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'''小谷 正勝'''(こたに ただかつ、[[1945年]][[4月8日]] - )は、[[兵庫県]]出身の元プロ野球選手、野球指導者。ポジションは[[投手]]。日本を代表する名コーチとして知られ、関東を拠点とする3チーム([[横浜DeNAベイスターズ|大洋→横浜]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]])すべてでコーチを務めた唯一の人物でもある。
'''小谷 正勝'''(こたに ただかつ、[[1945年]][[4月8日]] - )は、[[兵庫県]]出身の元プロ野球選手、野球指導者。ポジションは[[投手]]。日本を代表する名コーチとして知られ、[[関東地区]]を拠点とする3チーム([[横浜DeNAベイスターズ|大洋→横浜]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]])すべてでコーチを務めた唯一の人物でもある。


名前はしばしば「まさかつ」と読まれることがあるが、「ただかつ」が正しい。
名前はしばしば「まさかつ」と読まれることがあるが、「ただかつ」が正しい。

2012年3月1日 (木) 15:38時点における版

小谷 正勝
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県明石市
生年月日 (1945-04-08) 1945年4月8日(79歳)
身長
体重
178 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1967年 ドラフト1位
初出場 1968年5月25日
最終出場 1977年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 横浜大洋ホエールズ (1979 - 1986)
  • ヤクルトスワローズ (1987 - 1989)
  • 横浜大洋ホエールズ
    横浜ベイスターズ (1990 - 1995)
  • ヤクルトスワローズ (1996 - 2002)
  • 横浜ベイスターズ (2003 - 2004)
  • 読売ジャイアンツ (2005 - 2011)

小谷 正勝(こたに ただかつ、1945年4月8日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手、野球指導者。ポジションは投手。日本を代表する名コーチとして知られ、関東地区を拠点とする3チーム(大洋→横浜ヤクルト巨人)すべてでコーチを務めた唯一の人物でもある。

名前はしばしば「まさかつ」と読まれることがあるが、「ただかつ」が正しい。

来歴・人物

明石高校國學院大から1967年ドラフト1位で大洋ホエールズに入団。

1970年から大洋初の専任ストッパーに転向、当時はセーブが存在していなかったため、晩年の6セーブしか記録されていないが、1970年 - 1971年と2年連続して50試合以上に登板、防御率2.11、2.13と安定感を見せた。1971年のオールスターゲームでは阪急西宮スタジアムで行なわれた第1戦で5番手として登板している。この試合はオール・セントラル投手陣が江夏豊の9連続三振を皮切りに渡辺秀武高橋一三水谷寿伸と繋いでオール・パシフィック打線を無安打に抑えていた。小谷は8回1死から登板して打者8人を相手に4三振を奪うなど無安打に抑えて試合を締めくくり、日本のオールスター史上唯一のノーヒット・ノーランに貢献している。ちなみに現役時代、オールスターゲームに出場したのはこの試合だけである。

1975年9月15日阪神タイガース戦、1対1の同点で迎えた延長12回裏阪神の攻撃で、三塁走者の末永正昭がホームスチールを敢行した。これにあわてた捕手福嶋久晃は小谷の投球をホームベース上に飛びついてキャッチし、打者の池辺巌と接触してしまった。この場合捕手に打撃妨害がつくが、三塁走者のホームインはなぜか投手のボークとして記録され、小谷は無実のサヨナラボークを記録した。これは小谷が記録した唯一のボークである。

1977年に引退したのち、1978年は大洋スカウト[1]1979年から1986年までは大洋投手コーチ、1987年からは監督の関根潤三に招聘されヤクルトの投手コーチに就任した。その後大洋投手陣は崩壊し、大洋投手陣は球団に対して「小谷コーチを戻して欲しい。」との嘆願書を出したそうである。

1989年5月31日の阪神との乱闘劇で危険球を投げた阪神の渡辺伸彦栗山英樹とともに外野まで追い掛け回した。その後関根監督退陣とともに1990年に大洋の投手コーチに復活し1995年まで務めた。1996年 - 2002年は再びヤクルトの投手コーチを務めた。大洋・横浜、ヤクルトの2球団で内藤尚行川崎憲次郎三浦大輔佐々木主浩五十嵐亮太などの育成に貢献。五十嵐は「今の自分があるのは小谷さんのおかげ」と話しメッツ入団が決まった時に真っ先に国際電話で小谷に報告している[2][3]

2003年山下大輔の監督就任に伴い横浜にコーチとして復帰したが、山下監督退任共に2004年で退団し、2005年からは巨人二軍投手コーチを務める。就任した巨人でも早速内海哲也のフォーム修正などを担当、前二軍監督の高橋一三とともに翌年内海がブレイクする下地をつくった。また、入団テストを受けに来た山口鉄也の獲得を進言。越智大祐も小谷のアドバイスからピッチングのコツを掴みブレイクしている。その後も主にシーズン中のフォーム修正などを担当している。

2009年ディッキー・ゴンザレスチェンジアップを習得させ、来日以来最高のピッチングをするきっかけを作っており、同年7月2日に来日初先発・初勝利を記録したウィルフィン・オビスポも小谷の指導の下、投球技術と制球力を向上させた。オビスポも初勝利の際、感謝したい人は?との問に真っ先に小谷の名を上げている。

2010年から2011年まで二軍投手コーチの傍ら、一軍投手陣も巡回で指導していた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1968 大洋 5 1 1 0 0 1 0 -- -- 1.000 56 13.1 10 4 7 0 0 8 0 0 6 5 3.46 1.28
1969 10 3 0 0 0 2 1 -- -- .667 93 20.1 20 1 14 0 2 18 0 0 11 8 3.60 1.67
1970 53 6 0 0 0 4 4 -- -- .500 455 115.0 78 6 36 4 4 85 2 0 32 27 2.11 0.99
1971 58 3 1 0 0 11 9 -- -- .550 578 148.0 91 9 51 4 4 110 1 0 39 35 2.13 0.96
1972 18 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 111 27.0 30 7 8 1 0 22 0 0 15 15 5.00 1.41
1973 37 3 0 0 0 0 3 -- -- .000 270 64.0 53 6 30 2 2 43 0 0 24 23 3.23 1.30
1974 33 1 0 0 0 0 4 -- -- .000 232 54.1 51 9 20 0 3 37 0 0 30 28 4.67 1.31
1975 36 0 0 0 0 3 4 2 -- .429 244 59.2 49 8 26 5 0 44 3 1 21 19 2.85 1.26
1976 17 0 0 0 0 2 0 2 -- 1.000 118 25.0 28 5 17 1 0 10 0 0 17 14 5.04 1.80
1977 18 0 0 0 0 1 1 2 -- .500 101 22.2 20 4 16 2 1 14 1 0 15 13 5.09 1.59
通算:10年 285 19 2 0 0 24 27 6 -- .471 2258 549.1 430 59 225 19 16 391 7 1 210 187 3.07 1.19
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

背番号

  • 24 (1968年 - 1977年)
  • 80 (1979年 - 1981年)
  • 84 (1982年 - 1986年、1990年 - 1995年)
  • 76 (1987年 - 1989年)
  • 78 (1996年 - 2002年)
  • 72 (2003年 - 2004年)
  • 81 (2005年)
  • 70 (2006年 - 2011年)

脚注

  1. ^ 日刊スポーツ、33年ひと筋名投手コーチ①小谷の指導論、2012年1月17日
  2. ^ 五十嵐、恩師の巨人・小谷コーチに全力投球誓う スポーツ報知
  3. ^ 名伯楽・小谷コーチ、五十嵐に「目いっぱいやれ」 スポーツ報知

関連項目