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「チャンパ王国」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
{{基礎情報 過去の国
|略名 = チャンパ
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|日本語国名 = チャンパ王国
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|位置画像説明 = チャンパの領域(緑)
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|変遷1 = 後漢からの独立
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|変遷3 = 順城鎮の設置
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'''チャンパ王国'''({{翻字併記|sa|चम्पा|Champa}}, [[チャム語]]: {{Lang|lt|Campadesa}})<ref>一般的には「チャンパ」であるが、専門家の間では「チャンパー」としている。『東南アジアを知る事典』278頁</ref> は、現在の[[ベトナム]]中部沿海地方([[北中部 (ベトナム)|北中部]]及び[[南中部 (ベトナム)|南中部]]を合わせた地域)に存在した[[オーストロネシア語族]]を中心とする国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住む[[チャム族]]直接祖先される。[[中国の歴史|中国]]では[[唐]]代半ばまで'''林邑'''と呼び、その後'''環王'''称したが、唐末以降は'''占城'''と呼んだ。
'''チャンパ'''({{翻字併記|sa|चम्पा|Champa}}, [[チャム語]]: {{Lang|la|Campa}})<ref group="注">一般的には「チャンパ」であるが、専門家の間では「チャンパー」としている。『東南アジアを知る事典』278頁</ref>は、現在の[[アンナン|ベトナム中部]]沿海地方([[北中部 (ベトナム)|北中部]]及び[[南中部 (ベトナム)|南中部]]を合わせた地域)に存在した[[オーストロネシア語族]]を中心<ref name="Historist042854">{{Cite web|work=[[山川出版社]]|url=http://www.historist.jp/word_w_chi/entry/042854/|title=チャンパー|世界史 -ち-|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書山川出版社情報メディア−|Historist(ヒストリスト)|date=2016/03/06|accessdate=2019-11-18}}</ref>国家。[[中国の歴史|中国]]では[[唐]]代半ばまで'''林邑'''と呼び、その後'''環王'''称したが、唐末以降は'''占城'''と呼んだ<ref name="kotobank326479">{{Kotobank2|占城・占婆-326479|占城・占婆}}</ref>。主要住民の「古チャム人」は現在のベトナム中部南端に住む[[チャム族]]の直接の祖先とされる<ref name="Makita9">{{Harvnb|牧田|1995|p=9}}</ref>


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== サフィン文化 ===
=== 前史 ===
[[考古学]]の知見によれば、[[紀元前1000年]]から紀元[[200年]]にかけて、ベトナム中部沿海・中部南端では[[鉄器]]が中心の{{仮リンク|サフィン文化|en|Sa Huỳnh culture}}が広がっていた<ref name="momoki74">{{Harvnb|桃木|p=74}}</ref>。サフィン文化の遺跡から発見される遺物には[[台湾]]、[[フィリピン]]や[[タイ王国|タイ]]西部と共通するものが多く、マレー系海洋民族である古チャム人の遺構ではないかとされる。このサフィン文化を基にしてチャンパ王国が成立したと考えられている<ref name="momoki74"/>。チャンパの歴史は漢文史料・チャム碑文・チャム写本に記録されている。チャム碑文には古[[チャム語]]を[[ブラーフミー系文字|インド系]]の[[チャム文字]]で記録したものと[[デーヴァナーガリー]]で書かれたものがある。チャム語は[[ストロネシア語]]の一つで、現在の[[アチェ語]]に近い言語である。
[[考古学]]の知見によれば、[[紀元前1000年]]から紀元[[200年]]にかけて<ref name="natgeo9366">{{Cite web|author=Adam Bray|work=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9366/|title=南シナ海領有権争いと越の国内事情|ナショナルジオグラフィック日本版サイト|date=2014/06/18|accessdate=2019-11-18}}</ref>、現在のベトナム中部沿海・中部南端では[[鉄器]]が中心の{{仮リンク|サフィン文化|en|Sa Huỳnh culture}}が広がっていた<ref name="Momoki74">{{Harvnb|桃木|1996|p=74}}</ref>。サフィン文化の遺跡から発見される遺物には[[台湾]]、[[フィリピン]]や[[マレー半島]]<ref name="natgeo9366"/>、[[タイ王国|タイ]]西部と共通するものが多く、ストロネシア系海洋民族である古チャム人の遺構ではないかとされる。このサフィン文化を基にして<ref name="Historist042854"/>チャンパが成立したと考えられている<ref name="Momoki74"/>。チャンパの歴史は漢文史料・チャム碑文・チャム写本に記録されている。チャム碑文には古[[チャム語]]を[[ブラーフミー系文字|インド系]]の[[チャム文字]]で記されたものと[[デーヴァナーガリー]]で書かれたものがある。チャム語は[[マレ・ポリネシア語]]の一つ<ref name="natgeo9366"/>で、現在の[[アチェ語]]に近い言語である。


=== 林邑とヒンドゥー文明 ===
=== 林邑とヒンドゥー文明 ===
漢文史料によれば、西暦[[192年]]、[[後漢|漢]]の最南端にあった[[日南郡]]象林県(現北中部[[フエ]]付近)で功曹という官吏の子であった[[区連]]という者が叛乱を起こし、{{仮リンク|林邑国|vi|Lâm Ấp}}を建てた。象林県を占拠した林邑は、当初は[[中国文明]]の影響を受けていた<ref name="momoki74"/>が、ベトナム南部から[[カンボジア]]にかけて存在した交易国家[[扶南国]]の影響を[[4世紀]]以降に受け、[[ヒンドゥー文明]]を受容した<ref name="momoki74"/>。中は唐代までおおむね現在の[[トンキン|ベトナム北部]]を領有しており、チャンパは[[南北朝時代 (中国)|中国南朝]]に[[朝貢]]を繰り返しながらもしばしばこれを劫掠し、また[[宋 (南朝)|南朝宋]]と[[隋]]の侵攻を受けた。『[[続日本紀]]』に見える[[8世紀]]の遣唐判官・[[平群広成]]が漂した「崑崙国」は、チャンパ(林邑)と考証されている。また唐経由で日本に渡来した林邑僧[[仏哲]]が伝えたチャンパ舞踊は「林邑楽」として<ref name="yomiuri00017002">{{Cite news|url=http://spe.yomiuri.co.jp/servlet/view?PAGE_ID=00017002&NEWS_ID=PcvAeGj0fvo&GROUP_ID=00004131|title=<連載>ベトナム行~名香を訪ねて(下)(10/26)|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011年10月26日|accessdate=2018年12月5日}}</ref>今日まで[[雅楽]]の中に伝承されている。
漢文史料によれば<ref name="kotobank96963">{{Kotobank2|チャンパ-96963|チャンパ}}</ref>、西暦[[192年]]、[[後漢|漢]]の最南端にあった[[交州]][[日南郡]]{{仮リンク|象林県|zh|象林县}}(現在の[[トゥアティエン=フエ]]付近)で{{仮リンク|功曹|zh|功曹}}という官吏の子であった[[区連]]という者が叛乱を起こし、[[林邑]]を建てた<ref name="Nagatsumi42">{{Harvnb|永積|1977|p=42}}</ref>。象林県を占拠した林邑は、当初は[[中国文明]]の影響を受けていた<ref name="Momoki74"/>が、現在の[[コーチシナ|ベトナム南部]]から[[カンボジア]]にかけて存在した交易国家[[扶南国|扶南]]の影響を[[3世紀]]末までに受け<ref name="kotobank96963"/>、[[ヒンドゥー文明]]を受容した<ref name="Momoki74"/>。中華王朝は唐代までおおむね現在の[[トンキン|ベトナム北部]]を領有しており、チャンパは[[南北朝時代 (中国)|中国南朝]]に[[朝貢]]を繰り返し<ref name="yomiuri00017002">{{Cite news|url=http://spe.yomiuri.co.jp/servlet/view?PAGE_ID=00017002&NEWS_ID=PcvAeGj0fvo&GROUP_ID=00004131|title=<連載>ベトナム行~名香を訪ねて(下)(10/26)|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011年10月26日|accessdate=2018年12月5日}}</ref>ながらもしばしばこれを劫掠し、また[[宋 (南朝)|南朝宋]]と[[隋]]からの侵攻を受けた。『[[続日本紀]]』に見える[[8世紀]]の遣唐判官・[[平群広成]]が漂した「[[崑崙]]国」は、林邑(チャンパ)であると考証されている。また、平群広成と同時期に唐経由で日本に渡来した林邑僧[[仏哲]]が伝えた舞踊は「[[林邑楽]]」として今日まで[[雅楽]]の中に伝承されている<ref name="yomiuri00017002"/>


=== 占城の勃興 ===
=== 占城の勃興 ===
扶南が衰えて[[真臘]]が勃興した[[8世紀]]半ば、林邑でも政変があり、{{仮リンク|環王国‎|label=環王|zh|第五朝 (占婆)}}が出現した。「{{仮リンク|占城国‎|label=占城|zh|占城}}」という漢語国号はサンスクリットのチャンパーナガラ(占婆城)の音訳省略である。ミーソン聖域に現存する碑文によれば、占城・[[クメール王朝|クメール]]の両王家は共に『[[マハーバーラタ]]』に描かれた{{仮リンク|クルクシェートラの戦い|en|Kurukshetra War}}で敗た[[カウラヴァ]]の将[[シュァッターマン]]の子孫である。
扶南の後に勃興した[[真臘|チェンラ]]が分裂ていた[[8世紀]]半ば、林邑でも政変があり、中部南方の{{仮リンク|カウターラ‎|zh|古笪羅}}に{{仮リンク|環王|zh|王}}が出現した。「[[占城]]」という漢語に見られる国号はチャンパーナガラ({{翻字併記|sa|चंपानगर|Champanagar}})の音訳(占婆城)と省略<ref name="kotobank96963"/>である。ミーソン聖域に現存する碑文によれば、[[インドラヴァルマン|インドラヴァルマン2世]]に始まる占城・[[クメール王朝|クメール]]の両王家は共に『[[マハーバーラタ]]』に描かれた{{仮リンク|クルクシェートラの戦い|en|Kurukshetra War}}で敗死した[[カウラヴァ]]の将{{仮リンク|ダ|hi|अनुविन्द}}([[ドゥルヨーダナ]]の弟)の子孫とされる。


チャンパは{{仮リンク|キンコウボク|en|Magnolia champaca}}の意であり、カンボジアと同様にかつて[[北インド]]にあった[[チャンパー|都市]]の名前である。ヴィジャヤ時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の漢文史料でも占城の都は「{{Lang|ko|佔}}」であると記されている。なお、チャム写本では国号は「ヌガルチャム」である。
チャンパは{{仮リンク|キンコウボク|en|Magnolia champaca}}の意であり、カンボジア([[カンボージャ]])と同様にかつて[[北インド]]にあった[[チャンパー|都市]]の名前である。ヴィジャヤ時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の漢文史料でも占城の都は「{{Lang|ko|佔}}」であると記されている。なお、チャム写本では国号は「ヌガルチャム」である。


[[ファイル:Bayonnavalbat01.JPG|thumb|350px|チャンパ兵の浮彫([[アンコール・トム]]の[[バイヨン|バヨン]])]]
=== 大越との抗争 ===
=== 大越との抗争 ===
[[10世紀]]に[[キン族|ベト族]]がベトナム北部の[[紅河デルタ]]を中心に[[大越]]を建てると、チャンパ王[[シュヴィジャヤ|ヴィジャヤ]]は都を南中部北端の{{仮リンク|アマラーヴァティー (チャンパ)|label=アマラーヴァティー|zh|阿摩羅波胝 (占婆)}}にあった{{仮リンク|インドラプラ (チャンパ)|label=インドラプラ|en|Indrapura (Champa)}}(現在の[[クアンナム省]][[タンビ]]{{仮リンク|ビントゥー|nl|Bình Tú}})から南中部南端の{{仮リンク|ヴィジャヤ (チャンパ)|label=ヴィジャヤ|en|Vijaya (Champa)}}(現在の[[ビンディン省]][[ニョン]]市社{{仮リンク|ニョンハウ|vi|Nhơn Hậu}})に移した<ref name="Shigeeda219">{{Harvnb|重枝|1996|p=219}}</ref>。現存するチャム写本『{{仮リンク|チャム王家年代記|zh|占婆王府檔案}}のアンナン版はこの遷都の年(西暦[[1000年]])を建国の年とする<ref name="Arae1-2">{{Harvnb|新江|2008|pp=1-2}}</ref>。[[11世紀]]以降、チャンパは北の大越および西のクメールとしばしば戦争を行った<ref name="kotobank96963"/>。{{仮リンク|ジャヤ・インドラヴァルマン3世|zh|闍耶因陀羅跋摩三世}}と{{仮ンク|ジャ・インドラヴァルマン4|en|Jaya Indravarman IV}}の代にヴィジャヤをクメールに占領されたこともあり、[[アンコール遺跡]]にはチャンパ兵の有名な[[レリーフ|浮彫]]が残されている<ref name="natgeo9366"/>
[[ファイル:Bayonnavalbat01.JPG|thumb|300px|チャンパ兵の浮彫([[アンコール・トム]]の[[バイヨン|バヨン]])]]
[[10世紀]]にベトナム北部の[[紅河デルタ]]を中心に[[キン族|ベト族]]が[[大越]]を建てると、チャンパ王{{仮ンク|ヴィジャヤ (チャンパ王)|label=ヴィジャヤ|zh|毗闍耶跋摩}}は都を南中部北端の{{仮リンク|アマラーヴァティー (チャンパ)|label=アマラーヴァティー|zh|阿摩羅波胝 (占婆)}}(現在の[[クアンナム省]][[ダナン]])から南中部南端の{{仮リンク|ヴィジャヤ (チャンパ)|label=ヴィジャヤ|en|Vijaya (Champa)}}(現在の[[クアガイ省]][[ディ]])に移した。現存するチャム写本『[[チャム王家年代記]]』はこの遷都の年(西暦[[1000年]])を建国の年とする。[[11世紀]]以降、チャンパは北の大越び西のクメールとしばしば戦争を行った。{{仮リンク|ジャヤ・インドラヴァルマン3世|zh|闍耶因陀羅跋摩三世}}の代にクメールの[[スーリヤヴァルマン2]]にヴィジャヤを占領されたこともあり、[[アンコール遺跡]]には有名なチャンパ兵の浮彫が残されている。


チャンパ王国は[[13世紀]]後半は[[元 (王朝)|元]]の侵攻({{仮リンク|モンゴルのベトナム侵攻|en|Mongol invasions of Vietnam}}、元越戦争とも)を受けた。この頃には[[マルコ・ポーロ]]ら南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパが登場する。元軍撃退の過程で[[陳興道|陳国峻]]ら[[陳朝]]大越の軍勢と連携([[白藤江の戦い (1288年)|白藤江の戦い]])したチャンパ王[[ジャヤ・シンハヴァルマン3世]](制旻とも)は、和平後に[[陳仁宗|仁宗]]の皇女([[陳英宗|英宗]]の妹){{仮リンク|玄珍公主|vi|Huyền Trân}}を娶り、大越との蜜月を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、花嫁代償として[[1306年]]にジャヤ・シンハヴァルマン3世が大越に中部―{{仮リンク|順化承宣|label=ウリク|en|Thuan Hoa}}(現[[クアンビン省]]、[[クアンチ省]]、[[トゥアティエン=フエ省]])を割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。チャンパの北端であったウリクは、大越に割譲されて以後、{{仮リンク|里州|vi|Châu Lý}}と漢字表記され、更に{{仮リンク|順化府|label=順化州|zh|順化府}}({{仮リンク|順州 (交阯)|label=順州|zh|順州 (交阯)}}・{{仮リンク|化州 (交阯)|label=化州|zh|化州 (交阯)}}と改称、分割された。現在のベトナム語地名のフエは化州(フエチャウ、ホアチャウ)に由来する。
[[13世紀]]後半、チャンパは[[元 (王朝)|元]]の侵攻<ref name="Maeda82">{{Harvnb|前田|1963|p=82}}</ref>({{仮リンク|モンゴルのベトナム侵攻|en|Mongol invasions of Vietnam}}、元越戦争とも)を[[陳朝]]大越と共に受けた。この頃には[[マルコ・ポーロ]]ら南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパが登場する。元軍撃退の過程で大越の[[陳興道|陳国峻]]らと連携したチャンパ王[[ジャヤ・シンハヴァルマン3世]]は、和平後に上皇[[陳仁宗|仁宗]]の皇女(皇帝[[陳英宗|英宗]]の妹){{仮リンク|玄珍公主|zh|玄珍公主}}を娶り<ref name="momoki186">{{Harvnb|桃木|2001|p=186}}</ref>、大越との蜜月を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、[[1306年]]に代償としてジャヤ・シンハヴァルマン3世が北端であった{{仮リンク|順化承宣|label=ウリク|en|Thuan Hoa}}(現在の[[クアンビン省]]、[[クアンチ省]]、トゥアティエン=フエ省)を大越に割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。大越に割譲されて以後、ウリクは{{仮リンク|里州|vi|Châu Lý}}と漢字表記され、更に{{仮リンク|順化府|label=順化州|zh|順化府}}({{仮リンク|順州 (交阯)|label=順州|zh|順州 (交阯)}}・{{仮リンク|化州 (交阯)|label=化州|zh|化州 (交阯)}}(フエチャウ、ホアチャウ))と改称、分割された<ref name="momoki186"/>。現在のベトナム語地名の[[フエ]]は化州に由来する。


ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越との抗争が再燃し、王[[阿答阿者|ビナスオール]]は大越の都[[ハノイ|昇龍]]を3にわたり劫掠し、[[陳睿宗|睿宗]]を敗死させた。[[1390年]]にビナスオールが戦死[[羅皚|ジャヤ・シンハヴァルマン6世]]王位が簒奪され。この混乱期に、[[サマルカンド]]出身の[[スーフィー]]である[[マウラナ・マリク・イブラヒム]]が[[1391年]]から訪れ、ジャヤ・シンハヴァルマン6世の娘デウィ・チャンドラウラン<ref>後に[[ドゥマク王国]]で{{仮リンク|デウィ・スリ|en|Dewi Sri}}にちなんで呼ばれたジャワ名。チャンパでの名前は不明。</ref>と結婚したという。[[1400年]]、ジャヤ・シンハヴァルマン6世が死去すると[[巴的吏|インドラヴァルマン6世]]が王位についた。
ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越との抗争が再燃しチャンパ王[[阿答阿者|ビナスオール]]は大越の都[[タンロン遺跡|昇龍]]を3にわたり劫掠し、皇帝[[陳睿宗|睿宗]]を敗死させた<ref name="momoki175">{{Harvnb|桃木|2001|p=175}}</ref>。[[1390年]]に大越相手にビナスオールが戦死すると[[羅皚|ジャヤ・シンハヴァルマン6世]]王位を襲った。[[1400年]]、ジャヤ・シンハヴァルマン6世が死去すると[[インドラヴァルマン6世]]が王位についた。


[[胡季リ|胡季{{Lang|ko|犛}}]]が権威の失墜した大越を簒奪し[[胡朝]]大虞を建てた。[[1402年]]、[[胡漢蒼]]に都ヴィジャヤを占領されたが、インドラヴァルマン6世が[[明]]に救援を求めたため、両国の抗争は明の[[永楽帝]]の干渉戦争({{仮リンク|明胡戦争|en|Ming–Hồ War}}、明・大虞戦争)を招くところとなり、[[1404年]]にマウラナ・マリク・イブラヒムは[[ジャワ島]]の[[マジャパヒト王国]]に亡命し、その一族は[[ワリ・サンガ]]と呼ばれるようになった。[[1407年]]まで胡朝大虞は滅亡。[[1408年]]にインドラヴァルマン6世は明の[[鄭和]]艦隊の訪問を[[クイニョン]]で受け歓待している。
[[1402年]][[胡朝]]大虞[[胡漢蒼]]に都ヴィジャヤを占領されたが、インドラヴァルマン6世が[[明]]に救援を求めたため、{{仮リンク|大虞=チャンパ戦争 (1400-1407)|label=両国の抗争|zh|越占戰爭 (1400年–1407年)}}は明の[[永楽帝]]の干渉戦争({{仮リンク|明胡戦争|en|Ming–Hồ War}}、明・大虞戦争)を招くところとなり、[[1407年]]に大虞は滅亡。[[1408年]]にインドラヴァルマン6世は明の[[鄭和]]艦隊の訪問を歓待している。


=== ヴィジャヤの陥落 ===
{{仮リンク|楊文安|zh|楊文安}}『{{仮リンク|烏州近録|zh|烏州近錄}}』([[1543年]]、現存のものは[[18世紀]] - [[19世紀]]に大幅に加筆)によれば、順化州には、元々ここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(里州土着民の意)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明の侵攻に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家である{{仮リンク|制 (姓)‎|label=チェー(制)家|zh|制姓}}はもフエの東に住む。
[[黎朝|後黎朝]]大越の[[黎利]]による明軍撃退後、チャンパは再興された。[[1471年]]、ヴィジャヤは大越の皇帝[[黎聖宗|聖宗]]の親征によって陥落した<ref name="Momoki74"/>({{仮リンク|チャンパ=大越戦争 (1471年)|en|Cham–Annamese War (1471)}})、この時、チャンパ王[[槃羅茶全|マハー・サジャン]]が、子シャー・パウ・リン(後の{{仮リンク|アリ・ムハヤット・シャー|en|Ali Mughayat Syah}})をアチェの統治へと送り出したのが[[アチェ王国]]の始まりであるという。チャンパの地であったアマラーヴァティーヴィジャヤは大越に併合され、順化州はその中部行政の中心となったが、中部南端の{{仮リンク|パーンドゥランガ|zh|賓童龍}}は残った<ref name="kotobank96963"/>


ヴィジ征服後、現在のベトナム中部全域を支配した黎朝恩顧の重臣である[[鄭主|鄭氏]]と阮氏の間に溝ができると、阮氏の若い跡取りの[[阮コウ|阮{{Lang|ko|潢}}]](仙主)は半ば追われるように順化州に南下し半独立政権を立てた([[広南国]])
=== 大越の侵攻とヴィジャヤの崩壊 ===
[[黎朝]]大越の[[黎利]]による明軍撃退後、チャンパは再興された。『チャム王家年代記』は中部南端の{{仮リンク|パーンドゥランガ=チャンパ|label=パーンドゥランガ|zh|賓童龍占婆}}の系譜だけを記している。パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王(檳榔族)を戴いていた。また、その国号は白蓮を意味すると同時に真臘・占城の祖であるカウラヴァに敵対した[[パーンダヴァ]]を意味し真臘・占城・大越・広南の侵略をよく防いで、自治を貫徹した。ヴィジャヤは[[1471年]]に大越の[[黎聖宗|聖宗]]の親征によって崩壊した<ref name="momoki74"/>({{仮リンク|チャンパ=大越戦争 (1471年)|en|Cham–Annamese War (1471)}})、この時、王[[槃羅茶全|マハー・サジャン]]が、子シャー・パウ・リン(後の{{仮リンク|アリ・ムハヤット・シャー|en|Ali Mughayat Syah}})をアチェの統治へと送り出したのが[[アチェ王国]]の始まりであるという。チャンパの地であったアマラーヴァティーヴィジャヤは大越に併合され、順化州は中部行政の中心となったが、パーンドゥランガは残った。


[[莫朝]]大越の{{仮リンク|楊文安|zh|楊文安}}が著した『{{仮リンク|烏州近録|zh|烏州近錄}}』([[1553年]]<ref name="Arae1-2"/>、現存のものは[[18世紀]] - [[19世紀]]に大幅に加筆)によれば、順化州には、元々ここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(里州土着民の意)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明の侵攻<ref name="Arae1-2"/>に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家である{{仮リンク|制 (姓)‎|label=チェー(制)家|zh|制姓}}<ref name="Arae1-2"/>現在もフエの東に住む。
[[ファイル:Mão vàng Chăm Pa Shinhavarmen III.jpg|thumb|200px|チャム王{{仮リンク|ポー・クロン・ムナイ|vi|Po Klong M'hnai}}の金冠({{仮リンク|ベトナム歴史博物館 (ホーチミン市)|label=ベトナム歴史博物館|en|Museum of Vietnamese History}}蔵)]]
=== 阮氏とパーンドゥランガの支配 ===
ンパ征服後、のベトナム中部全域を支配した黎朝はまもなく簒奪により[[莫朝]]に取って代わられたが、黎朝恩顧の重臣である[[鄭主|鄭氏]]と阮氏の連合による抵抗を受けて内戦状態に陥っていた([[南北朝時代 (ベトナム)|南北朝時代]])。後に鄭氏と阮氏の間に溝ができると、阮氏の若い跡取りの[[阮コウ|阮{{Lang|ko|潢}}]](仙主)は半ば追われるように順化州に南下し半独立政権を立てた。


[[ファイル:Mão vàng Chăm Pa Shinhavarmen III.jpg|thumb|250px|チャム王{{仮リンク|ポー・クロン・ムナイ|en|Po Klaong Mah Nai}}の金冠({{仮リンク|ベトナム歴史博物館 (ホーチミン市)|label=ベトナム歴史博物館|en|Museum of Vietnamese History}}蔵)]]
順化州に成立した阮氏政権を、大越の漢文史料は「南河国」、明・[[清]]は「[[広南国]]」、チャム族は「ウリク国」、史家は「広南阮氏」と呼ぶ。広南阮氏は[[1774年]]の滅亡まで形式上は大越の臣下であり、広南国は正式には大越の南半分である(北半分の北河国は鄭氏が支配)。
=== パーンドゥランガと阮氏 ===
『チャム王家年代記』は{{仮リンク|パーンドゥランガ=チャンパ|label=パーンドゥランガ|zh|賓童龍占婆}}の系譜だけを記している。パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王([[ビンロウ|檳榔]]族)を戴いていた。また、その国号は[[ハス|白蓮]]を意味すると同時に占城・クメールの祖であるカウラヴァと敵対した[[パーンダヴァ]]を意味し、クメール・占城・大越・広南からの侵攻をよく防いで、自治を貫徹した。


広南阮氏は[[1611年]]以後南進してパーンドゥランガ領土を急速に侵食、[[1692年]]にチャム王{{仮リンク|ポー・サオト|zh|婆爭}}が広南の支配に反発して兵を挙げると、翌[[1693年]]に明王{{仮リンク|阮福チョウ|label=阮福{{Lang|ko|淍}}|zh|阮福淍}}の将{{仮リンク|阮有鏡|zh|阮有鏡}}がパーンドゥランガを征服して{{仮リンク|順城鎮|zh|順城鎮}}と改称した。順城鎮は広南に併合されて<ref name="momoki74"/>いったん自治を失ったが、間もなくチャム貴族の[[オクニャ・ダット]](屋牙撻)が清人である呉朗の加勢を得て広南軍を各地で撃破し、包囲した。阮福{{Lang|ko|淍}}はカンボジアに駐留していた広南軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに講和を図り、[[1694年]]末にポー・サオトの弟である{{仮リンク|ポー・シャクティライ・ダ・パティー|zh|繼婆子}}による再興を認めた。また、阮福{{Lang|ko|淍}}は[[1712年]]に順城鎮との間に議定五条を結び、パンラン道([[ニントゥアン省]][[ファンラン=タップチャム]])、クロン道([[ビントゥアン省]][[トゥイフォン県]]リエンフオン市鎮)、パリク道(ビントゥアン省トゥイフォン県ファンリクア市鎮)、パジャイ道(ビントゥアン省フォーハイ、[[ファンティエット]])の四つの道におけるチャム王(順城鎮藩王)の広範な自治権を認めた。
[[1611年]]以後パーンドゥランガは[[南進]]した広南阮氏によって領土を急速に侵食され、[[1692年]]にチャム王{{仮リンク|ポー・サオト|en|Po Saut}}が阮氏の支配に反発して兵を挙げると、翌[[1693年]]に{{仮リンク|阮福チョウ|label=阮福{{Lang|ko|淍}}|zh|阮福淍}}(明王)の将{{仮リンク|阮有鏡|zh|阮有鏡}}がパーンドゥランガを征服して{{仮リンク|順城鎮|zh|順城鎮}}と改称した。順城鎮は広南に併合されて<ref name="Momoki74"/>いったん自治を失ったが、間もなくチャム貴族の[[オクニャ・ダット]](屋牙撻)が清人である呉朗の加勢を得て広南軍を各地で撃破し、包囲した。阮福{{Lang|ko|淍}}は{{仮リンク|カンボジアの暗黒時代|label=カンボジア|en|Dark ages of Cambodia}}に駐留していた広南軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに講和を図り、[[1694年]]末にポー・サオトの弟である{{仮リンク|ポー・シャクティライ・ダ・パティー|en|Po Saktiraydapatih}}による再興を認めた。[[1712年]]にポー・シャクティライ・ダ・パティーは阮福{{Lang|ko|淍}}との間に議定五条を結び、パンラン道(現在の[[ニントゥアン省]][[ファンラン=タップチャム]])、クロン道(現在の[[ビントゥアン省]][[トゥイフォン県]]{{仮リンク|リエンフオン|vi|Liên Hương}}市鎮)、{{仮リンク|ファンリ|label=パリク|vi|Phan Rí}}道(現在のビントゥアン省トゥイフォン県{{仮リンク|ファンリクア|en|Phan Rí Cửa}}市鎮)、パジャイ道(現在のビントゥアン省[[ファンティエット]]{{仮リンク|フーハイ|vi|Phú Hài}})の四つの道におけるチャム王(順城鎮[[藩王]]、後に{{仮リンク|掌奇|vi|Chưởng cơ}})の広範な自治権を認められた。


=== 順城鎮の自治とその終焉 ===
=== 順城鎮の自治とその終焉 ===
広南阮氏は[[1760年代]]に政治が乱れ、[[1773年]]に[[タイソン県|西山県]]で西山阮氏([[西山朝]])が興った。[[1774年]]、広南阮氏は南下してきた鄭氏(鄭氏東京国)と北上してきた西山朝に挟撃されての富春を落とされ、一旦滅亡した。[[1777年]]以後、生き残りの王阮福暎(後の[[嘉隆帝]])が広南阮氏再興のための兵を募り、[[1802年]]まで阮福暎と西山朝の間で凄惨な戦いが続いた。[[1794年]]以後、順城鎮のチャム貴族は阮福暎に味方し、西山朝討伐で活躍する{{仮リンク|ポー・クレイ・ブレイ|zh|阮文昭}}(阮文昭)、{{仮リンク|ポー・ラドゥワン・ダ・パグー|zh|阮文豪}}(阮文豪)、{{仮リンク|ポー・チョンチャン|vi|Po Chongchan}}{{仮リンク|ポー・クラン・トゥー|zh|阮文永}}(阮文永)らを輩出した。
広南阮氏は[[1760年代]]に政治が乱れ、[[1773年]]に[[タイソン県|西山県]]で西山阮氏が蜂起した([[西山朝]])。[[1774年]]、広南阮氏は南下してきた鄭氏と北上してきた西山朝の軍に挟撃されて本拠{{仮リンク|富春|en|Phú Xuân}}(現在のフエ)を落とされ、一旦滅亡した。[[1777年]]以後、生き残りの王族である阮福暎(後の[[嘉隆帝]])が広南阮氏再興のための兵を募り、[[1802年]]まで阮福暎と西山朝の間で凄惨な戦いが続いた。[[1794年]]以後、チャム{{仮リンク|ポー・ラドゥワン・ダ・パグー|en|Po Ladhuanpuguh}}(阮文豪)ら順城鎮のチャム貴族は阮福暎に味方し西山朝相手に活躍した。


[[阮朝]]越南初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、チャム王(順城鎮掌奇)は中部高原南方の山地民族をことごとく支配下に置いた。しかし[[1832年]]、中央集権化を進める[[明命帝]]の方針により順城鎮は遂に廃絶され、チャム王であった{{仮リンク|ポー・フォク・ター|zh|阮文承}}(阮文承)は{{仮リンク|黎文カイ|label=黎文{{Lang|ko|𠐤}}|zh|黎文𠐤}}の乱(南部大反乱)に連座した廉により極刑([[凌遅刑]])に処された。その後も自治回復を求めるチャム貴族と山地民族は蜂起({{仮リンク|羅奔王の乱|zh|柴嵮羅奔王之亂}})を起こしたが、これも[[1835年]]までに鎮圧された
[[阮朝]]越南初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、チャム王{{仮リンク|ポー・ソン・ニュン・チェン|en|Po Saong Nyung Ceng}}(順城鎮[[鎮守]]阮文振)は[[中部高原]]南方の山地民族をことごとく支配下に置いた。しかし[[1832年]]、[[中央集権]]化を進める[[明命帝]]の方針により順城鎮は遂に[[改土帰流|廃絶された]]<ref name="Arae1-2"/>。自治回復を求めるチャム貴族と山地民族<ref name="Arae1-2"/>は蜂起({{仮リンク|羅奔王の乱|zh|柴嵮羅奔王之亂}})を起こしたが[[1835年]]までに鎮圧され、最後のチャム王であった{{仮リンク|ポー・フォク・ター|en|Po Phaok The}}(阮文承)は{{仮リンク|黎文カイ|label=黎文{{Lang|ko|𠐤}}|zh|黎文𠐤}}の乱(南部大反乱)に連座した廉により極刑([[凌遅刑]])に処された<ref name="Arae1-2"/>


== 貿易 ==
== 易 ==
古チャム人は優れた航海技術を持ち、チャンパは交易国家としても繁栄した。中国に渡航するイスラム商船にとってチャンパは重要な寄港地であり、現在の[[ホイアン]]も港湾として発達した。チャンパ産の[[沈香]]は重要な交易品目であった<ref name="yomiuri00017002"/>。日本の[[正倉院]]に所蔵されている香木[[蘭奢待]]は、[[9世紀]]頃にチャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけて交易国家として繁栄した[[琉球王国]]はチャンパと通好関係があった<ref>『[[歴代宝案]]』</ref>。
古チャム人は優れた航海技術を持ち、チャンパは交易国家としても繁栄した<ref name="Makita9"/>。中国に渡航するイスラム商船にとってチャンパは重要な寄港地であり、現在の[[ホイアン]]も拠点港湾として発達した<ref name="yomiuri00017002"/>。チャンパ産の[[沈香]]は重要な交易品目であった<ref name="yomiuri00017002"/>。日本の[[正倉院]]に所蔵されている香木[[蘭奢待|黄熟香]]」<ref name="yomiuri00017002"/>は、[[9世紀]]頃にチャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけて交易国家として繁栄した[[琉球王国]]はチャンパと通好関係があった<ref>『[[歴代宝案]]』</ref>。


[[17世紀]]前半に活躍した日本の[[朱印船]]はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産そのものが目的というよりも、明は日本船の来航を禁止していたため明の商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。[[1606年]]に[[徳川家康]]がチャンパ王宛てに伽羅を求めた信書も残っている<ref name="yomiuri00017002"/>。
[[17世紀]]前半に盛んに航行された日本の[[朱印船]]はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産そのものが目的というよりも、明は日本船の来航を[[海禁|禁止していた]]ため明の商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。[[1606年]]に[[徳川家康]]がチャ王宛てに伽羅を求めた<ref name="yomiuri00017002"/>印判状も残っている<ref name="Kawashima48">{{Harvnb|川島|2010|p=48}}</ref>。


== 遺跡 ==
== 遺跡 ==
[[ファイル:Les Temples Cham de My Son 2.jpg|thumb|350px|ミーソン聖域のカラン]]
[[ファイル:Tháp Dương Long.JPG|thumb|290px|12世紀に建造された{{仮リンク|ドゥオンロン塔|vi|Tháp Dương Long}}(ビンディン省[[タイソン県]]{{仮リンク|タイビン (タイソン県)|label=タイビン|vi|Tây Bình}})]]
ヒンドゥー文明を受容したチャンパでは煉瓦造りの[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]寺院や[[上座部仏教|仏教]]寺院が建立された。[[世界遺産]]になった[[フォンニャ=ケバン国立公園|フォンニャ洞]]、[[ミーソン聖域]]を始め、{{仮リンク|チャキエウ‎|label=チャキエウ城|en|Trà Kiệu}}(茶{{Lang|ko|嶠}}故城)、{{仮リンク|ドンドゥオン塔|vi|Tháp Đồng Dương}}(桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端や[[タイ・グエン|中部高原]]など中部全域にチャンパ遺跡({{仮リンク|カラン (塔)|label=カラン|de|Kalan (Tempel)}})が分布し、ドンナイ川上流([[ラムドン省]])の{{仮リンク|カッティエン遺跡‎|label=カッティエン(バタウリンカ)聖域|en|Cát Tiên archaeological site}}もチャンパ遺跡と考えられる。中部沿海のチャンパ遺跡は廃墟であるが、中部高原の{{仮リンク|ヤンプロン塔|vi|Tháp Yang Prong}}、ヤンムム塔などの遺跡は近代まで[[ジャライ族]]の重要な祭祀の場であった。また、チャム族や[[ラグライ族]](山地チャム人)が多く暮らしている中部南端では、[[カインホア省]][[ニャチャン]]市内の{{仮リンク|ポー・ナガル塔|en|Po Nagar}}(天依阿那祠)、ファンラン=タップチャム郊外の{{仮リンク|ポー・ロメ塔|pl|Świątynia Po Rome}}(厚生古塔)、{{仮リンク|ポー・クロン・ガライ塔|en|Po Klong Garai Temple}}(得仁古塔)、{{仮リンク|ホアライ塔|label=ヤンバクラン塔|vi|Tháp Hòa Lai}}(和来古塔)、ファンリ郊外の{{仮リンク|ポー・ダム塔|vi|Tháp Po Dam}}(楽治古塔)、ファンティエット市内の{{仮リンク|ポー・シャー・ヌー塔|vi|Tháp Po Sah Inư}}(鋪諧古塔)などのチャンパ遺跡では現在もヒンドゥーと[[イスラム教|イスラーム]]が習合した祭祀が続けられている。
ヒンドゥー文明を受容したチャンパでは煉瓦造り<ref name="Shigeeda219"/>の[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]寺院や[[上座部仏教|仏教]]寺院が{{仮リンク|チャンパの建築|label=建立された|de|Cham-Architektur}}。[[世界遺産]]になった[[フォンニャ=ケバン国立公園|フォンニャ洞]]、[[ミーソン聖域]]を始め、{{仮リンク|チャキエウ‎|label=チャキエウ城|en|Trà Kiệu}}<ref name="kotobank1237852">{{Kotobank2|kalan-1237852|kalan}}</ref>(茶{{Lang|ko|嶠}}故城)、{{仮リンク|ドンドゥオン塔|vi|Tháp Đồng Dương}}<ref name="kotobank1237852"/>(桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端や中部高原など中部全域にチャンパ遺跡の祠堂({{仮リンク|カラン (塔)|label=カラン|de|Kalan (Tempel)}})<ref name="Shigeeda211">{{Harvnb|重枝|1996|p=211}}</ref>が分布し、{{仮リンク|ドンナイ川|en|Đồng Nai river}}上流の{{仮リンク|カッティエン遺跡‎|label=カッティエン(バタウリンカ)聖域|en|Cát Tiên archaeological site}}([[ラムドン省]])もチャンパ遺跡と考えられる。中部沿海の遺跡は廃墟であるが、中部高原の{{仮リンク|ヤンプロン塔|vi|Tháp Yang Prong}}、ヤンムム塔などの遺跡は近代まで[[ジャライ族]]の重要な祭祀の場であった。また、チャム族や[[ラグライ族]](山地チャム人)が多く暮らしている中部南端では、[[カインホア省]][[ニャチャン]]市内の{{仮リンク|ポー・ナガル塔|en|Po Nagar}}(天依阿那祠)<ref name="kotobank1693278">{{Kotobank2|ポーナガル塔-1693278|ポーナガル塔}}</ref>、ファンラン=タップチャム郊外の{{仮リンク|ポー・ロメ塔|pl|Świątynia Po Rome}}(厚生古塔)<ref name="kotobank1693288">{{Kotobank2|ポーロメ-1693288|ポーロメ}}</ref>、{{仮リンク|ポー・クロン・ガライ塔|en|Po Klong Garai Temple}}(得仁古塔)<ref name="kotobank1693267">{{Kotobank2|ポークロンガライ-1693267|ポークロンガライ}}</ref>、{{仮リンク|ホアライ塔|label=ヤンバクラン塔|vi|Tháp Hòa Lai}}(和来古塔)、ファンリクア郊外の{{仮リンク|ポー・ダム塔|vi|Tháp Po Dam}}(楽治古塔)、ファンティエット市内の{{仮リンク|ポー・シャー・ヌー塔|vi|Tháp Po Sah Inư}}(鋪諧古塔)などのチャンパ遺跡では現在もヒンドゥーと[[イスラム教|イスラーム]]が習合した祭祀が続けられている。


== 研究 ==
== 研究 ==
クアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡シュリーシャーナドレーシュヴァラは、[[20世紀]]初め以来[[フランス極東学院]] (EFEO) の{{仮リンク|アンリ・パルマンティエ|label=パルマンティエ|en|Henri Parmentier}}や{{仮リンク|ジャン=イヴ・クレイ|label=クレイ|fr|Jean-Yves Claeys}}、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) の{{仮リンク|カジミェシュ・クフャトコフスキ|label=クフャトコフスキ|pl|Kazimierz Kwiatkowski}}らにより修復・保存・補強工事が続けられ、[[1999年]]、「ミーソン聖域」として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[文化遺産]]に登録された。[[2005年]]には日本の[[国際協力機構]]の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。{{仮リンク|チャンパの歴史|en|History of Champa}}研究は[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]]時代に[[フランス人]]学者によって先鞭がつけられ<ref name="kotobank96963"/>、{{仮リンク|エティエンヌ・エーモニエ‎|label=エーモニエ|en|Étienne Aymonier}}、{{仮リンク|アントワーヌ・カバトン‎|label=カバトン|en|Antoine Cabaton}}、{{仮リンク|モーリス・デュラン (言語学者)‎|label=デュラン|en|Maurice Durand (linguist)}}、{{仮リンク|ポール・ミュス‎|label=ミュス|en|Paul Mus}}、[[パリ外国宣教会]]のミナンカバウ教区神父であった{{仮リンク|ジェラール・ムセー|label=ムセー|en|Gérard Moussay}}らによる写本研究、{{仮リンク|ルイ・フィノー (考古学者)‎|label=フィノー|en|Louis Finot (archaeologist)}}、{{仮リンク|ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール|label=マジュムダール|en|R. C. Majumdar}}、クロード・ジャック、[[石澤良昭]]による碑文研究、{{仮ンク|ジョルジュ・マスペロ|en|Georges Maspero}}{{仮リンク|レオナール・オールソー|label=オールソー|fr|Léonard Aurousseau}}、{{仮リンク|馮承鈞|zh|冯承钧}}、[[杉本直治郎]]、[[山本達郎]]による漢文史料研究がそれぞれなされた。現在は、フランス極東学院の在仏チャム人{{仮リンク|ポー・ダルマ|en|Po Dharma}}<ref name="Momoki74"/>を中心に、ベトナム国内のチャム人であるタイン・ファン([[ベトナム国家大学ホーチミン市校|ホーチミン市大学]]人類学講師)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員)らによりチャム写本の保存・共有事業が進められている。
{{かつて存在したベトナムの国家}}
南中部クアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡シュリーシャーナヴァドレーシュヴァラは、[[20世紀]]初め以来[[フランス極東学院]] (EFEO) の{{仮リンク|アンリ・パルマンティエ|label=パルマンティエ|en|Henri Parmentier}}や[[ジャン=イヴ・クレイ|クレイ]]、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) の{{仮リンク|カジミェシュ・クフャトコフスキ|label=クフャトコフスキ|pl|Kazimierz Kwiatkowski}}らにより修復・保存・補強工事が続けられ、[[1999年]]、「ミーソン聖域」として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[文化遺産]]に登録された。[[2005年]]には日本の[[国際協力機構]]の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。チャンパ王国の歴史研究は[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]]時代に[[フランス人]]学者によって先鞭がつけられ、{{仮リンク|エティエンヌ・エーモニエ‎|label=エーモニエ|en|Étienne Aymonier}}、{{仮リンク|アントワーヌ・カバトン‎|label=カバトン|en|Antoine Cabaton}}、{{仮リンク|モーリス・デュラン (言語学者)‎|label=デュラン|en|Maurice Durand (linguist)}}、{{仮リンク|ポール・ミュス‎|label=ミュス|en|Paul Mus}}、[[パリ外国宣教会]]のミナンカバウ教区神父であった{{仮リンク|ジェラール・ムセー|label=ムセー|en|Gérard Moussay}}らによる写本研究、{{仮リンク|ルイ・フィノー (考古学者)‎|label=フィノー|en|Louis Finot (archaeologist)}}、{{仮リンク|ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール|label=マジュムダール|en|R. C. Majumdar}}、クロード・ジャック、[[石澤良昭]]による碑文研究、[[アンリ・マスペロ]][[レオナール・オールソー|オールソー]]、{{仮リンク|馮承鈞|zh|冯承钧}}、[[杉本直治郎]]、[[山本達郎]]による漢文史料研究がそれぞれなされた。現在は、フランス極東学院の在仏チャム人{{仮リンク|ポー・ダルマ|vi|Po Dharma}}<ref name="momoki74"/>を中心に、ベトナム国内のチャム人であるタイン・ファン([[ベトナム国家大学ホーチミン市校|ホーチミン市大学]]人類学講師)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員)らによりチャム写本の保存・共有事業が進められている。


[[ファイル:Danseuse (musée Cham, Da Nang) (4395490104).jpg|thumb|250px|踊り子像(12-13世紀、{{仮リンク|チャム彫刻博物館|en|Museum of Cham Sculpture}}蔵)]]
[[ファイル:Garuda Thap Mam 13th c.jpg|thumb|250px|[[ガルダ]]像(13世紀、チャム彫刻博物館蔵)]]
== 余談 ==
== 余談 ==
『[[明史]]』『{{仮リンク|星槎勝覧|zh|星槎胜览}}』『[[瀛涯勝覧]]』『[[東西洋考]]』『西洋朝貢典録』『赤雅』には占城の怪異として「目に瞳がない女子で、夜に頭を飛ばして赤子の糞を食らう」という、[[飛頭蛮]]によく似た「屍頭蛮」に関する記述がある。『{{仮リンク|異域志|label={{Lang|ko|臝}}蟲集|zh|异域志}}』にも「占城には頭を飛ばす者がおり、婦人に多い」という記述がある。
『[[明史]]』『{{仮リンク|星槎勝覧|zh|星槎胜览}}』『[[瀛涯勝覧]]』『[[東西洋考]]』『西洋朝貢典録』『赤雅』には占城の怪異として「目に瞳がない女子で、夜に頭を飛ばして赤子の糞を食らう」という、[[飛頭蛮]]によく似た「屍頭蛮」に関する記述がある。『{{仮リンク|異域志|label={{Lang|ko|臝}}蟲集|zh|异域志}}』にも「占城には頭を飛ばす者がおり、婦人に多い」という記述がある。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group=注}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考資料 ==
== 参考資料 ==
* [[桃木至朗]]、『歴史世界としての東南アジア』、世界史リブレット12、[[山川出版社]]、[[1996年]][[12月25日]]、ISBN 978-4-63-434120-3
* {{Cite book|和書|author=桃木至朗|authorlink=桃木至朗|title=歴史世界としての東南アジア|publisher=[[山川出版社]]|series=世界史リブレット12|date=1996年12月25日|isbn=978-4-63-434120-3|ref={{SfnRef|桃木|1996}}}}
* {{Cite book|和書|author=永積昭|authorlink=永積昭|title=東南アジアの歴史 モンスーンの風土|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]] 新書東洋史7|date=1977年7月20日|isbn=978-4-06-115857-3|ref={{SfnRef|永積|1977}}}}
* {{Citation|和書|author=桃木至朗|editor=[[石澤良昭]]|chapter=「ベトナム史」の確立|title=東南アジア古代国家の成立と展開|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波講座]] 東南アジア史2|date=2001/07/30|isbn=978-4-00-011062-4|ref={{SfnRef|桃木|2001}}}}
* {{Citation|和書|author=新江利彦|title=フエ郊外の山地民と越人(京族)の関係について チャム王国と越南帝国フエ朝廷の関係について:二つの「チャム王家年代記」をめぐって|periodical=タイ文化圏における山地民の歴史的研究|publisher=[[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]]|date=2008-9-21|url=http://www.aa.tufs.ac.jp/project/Tay-Bunkaken_20080921_01.pdf|ref={{SfnRef|新江|2008}}}}
* {{Cite journal|和書|author=重枝豊|title=チャンパ祠堂のレンガ施工法と屋蓋の迫り出し手法について|periodical=日本建築学会計画系論文集|volume=61|issue=488|publisher=[[日本建築学会]]|date=1996-10|pages=211-220|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/61/488/61_KJ00004221794/_article/-char/ja|ref={{SfnRef|重枝|1996}}}}
* {{Cite journal|和書|author=前田成文|authorlink=立本成文|title=Coedès, George, Les Peuples de la Péninsule Indochinoise, Histoire-Civilisations. Dunod, Paris. 1962. pp.228|periodical=東南アジア研究|volume=1|issue=2|publisher=[[京都大学東南アジア地域研究研究所|京都大学東南アジア研究センター]]|date=1963/11/01|pages=81-82|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/1/2/1_KJ00000132306/_article/-char/ja/|doi=10.20495/tak.1.2_81_2|ref={{SfnRef|前田|1963}}}}
* {{Citation|和書|author=牧田東一|title=設立20周年記念事業|periodical=トヨタ財団 1994(平成6)年度年次報告|publisher=[[トヨタ財団]]|pages=8-11|date=1996年6月30日|url=https://www.toyotafound.or.jp/profile/foundation_publications/annual_report/data/arj1994j.pdf|ref={{SfnRef|牧田|1995}}}}
* {{Citation|和書|editor=川島孝一|title=徳川家康文書 総目録|volume=1|publisher=[[徳川黎明会]]|date=2010-12|url=http://www.tokugawa.or.jp/institute/021.0000-ieyasu-monjo.htm|ref={{SfnRef|川島|2010}}}}
* [[桃木至朗]]他編、『東南アジアを知る事典』、[[平凡社]]、[[2008年]]、ISBN 978-4-58-212638-9
* [[桃木至朗]]他編、『東南アジアを知る事典』、[[平凡社]]、[[2008年]]、ISBN 978-4-58-212638-9


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Champa}}
{{Commonscat|Champa|チャンパ}}
* [[チャンパ王の一覧]]
* [[チャンパ王の一覧]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://homepage1.nifty.com/Cafe_Saigon/histr03.htm チャンパ王国の歴史について]:リンク切れ(2019/05/30 確認)
* {{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/Cafe_Saigon/histr03.htm|title=チャンパ王国の歴史|date=20160913205157}}:リンク切れ(2019/05/30 確認)
* [http://www.onthe.net.au/~cgribbin/ The Virtual Museum of Cham Architecture] {{En icon}}:リンク切れ(2019/05/30 確認)
* {{Wayback|url=http://www.onthe.net.au/~cgribbin/|title=The Virtual Museum of Cham Architecture|date=20060104104259}}{{En icon}}:リンク切れ(2019/05/30 確認)



{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちやんはおうこく}}
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[[Category:チャンパ王国|*]]
[[Category:チャンパ王国|*]]

2020年1月31日 (金) 11:50時点における版

チャンパ
चम्पा
後漢 192年 - 1832年 阮朝
チャンパの位置
チャンパの領域(緑)
公用語 チャム語サンスクリット
首都 カンダプルプラベトナム語版(4世紀前半-4世紀末)
シンハプラベトナム語版(4世紀末-758)
ヴィラプラ中国語版(758-859)
インドラプラ英語版(859-978)
ヴィジャヤ英語版(978-1485)
バル・カウ(1485-1579)
バル・カナール英語版(1579-1832)
国王
192年 - 268年以前 区連
1829年 - 1832年ポー・フォク・ター
変遷
後漢からの独立 192年
ヴィジャヤ陥落1471年
順城鎮の設置1693年
越南に完全に併合1832年

チャンパサンスクリット語: चम्पा, ラテン文字転写: Champa, チャム語: Campa[注 1]は、現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心[1]とする国家。中国では代半ばまで林邑と呼び、その後環王と称したが、唐末以降は占城と呼んだ[2]。主要住民の「古チャム人」は現在のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる[3]

歴史

前史

考古学の知見によれば、紀元前1000年から紀元200年にかけて[4]、現在のベトナム中部沿海・中部南端では鉄器が中心のサフィン文化英語版が広がっていた[5]。サフィン文化の遺跡から発見される遺物には台湾フィリピンマレー半島[4]タイ西部と共通するものが多く、オーストロネシア系海洋民族である古チャム人の遺構ではないかとされる。このサフィン文化を基にして[1]チャンパが成立したと考えられている[5]。チャンパの歴史は漢文史料・チャム碑文・チャム写本に記録されている。チャム碑文には古チャム語インド系チャム文字で記されたものとデーヴァナーガリーで書かれたものがある。チャム語はマレー・ポリネシア語派の一つ[4]で、現在のアチェ語に近い言語である。

林邑とヒンドゥー文明

漢文史料によれば[6]、西暦192年の最南端にあった交州日南郡象林県中国語版(現在のトゥアティエン=フエ省付近)で功曹中国語版という官吏の子であった区連という者が叛乱を起こし、林邑を建てた[7]。象林県を占拠した林邑は、当初は中国文明の影響を受けていた[5]が、現在のベトナム南部からカンボジアにかけて存在した交易国家扶南の影響を3世紀末までに受け[6]ヒンドゥー文明を受容した[5]。中華王朝は唐代までおおむね現在のベトナム北部を領有しており、チャンパは中国南朝朝貢を繰り返し[8]ながらもしばしばこれを劫掠し、また南朝宋からの侵攻を受けた。『続日本紀』に見える8世紀の遣唐判官・平群広成が漂着した「崑崙国」は、林邑(チャンパ)であると考証されている。また、平群広成と同時期に唐経由で日本に渡来した林邑僧仏哲が伝えた舞踊は「林邑楽」として今日まで雅楽の中に伝承されている[8]

占城の勃興

扶南の後に勃興したチェンラが分裂していた8世紀半ば、林邑でも政変があり、中部南方のカウターラ‎中国語版環王中国語版が出現した。「占城」という漢語に見られる国号はチャンパーナガラ(サンスクリット語: चंपानगर, ラテン文字転写: Champanagar)の音訳(占婆城)と省略[6]である。ミーソン聖域に現存する碑文によれば、インドラヴァルマン2世に始まる占城・クメールの両王家は共に『マハーバーラタ』に描かれたクルクシェートラの戦い英語版で敗死したカウラヴァの将アヌヴィンダヒンディー語版ドゥルヨーダナの弟)の子孫とされる。

「チャンパ」はキンコウボク英語版の意であり、カンボジア(カンボージャ)と同様にかつて北インドにあった都市の名前である。ヴィジャヤ時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の漢文史料でも占城の都は「」であると記されている。なお、チャム写本では国号は「ヌガルチャム」である。

チャンパ兵の浮彫(アンコール・トムバヨン

大越との抗争

10世紀ベト族がベトナム北部の紅河デルタを中心に大越を建てると、チャンパ王ヴィジャヤは都を南中部北端のアマラーヴァティー中国語版にあったインドラプラ英語版(現在のクアンナム省タンビン県ビントゥーオランダ語版)から南中部南端のヴィジャヤ英語版(現在のビンディン省アンニョン市社ニョンハウベトナム語版)に移した[9]。現存するチャム写本『チャム王家年代記中国語版』のアンナン版はこの遷都の年(西暦1000年)を建国の年とする[10]11世紀以降、チャンパは北の大越および西のクメールとしばしば戦争を行った[6]ジャヤ・インドラヴァルマン3世中国語版ジャヤ・インドラヴァルマン4世英語版の代にヴィジャヤをクメールに占領されたこともあり、アンコール遺跡にはチャンパ兵の有名な浮彫が残されている[4]

13世紀後半、チャンパはの侵攻[11]モンゴルのベトナム侵攻英語版、元越戦争とも)を陳朝大越と共に受けた。この頃にはマルコ・ポーロら南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパが登場する。元軍撃退の過程で大越の陳国峻らと連携したチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世は、和平後に上皇仁宗の皇女(皇帝英宗の妹)玄珍公主中国語版を娶り[12]、大越との蜜月を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、1306年に代償としてジャヤ・シンハヴァルマン3世が北端であったウリク英語版(現在のクアンビン省クアンチ省、トゥアティエン=フエ省)を大越に割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。大越に割譲されて以後、ウリクは里州ベトナム語版と漢字表記され、更に順化州中国語版順州中国語版化州中国語版(フエチャウ、ホアチャウ))と改称、分割された[12]。現在のベトナム語地名のフエは化州に由来する。

ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越との抗争が再燃した、チャンパ王ビナスオールは大越の都昇龍を3度にわたり劫掠し、皇帝睿宗を敗死させた[13]1390年に大越相手にビナスオールが戦死するとジャヤ・シンハヴァルマン6世が王位を襲った。1400年、ジャヤ・シンハヴァルマン6世が死去するとインドラ・ヴァルマン6世が王位についた。

1402年胡朝大虞の胡漢蒼に都ヴィジャヤを占領されたが、インドラ・ヴァルマン6世がに救援を求めたため、両国の抗争中国語版は明の永楽帝の干渉戦争(明胡戦争英語版、明・大虞戦争)を招くところとなり、1407年に大虞は滅亡。1408年にインドラ・ヴァルマン6世は明の鄭和艦隊の訪問を歓待している。

ヴィジャヤの陥落

後黎朝大越の黎利による明軍撃退後、チャンパは再興された。1471年、ヴィジャヤは大越の皇帝聖宗の親征によって陥落した[5]チャンパ=大越戦争 (1471年)英語版)、この時、チャンパ王マハー・サジャンが、子のシャー・パウ・リン(後のアリ・ムハヤット・シャー)をアチェの統治へと送り出したのがアチェ王国の始まりであるという。チャンパの地であったアマラーヴァティーとヴィジャヤは大越に併合され、順化州はその中部行政の中心となったが、中部南端のパーンドゥランガ中国語版は残った[6]

ヴィジャヤ征服後、現在のベトナム中部全域を支配した後黎朝恩顧の重臣である鄭氏と阮氏の間に溝ができると、阮氏の若い跡取りの(仙主)は半ば追われるように順化州に南下し半独立政権を立てた(広南国)。

莫朝大越の楊文安中国語版が著した『烏州近録中国語版』(1553年[10]、現存のものは18世紀 - 19世紀に大幅に加筆)によれば、順化州には、元々ここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(里州土着民の意)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明の侵攻[10]に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家であるチェー(制)家中国語版[10]は現在もフエの東に住む。

チャム王ポー・クロン・ムナイ英語版の金冠(ベトナム歴史博物館英語版蔵)

パーンドゥランガと阮氏

『チャム王家年代記』はパーンドゥランガ中国語版の系譜だけを記している。パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王(檳榔族)を戴いていた。また、その国号は白蓮を意味すると同時に占城・クメールの祖であるカウラヴァと敵対したパーンダヴァを意味し、クメール・占城・大越・広南からの侵攻をよく防いで、自治を貫徹した。

1611年以後、パーンドゥランガは南進した広南阮氏によって領土を急速に侵食され、1692年にチャム王ポー・サオト英語版が阮氏の支配に反発して兵を挙げると、翌1693年阮福中国語版(明王)の将阮有鏡中国語版がパーンドゥランガを征服して順城鎮中国語版と改称した。順城鎮は広南に併合されて[5]いったん自治を失ったが、間もなくチャム貴族のオクニャ・ダット(屋牙撻)が清人である呉朗の加勢を得て広南軍を各地で撃破し、包囲した。阮福カンボジア英語版に駐留していた広南軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに講和を図り、1694年末にポー・サオトの弟であるポー・シャクティライ・ダ・パティー英語版による再興を認めた。1712年にポー・シャクティライ・ダ・パティーは阮福との間に議定五条を結び、パンラン道(現在のニントゥアン省ファンラン=タップチャム)、クロン道(現在のビントゥアン省トゥイフォン県リエンフオンベトナム語版市鎮)、パリクベトナム語版道(現在のビントゥアン省トゥイフォン県ファンリクア英語版市鎮)、パジャイ道(現在のビントゥアン省ファンティエットフーハイベトナム語版)の四つの道におけるチャム王(順城鎮藩王、後に掌奇ベトナム語版)の広範な自治権を認められた。

順城鎮の自治とその終焉

広南阮氏は1760年代に政治が乱れ、1773年西山県で西山阮氏が蜂起した(西山朝)。1774年、広南阮氏は南下してきた鄭氏と北上してきた西山朝の軍に挟撃されて本拠の富春英語版(現在のフエ)を落とされ、一旦滅亡した。1777年以後、生き残りの王族である阮福暎(後の嘉隆帝)が広南阮氏再興のための兵を募り、1802年まで阮福暎と西山朝の間で凄惨な戦いが続いた。1794年以後、チャム王ポー・ラドゥワン・ダ・パグー英語版(阮文豪)ら順城鎮のチャム貴族は阮福暎に味方し、西山朝相手に活躍した。

阮朝越南初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、チャム王ポー・ソン・ニュン・チェン英語版(順城鎮鎮守阮文振)は中部高原南方の山地民族をことごとく支配下に置いた。しかし1832年中央集権化を進める明命帝の方針により順城鎮は遂に廃絶された[10]。自治回復を求めるチャム貴族と山地民族[10]は蜂起(羅奔王の乱中国語版)を起こしたが1835年までに鎮圧され、最後のチャム王であったポー・フォク・ター英語版(阮文承)は黎文𠐤中国語版の乱(南部大反乱)に連座した廉により極刑(凌遅刑)に処された[10]

交易

古チャム人は優れた航海技術を持ち、チャンパは交易国家としても繁栄した[3]。中国に渡航するイスラム商船にとってチャンパは重要な寄港地であり、現在のホイアンも拠点港湾として発達した[8]。チャンパ産の沈香は重要な交易品目であった[8]。日本の正倉院に所蔵されている香木「黄熟香[8]は、9世紀頃にチャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、14世紀から15世紀にかけて交易国家として繁栄した琉球王国はチャンパと通好関係があった[14]

17世紀前半に盛んに航行された日本の朱印船はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産そのものが目的というよりも、明は日本船の来航を禁止していたため明の商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。1606年徳川家康がチャム王宛てに伽羅を求めた[8]印判状も残っている[15]

遺跡

ミーソン聖域のカラン

ヒンドゥー文明を受容したチャンパでは赤煉瓦造り[9]ヒンドゥー寺院や仏教寺院が建立されたドイツ語版世界遺産になったフォンニャ洞ミーソン聖域を始め、チャキエウ城英語版[16](茶故城)、ドンドゥオン塔ベトナム語版[16](桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端や中部高原など中部全域にチャンパ遺跡の祠堂(カランドイツ語版[17]が分布し、ドンナイ川上流のカッティエン(バタウリンカ)聖域英語版ラムドン省)もチャンパ遺跡と考えられる。中部沿海の遺跡は廃墟であるが、中部高原のヤンプロン塔ベトナム語版、ヤンムム塔などの遺跡は近代までジャライ族の重要な祭祀の場であった。また、チャム族やラグライ族(山地チャム人)が多く暮らしている中部南端では、カインホア省ニャチャン市内のポー・ナガル塔英語版(天依阿那祠)[18]、ファンラン=タップチャム郊外のポー・ロメ塔ポーランド語版(厚生古塔)[19]ポー・クロン・ガライ塔英語版(得仁古塔)[20]ヤンバクラン塔ベトナム語版(和来古塔)、ファンリクア郊外のポー・ダム塔ベトナム語版(楽治古塔)、ファンティエット市内のポー・シャー・ヌー塔ベトナム語版(鋪諧古塔)などのチャンパ遺跡では現在もヒンドゥーとイスラームが習合した祭祀が続けられている。

研究

クアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡・シュリーシャーナバドレーシュヴァラは、20世紀初め以来フランス極東学院 (EFEO) のパルマンティエ英語版クレイフランス語版、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のクフャトコフスキポーランド語版らにより修復・保存・補強工事が続けられ、1999年、「ミーソン聖域」としてユネスコ文化遺産に登録された。2005年には日本の国際協力機構の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。チャンパの歴史英語版研究は仏領インドシナ時代にフランス人学者によって先鞭がつけられ[6]エーモニエ英語版カバトン英語版デュラン英語版ミュス英語版パリ外国宣教会のミナンカバウ教区神父であったムセー英語版らによる写本研究、フィノー英語版マジュムダール英語版、クロード・ジャック、石澤良昭による碑文研究、ジョルジュ・マスペロ英語版オールソーフランス語版馮承鈞中国語版杉本直治郎山本達郎による漢文史料研究がそれぞれなされた。現在は、フランス極東学院の在仏チャム人ポー・ダルマ英語版[5]を中心に、ベトナム国内のチャム人であるタイン・ファン(ホーチミン市大学人類学講師)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員)らによりチャム写本の保存・共有事業が進められている。

踊り子像(12-13世紀、チャム彫刻博物館英語版蔵)
ガルダ像(13世紀、チャム彫刻博物館蔵)

余談

明史』『星槎勝覧中国語版』『瀛涯勝覧』『東西洋考』『西洋朝貢典録』『赤雅』には占城の怪異として「目に瞳孔がない女子で、夜に頭を飛ばして赤子の糞を食らう」という、飛頭蛮によく似た「屍頭蛮」に関する記述がある。『蟲集中国語版』にも「占城には頭を飛ばす者がおり、婦人に多い」という記述がある。

脚注

注釈

  1. ^ 一般的には「チャンパ」であるが、専門家の間では「チャンパー」としている。『東南アジアを知る事典』278頁

出典

参考資料

関連項目

外部リンク