナンシー・ケリガンが入りアメリカ女子が表彰台を独占した。

1991年-1992年シーズンのスケートアメリカでは、ショートプログラムフリースケーティングでトリプルアクセルを成功させ優勝を果たす。1992年の全米選手権は、かかとの怪我もあったが3位となりアルベールビルオリンピックの切符を手に入れた。

しかし1992年のアルベールビルオリンピックでは、前年まで成功していたトリプルアクセルが、オリジナルプログラム・フリー演技共に着氷に失敗。結局ミスが響いて総合4位入賞に留まり、五輪のメダル獲得はならなかった。

1992年-1993年シーズンは不調に陥る。全米選手権では4位となり世界選手権の切符を手に入れることもできなかった。

ナンシー・ケリガン襲撃事件[編集]

1994年1月6日リレハンメルオリンピックの選考会となる全米選手権の会場で、練習を終えたナンシー・ケリガンが何者かに襲われる事件が発生した。俗にいう「ナンシー・ケリガン襲撃事件」である。ケリガンはを殴打され怪我を負い全米選手権を欠場、ハーディングはこの大会で優勝を果たした。

事件発生から2週間後、1990年にハーディングと結婚し1991年に離婚した元夫であるジェフ・ギルーリーらが逮捕される。ハーディングにも疑惑の目が向けられ始めた2月1日、元夫がハーディングに不利な証拠と共に司法取引を受け入れた。全米スケート協会とアメリカオリンピック委員会はハーディングをオリンピックチームから追放しようとしたが、彼女は法的措置をほのめかしてそのまま留まった。(一時、アメリカ代表は全米選手権2位のミシェル・クワンに決まりかけていた。)

リレハンメル五輪開催中の靴紐事件[編集]

リレハンメルオリンピック本番でのハーディングは、テクニカルプログラムでのコンビネーションジャンプで、トリプルルッツが両足着氷となるミスを犯し、10位と出遅れた。その2日後のフリー演技では、ハーディングが自身の出番になってもなかなかリンクに現れず、失格寸前の1分50秒過ぎにようやく登場(名前を呼ばれてから2分以内にリンクへ現れないと失格となる)。

しかしハーディングは、フリー演技が始まってから最初のトリプルルッツが1回転となる失敗の直後、まだ1分も経たない内に突然泣き出して演技を中断してしまう。ジャッジ陣営に対してリンクの台にスケート靴を載せながら、「靴紐が切れて演技が出来ない」ことを理由に抗議した(しかし映像では明らかにヒモが切れたり緩んだりのトラブルは見受けられなかった)。ジャッジはハーディングのフリー演技のやり直しを認める事となると、ハーディングは突如笑顔に変わりガッツポーズしながらリンクを一旦後にする。次の出番であるカナダの選手ジョゼ・シュイナールは、予定外の事態にすぐリンクに登場して、演技を開始する羽目となった(シュイナールは9位に終わる)。これがいわゆるハーディングの「靴紐事件」である。

ハーディングはそのグループの最後で再びリンクに登場し、演技を再度行った。当初ミスしたトリプルルッツが成功し、ほか5種類の3回転も決めて笑みを見せたが、トリプルアクセルに挑戦するもシングルアクセル(1回転半)のジャンプに終わり、結局8位入賞に留まった(一方のケリガンはその後怪我が回復、総合で2位入賞・銀メダルを獲得した)。

リレハンメルオリンピック後[編集]

リレハンメルオリンピックが終わった後の1994年3月16日、ハーディングは罪を認めることで、懲役刑を免れ3年間の執行猶予、500時間の奉仕活動、罰金16万ドルを受け入れた。その後、全米スケート協会は、1994年全米選手権での優勝と1999年までの公式大会出場権やコーチになるための権利を剥奪した。プロのイベントには制限がされなかったが、彼女を起用しようとするプロモーターは現れなかった。

その後、アメリカのニュースで練習中に3アクセルに挑戦する姿が放送されるも、大きな反響を呼ぶに至らなかった。また日本でも1994年全日本女子プロレスがプロレスラーとして獲得を宣言したり、バラエティ番組出演やテレビ朝日『ニュースステーション』でインタビューを受けたりするも「話題の人」の扱いにとどまっていた。元夫にプライベート・ビデオを暴露されたり、同棲している恋人に暴行を働き逮捕されたりと話題を振りまいた。

長野オリンピック開催直前の1998年、アメリカのテレビ番組で久々にケリガンと対面して直接謝罪、マスコミはこぞって「和解成立」と報じられた。1999年、プロスケート選手権に招待され2位の成績を残しプロスケーターとして再出発するかに思えたが、翌2000年にボーイフレンドへの暴行容疑で逮捕され、完全にプロスケーターとしての道が閉ざされた。2003年から、プロボクシングにも挑戦し、2008年には「Rumble in the Cage」という大会で総合格闘家としてもデビューした。

技術[編集]

1990-91年シーズンは全米選手権と世界選手権、1991-92年シーズンにはスケートアメリカのショートプログラムおよびフリースケーティングの双方でトリプルアクセルを成功させている。成功はこの4回だけであるが、公式大会におけるショートプログラムでのトリプルアクセル、トリプルアクセルからのジャンプコンビネーション、1競技会のショート・フリー両方での成功はいずれも世界初だった。また、トリプルアクセル成功により1991年に行われた全米選手権女子史上初の技術点6.0をマークした(ただし全米選手権は国内大会のためトリプルアクセル自体はISU非公認)。

主な戦績[編集]

大会/年 1985-86 1986-87 1987-88 1988-89 1989-90 1990-91 1991-92 1992-93 1993-94
オリンピック 4 8
世界選手権 2 6
全米選手権 6 5 5 3 7 1 3 4 1
スケートアメリカ 2 1 1 3
スケートカナダ 2
ボフロスト杯 1
NHK杯 3 2 4

^† 1993-94の全米選手権優勝はのちにタイトル剥奪。

外部リンク[編集]