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|略名 = チャンパ |
|略名 = チャンパ |
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|日本語国名 = チャンパ |
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|次代1 = 阮朝 |
|次代1 = 阮朝 |
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|次旗1 =Flag of Central Vietnam (1885-1890).svg |
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|位置画像 = Czampa Mapa.png |
|位置画像 = Czampa Mapa.png |
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|位置画像説明 = チャンパ |
|位置画像幅 = 150px |
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|位置画像説明 = チャンパの領域(緑) |
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|首都 = {{仮リンク|カンダプルプラ|vi|Kandapurpura}}<br/>{{仮リンク|シンハプラ|vi|Simhapura}}(-758)<br/>{{仮リンク|ヴィラプラ|zh|毘罗补罗}}(758-859)<br/>{{仮リンク|インドラプラ (チャンパ)|label=インドラプラ|en|Indrapura (Champa)}}(859-978)<br/>{{仮リンク|ヴィジャヤ (チャンパ)|label=ヴィジャヤ|en|Vijaya (Champa)}}(978-1485)<br/>バル・カウ(1485-1579)<br/>{{仮リンク|ファンリクア|label=バル・カナール| |
|首都 = {{仮リンク|カンダプルプラ|vi|Kandapurpura}}(4世紀前半-4世紀末)<br/>{{仮リンク|シンハプラ|vi|Simhapura}}(4世紀末-758)<br/>{{仮リンク|ヴィラプラ|zh|毘罗补罗}}(758-859)<br/>{{仮リンク|インドラプラ (チャンパ)|label=インドラプラ|en|Indrapura (Champa)}}(859-978)<br/>{{仮リンク|ヴィジャヤ (チャンパ)|label=ヴィジャヤ|en|Vijaya (Champa)}}(978-1485)<br/>バル・カウ(1485-1579)<br/>{{仮リンク|ファンリクア|label=バル・カナール|en|Phan Rí Cửa}}(1579-1832) |
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|元首等肩書 = [[チャンパ王の一覧|国王]] |
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|元首等年代終1 = 268年以前 |
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|変遷1 = 後漢からの独立 |
|変遷1 = 後漢からの独立 |
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|変遷3 = 順城鎮の設置 |
|変遷3 = 順城鎮の設置 |
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|変遷年月日3 = [[1693年]] |
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|変遷4 = 越南に完全に併合 |
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|変遷年月日4 = [[1832年]] |
|変遷年月日4 = [[1832年]] |
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|注記 = |
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'''チャンパ |
'''チャンパ'''({{翻字併記|sa|चम्पा|Champa}}, [[チャム語]]: {{Lang|la|Campa}})<ref group="注">一般的には「チャンパ」であるが、専門家の間では「チャンパー」としている。『東南アジアを知る事典』278頁</ref>は、現在の[[アンナン|ベトナム中部]]沿海地方([[北中部 (ベトナム)|北中部]]及び[[南中部 (ベトナム)|南中部]]を合わせた地域)に存在した[[オーストロネシア語族]]を中心<ref name="Historist042854">{{Cite web|work=[[山川出版社]]|url=http://www.historist.jp/word_w_chi/entry/042854/|title=チャンパー|世界史 -ち-|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)|date=2016/03/06|accessdate=2019-11-18}}</ref>とする国家。[[中国の歴史|中国]]では[[唐]]代半ばまで'''林邑'''と呼び、その後'''環王'''と称したが、唐末以降は'''占城'''と呼んだ<ref name="kotobank326479">{{Kotobank2|占城・占婆-326479|占城・占婆}}</ref>。主要住民の「古チャム人」は現在のベトナム中部南端に住む[[チャム族]]の直接の祖先とされる<ref name="Makita9">{{Harvnb|牧田|1995|p=9}}</ref>。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 前史 === |
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[[考古学]]の知見によれば、[[紀元前1000年]]から紀元[[200年]]にかけて、ベトナム中部沿海・中部南端では[[鉄器]]が中心の{{仮リンク|サフィン文化|en|Sa Huỳnh culture}}が広がっていた<ref name=" |
[[考古学]]の知見によれば、[[紀元前1000年]]から紀元[[200年]]にかけて<ref name="natgeo9366">{{Cite web|author=Adam Bray|work=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9366/|title=南シナ海、領有権争いと越の国内事情|ナショナルジオグラフィック日本版サイト|date=2014/06/18|accessdate=2019-11-18}}</ref>、現在のベトナム中部沿海・中部南端では[[鉄器]]が中心の{{仮リンク|サフィン文化|en|Sa Huỳnh culture}}が広がっていた<ref name="Momoki74">{{Harvnb|桃木|1996|p=74}}</ref>。サフィン文化の遺跡から発見される遺物には[[台湾]]、[[フィリピン]]や[[マレー半島]]<ref name="natgeo9366"/>、[[タイ王国|タイ]]西部と共通するものが多く、オーストロネシア系海洋民族である古チャム人の遺構ではないかとされる。このサフィン文化を基にして<ref name="Historist042854"/>チャンパが成立したと考えられている<ref name="Momoki74"/>。チャンパの歴史は漢文史料・チャム碑文・チャム写本に記録されている。チャム碑文には古[[チャム語]]を[[ブラーフミー系文字|インド系]]の[[チャム文字]]で記されたものと[[デーヴァナーガリー]]で書かれたものがある。チャム語は[[マレー・ポリネシア語派]]の一つ<ref name="natgeo9366"/>で、現在の[[アチェ語]]に近い言語である。 |
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=== 林邑 |
=== 林邑とヒンドゥー文明 === |
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漢文史料によれば、西暦[[192年]]、[[後漢|漢]]の最南端にあった[[日南郡]]象林県(現 |
漢文史料によれば<ref name="kotobank96963">{{Kotobank2|チャンパ-96963|チャンパ}}</ref>、西暦[[192年]]、[[後漢|漢]]の最南端にあった[[交州]][[日南郡]]{{仮リンク|象林県|zh|象林县}}(現在の[[トゥアティエン=フエ省]]付近)で{{仮リンク|功曹|zh|功曹}}という官吏の子であった[[区連]]という者が叛乱を起こし、[[林邑]]を建てた<ref name="Nagatsumi42">{{Harvnb|永積|1977|p=42}}</ref>。象林県を占拠した林邑は、当初は[[中国文明]]の影響を受けていた<ref name="Momoki74"/>が、現在の[[コーチシナ|ベトナム南部]]から[[カンボジア]]にかけて存在した交易国家[[扶南国|扶南]]の影響を[[3世紀]]末までに受け<ref name="kotobank96963"/>、[[ヒンドゥー文明]]を受容した<ref name="Momoki74"/>。中華王朝は唐代までおおむね現在の[[トンキン|ベトナム北部]]を領有しており、チャンパは[[南北朝時代 (中国)|中国南朝]]に[[朝貢]]を繰り返し<ref name="yomiuri00017002">{{Cite news|url=http://spe.yomiuri.co.jp/servlet/view?PAGE_ID=00017002&NEWS_ID=PcvAeGj0fvo&GROUP_ID=00004131|title=<連載>ベトナム行~名香を訪ねて(下)(10/26)|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011年10月26日|accessdate=2018年12月5日}}</ref>ながらもしばしばこれを劫掠し、また[[宋 (南朝)|南朝宋]]と[[隋]]からの侵攻を受けた。『[[続日本紀]]』に見える[[8世紀]]の遣唐判官・[[平群広成]]が漂着した「[[崑崙]]国」は、林邑(チャンパ)であると考証されている。また、平群広成と同時期に唐経由で日本に渡来した林邑僧[[仏哲]]が伝えた舞踊は「[[林邑楽]]」として今日まで[[雅楽]]の中に伝承されている<ref name="yomiuri00017002"/>。 |
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=== 占城 |
=== 占城の勃興 === |
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扶南 |
扶南の後に勃興した[[真臘|チェンラ]]が分裂していた[[8世紀]]半ば、林邑でも政変があり、中部南方の{{仮リンク|カウターラ|zh|古笪羅}}に{{仮リンク|環王|zh|環王}}が出現した。「[[占城]]」という漢語に見られる国号はチャンパーナガラ({{翻字併記|sa|चंपानगर|Champanagar}})の音訳(占婆城)と省略<ref name="kotobank96963"/>である。ミーソン聖域に現存する碑文によれば、[[インドラヴァルマン|インドラヴァルマン2世]]に始まる占城・[[クメール王朝|クメール]]の両王家は共に『[[マハーバーラタ]]』に描かれた{{仮リンク|クルクシェートラの戦い|en|Kurukshetra War}}で敗死した[[カウラヴァ]]の将{{仮リンク|アヌヴィンダ|hi|अनुविन्द}}([[ドゥルヨーダナ]]の弟)の子孫とされる。 |
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チャンパは{{仮リンク|キンコウボク|en|Magnolia champaca}}の意であり、カンボジアと同様にかつて[[北インド]]にあった[[チャンパー|都市]]の名前である。ヴィジャヤ時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の漢文史料でも占城の都は「{{Lang|ko|佔}}」であると記されている。なお、 |
「チャンパ」は{{仮リンク|キンコウボク|en|Magnolia champaca}}の意であり、カンボジア([[カンボージャ]])と同様にかつて[[北インド]]にあった[[チャンパー|都市]]の名前である。ヴィジャヤ時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の漢文史料でも占城の都は「{{Lang|ko|佔}}」であると記されている。なお、チャム写本では国号は「ヌガルチャム」である。 |
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=== 大越との抗争 === |
=== 大越との抗争 === |
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⚫ | [[10世紀]]に[[キン族|ベト族]]がベトナム北部の[[紅河デルタ]]を中心に[[大越]]を建てると、チャンパ王[[シュリーヴィジャヤ|ヴィジャヤ]]は都を南中部北端の{{仮リンク|アマラーヴァティー (チャンパ)|label=アマラーヴァティー|zh|阿摩羅波胝 (占婆)}}にあった{{仮リンク|インドラプラ (チャンパ)|label=インドラプラ|en|Indrapura (Champa)}}(現在の[[クアンナム省]][[タンビン県]]{{仮リンク|ビントゥー|nl|Bình Tú}})から南中部南端の{{仮リンク|ヴィジャヤ (チャンパ)|label=ヴィジャヤ|en|Vijaya (Champa)}}(現在の[[ビンディン省]][[アンニョン]]市社{{仮リンク|ニョンハウ|vi|Nhơn Hậu}})に移した<ref name="Shigeeda219">{{Harvnb|重枝|1996|p=219}}</ref>。現存するチャム写本『{{仮リンク|チャム王家年代記|zh|占婆王府檔案}}』のアンナン版はこの遷都の年(西暦[[1000年]])を建国の年とする<ref name="Arae1-2">{{Harvnb|新江|2008|pp=1-2}}</ref>。[[11世紀]]以降、チャンパは北の大越および西のクメールとしばしば戦争を行った<ref name="kotobank96963"/>。{{仮リンク|ジャヤ・インドラヴァルマン3世|zh|闍耶因陀羅跋摩三世}}と{{仮リンク|ジャヤ・インドラヴァルマン4世|en|Jaya Indravarman IV}}の代にヴィジャヤをクメールに占領されたこともあり、[[アンコール遺跡]]にはチャンパ兵の有名な[[レリーフ|浮彫]]が残されている<ref name="natgeo9366"/>。 |
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⚫ | [[10世紀]]にベトナム北部の[[紅河デルタ]]を中心に |
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[[13世紀]]後半、チャンパは[[元 (王朝)|元]]の侵攻<ref name="Maeda82">{{Harvnb|前田|1963|p=82}}</ref>({{仮リンク|モンゴルのベトナム侵攻|en|Mongol invasions of Vietnam}}、元越戦争とも)を[[陳朝]]大越と共に受けた。この頃には[[マルコ・ポーロ]]ら南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパが登場する。元軍撃退の過程で大越の[[陳興道|陳国峻]]らと連携したチャンパ王[[ジャヤ・シンハヴァルマン3世]]は、和平後に上皇[[陳仁宗|仁宗]]の皇女(皇帝[[陳英宗|英宗]]の妹){{仮リンク|玄珍公主|zh|玄珍公主}}を娶り<ref name="momoki186">{{Harvnb|桃木|2001|p=186}}</ref>、大越との蜜月を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、[[1306年]]に代償としてジャヤ・シンハヴァルマン3世が北端であった{{仮リンク|順化承宣|label=ウリク|en|Thuan Hoa}}(現在の[[クアンビン省]]、[[クアンチ省]]、トゥアティエン=フエ省)を大越に割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。大越に割譲されて以後、ウリクは{{仮リンク|里州|vi|Châu Lý}}と漢字表記され、更に{{仮リンク|順化府|label=順化州|zh|順化府}}({{仮リンク|順州 (交阯)|label=順州|zh|順州 (交阯)}}・{{仮リンク|化州 (交阯)|label=化州|zh|化州 (交阯)}}(フエチャウ、ホアチャウ))と改称、分割された<ref name="momoki186"/>。現在のベトナム語地名の[[フエ]]は化州に由来する。 |
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ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越との抗争が再燃し、王[[阿答阿者|ビナスオール]]は大越の都[[ |
ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越との抗争が再燃した、チャンパ王[[阿答阿者|ビナスオール]]は大越の都[[タンロン遺跡|昇龍]]を3度にわたり劫掠し、皇帝[[陳睿宗|睿宗]]を敗死させた<ref name="momoki175">{{Harvnb|桃木|2001|p=175}}</ref>。[[1390年]]に大越相手にビナスオールが戦死すると[[羅皚|ジャヤ・シンハヴァルマン6世]]が王位を襲った。[[1400年]]、ジャヤ・シンハヴァルマン6世が死去すると[[インドラ・ヴァルマン6世]]が王位についた。 |
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[[1402年]]、[[胡朝]]大虞の[[胡漢蒼]]に都ヴィジャヤを占領されたが、インドラ・ヴァルマン6世が[[明]]に救援を求めたため、{{仮リンク|大虞=チャンパ戦争 (1400-1407)|label=両国の抗争|zh|越占戰爭 (1400年–1407年)}}は明の[[永楽帝]]の干渉戦争({{仮リンク|明胡戦争|en|Ming–Hồ War}}、明・大虞戦争)を招くところとなり、[[1407年]]に大虞は滅亡。[[1408年]]にインドラ・ヴァルマン6世は明の[[鄭和]]艦隊の訪問を歓待している。 |
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⚫ | [[黎朝|後黎朝]]大越の[[黎利]]による明軍撃退後、チャンパは再興された。[[1471年]]、ヴィジャヤは大越の皇帝[[黎聖宗|聖宗]]の親征によって陥落した<ref name="Momoki74"/>({{仮リンク|チャンパ=大越戦争 (1471年)|en|Cham–Annamese War (1471)}})、この時、チャンパ王[[槃羅茶全|マハー・サジャン]]が、子のシャー・パウ・リン(後の{{仮リンク|アリ・ムハヤット・シャー|en|Ali Mughayat Syah}})をアチェの統治へと送り出したのが[[アチェ王国]]の始まりであるという。チャンパの地であったアマラーヴァティーとヴィジャヤは大越に併合され、順化州はその中部行政の中心となったが、中部南端の{{仮リンク|パーンドゥランガ|zh|賓童龍}}は残った<ref name="kotobank96963"/>。 |
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⚫ | [[黎朝]]大越の[[黎利]]による明軍撃退後、チャンパは再興された。 |
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⚫ | [[莫朝]]大越の{{仮リンク|楊文安|zh|楊文安}}が著した『{{仮リンク|烏州近録|zh|烏州近錄}}』([[1553年]]<ref name="Arae1-2"/>、現存のものは[[18世紀]] - [[19世紀]]に大幅に加筆)によれば、順化州には、元々ここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(里州土着民の意)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明の侵攻<ref name="Arae1-2"/>に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家である{{仮リンク|制 (姓)|label=チェー(制)家|zh|制姓}}<ref name="Arae1-2"/>は現在もフエの東に住む。 |
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順化州に成立した阮氏政権を、大越の漢文史料は「南河国」、明・[[清]]は「[[広南国]]」、チャム族は「ウリク国」、史家は「広南阮氏」と呼ぶ。広南阮氏は[[1774年]]の滅亡まで形式上は大越の臣下であり、広南国は正式には大越の南半分である(北半分の北河国は鄭氏が支配)。 |
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『チャム王家年代記』は{{仮リンク|パーンドゥランガ=チャンパ|label=パーンドゥランガ|zh|賓童龍占婆}}の系譜だけを記している。パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王([[ビンロウ|檳榔]]族)を戴いていた。また、その国号は[[ハス|白蓮]]を意味すると同時に占城・クメールの祖であるカウラヴァと敵対した[[パーンダヴァ]]を意味し、クメール・占城・大越・広南からの侵攻をよく防いで、自治を貫徹した。 |
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[[1611年]]以後、パーンドゥランガは[[南進]]した広南阮氏によって領土を急速に侵食され、[[1692年]]にチャム王{{仮リンク|ポー・サオト|en|Po Saut}}が阮氏の支配に反発して兵を挙げると、翌[[1693年]]に{{仮リンク|阮福チョウ|label=阮福{{Lang|ko|淍}}|zh|阮福淍}}(明王)の将{{仮リンク|阮有鏡|zh|阮有鏡}}がパーンドゥランガを征服して{{仮リンク|順城鎮|zh|順城鎮}}と改称した。順城鎮は広南に併合されて<ref name="Momoki74"/>いったん自治を失ったが、間もなくチャム貴族の[[オクニャ・ダット]](屋牙撻)が清人である呉朗の加勢を得て広南軍を各地で撃破し、包囲した。阮福{{Lang|ko|淍}}は{{仮リンク|カンボジアの暗黒時代|label=カンボジア|en|Dark ages of Cambodia}}に駐留していた広南軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに講和を図り、[[1694年]]末にポー・サオトの弟である{{仮リンク|ポー・シャクティライ・ダ・パティー|en|Po Saktiraydapatih}}による再興を認めた。[[1712年]]にポー・シャクティライ・ダ・パティーは阮福{{Lang|ko|淍}}との間に議定五条を結び、パンラン道(現在の[[ニントゥアン省]][[ファンラン=タップチャム]])、クロン道(現在の[[ビントゥアン省]][[トゥイフォン県]]{{仮リンク|リエンフオン|vi|Liên Hương}}市鎮)、{{仮リンク|ファンリ|label=パリク|vi|Phan Rí}}道(現在のビントゥアン省トゥイフォン県{{仮リンク|ファンリクア|en|Phan Rí Cửa}}市鎮)、パジャイ道(現在のビントゥアン省[[ファンティエット]]{{仮リンク|フーハイ|vi|Phú Hài}})の四つの道におけるチャム王(順城鎮[[藩王]]、後に{{仮リンク|掌奇|vi|Chưởng cơ}})の広範な自治権を認められた。 |
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=== 順城鎮の自治とその終焉 === |
=== 順城鎮の自治とその終焉 === |
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広南阮氏は[[1760年代]]に政治が乱れ、[[1773年]]に[[タイソン県|西山県]]で西山阮氏([[西山朝]]) |
広南阮氏は[[1760年代]]に政治が乱れ、[[1773年]]に[[タイソン県|西山県]]で西山阮氏が蜂起した([[西山朝]])。[[1774年]]、広南阮氏は南下してきた鄭氏と北上してきた西山朝の軍に挟撃されて本拠の{{仮リンク|富春|en|Phú Xuân}}(現在のフエ)を落とされ、一旦滅亡した。[[1777年]]以後、生き残りの王族である阮福暎(後の[[嘉隆帝]])が広南阮氏再興のための兵を募り、[[1802年]]まで阮福暎と西山朝の間で凄惨な戦いが続いた。[[1794年]]以後、チャム王{{仮リンク|ポー・ラドゥワン・ダ・パグー|en|Po Ladhuanpuguh}}(阮文豪)ら順城鎮のチャム貴族は阮福暎に味方し、西山朝相手に活躍した。 |
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[[阮朝]]越南初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、チャム王(順城鎮 |
[[阮朝]]越南初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、チャム王{{仮リンク|ポー・ソン・ニュン・チェン|en|Po Saong Nyung Ceng}}(順城鎮[[鎮守]]阮文振)は[[中部高原]]南方の山地民族をことごとく支配下に置いた。しかし[[1832年]]、[[中央集権]]化を進める[[明命帝]]の方針により順城鎮は遂に[[改土帰流|廃絶された]]<ref name="Arae1-2"/>。自治回復を求めるチャム貴族と山地民族<ref name="Arae1-2"/>は蜂起({{仮リンク|羅奔王の乱|zh|柴嵮羅奔王之亂}})を起こしたが[[1835年]]までに鎮圧され、最後のチャム王であった{{仮リンク|ポー・フォク・ター|en|Po Phaok The}}(阮文承)は{{仮リンク|黎文カイ|label=黎文{{Lang|ko|𠐤}}|zh|黎文𠐤}}の乱(南部大反乱)に連座した廉により極刑([[凌遅刑]])に処された<ref name="Arae1-2"/>。 |
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== 交易 == |
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古チャム人は優れた航海技術を持ち、チャンパは交易国家としても繁栄した。中国に渡航するイスラム商船にとってチャンパは重要な寄港地であり、現在の[[ホイアン]]も港湾として発達した。チャンパ産の[[沈香]]は重要な交易品目であった<ref name="yomiuri00017002"/>。日本の[[正倉院]]に所蔵されている香木[[蘭奢待]]は、[[9世紀]]頃にチャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけて交易国家として繁栄した[[琉球王国]]はチャンパと通好関係があった<ref>『[[歴代宝案]]』</ref>。 |
古チャム人は優れた航海技術を持ち、チャンパは交易国家としても繁栄した<ref name="Makita9"/>。中国に渡航するイスラム商船にとってチャンパは重要な寄港地であり、現在の[[ホイアン]]も拠点港湾として発達した<ref name="yomiuri00017002"/>。チャンパ産の[[沈香]]は重要な交易品目であった<ref name="yomiuri00017002"/>。日本の[[正倉院]]に所蔵されている香木「[[蘭奢待|黄熟香]]」<ref name="yomiuri00017002"/>は、[[9世紀]]頃にチャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけて交易国家として繁栄した[[琉球王国]]はチャンパと通好関係があった<ref>『[[歴代宝案]]』</ref>。 |
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[[17世紀]]前半に |
[[17世紀]]前半に盛んに航行された日本の[[朱印船]]はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産そのものが目的というよりも、明は日本船の来航を[[海禁|禁止していた]]ため明の商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。[[1606年]]に[[徳川家康]]がチャム王宛てに伽羅を求めた<ref name="yomiuri00017002"/>印判状も残っている<ref name="Kawashima48">{{Harvnb|川島|2010|p=48}}</ref>。 |
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== 遺跡 == |
== 遺跡 == |
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[[ファイル:Les Temples Cham de My Son 2.jpg|thumb|350px|ミーソン聖域のカラン]] |
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[[ファイル:Tháp Dương Long.JPG|thumb|290px|12世紀に建造された{{仮リンク|ドゥオンロン塔|vi|Tháp Dương Long}}(ビンディン省[[タイソン県]]{{仮リンク|タイビン (タイソン県)|label=タイビン|vi|Tây Bình}})]] |
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ヒンドゥー文明を受容したチャンパでは煉瓦造りの[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]寺院や[[上座部仏教|仏教]]寺院が建立された。[[世界遺産]]になった[[フォンニャ=ケバン国立公園|フォンニャ洞]]、[[ミーソン聖域]]を始め、{{仮リンク|チャキエウ|label=チャキエウ城|en|Trà Kiệu}}(茶{{Lang|ko|嶠}}故城)、{{仮リンク|ドンドゥオン塔|vi|Tháp Đồng Dương}}(桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端や |
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== 研究 == |
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⚫ | クアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡・シュリーシャーナバドレーシュヴァラは、[[20世紀]]初め以来[[フランス極東学院]] (EFEO) の{{仮リンク|アンリ・パルマンティエ|label=パルマンティエ|en|Henri Parmentier}}や{{仮リンク|ジャン=イヴ・クレイ|label=クレイ|fr|Jean-Yves Claeys}}、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) の{{仮リンク|カジミェシュ・クフャトコフスキ|label=クフャトコフスキ|pl|Kazimierz Kwiatkowski}}らにより修復・保存・補強工事が続けられ、[[1999年]]、「ミーソン聖域」として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[文化遺産]]に登録された。[[2005年]]には日本の[[国際協力機構]]の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。{{仮リンク|チャンパの歴史|en|History of Champa}}研究は[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]]時代に[[フランス人]]学者によって先鞭がつけられ<ref name="kotobank96963"/>、{{仮リンク|エティエンヌ・エーモニエ|label=エーモニエ|en|Étienne Aymonier}}、{{仮リンク|アントワーヌ・カバトン|label=カバトン|en|Antoine Cabaton}}、{{仮リンク|モーリス・デュラン (言語学者)|label=デュラン|en|Maurice Durand (linguist)}}、{{仮リンク|ポール・ミュス|label=ミュス|en|Paul Mus}}、[[パリ外国宣教会]]のミナンカバウ教区神父であった{{仮リンク|ジェラール・ムセー|label=ムセー|en|Gérard Moussay}}らによる写本研究、{{仮リンク|ルイ・フィノー (考古学者)|label=フィノー|en|Louis Finot (archaeologist)}}、{{仮リンク|ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール|label=マジュムダール|en|R. C. Majumdar}}、クロード・ジャック、[[石澤良昭]]による碑文研究、{{仮リンク|ジョルジュ・マスペロ|en|Georges Maspero}}、{{仮リンク|レオナール・オールソー|label=オールソー|fr|Léonard Aurousseau}}、{{仮リンク|馮承鈞|zh|冯承钧}}、[[杉本直治郎]]、[[山本達郎]]による漢文史料研究がそれぞれなされた。現在は、フランス極東学院の在仏チャム人{{仮リンク|ポー・ダルマ|en|Po Dharma}}<ref name="Momoki74"/>を中心に、ベトナム国内のチャム人であるタイン・ファン([[ベトナム国家大学ホーチミン市校|ホーチミン市大学]]人類学講師)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員)らによりチャム写本の保存・共有事業が進められている。 |
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『[[明史]]』『{{仮リンク|星槎勝覧|zh|星槎胜览}}』『[[瀛涯勝覧]]』『[[東西洋考]]』『西洋朝貢典録』『赤雅』には占城の怪異として「目に瞳がない女子で、夜に頭を飛ばして赤子の糞を食らう」という、[[飛頭蛮]]によく似た「屍頭蛮」に関する記述がある。『{{仮リンク|異域志|label={{Lang|ko|臝}}蟲集|zh|异域志}}』にも「占城には頭を飛ばす者がおり、婦人に多い」という記述がある。 |
『[[明史]]』『{{仮リンク|星槎勝覧|zh|星槎胜览}}』『[[瀛涯勝覧]]』『[[東西洋考]]』『西洋朝貢典録』『赤雅』には占城の怪異として「目に瞳孔がない女子で、夜に頭を飛ばして赤子の糞を食らう」という、[[飛頭蛮]]によく似た「屍頭蛮」に関する記述がある。『{{仮リンク|異域志|label={{Lang|ko|臝}}蟲集|zh|异域志}}』にも「占城には頭を飛ばす者がおり、婦人に多い」という記述がある。 |
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== 参考資料 == |
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* {{Cite book|和書|author=桃木至朗|authorlink=桃木至朗|title=歴史世界としての東南アジア|publisher=[[山川出版社]]|series=世界史リブレット12|date=1996年12月25日|isbn=978-4-63-434120-3|ref={{SfnRef|桃木|1996}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=永積昭|authorlink=永積昭|title=東南アジアの歴史 モンスーンの風土|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]] 新書東洋史7|date=1977年7月20日|isbn=978-4-06-115857-3|ref={{SfnRef|永積|1977}}}} |
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* {{Citation|和書|author=桃木至朗|editor=[[石澤良昭]]|chapter=「ベトナム史」の確立|title=東南アジア古代国家の成立と展開|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波講座]] 東南アジア史2|date=2001/07/30|isbn=978-4-00-011062-4|ref={{SfnRef|桃木|2001}}}} |
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* {{Citation|和書|author=新江利彦|title=フエ郊外の山地民と越人(京族)の関係について チャム王国と越南帝国フエ朝廷の関係について:二つの「チャム王家年代記」をめぐって|periodical=タイ文化圏における山地民の歴史的研究|publisher=[[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]]|date=2008-9-21|url=http://www.aa.tufs.ac.jp/project/Tay-Bunkaken_20080921_01.pdf|ref={{SfnRef|新江|2008}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=重枝豊|title=チャンパ祠堂のレンガ施工法と屋蓋の迫り出し手法について|periodical=日本建築学会計画系論文集|volume=61|issue=488|publisher=[[日本建築学会]]|date=1996-10|pages=211-220|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/61/488/61_KJ00004221794/_article/-char/ja|ref={{SfnRef|重枝|1996}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=前田成文|authorlink=立本成文|title=Coedès, George, Les Peuples de la Péninsule Indochinoise, Histoire-Civilisations. Dunod, Paris. 1962. pp.228|periodical=東南アジア研究|volume=1|issue=2|publisher=[[京都大学東南アジア地域研究研究所|京都大学東南アジア研究センター]]|date=1963/11/01|pages=81-82|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/1/2/1_KJ00000132306/_article/-char/ja/|doi=10.20495/tak.1.2_81_2|ref={{SfnRef|前田|1963}}}} |
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* {{Citation|和書|author=牧田東一|title=設立20周年記念事業|periodical=トヨタ財団 1994(平成6)年度年次報告|publisher=[[トヨタ財団]]|pages=8-11|date=1996年6月30日|url=https://www.toyotafound.or.jp/profile/foundation_publications/annual_report/data/arj1994j.pdf|ref={{SfnRef|牧田|1995}}}} |
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* {{Citation|和書|editor=川島孝一|title=徳川家康文書 総目録|volume=1|publisher=[[徳川黎明会]]|date=2010-12|url=http://www.tokugawa.or.jp/institute/021.0000-ieyasu-monjo.htm|ref={{SfnRef|川島|2010}}}} |
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* [[桃木至朗]]他編、『東南アジアを知る事典』、[[平凡社]]、[[2008年]]、ISBN 978-4-58-212638-9 |
* [[桃木至朗]]他編、『東南アジアを知る事典』、[[平凡社]]、[[2008年]]、ISBN 978-4-58-212638-9 |
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2020年1月31日 (金) 11:50時点における版
- チャンパ
- चम्पा
-
← 192年 - 1832年 →
チャンパの領域(緑)-
公用語 チャム語、サンスクリット 首都 カンダプルプラ(4世紀前半-4世紀末)
シンハプラ(4世紀末-758)
ヴィラプラ(758-859)
インドラプラ(859-978)
ヴィジャヤ(978-1485)
バル・カウ(1485-1579)
バル・カナール(1579-1832)
チャンパ(サンスクリット語: चम्पा, ラテン文字転写: Champa, チャム語: Campa)[注 1]は、現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心[1]とする国家。中国では唐代半ばまで林邑と呼び、その後環王と称したが、唐末以降は占城と呼んだ[2]。主要住民の「古チャム人」は現在のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる[3]。
歴史
前史
考古学の知見によれば、紀元前1000年から紀元200年にかけて[4]、現在のベトナム中部沿海・中部南端では鉄器が中心のサフィン文化が広がっていた[5]。サフィン文化の遺跡から発見される遺物には台湾、フィリピンやマレー半島[4]、タイ西部と共通するものが多く、オーストロネシア系海洋民族である古チャム人の遺構ではないかとされる。このサフィン文化を基にして[1]チャンパが成立したと考えられている[5]。チャンパの歴史は漢文史料・チャム碑文・チャム写本に記録されている。チャム碑文には古チャム語をインド系のチャム文字で記されたものとデーヴァナーガリーで書かれたものがある。チャム語はマレー・ポリネシア語派の一つ[4]で、現在のアチェ語に近い言語である。
林邑とヒンドゥー文明
漢文史料によれば[6]、西暦192年、漢の最南端にあった交州日南郡象林県(現在のトゥアティエン=フエ省付近)で功曹という官吏の子であった区連という者が叛乱を起こし、林邑を建てた[7]。象林県を占拠した林邑は、当初は中国文明の影響を受けていた[5]が、現在のベトナム南部からカンボジアにかけて存在した交易国家扶南の影響を3世紀末までに受け[6]、ヒンドゥー文明を受容した[5]。中華王朝は唐代までおおむね現在のベトナム北部を領有しており、チャンパは中国南朝に朝貢を繰り返し[8]ながらもしばしばこれを劫掠し、また南朝宋と隋からの侵攻を受けた。『続日本紀』に見える8世紀の遣唐判官・平群広成が漂着した「崑崙国」は、林邑(チャンパ)であると考証されている。また、平群広成と同時期に唐経由で日本に渡来した林邑僧仏哲が伝えた舞踊は「林邑楽」として今日まで雅楽の中に伝承されている[8]。
占城の勃興
扶南の後に勃興したチェンラが分裂していた8世紀半ば、林邑でも政変があり、中部南方のカウターラに環王が出現した。「占城」という漢語に見られる国号はチャンパーナガラ(サンスクリット語: चंपानगर, ラテン文字転写: Champanagar)の音訳(占婆城)と省略[6]である。ミーソン聖域に現存する碑文によれば、インドラヴァルマン2世に始まる占城・クメールの両王家は共に『マハーバーラタ』に描かれたクルクシェートラの戦いで敗死したカウラヴァの将アヌヴィンダ(ドゥルヨーダナの弟)の子孫とされる。
「チャンパ」はキンコウボクの意であり、カンボジア(カンボージャ)と同様にかつて北インドにあった都市の名前である。ヴィジャヤ時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の漢文史料でも占城の都は「佔」であると記されている。なお、チャム写本では国号は「ヌガルチャム」である。
大越との抗争
10世紀にベト族がベトナム北部の紅河デルタを中心に大越を建てると、チャンパ王ヴィジャヤは都を南中部北端のアマラーヴァティーにあったインドラプラ(現在のクアンナム省タンビン県ビントゥー)から南中部南端のヴィジャヤ(現在のビンディン省アンニョン市社ニョンハウ)に移した[9]。現存するチャム写本『チャム王家年代記』のアンナン版はこの遷都の年(西暦1000年)を建国の年とする[10]。11世紀以降、チャンパは北の大越および西のクメールとしばしば戦争を行った[6]。ジャヤ・インドラヴァルマン3世とジャヤ・インドラヴァルマン4世の代にヴィジャヤをクメールに占領されたこともあり、アンコール遺跡にはチャンパ兵の有名な浮彫が残されている[4]。
13世紀後半、チャンパは元の侵攻[11](モンゴルのベトナム侵攻、元越戦争とも)を陳朝大越と共に受けた。この頃にはマルコ・ポーロら南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパが登場する。元軍撃退の過程で大越の陳国峻らと連携したチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世は、和平後に上皇仁宗の皇女(皇帝英宗の妹)玄珍公主を娶り[12]、大越との蜜月を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、1306年に代償としてジャヤ・シンハヴァルマン3世が北端であったウリク(現在のクアンビン省、クアンチ省、トゥアティエン=フエ省)を大越に割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。大越に割譲されて以後、ウリクは里州と漢字表記され、更に順化州(順州・化州(フエチャウ、ホアチャウ))と改称、分割された[12]。現在のベトナム語地名のフエは化州に由来する。
ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越との抗争が再燃した、チャンパ王ビナスオールは大越の都昇龍を3度にわたり劫掠し、皇帝睿宗を敗死させた[13]。1390年に大越相手にビナスオールが戦死するとジャヤ・シンハヴァルマン6世が王位を襲った。1400年、ジャヤ・シンハヴァルマン6世が死去するとインドラ・ヴァルマン6世が王位についた。
1402年、胡朝大虞の胡漢蒼に都ヴィジャヤを占領されたが、インドラ・ヴァルマン6世が明に救援を求めたため、両国の抗争は明の永楽帝の干渉戦争(明胡戦争、明・大虞戦争)を招くところとなり、1407年に大虞は滅亡。1408年にインドラ・ヴァルマン6世は明の鄭和艦隊の訪問を歓待している。
ヴィジャヤの陥落
後黎朝大越の黎利による明軍撃退後、チャンパは再興された。1471年、ヴィジャヤは大越の皇帝聖宗の親征によって陥落した[5](チャンパ=大越戦争 (1471年))、この時、チャンパ王マハー・サジャンが、子のシャー・パウ・リン(後のアリ・ムハヤット・シャー)をアチェの統治へと送り出したのがアチェ王国の始まりであるという。チャンパの地であったアマラーヴァティーとヴィジャヤは大越に併合され、順化州はその中部行政の中心となったが、中部南端のパーンドゥランガは残った[6]。
ヴィジャヤ征服後、現在のベトナム中部全域を支配した後黎朝恩顧の重臣である鄭氏と阮氏の間に溝ができると、阮氏の若い跡取りの阮潢(仙主)は半ば追われるように順化州に南下し半独立政権を立てた(広南国)。
莫朝大越の楊文安が著した『烏州近録』(1553年[10]、現存のものは18世紀 - 19世紀に大幅に加筆)によれば、順化州には、元々ここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(里州土着民の意)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明の侵攻[10]に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家であるチェー(制)家[10]は現在もフエの東に住む。
パーンドゥランガと阮氏
『チャム王家年代記』はパーンドゥランガの系譜だけを記している。パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王(檳榔族)を戴いていた。また、その国号は白蓮を意味すると同時に占城・クメールの祖であるカウラヴァと敵対したパーンダヴァを意味し、クメール・占城・大越・広南からの侵攻をよく防いで、自治を貫徹した。
1611年以後、パーンドゥランガは南進した広南阮氏によって領土を急速に侵食され、1692年にチャム王ポー・サオトが阮氏の支配に反発して兵を挙げると、翌1693年に阮福淍(明王)の将阮有鏡がパーンドゥランガを征服して順城鎮と改称した。順城鎮は広南に併合されて[5]いったん自治を失ったが、間もなくチャム貴族のオクニャ・ダット(屋牙撻)が清人である呉朗の加勢を得て広南軍を各地で撃破し、包囲した。阮福淍はカンボジアに駐留していた広南軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに講和を図り、1694年末にポー・サオトの弟であるポー・シャクティライ・ダ・パティーによる再興を認めた。1712年にポー・シャクティライ・ダ・パティーは阮福淍との間に議定五条を結び、パンラン道(現在のニントゥアン省ファンラン=タップチャム)、クロン道(現在のビントゥアン省トゥイフォン県リエンフオン市鎮)、パリク道(現在のビントゥアン省トゥイフォン県ファンリクア市鎮)、パジャイ道(現在のビントゥアン省ファンティエットフーハイ)の四つの道におけるチャム王(順城鎮藩王、後に掌奇)の広範な自治権を認められた。
順城鎮の自治とその終焉
広南阮氏は1760年代に政治が乱れ、1773年に西山県で西山阮氏が蜂起した(西山朝)。1774年、広南阮氏は南下してきた鄭氏と北上してきた西山朝の軍に挟撃されて本拠の富春(現在のフエ)を落とされ、一旦滅亡した。1777年以後、生き残りの王族である阮福暎(後の嘉隆帝)が広南阮氏再興のための兵を募り、1802年まで阮福暎と西山朝の間で凄惨な戦いが続いた。1794年以後、チャム王ポー・ラドゥワン・ダ・パグー(阮文豪)ら順城鎮のチャム貴族は阮福暎に味方し、西山朝相手に活躍した。
阮朝越南初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、チャム王ポー・ソン・ニュン・チェン(順城鎮鎮守阮文振)は中部高原南方の山地民族をことごとく支配下に置いた。しかし1832年、中央集権化を進める明命帝の方針により順城鎮は遂に廃絶された[10]。自治回復を求めるチャム貴族と山地民族[10]は蜂起(羅奔王の乱)を起こしたが1835年までに鎮圧され、最後のチャム王であったポー・フォク・ター(阮文承)は黎文𠐤の乱(南部大反乱)に連座した廉により極刑(凌遅刑)に処された[10]。
交易
古チャム人は優れた航海技術を持ち、チャンパは交易国家としても繁栄した[3]。中国に渡航するイスラム商船にとってチャンパは重要な寄港地であり、現在のホイアンも拠点港湾として発達した[8]。チャンパ産の沈香は重要な交易品目であった[8]。日本の正倉院に所蔵されている香木「黄熟香」[8]は、9世紀頃にチャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、14世紀から15世紀にかけて交易国家として繁栄した琉球王国はチャンパと通好関係があった[14]。
17世紀前半に盛んに航行された日本の朱印船はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産そのものが目的というよりも、明は日本船の来航を禁止していたため明の商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。1606年に徳川家康がチャム王宛てに伽羅を求めた[8]印判状も残っている[15]。
遺跡
ヒンドゥー文明を受容したチャンパでは赤煉瓦造り[9]のヒンドゥー寺院や仏教寺院が建立された。世界遺産になったフォンニャ洞、ミーソン聖域を始め、チャキエウ城[16](茶嶠故城)、ドンドゥオン塔[16](桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端や中部高原など中部全域にチャンパ遺跡の祠堂(カラン)[17]が分布し、ドンナイ川上流のカッティエン(バタウリンカ)聖域(ラムドン省)もチャンパ遺跡と考えられる。中部沿海の遺跡は廃墟であるが、中部高原のヤンプロン塔、ヤンムム塔などの遺跡は近代までジャライ族の重要な祭祀の場であった。また、チャム族やラグライ族(山地チャム人)が多く暮らしている中部南端では、カインホア省ニャチャン市内のポー・ナガル塔(天依阿那祠)[18]、ファンラン=タップチャム郊外のポー・ロメ塔(厚生古塔)[19]、ポー・クロン・ガライ塔(得仁古塔)[20]、ヤンバクラン塔(和来古塔)、ファンリクア郊外のポー・ダム塔(楽治古塔)、ファンティエット市内のポー・シャー・ヌー塔(鋪諧古塔)などのチャンパ遺跡では現在もヒンドゥーとイスラームが習合した祭祀が続けられている。
研究
クアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡・シュリーシャーナバドレーシュヴァラは、20世紀初め以来フランス極東学院 (EFEO) のパルマンティエやクレイ、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のクフャトコフスキらにより修復・保存・補強工事が続けられ、1999年、「ミーソン聖域」としてユネスコ文化遺産に登録された。2005年には日本の国際協力機構の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。チャンパの歴史研究は仏領インドシナ時代にフランス人学者によって先鞭がつけられ[6]、エーモニエ、カバトン、デュラン、ミュス、パリ外国宣教会のミナンカバウ教区神父であったムセーらによる写本研究、フィノー、マジュムダール、クロード・ジャック、石澤良昭による碑文研究、ジョルジュ・マスペロ、オールソー、馮承鈞、杉本直治郎、山本達郎による漢文史料研究がそれぞれなされた。現在は、フランス極東学院の在仏チャム人ポー・ダルマ[5]を中心に、ベトナム国内のチャム人であるタイン・ファン(ホーチミン市大学人類学講師)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員)らによりチャム写本の保存・共有事業が進められている。
余談
『明史』『星槎勝覧』『瀛涯勝覧』『東西洋考』『西洋朝貢典録』『赤雅』には占城の怪異として「目に瞳孔がない女子で、夜に頭を飛ばして赤子の糞を食らう」という、飛頭蛮によく似た「屍頭蛮」に関する記述がある。『臝蟲集』にも「占城には頭を飛ばす者がおり、婦人に多い」という記述がある。
脚注
注釈
- ^ 一般的には「チャンパ」であるが、専門家の間では「チャンパー」としている。『東南アジアを知る事典』278頁
出典
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- ^ 重枝 1996, p. 211
- ^ 『ポーナガル塔』 - コトバンク
- ^ 『ポーロメ』 - コトバンク
- ^ 『ポークロンガライ』 - コトバンク
参考資料
- 桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社〈世界史リブレット12〉、1996年12月25日。ISBN 978-4-63-434120-3。
- 永積昭『東南アジアの歴史 モンスーンの風土』講談社〈講談社現代新書 新書東洋史7〉、1977年7月20日。ISBN 978-4-06-115857-3。
- 桃木至朗 著「「ベトナム史」の確立」、石澤良昭 編『東南アジア古代国家の成立と展開』岩波書店〈岩波講座 東南アジア史2〉、2001年7月30日。ISBN 978-4-00-011062-4。
- 新江利彦「フエ郊外の山地民と越人(京族)の関係について チャム王国と越南帝国フエ朝廷の関係について:二つの「チャム王家年代記」をめぐって」『タイ文化圏における山地民の歴史的研究』、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2008年9月21日 。
- 重枝豊「チャンパ祠堂のレンガ施工法と屋蓋の迫り出し手法について」『日本建築学会計画系論文集』第61巻第488号、日本建築学会、1996年10月、211-220頁。
- 前田成文「Coedès, George, Les Peuples de la Péninsule Indochinoise, Histoire-Civilisations. Dunod, Paris. 1962. pp.228」『東南アジア研究』第1巻第2号、京都大学東南アジア研究センター、1963年11月1日、81-82頁、doi:10.20495/tak.1.2_81_2。
- 牧田東一「設立20周年記念事業」『トヨタ財団 1994(平成6)年度年次報告』、トヨタ財団、8-11頁、1996年6月30日 。
- 川島孝一 編『徳川家康文書 総目録』 1巻、徳川黎明会、2010年12月 。
- 桃木至朗他編、『東南アジアを知る事典』、平凡社、2008年、ISBN 978-4-58-212638-9
関連項目
外部リンク
- チャンパ王国の歴史 - ウェイバックマシン(2016年9月13日アーカイブ分):リンク切れ(2019/05/30 確認)
- The Virtual Museum of Cham Architecture - ウェイバックマシン(2006年1月4日アーカイブ分) :リンク切れ(2019/05/30 確認)