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2015年6月3日 (水) 16:24時点における版
酒匂 | |
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佐世保軍港における「酒匂」(1944年11月24日)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦 |
級名 | 阿賀野型 |
母港 | 横須賀 |
艦歴 | |
計画 | 1939年(マル4計画) |
起工 | 1942年11月21日[2] |
進水 | 1944年4月9日[2] |
竣工 | 1944年11月30日[2] |
除籍 | 1945年10月5日[3] |
その後 | 標的艦としてクロスロード作戦に使用され1946年7月2日沈没[3] |
要目 | |
基準排水量 | 計画 6,651英トン[4] または 6,652英トン[2] |
公試排水量 |
計画 7,710トン[2] 実際 7,894.71トン[5] |
満載排水量 |
計画 8,338.4トン[4] 実際 8,533.52トン[5] |
全長 | 174.50m[2] |
水線長 | 172.00m[2] |
垂線間長 | 162.00m[2] |
最大幅 | 15.20m[2] |
深さ | 10.17m[2] |
吃水 |
公試平均(計画) 5.63m[4][2] 公試平均(実際) 5.71m[6] |
ボイラー | ロ号艦本式重油専焼缶(空気余熱器付)6基[2] |
主機 | 艦本式高中低圧タービン4基[2] |
推進 | 4軸[2] |
出力 | 計画 100,000hp[2] |
速力 | 計画 35ノット[2] |
燃料 | 計画 重油 1,420トン[2] |
航続距離 | 計画 6,000カイリ / 18ノット[2] |
乗員 | 計画乗員 700名 + 司令部26名[7] |
兵装 |
50口径15cm連装砲 3基6門 [8] 九八式8cm連装高角砲2基4門 [8] 25mm機銃 3連装10基 同 単装機銃18挺、据付台座13基(竣工時)[9] 同 単装機銃21挺(最終時平時推定)[10] 同 単装機銃31挺(最終時戦時推定)[10] 九二式四連装発射管四型2基8門[11][注釈 1] 九三式一型改一魚雷16本[11] 爆雷投下軌道2本[12] 九五式爆雷18個[11] |
装甲 |
計画[13] 機関部舷側 60mmCNC鋼、甲板 20mmCNC鋼 弾火薬庫舷側55mmCNC鋼、甲板20mmCNC鋼 舵取機室舷側 30mmCNC鋼、甲板20mmCNC鋼 操舵室舷側 30mmCNC鋼 |
搭載艇 |
平時[14] 11m内火艇1隻 9mカッター1隻 |
搭載機 | 計画 水偵2機[15] |
レーダー |
21号電探1基[9] 22号電探2基[9] 13号電探1基[9] |
その他 | 呉式二号五型射出機1基[15] |
酒匂(さかわ)は、太平洋戦争中に建造された大日本帝国海軍(日本海軍)の軽巡洋艦で、阿賀野型の4番艦。名前は静岡県および神奈川県を流れる酒匂川からとられている[16]。戦争末期に竣工したため、作戦参加の機会もなく太平洋戦争終戦時は最後の水雷戦隊旗艦として七尾湾にて無傷で残存していた。終戦後は復員船として活動した。最終的にアメリカ軍の原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦となり、沈没した。
艦歴
建造から終戦まで
仮称艦名「第135号艦」[2]。1942年(昭和17年)11月21日、佐世保工廠で起工。1944年(昭和19年)4月1日、軍艦籍に加入[17]。4月9日進水。同日附で横須賀鎮守府在籍[18]。同年11月30日竣工。完成と共に呉に回航され[19]、12月11日より第11水雷戦隊旗艦[20]。上記にあるように、作戦参加の機会もなくもっぱら内地で訓練に従事していた。
1945年(昭和20年)3月には姉妹艦にして第二水雷戦隊旗艦「矢矧」とともに天一号作戦(戦艦大和の沖縄水上特攻作戦)に参加する予定となり呉に移動したが、直前になって「酒匂」の出撃は中止され、呉工廠岸壁に係留。燃料不足のため、陸上から電気を引きボイラーの火は消された状態となった。7月15日、特殊警備艇に指定[21]。7月19日、舞鶴市に回航され、若狭湾の一角に停泊する[22]。B-29が投下した機雷によって艦尾附近に若干の損傷を受けたこともあったという[22]。訓練すら出来なくなった後は、埠頭に横付けして藁の縄と植物で艤装を行った[22]。藁に引火する恐れがあるため、対空射撃も禁止された[22]。 終戦時は七尾湾にて無傷で残存。1945年10月5日除籍[23]。
終戦-復員輸送
1945年12月1日、「酒匂」は特別輸送艦に指定された。釜山、南洋諸島、ニューギニア、台湾などを航海し、復員輸送に従事。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員約900名に対し、この時点の「酒匂」には約300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し、甲板に居住区やトイレが設置された[24]。武装については、主砲は砲塔を残し砲身のみ撤去、その他に高角砲、魚雷発射管、機銃、各射撃指揮装置、探照燈、射出機、13号電探、22号電探なども撤去された[25]。艦内秩序は維持され、同乗した豪州海軍の少尉が敬礼を求めると、大原艦長は「こっちは大佐だ」とやり返したという[26]。
また北海道の函館港から朝鮮半島・釜山港へ、朝鮮半島出身労働者(約1000名)を送り届けたこともあった[27]。この時、戦勝国民を宣言し士官居住区解放を求める朝鮮半島出身労働者と酒匂乗組員との間に対立が起こった[28]。だが「酒匂」が沖合いに出て猛烈な時化に襲われると彼らは船酔いに悩まされ、交渉は取りやめとなった[29]。この時、朝鮮系労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、彼らが下艦した後、その処理に酒匂乗員は泣かされることになったという[30]。また釜山港の埠頭には多数の民衆が集まって朝鮮人労務者を歓迎し、英雄として迎え入れた[27]。目撃した岩松(酒匂航海士)は、繰り返される万歳に複雑な想いを抱き、強い印象を受けたと回想している[27]。
ビキニ環礁へ
1946年2月25日、特別輸送艦の指定を解除される[31]。その後、核実験(クロスロード作戦)の標的艦として戦艦「長門」などとともに、横須賀でアメリカ海軍に引き渡された[32]。日本海軍乗員による操縦指導が東京湾で行われたが、意思疎通不足によって主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られた[33]。無負荷となった巡航タービンは規定回転数を超えて暴走し、その轟音を聞いた日本兵と米兵はあわててタービン室から逃げだして事なきを得た。結果タービン1基が破損し3軸運転となった。操縦指導は20日間に渡って実施された。ビキニ環礁への移動に2名の日本兵の添乗が求められたが、日本兵が断ったためアメリカ海軍兵員によってのみ行われた。後にこの日本兵はビキニについていけばよかったと後悔している[34]。
1946年7月1日 ビキニ環礁で行われたクロスロード作戦にともなう核実験(A-実験 空中爆発)では、目標艦「ネバダ」の約500~600m地点に配置されていた[35]。だが爆心地点がずれ、ほぼ上空で原子爆弾が爆発。その強力な爆風により艦橋より後方の構造物は、前方へなぎ倒される[36][37]。艦尾部分は24時間近く炎上し、また艦尾にも亀裂が生じて浸水がはじまった[35]。7月2日、浅瀬への曳航作業中に左舷へ傾斜、艦尾から沈没した[35]。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』175-176頁に基づく。
艤装員長
- 大原利通 大佐:1944年9月25日 - 11月31日
艦長
- 大原利通 大佐:1944年11月31日 -
同型艦
脚注
注釈
- ^ 梅野和夫#阿賀野型の水雷兵装によると九二式四連装発射管一型。
出典
- ^ #日本海軍艦艇写真集巡洋艦p.180。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t #昭和造船史第1巻784-785頁。
- ^ a b #写真日本の軍艦第9巻p.105。
- ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の計画値「註.上記ノモノハ昭和十四年十月十三日艦本機密決第五三八号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」。
- ^ a b #JapaneseCruisersp.565, TABLE 11.7.
- ^ #JapaneseCruisersp.563.
- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」22頁。
- ^ a b 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」4頁。
- ^ a b c d 「あ号作戦後の巡洋艦兵装状況一覧表」#世界巡洋艦物語p.356。
- ^ a b c #矢萩登p.24。「1/200酒匂甲板敷物配置図」からの推定。
- ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」6頁。
- ^ #JapaneseCruisersp.604下の写真による。
- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」20頁。
- ^ #JapaneseCuisersp.593
- ^ a b 梅野和夫#阿賀野型の航空兵装
- ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝p.131。
- ^ #内令昭和19年4月(1)p.1『内令第五百二十二号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年四月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「矢矧」ノ下ニ「、酒匂」ヲ加フ』
- ^ #内令昭和19年4月(1)p.13『内令第五百三十三号 軍艦 酒匂 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十九年四月九日 海軍大臣嶋田繁太郎』
- ^ #軽巡二十五隻245頁
- ^ #戦隊行動調書p.47『11sd 昭和19年12月11日 将旗ヲ酒匂ヘ』
- ^ #秘海軍公報昭和20年7月(4)pp.10-11『内令第六四三號(略)横須賀鎮守府豫備艦 軍艦 酒匂 右特殊警備艦ト定ム(以下略)昭和二十年七月十五日 海軍大臣』
- ^ a b c d #軽巡二十五隻246頁
- ^ #終戦と帝国艦艇79頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』412-413頁「復員航海」
- ^ #軽巡阿賀野型・大淀51頁の写真と解説、#JapaneseCruisersp.574 Photo 11.3, p.575 Photo 11.4, p.604 Photo11.10など戦後に撮られた写真による。
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』414頁
- ^ a b c #軽巡二十五隻249-250頁『第三話 朝鮮出身者送還』
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』416頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417-418頁、「軍艦『酒匂』始末記」
- ^ #公報昭和21年3月p.1『内令第三二號|元駆逐艦 冬月、元第百九十六號海防艦 右特別輸送艦トシ佐世保地方復員局所管ト定ム|横須賀地方復員局所管 特別輸送艦 酒匂 右特別輸送艦ヲ解ク|昭和二十一年二月二十五日第二復員大臣』
- ^ #軽巡二十五隻253-254頁『異郷に眠る新鋭艦への思慕』
- ^ アメリカと日本のタービンの操作手順の違いによって、この誤動作は起きた
- ^ 原爆実験のことは教えられていなかった
- ^ a b c #終戦と帝国艦艇80頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』418頁「屈辱の日」
- ^ #終戦と帝国艦艇84頁『(70)酒匂 原爆実験後の被害写真』
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C12070196500『昭和19年4月(1)/昭和19年1月~7月 内令』。
- Ref.C12070512500『昭和20年6月~8月秘海軍公報/7月(4)』。
- Ref.C12070534700『昭和20年12月 昭和21年6月第2復員省公報/昭和21年3月』。
- Ref.C08051772000『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
- 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社、2010年)ISBN 978-4-7698-1479-5
池田武邦(矢矧航海士。終戦時、大尉)は復員船「酒匂」に分隊長として勤務。 - 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
- 当時「酒匂」航海士・海軍中尉岩松重松『遅れてきた精鋭「酒匂」ビキニ環礁に死す 戦うことなく終戦、原爆実験に供された阿賀野型四番艦への鎮魂譜』
- 福井静夫『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』出版共同社、1961年5月。
- Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press
- 福井静夫『福井静夫著作集第8巻 世界巡洋艦物語』光人社、1994年。ISBN 4-7698-0656-6。
- 『軽巡 阿賀野型・大淀』 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズNo.5、潮書房、1976年。
- 雑誌『丸』編集部/編 編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0459-8。
- 梅野和夫『阿賀野型の航空兵装』、112-113頁頁。
- (社)日本造船学会/編 編『昭和造船史(第1巻)』(3版)原書房〈明治百年史叢書 第207巻〉、1981年(原著1977年)。ISBN 4-562-00302-2。
- 呉市海事歴史科学館/編 編『日本海軍艦艇写真集 巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。ISBN 4-478-95059-8。
- 矢萩登『矢萩登の素晴らしき艦船模型の世界』大日本絵画、2010年6月。ISBN 978-4-499-23021-6。
- 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」
外部リンク
- 軍艦『酒匂』始末記:乗艦していた方の手記