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細川元有

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川 元有
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 長禄3年(1459年
死没 明応9年9月2日1500年9月25日
改名 善法寺雪渓源猷(法名)、細川元有
別名 五郎(通称
墓所 京都市東山区建仁寺
官位 刑部少輔
幕府 室町幕府 和泉国半国守護
主君 足利義尚
氏族 細川氏
父母 父:細川常有
兄弟 頼常政有元有
正室:細川成之
側室:越智氏女、三淵晴貞女?
元常有盛[1]三淵晴員?、見性院殿光庵宗清大禅定門?[2]
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細川 元有(ほそかわ もとあり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将和泉国半国守護細川和泉上守護家7代当主。官職刑部少輔[3]

略歴

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長禄3年(1459年)、細川常有細川教春の弟)の四男[注 1]として誕生した。兄に頼常政有(将軍・足利義政より「政」の字を賜う)がいる。

当初は兄・政有が家督を継承していたため、禅僧として建仁寺に入って雪渓源猷と号した。文明12年(1480年)に還俗し、その翌年に政有が死去したため、父の命令で家督を継ぐことになった。

文明12年(1480年)10月から明応9年(1500年)9月まで和泉国守護を務めた[3]

明応4年(1495年)、同じ和泉国半国守護(下守護)であった細川政久と共に畠山尚順と手を結び、本家筋細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。このため、明応9年(1500年)8月、畠山尚順らによって居城の岸和田城を攻められた。同年9月2日、城は落城して元有は戦死した[4]。享年42。

死後は嫡男・元常が跡を継いだ。

系譜

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偏諱を与えた人物

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  • 佐々木吉 - 元有の重臣[5]。立英から改めた[5]。将監[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 細川政有が兄ではなく、常有の子であり、その子が元有だという説が有力[要出典]

出典

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  1. ^ 『永源師檀紀年録』
  2. ^ 『永源師檀紀年録』
  3. ^ a b 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 885.
  4. ^ 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 299.
  5. ^ a b c 日本甲冑武具研究保存会 1987, p. 15.

参考文献

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  • 大阪府史編集専門委員会 編『大阪府史』 第四巻《中世編Ⅱ》、大阪府、1981年5月30日。NDLJP:9574696 (要登録)
  • 山岸素夫 著、日本甲冑武具研究保存会 編「細川家の幟と馬印——意匠・用布・縫製とその変遷——」『甲冑武具研究』第79号、日本甲冑武具研究保存会、1987年11月15日。NDLJP:7952116 (要登録)

関連項目

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外部リンク

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